籠の中の鳥

海土竜

文字の大きさ
上 下
1 / 23

江口の戦い 1

しおりを挟む
 周囲は真っ白な霧に覆われていた。数万の兵がひしめき合う戦場であるはずなのに、馬の蹄がぬかるんだ地面を踏み、霧に含まれた水分を絞り出すような、にちゃにちゃと嫌な音を立てる以外は何も聞こえなかった。
 一目で名のある武将だと分かる派手な鎧兜を着た武者が不安そうに辺りを見回す。その顔はまだ少年のあどけなさを残す親とはぐれた子供そのものだった。いくら目を凝らしても、真っ白な霧は、伸ばした手の先でさえ隠してしまう。敵に倍する味方を率いてきたはずなのに、騎馬の周りには数人の供回りしかいなかった。彼らも、騎馬の上の武者同様に年若く、不安そうな表情を隠しきれてはいなかった。

「貞孝! 貞孝はどこだ?」

 小さな体には不釣り合いな大きな兜飾りを揺らし心細げな声を上げた。周囲の霧は、音を伝えないかのように静まり返っている。供回りも同様に不安そうな顔を周囲に向けていたが、馬から離れれば二度と戻ってこれないとでも言うかのように、その場から離れようとはしなかった。
 霧の向こう側にいるのだろうか?
 大声を上げて呼びかけたかったが、敵兵に聞かれるかもしれないと思うと、声を上げるのもためらわれた。代わりに、必死で周囲の地形を思い出そうとしたが、日が昇った一瞬、照らし出された風景は地面に墨を流したように真っ黒だった。
 どちらへ進めば……。
 不安に押しつぶされそうになりながらも必死で頭を巡らす。その考えを邪魔するように霧の向こうで雄たけびが上がった。武器のぶつかり合う音、合戦の音が聞こえる。それが分厚い霧の向こうから波のように近づいてくる。
 直ぐにでも逃げ出したい気持ちに駆り立てられたが、押し止めようと言うのか、その足をくすぐるように突っつかれた。そうではなかった。それは供回りの鎧の方飾りだった。真新しく華美な飾りの鎧を着た近侍が縋りつくように槍を抱えて辺りを見回している。彼らも年若く戦の経験がある訳ではない。自分でも気づかぬうちに後退り、馬に背が当たるほど近くまで寄ってきていたのだ。
 皆不安なのだ。
 この様な時だからこそ、彼らを率いる主人として気丈に振舞う責任がある。それに、自分よりも不安な態度を見せる者がいると、落ち着きを取り戻せた気になる。大きく息を吐いて一呼吸置くと、ゆっくり馬を進める方向を定めた。
 足元を確かめながら霧の中へ踏み出した馬は、数歩進んでは小さく嘶いて足を止めた。無理に進めようとしても後退る。手綱を引いて向きを変えたが、いくらも進まぬうちに立ち止まった。何度やってもぐるぐるとその場を回っているだけに思えた。合戦の音が近づいてくると、奮い立たせた気力も霧に吸い込まれたかのように、視界を塞ぐ白い壁の前で成す術なく立ち尽くしていた。
 間近で、鬨の声が上がった。
 それが誰の声だったのか。刀を振るう敵兵のものか、近侍の悲鳴だったのか定かではなかったが、驚いた馬が前足で空を掻き霧の中へと背に乗せた若武者と共に消えて行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

ヴィクトリアンメイドは夕陽に素肌を晒す

矢木羽研
歴史・時代
カメラが普及し始めたヴィクトリア朝のイギリスにて。 はじめて写真のモデルになるメイドが、主人の言葉で次第に脱がされていき…… メイドと主の織りなす官能の世界です。

大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜

雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。 そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。 これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。 主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美 ※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。 ※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。 ※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。

父(とと)さん 母(かか)さん 求めたし

佐倉 蘭
歴史・時代
★第10回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ ある日、丑丸(うしまる)の父親が流行病でこの世を去った。 貧乏裏店(長屋)暮らしゆえ、家守(大家)のツケでなんとか弔いを終えたと思いきや…… 脱藩浪人だった父親が江戸に出てきてから知り合い夫婦(めおと)となった母親が、裏店の連中がなけなしの金を叩いて出し合った線香代(香典)をすべて持って夜逃げした。 齢八つにして丑丸はたった一人、無一文で残された—— ※「今宵は遣らずの雨」 「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

女の首を所望いたす

陸 理明
歴史・時代
織田信長亡きあと、天下を狙う秀吉と家康の激突がついに始まろうとしていた。 その先兵となった鬼武蔵こと森長可は三河への中入りを目論み、大軍を率いて丹羽家の居城である岩崎城の傍を通り抜けようとしていた。 「敵の軍を素通りさせて武士といえるのか!」 若き城代・丹羽氏重は死を覚悟する!

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

戦争はただ冷酷に

航空戦艦信濃
歴史・時代
 1900年代、日露戦争の英雄達によって帝国陸海軍の教育は大きな変革を遂げた。戦術だけでなく戦略的な視点で、すべては偉大なる皇国の為に、徹底的に敵を叩き潰すための教育が行われた。その為なら、武士道を捨てることだって厭わない…  1931年、満州の荒野からこの教育の成果が世界に示される。

独り剣客 山辺久弥 おやこ見習い帖

笹目いく子
歴史・時代
旧題:調べ、かき鳴らせ 第8回歴史·時代小説大賞、大賞受賞作品。本所松坂町の三味線師匠である岡安久弥は、三味線名手として名を馳せる一方で、一刀流の使い手でもある謎めいた浪人だった。 文政の己丑火事の最中、とある大名家の内紛の助太刀を頼まれた久弥は、神田で焼け出された少年を拾う。 出自に秘密を抱え、孤独に生きてきた久弥は、青馬と名付けた少年を育てはじめ、やがて彼に天賦の三味線の才能があることに気付く。 青馬に三味線を教え、密かに思いを寄せる柳橋芸者の真澄や、友人の医師橋倉らと青馬の成長を見守りながら、久弥は幸福な日々を過ごすのだが…… ある日その平穏な生活は暗転する。生家に政変が生じ、久弥は青馬や真澄から引き離され、後嗣争いの渦へと巻き込まれていく。彼は愛する人々の元へ戻れるのだろうか?(性描写はありませんが、暴力場面あり)

処理中です...