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第三章「都落ち侍のゆとりぐらし」
第九話「野次馬根性」
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長屋の隣人である鯉之助が新たに部屋に入って来たので、夢野は座るように促した。
夢野は鯉之助のあるものに気付き、どうしたものか考えている。綾女も気づいたらしくどう話を切り出すべきか迷い、夢野の方を見た。
「なあ、正之進さん」
「え? 何でしょう……あっ」
夢野の呼びかけに、鯉之助こと正之進はつい返事をしてしまった。あまりにも自然に声をかけられたので、本来空とぼけるはずだったのに虚を突かれてしまったのだ。
「なにい!」
「おいおいおいおい、夢野先生。まさか、鯉之助の奴が探してた正之進だっていうのか?」
「そうだよ」
「だって、大名の跡継ぎなんだろ? 何でまた」
「知るかよ。出奔したのはさっき話した事情だけど。それから色々あってうちの長屋に流れて来たんだろう」
「あんたち、本当に気付いていなかったみたいね」
粂吉達は鯉之助の来ている羽織に、手掛かりとなる簪に施された紋様と同じ紋がある事に気付いていなかった様だ。
「まさか、鯉之助が若君だったとは、予想しておらなんだ。最初入居を申し出て来た時はどう見ても武家だったとか、やたら金払いが良いとかは思っていたのだが、何と言う事だ」
長屋の大家である長吉が、自分の迂闊さを責めている。
それだけ怪しい条件がそろっていて、しかも出奔した取手藩の若い後継者の話を聞いておきながら、鯉之助の事に気付かなかったのだ。本当に、擁護しようがない位迂闊である。
灯台下暗しとはよく言ったものである。
この迂闊で粗忽な連中を見て、夢野と綾女は目を見合わせて思った。この連中を頼りにする前に鯉之助の正体に気付いて本当に良かったと。
これだけ露骨に特徴を示している者を目にしても気づかなかったのだ。江戸中を聞いて回ったとしても何の成果も得られなかっただろう。人これを徒労という。そんな事にならなくて、本当に良かった。
「一応確認するけど、あなたは取手藩主、毛野因幡守様の御子息である毛野正之進様ですね?」
「最早隠し立ては出来まい。いかにも、私が毛野正之進だ。どうやら、事情は知っている様だな」
「ええ、一通りは」
正之進は素直に自分の正体を明かした。
その後、取手藩の御家騒動――藩主の養子と実子が跡継ぎの座を譲り合い、互いに主張を譲らず出奔してしまった事を確認した。これに対して、正之進は概ねその通りだと言った。
「なら話は早い。藩邸に戻ってください。そうすれば事態は解決します」
「悪いが私にその意思はない。それに、その資格も無い。取手藩主の地位は、祖父が今の藩主に譲ったものだ。ならば、その実子である利左衛門が継ぐのが筋である」
「でも、毛野因幡守様はあなたに譲ると言ってるんでしょう? それに、あなたは毛野因幡守様の養子になっているのですから、資格が無いというのは筋が通りません。それを否定するなら、多くの大名家が断絶してしまいます」
「むう……」
「それに、取手藩は幕府から信頼されて与えられた領地です。毛野家がこのままみすみすお家断絶してしまい、その任を果たせないの忠と言えるでしょうか? 養父とはいえ仮にも父の期待に背いて逃げ出す事は果たして孝と言えるのか。それに、毛野家の治世を慕う領民を見捨てるのは仁であるのか、よくお考えになった方が良いでしょう」
夢野は矢継ぎ早に捲し立てた。これは武家社会で常識とされる儒教の概念に基づくものであり、正論と言える。こうも真正面から正論を並べられては否定するのは難しい。
「待て、確かに夢野さんの言う事は正論だ。正論であるが、私には私の意思というものがある。例え仁義忠孝に背くとそしられたとしても、自分が信じた正しい道だ。そう簡単に撤回するなど出来ぬ」
こう言われると夢野は弱い。正之進の言っている事は一般には間違っているとまではいかないが、大名の子息の発言としては適切ではない。だが、夢野がこれまでに戯作者として書いて来た読本には、正之進が語るのと似た様な主人公の台詞があった。つまり、公人としては評価できなくとも、私人としては正之進の想いは分かるのである。
「まあ……そう思うかもしれませんが、取り敢えず話し合いましょう? 利左衛門様と一回今後の事について話した方が良いですよ。久恵さんも交えて」
「何、久恵も来ていたのか」
家臣たちが自分の事を探し回っていたとは察していたが、まさか女人の久恵が国元から江戸まで出て来て探していたとは、予想外だったようだ。しかも、口ぶりからすると随分と気にしている様である。
「あの、もしかして……」
「明日、場所を設定するので、そこで話し合ってください。私も立ち会いましょう」
「ちょっと……」
自分の質問を夢野に強引に遮られ、抗議の意を示そうとした。だが、夢野から目で示されて大人しくなる。
綾女は正之進が久恵の事をどう思っているのか、聞き出そうとしたのである。
だが、急にそんな事を聞かれても答えにくいものであるし、もう少し溜めてからそちらの話に持って行った方が面白い。そう考えた夢野は途中で質問を遮り、その意図を綾女は理解したのである。
出奔の件とは違い、こちらは面白半分なのであるが、こうした楽しみを見つけなければこんなお家騒動の調停など、馬鹿馬鹿しくてやっていられないのだ。言ってみれば野次馬根性である。
それにしても、他人の恋愛事情には嗅覚の強い二人である。ほとんど何も言わないまま通じ合う二人を見て、長屋の住人達は気味が悪そうにしている。そしてこう思った。
夢野と綾女の関係は一体どうなっているのだろう?
