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江口の戦い 1
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周囲は真っ白な霧に覆われていた。数万の兵がひしめき合う戦場であるはずなのに、馬の蹄がぬかるんだ地面を踏み、霧に含まれた水分を絞り出すような、にちゃにちゃと嫌な音を立てる以外は何も聞こえなかった。
一目で名のある武将だと分かる派手な鎧兜を着た武者が不安そうに辺りを見回す。その顔はまだ少年のあどけなさを残す親とはぐれた子供そのものだった。いくら目を凝らしても、真っ白な霧は、伸ばした手の先でさえ隠してしまう。敵に倍する味方を率いてきたはずなのに、騎馬の周りには数人の供回りしかいなかった。彼らも、騎馬の上の武者同様に年若く、不安そうな表情を隠しきれてはいなかった。
「貞孝! 貞孝はどこだ?」
小さな体には不釣り合いな大きな兜飾りを揺らし心細げな声を上げた。周囲の霧は、音を伝えないかのように静まり返っている。供回りも同様に不安そうな顔を周囲に向けていたが、馬から離れれば二度と戻ってこれないとでも言うかのように、その場から離れようとはしなかった。
霧の向こう側にいるのだろうか?
大声を上げて呼びかけたかったが、敵兵に聞かれるかもしれないと思うと、声を上げるのもためらわれた。代わりに、必死で周囲の地形を思い出そうとしたが、日が昇った一瞬、照らし出された風景は地面に墨を流したように真っ黒だった。
どちらへ進めば……。
不安に押しつぶされそうになりながらも必死で頭を巡らす。その考えを邪魔するように霧の向こうで雄たけびが上がった。武器のぶつかり合う音、合戦の音が聞こえる。それが分厚い霧の向こうから波のように近づいてくる。
直ぐにでも逃げ出したい気持ちに駆り立てられたが、押し止めようと言うのか、その足をくすぐるように突っつかれた。そうではなかった。それは供回りの鎧の方飾りだった。真新しく華美な飾りの鎧を着た近侍が縋りつくように槍を抱えて辺りを見回している。彼らも年若く戦の経験がある訳ではない。自分でも気づかぬうちに後退り、馬に背が当たるほど近くまで寄ってきていたのだ。
皆不安なのだ。
この様な時だからこそ、彼らを率いる主人として気丈に振舞う責任がある。それに、自分よりも不安な態度を見せる者がいると、落ち着きを取り戻せた気になる。大きく息を吐いて一呼吸置くと、ゆっくり馬を進める方向を定めた。
足元を確かめながら霧の中へ踏み出した馬は、数歩進んでは小さく嘶いて足を止めた。無理に進めようとしても後退る。手綱を引いて向きを変えたが、いくらも進まぬうちに立ち止まった。何度やってもぐるぐるとその場を回っているだけに思えた。合戦の音が近づいてくると、奮い立たせた気力も霧に吸い込まれたかのように、視界を塞ぐ白い壁の前で成す術なく立ち尽くしていた。
間近で、鬨の声が上がった。
それが誰の声だったのか。刀を振るう敵兵のものか、近侍の悲鳴だったのか定かではなかったが、驚いた馬が前足で空を掻き霧の中へと背に乗せた若武者と共に消えて行った。
一目で名のある武将だと分かる派手な鎧兜を着た武者が不安そうに辺りを見回す。その顔はまだ少年のあどけなさを残す親とはぐれた子供そのものだった。いくら目を凝らしても、真っ白な霧は、伸ばした手の先でさえ隠してしまう。敵に倍する味方を率いてきたはずなのに、騎馬の周りには数人の供回りしかいなかった。彼らも、騎馬の上の武者同様に年若く、不安そうな表情を隠しきれてはいなかった。
「貞孝! 貞孝はどこだ?」
小さな体には不釣り合いな大きな兜飾りを揺らし心細げな声を上げた。周囲の霧は、音を伝えないかのように静まり返っている。供回りも同様に不安そうな顔を周囲に向けていたが、馬から離れれば二度と戻ってこれないとでも言うかのように、その場から離れようとはしなかった。
霧の向こう側にいるのだろうか?
大声を上げて呼びかけたかったが、敵兵に聞かれるかもしれないと思うと、声を上げるのもためらわれた。代わりに、必死で周囲の地形を思い出そうとしたが、日が昇った一瞬、照らし出された風景は地面に墨を流したように真っ黒だった。
どちらへ進めば……。
不安に押しつぶされそうになりながらも必死で頭を巡らす。その考えを邪魔するように霧の向こうで雄たけびが上がった。武器のぶつかり合う音、合戦の音が聞こえる。それが分厚い霧の向こうから波のように近づいてくる。
直ぐにでも逃げ出したい気持ちに駆り立てられたが、押し止めようと言うのか、その足をくすぐるように突っつかれた。そうではなかった。それは供回りの鎧の方飾りだった。真新しく華美な飾りの鎧を着た近侍が縋りつくように槍を抱えて辺りを見回している。彼らも年若く戦の経験がある訳ではない。自分でも気づかぬうちに後退り、馬に背が当たるほど近くまで寄ってきていたのだ。
皆不安なのだ。
この様な時だからこそ、彼らを率いる主人として気丈に振舞う責任がある。それに、自分よりも不安な態度を見せる者がいると、落ち着きを取り戻せた気になる。大きく息を吐いて一呼吸置くと、ゆっくり馬を進める方向を定めた。
足元を確かめながら霧の中へ踏み出した馬は、数歩進んでは小さく嘶いて足を止めた。無理に進めようとしても後退る。手綱を引いて向きを変えたが、いくらも進まぬうちに立ち止まった。何度やってもぐるぐるとその場を回っているだけに思えた。合戦の音が近づいてくると、奮い立たせた気力も霧に吸い込まれたかのように、視界を塞ぐ白い壁の前で成す術なく立ち尽くしていた。
間近で、鬨の声が上がった。
それが誰の声だったのか。刀を振るう敵兵のものか、近侍の悲鳴だったのか定かではなかったが、驚いた馬が前足で空を掻き霧の中へと背に乗せた若武者と共に消えて行った。
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