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第1章
5 ちっぽけな箱
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外の世界は、幻夢郷の中よりも寒く、騒々しく、明るかった。
──これが、外の世界。
おれは呆然と、あたりを眺めた。
足もとはざらざらしていて、裸足の裏に、粉状のものがまとわりつく。
これは『砂』だ。いつもお客や朔弥や、番頭たちの靴についていたもの。
あたりにはたくさんの、不思議なかたちをした大きな箱のようなものが並んでいる。みんなボロボロで、うす汚れている。
最後にうしろを振り向いて、おれははじめて外から『幻夢郷』を見た。
大きな箱だ。ボロボロで汚れた、大きな箱。
でも、外の世界と比べたら、あまりに小さい。
これが、おれの過ごした見世。
「おい」と、朔弥がおれの手をとった。「道の真ん中に立ってると、危ない」
言われてようやく、おれは周囲をたくさんの人間が歩いていることに気がついた。
人間たちは、おれたちをじろじろ見ながら歩いていく。なかにはときおり、並んだ箱の一つに入っていくものもいる。
これが道。あの箱は『建物』で、あれらもきっと『見世』なのだ。
「花、朔弥。藤縞が手続きを終えるまで、車で待っていよう」
夢路がおれたちを手招きする。
そこには、黒くて平べったい箱のようなものがあった。
箱のなかから出てきた男が、夢路に頭をさげ、箱についていた扉をあける。
「ありがとう」
夢路はそう言って、箱のなかに入っていく。そうしてまた、おれたちを手招く。
「おいで。怖くないよ」
おれたちは顔を見合わせ、おずおずと箱のなかへ入った。
扉が閉められると、しんと、外の世界の音が聞こえなくなる。
箱のなかは思ったよりもずいぶん広かった。おれと朔弥は並んで座り、夢路はその向かいに座っていた。
扉を開け閉めした男も箱のなかに戻ってきて、前のほうに座る。夢路がそちらを手で示した。
「彼は運転手の七緒だよ。七緒、彼らは花と朔弥。屋敷に引きとることになったんだ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
七緒と呼ばれた男は、小さく頭をさげる。藤縞よりは年上に、夢路よりは若く見える。細い瞳は一見鋭いが、不思議と怖い印象はなかった。
「運転手は他にもいるんだ。おいおい紹介していくよ」
おれはうなずいた。朔弥は「なあ」と声をあげる。
「世話になっておいてだが……何者なんだ、あんた。こんなすげえ車……」
朔弥の言葉に、おれはおどろいた。
これが『車』なのか。ときどきお客が乗ってくるやつ。
夢路はにこりと笑う。
「言っただろう。蒐集家さ」
「そんなわけねえだろ。貴族か何かか」
「まあ、端くれではあるね」
「端くれって……俺はともかく、こいつの身請けなんて簡単にできるもんじゃねえだろ」
「ちょっとした商売をやってるんだ。と言っても、僕は隠居したようなものだけど。ああそうだ、いまのうちに手当てをしておこう」
夢路は車のなかを探り、膝のうえにおさまる程度の大きさの箱を取りだした。
丈夫そうなつくりの蓋をあけ、おれの足もとに膝をつく。
朔弥が「おいっ」と声をあげた。夢路は首をかしげる。
「なんだい?」
「なにってっ……あんたが手当てするのかっ⁉」
「そのつもりだけど……おかしいかな?」
「おかしいだろ! 貴族さま……っつーか、主人が俺らみたいなのにっ……」
「僕は、きみたちの主人になったつもりはないよ」
夢路が微笑む。
「堅苦しいのは嫌いなんだ。僕は花を蒐集して、朔弥を買いとった。手に入れたものは僕の好きにさせてもらう。というわけで、ごく普通に、友人にでもなったつもりで接してくれ」
「ゆ、友人……?」
「難しいかな? 齢が離れすぎているか……。じゃあ、『家族のようなもの』でいこう。これから一緒に暮らしていくんだからね」
呆然とするおれたちをよそに、夢路は箱のなかから、見たこともないような、きれいな道具たちを取りだしていく。