夢野は鯉之助のあるものに気付き、どうしたものか考えている。綾女も気づいたらしくどう話を切り出すべきか迷い、夢野の方を見た。
「なあ、正之進さん」
「え? 何でしょう……あっ」
夢野の呼びかけに、鯉之助こと正之進はつい返事をしてしまった。あまりにも自然に声をかけられたので、本来空とぼけるはずだったのに虚を突かれてしまったのだ。
「なにい!」
「おいおいおいおい、夢野先生。まさか、鯉之助の奴が探してた正之進だっていうのか?」
「そうだよ」
「だって、大名の跡継ぎなんだろ? 何でまた」
「知るかよ。出奔したのはさっき話した事情だけど。それから色々あってうちの長屋に流れて来たんだろう」
「あんたち、本当に気付いていなかったみたいね」
粂吉達は鯉之助の来ている羽織に、手掛かりとなる簪に施された紋様と同じ紋がある事に気付いていなかった様だ。
「まさか、鯉之助が若君だったとは、予想しておらなんだ。最初入居を申し出て来た時はどう見ても武家だったとか、やたら金払いが良いとかは思っていたのだが、何と言う事だ」
長屋の大家である長吉が、自分の迂闊さを責めている。
それだけ怪しい条件がそろっていて、しかも出奔した取手藩の若い後継者の話を聞いておきながら、鯉之助の事に気付かなかったのだ。本当に、擁護しようがない位迂闊である。
灯台下暗しとはよく言ったものである。
この迂闊で粗忽な連中を見て、夢野と綾女は目を見合わせて思った。この連中を頼りにする前に鯉之助の正体に気付いて本当に良かったと。
これだけ露骨に特徴を示している者を目にしても気づかなかったのだ。江戸中を聞いて回ったとしても何の成果も得られなかっただろう。人これを徒労という。そんな事にならなくて、本当に良かった。
「一応確認するけど、あなたは取手藩主、毛野因幡守様の御子息である毛野正之進様ですね?」
「最早隠し立ては出来まい。いかにも、私が毛野正之進だ。どうやら、事情は知っている様だな」
「ええ、一通りは」
正之進は素直に自分の正体を明かした。
その後、取手藩の御家騒動――藩主の養子と実子が跡継ぎの座を譲り合い、互いに主張を譲らず出奔してしまった事を確認した。これに対して、正之進は概ねその通りだと言った。
「なら話は早い。藩邸に戻ってください。そうすれば事態は解決します」
「悪いが私にその意思はない。それに、その資格も無い。取手藩主の地位は、祖父が今の藩主に譲ったものだ。ならば、その実子である利左衛門が継ぐのが筋である」
「でも、毛野因幡守様はあなたに譲ると言ってるんでしょう? それに、あなたは毛野因幡守様の養子になっているのですから、資格が無いというのは筋が通りません。それを否定するなら、多くの大名家が断絶してしまいます」
「むう……」
「それに、取手藩は幕府から信頼されて与えられた領地です。毛野家がこのままみすみすお家断絶してしまい、その任を果たせないの忠と言えるでしょうか? 養父とはいえ仮にも父の期待に背いて逃げ出す事は果たして孝と言えるのか。それに、毛野家の治世を慕う領民を見捨てるのは仁であるのか、よくお考えになった方が良いでしょう」
夢野は矢継ぎ早に捲し立てた。これは武家社会で常識とされる儒教の概念に基づくものであり、正論と言える。こうも真正面から正論を並べられては否定するのは難しい。
「待て、確かに夢野さんの言う事は正論だ。正論であるが、私には私の意思というものがある。例え仁義忠孝に背くとそしられたとしても、自分が信じた正しい道だ。そう簡単に撤回するなど出来ぬ」
こう言われると夢野は弱い。正之進の言っている事は一般には間違っているとまではいかないが、大名の子息の発言としては適切ではない。だが、夢野がこれまでに戯作者として書いて来た読本には、正之進が語るのと似た様な主人公の台詞があった。つまり、公人としては評価できなくとも、私人としては正之進の想いは分かるのである。
「まあ……そう思うかもしれませんが、取り敢えず話し合いましょう? 利左衛門様と一回今後の事について話した方が良いですよ。久恵さんも交えて」
「何、久恵も来ていたのか」
家臣たちが自分の事を探し回っていたとは察していたが、まさか女人の久恵が国元から江戸まで出て来て探していたとは、予想外だったようだ。しかも、口ぶりからすると随分と気にしている様である。
「あの、もしかして……」
「明日、場所を設定するので、そこで話し合ってください。私も立ち会いましょう」
「ちょっと……」
自分の質問を夢野に強引に遮られ、抗議の意を示そうとした。だが、夢野から目で示されて大人しくなる。
綾女は正之進が久恵の事をどう思っているのか、聞き出そうとしたのである。
だが、急にそんな事を聞かれても答えにくいものであるし、もう少し溜めてからそちらの話に持って行った方が面白い。そう考えた夢野は途中で質問を遮り、その意図を綾女は理解したのである。
出奔の件とは違い、こちらは面白半分なのであるが、こうした楽しみを見つけなければこんなお家騒動の調停など、馬鹿馬鹿しくてやっていられないのだ。言ってみれば野次馬根性である。
それにしても、他人の恋愛事情には嗅覚の強い二人である。ほとんど何も言わないまま通じ合う二人を見て、長屋の住人達は気味が悪そうにしている。そしてこう思った。
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