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第三章「都落ち侍のゆとりぐらし」

第三話「鳥居耀蔵の称賛」

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 吟味与力からの取り調べを終えた夢野は、南町奉行である鳥居耀蔵の執務室に向かった。

 鳥居とは以前今回と同じ様に執務室において、対面で雑談を交わした事がある。そのため知らぬ仲では無いし、世間で言われるほどの悪人では無い事を夢野は知っている。

 だが、だからと言って実は善人であると言う事も無い。それに我欲だけの人間でも無いが、私心なく職務に臨んでいるという訳でもない。

 一面的な人物ではないというのは、ある意味人間らしいとも言えるが、鳥居の場合それが非常に極端である。そのため、関わると疲れるし、ロクな事が無いのである。そしてその様な人物が、町奉行という江戸に住む全ての町人に関わる職務に就いているのが、皆にとっての運の尽きであろう。

 とは言っても会わぬ訳にもいかない。今夢野は南町奉行所の中という、鳥居掌中にいるのと同じ状況だ。これで会うのを拒否したりしたらどんな目に遭うか分かったものではない。それに夢野は執筆した作品が原因で捕縛されたばかりなのだ。ここは直接会ってご機嫌を取るのが上策である。

「お奉行様におかれましては、ご機嫌麗しく」

「おお、夢野か。よく来たな」

 執務室に入って丁寧に挨拶をした夢野を、鳥居は笑顔で迎い入れた。部下に捕縛を命じたばかりの悪人を目の前にしているというのにだ。どうも彼の頭の中では、夢野と話す事と夢野を捕縛させる事に関して完全に切り離しているらしい。

「実はこの前の礼をしたくてな。ちょうど良い機会だからこうして呼び出したのだよ」

「ははあ、そんなもったいない事で」

 この前の礼とは、教光院を呪詛の祈祷をした咎で摘発した事件の事である。摘発のきっかけは、夢野が訴え出た事である。摘発後、江戸を騒がせていた連続殺人事件はぴたりと止み、それをもって鳥居は自分の指揮により人々を呪い殺す淫祀邪教を滅ぼしたのだと鼻高々であった。

 もちろん呪いで人が死ぬわけがなく、鳥居の思い違いである。そもそも儒学者の家に生まれて学んで来たくせに、怪力乱神を語るのは笑止千万である。

 当然そんな事は面と向かって言えるわけが無いのであるが。

 それにしてもちょうど良いとは恐ろしい言葉である。夢野の行動に礼を言いたければ、そのために奉行所まで呼び出すか、書状を認めるか、使いの者を通じて伝えれば良かったのである。その様な事をせず、偶然にも夢野を摘発して町奉行所に来たのを称してちょうど良いとは、どの様な思考で導き出されたのであろう。

 当然そんな思いはおくびにも出さないのであるが。

「ところで今日は私は吟味与力の浅川様から取り調べを受けまして……」

「ああ、そうであったな。あの本はいかん。特にモリソン号事件を連想させるような部分など以ての外だ」

 こうしてわざわざ礼を言うのであるから、実は罪を減じてくれるのではないかと甘い事を考えたのであるが、全くそんな事はなかった。あくまで鳥居は別の事として捉えているらしい。

「それでは、どの様な御裁きになるのでしょうか?」

「そうだな、直接かかわった者達だが、高野長英は永牢だったし、渡辺崋山は蟄居だったな。他の者も大体永牢か江戸払いであったはずだが」

「……」

 これは拙い。永牢と言う事は恩赦でも無ければ死ぬまで小伝馬町の牢屋に入っているという事である。まだ若い夢野としてはその様な事はまっぴらごめんである。それに、戯作者である夢野にとって、読者が大勢住んでいる江戸を離れるのは辛い事である。

「まあお主の場合直接モリソン号事件を批判したのでは無いから、そこまで重くする必要は無いと思っている。それとも、小伝馬町の牢に入っている時、高野長英から何か吹き込まれたか?」

「いえいえ、そんな事はありません」

 何とか軽い罰で済みそうである。それはありがたいが、猜疑心の強い鳥居が何か余計な事を考えついた場合、どれだけ重い罰に早変わりするかと思うと恐ろしさがこみあげて来る。

「ところで、今回はお前の書いた本を読んでみたが、問題の部分以外は中々面白かったぞ。町人の読む読本など馬鹿馬鹿しいと思っておったが、役人の仕事がよく描写されている。それに、作品の中で描かれる儒学やら農学やらもしっかりとしたものだ。前にお前と話した時にも思ったが、かなり学問に励んでおったな?」

「ははあ、林家に生まれた鳥居様にそこまで評価していただけるとは、これ程名誉な事はありません」

 これは半分本音である。夢野は執筆にあたり、作中に出て来るものに関しては相当研究を積んでいる。主人公を作中で活躍させる際、成功した理由が学術的には誤りだったとしたら、専門家が読んだ時に興醒めであろう。その様な考えがあるから、夢野は妥協せずに調べ物をして執筆するのだ。もちろん、現実にはあり得ない事も書くのであるが、その際は何故その様になるのかの理由付けはやっている。

 その様な夢野の努力や執筆姿勢を、鳥居は読み取ってくれたのだ。これは予想外の事である。

 そしてもう半分の想いとしては、今回読んでみたという発言から察するに、まともに読んだのは初めてなのだろう。以前に二回程摘発されており、内容を直接指導されているのだが、どうやらきちんと読まずに裁きを下した様だ。

 恐ろしい事この上ない。

 改めて、鳥居という男の恐ろしさを実感したのである。


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