「こう見えて、手当てには自信があるんだ。僕にまかせて」
そう言うと、夢路は言葉の通り、あっという間におれの怪我を手当てした。
傷口を洗われたときはほんのすこし沁みたけれど、それ以外はなんの痛みもない。夢路の手つきはどこまでも優しく、とてもうつくしかった。
それこそ、幻や夢や、ふしぎな力があるんじゃないかと思うくらい。
「……ありがとう」
礼を言えば、夢路は「どういたしまして」と笑う。
軟膏をぬられ、きれいな白い包帯を巻かれたうろこの脚は、いつもよりすこしだけきれいに見えた。
「お待たせいたしました」
見世から出てきた藤縞が、車の前のほう、運転手の七緒のとなりへ座る。
「ありがとう、藤縞。では、まずは衣料品店へ向かってくれ。花だけでなく朔弥のものも欲しいから、彼ら二人ともに合うものを扱っている店がいいな」
「でしたら隣町へ向かいましょう。『ささら通り』なら大抵のものは揃うでしょう」
「ああ。そうしてくれ」
「それはそうと、お疲れではありませんか」
「平気だよ。すこぶる気分がいい」
会話を交わす彼らのうしろで、朔弥がそっと、おれの耳もとに口を寄せた。
「へんなやつだな」
おれはコクリとうなずいた。夢路は間違いなく、へんなやつだった。
「でも……悪いやつじゃなさそうだ」
おれはうなずいた。
「あの藤縞って人も、七緒って人も、まともそうだし」
おれはうなずいた。すくなくとも、幻夢郷の番頭や楼主たちと比べれば、ずっとずっと信用できる人間だということは確かに思えた。
「おまえが身請けされるって聞いたときは、正直、ゾッとしたけど……」
朔弥がおれの手をにぎった。
琥珀色の瞳が、じっとおれを見つめる。
「もしも何かあれば、俺が守る。……でも、本当に、……良かった……」
「……朔弥……」
車が、わずかに揺れる。
「花、朔弥。出発するよ」
夢路が笑う。
車はゆっくりと、おだやかに道を進みだす。
朔弥が、くしゃりと顔をゆるめて笑う。
「改めて、これからもよろしくな……花」
おれは「ああ」とうなずき、車の窓の外を見た。
大きな、けれどちっぽけな『幻夢郷』の箱は、ゆっくりと遠ざかっていった。
──これが、外の世界。
おれは呆然と、あたりを眺めた。
足もとはざらざらしていて、裸足の裏に、粉状のものがまとわりつく。
これは『砂』だ。いつもお客や朔弥や、番頭たちの靴についていたもの。
あたりにはたくさんの、不思議なかたちをした大きな箱のようなものが並んでいる。みんなボロボロで、うす汚れている。
最後にうしろを振り向いて、おれははじめて外から『幻夢郷』を見た。
大きな箱だ。ボロボロで汚れた、大きな箱。
でも、外の世界と比べたら、あまりに小さい。
これが、おれの過ごした見世。
「おい」と、朔弥がおれの手をとった。「道の真ん中に立ってると、危ない」
言われてようやく、おれは周囲をたくさんの人間が歩いていることに気がついた。
人間たちは、おれたちをじろじろ見ながら歩いていく。なかにはときおり、並んだ箱の一つに入っていくものもいる。
これが道。あの箱は『建物』で、あれらもきっと『見世』なのだ。
「花、朔弥。藤縞が手続きを終えるまで、車で待っていよう」
夢路がおれたちを手招きする。
そこには、黒くて平べったい箱のようなものがあった。
箱のなかから出てきた男が、夢路に頭をさげ、箱についていた扉をあける。
「ありがとう」
夢路はそう言って、箱のなかに入っていく。そうしてまた、おれたちを手招く。
「おいで。怖くないよ」
おれたちは顔を見合わせ、おずおずと箱のなかへ入った。
扉が閉められると、しんと、外の世界の音が聞こえなくなる。
箱のなかは思ったよりもずいぶん広かった。おれと朔弥は並んで座り、夢路はその向かいに座っていた。
扉を開け閉めした男も箱のなかに戻ってきて、前のほうに座る。夢路がそちらを手で示した。
「彼は運転手の七緒だよ。七緒、彼らは花と朔弥。屋敷に引きとることになったんだ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
七緒と呼ばれた男は、小さく頭をさげる。藤縞よりは年上に、夢路よりは若く見える。細い瞳は一見鋭いが、不思議と怖い印象はなかった。
「運転手は他にもいるんだ。おいおい紹介していくよ」
おれはうなずいた。朔弥は「なあ」と声をあげる。
「世話になっておいてだが……何者なんだ、あんた。こんなすげえ車……」
朔弥の言葉に、おれはおどろいた。
これが『車』なのか。ときどきお客が乗ってくるやつ。
夢路はにこりと笑う。
「言っただろう。蒐集家さ」
「そんなわけねえだろ。貴族か何かか」
「まあ、端くれではあるね」
「端くれって……俺はともかく、こいつの身請けなんて簡単にできるもんじゃねえだろ」
「ちょっとした商売をやってるんだ。と言っても、僕は隠居したようなものだけど。ああそうだ、いまのうちに手当てをしておこう」
夢路は車のなかを探り、膝のうえにおさまる程度の大きさの箱を取りだした。
丈夫そうなつくりの蓋をあけ、おれの足もとに膝をつく。
朔弥が「おいっ」と声をあげた。夢路は首をかしげる。
「なんだい?」
「なにってっ……あんたが手当てするのかっ⁉」
「そのつもりだけど……おかしいかな?」
「おかしいだろ! 貴族さま……っつーか、主人が俺らみたいなのにっ……」
「僕は、きみたちの主人になったつもりはないよ」
夢路が微笑む。
「堅苦しいのは嫌いなんだ。僕は花を蒐集して、朔弥を買いとった。手に入れたものは僕の好きにさせてもらう。というわけで、ごく普通に、友人にでもなったつもりで接してくれ」
「ゆ、友人……?」
「難しいかな? 齢が離れすぎているか……。じゃあ、『家族のようなもの』でいこう。これから一緒に暮らしていくんだからね」
呆然とするおれたちをよそに、夢路は箱のなかから、見たこともないような、きれいな道具たちを取りだしていく。
「こう見えて、手当てには自信があるんだ。僕にまかせて」
そう言うと、夢路は言葉の通り、あっという間におれの怪我を手当てした。
傷口を洗われたときはほんのすこし沁みたけれど、それ以外はなんの痛みもない。夢路の手つきはどこまでも優しく、とてもうつくしかった。
それこそ、幻や夢や、ふしぎな力があるんじゃないかと思うくらい。
「……ありがとう」
礼を言えば、夢路は「どういたしまして」と笑う。
軟膏をぬられ、きれいな白い包帯を巻かれたうろこの脚は、いつもよりすこしだけきれいに見えた。
「お待たせいたしました」
見世から出てきた藤縞が、車の前のほう、運転手の七緒のとなりへ座る。
「ありがとう、藤縞。では、まずは衣料品店へ向かってくれ。花だけでなく朔弥のものも欲しいから、彼ら二人ともに合うものを扱っている店がいいな」
「でしたら隣町へ向かいましょう。『ささら通り』なら大抵のものは揃うでしょう」
「ああ。そうしてくれ」
「それはそうと、お疲れではありませんか」
「平気だよ。すこぶる気分がいい」
会話を交わす彼らのうしろで、朔弥がそっと、おれの耳もとに口を寄せた。
「へんなやつだな」
おれはコクリとうなずいた。夢路は間違いなく、へんなやつだった。
「でも……悪いやつじゃなさそうだ」
おれはうなずいた。
「あの藤縞って人も、七緒って人も、まともそうだし」
おれはうなずいた。すくなくとも、幻夢郷の番頭や楼主たちと比べれば、ずっとずっと信用できる人間だということは確かに思えた。
「おまえが身請けされるって聞いたときは、正直、ゾッとしたけど……」
朔弥がおれの手をにぎった。
琥珀色の瞳が、じっとおれを見つめる。
「もしも何かあれば、俺が守る。……でも、本当に、……良かった……」
「……朔弥……」
車が、わずかに揺れる。
「花、朔弥。出発するよ」
夢路が笑う。
車はゆっくりと、おだやかに道を進みだす。
朔弥が、くしゃりと顔をゆるめて笑う。
「改めて、これからもよろしくな……花」
おれは「ああ」とうなずき、車の窓の外を見た。
大きな、けれどちっぽけな『幻夢郷』の箱は、ゆっくりと遠ざかっていった。
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