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第二章「当世妖怪捕物帳」

第十四話「罠」

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 天保十三年六月十八日の事である。

 武蔵国大井村の教光院に、南町奉行の捕り方が押し寄せた。罪状は、老中水野忠邦に対する呪詛である。当初は呪詛などしていないと突っぱねたのであるが、強引に侵入して中を調べたところ、水野忠邦に対する呪詛を依頼する書簡が発見された。しかも、依頼主は前将軍さきのしょうぐん徳川家斉の側近中の側近で、御側御用取次として権勢を振るった水野忠篤みずのただあつの縁者であった。水野忠篤は家斉が存命の頃は、その権威を笠に着て専横をきわめていた。それは、家斉が将軍位をその子家慶に譲ってからもそうであり、それが家慶の不興を買っていた。そのため、家斉の死後、公金横領などの罪を着せられ、罷免されていたのである。

 水野忠篤失脚のために大きな役割を果たしたのは、老中であり家慶に仕えていた水野忠邦であり、その手足として働いていた鳥居耀蔵である。今回の呪詛は、その意趣返しだと判断された。

 しかも、調査の際に更なる罪状が明らかになった。呪詛を依頼していたのは、水野忠篤だけでなくもっと多くの客がいたのである。驚くべき事に、依頼の呪詛の対象には、不審な死を遂げている者が何人かいた。これは、最近江戸で噂となっていた連続殺人の被害者である。

 教光院の代表である修験者了善は、大名にも崇敬する者がいる程の人物である。当初は軽く叱責する程度で留めると町奉行所は考えていた。だが、人死にに関わっていると目された事からそうもいかなくなった。了善は厳しい取り調べを受ける事になり、遠島は免れないだろうとの噂である。

 そして、この大捕物を差配した南町奉行鳥居耀蔵は大いばりである。自分を引き立ててくれる水野忠邦への呪詛を防いだので、主人への面目を保つことが出来たし、江戸を騒がす事件を解決に導いたのである。町奉行としては北町の遠山景元に町人からの人気で差をあけられているので、これで逆転したと思っているのだろう。自らを、かつての名奉行大岡越前になぞらえているとの噂すら聞こえて来る。

 もっとも、それまでの悪評が祟り人気は回復などしていないのだが、それでも本人が上機嫌なので町奉行所の役人達は胸をなでおろしている。

 教光院への手入れが終わり、了善が入牢してすぐの事である。

 浅草の一角に、虚屋という書店があった。版元としては大手であり、娯楽作品から寺子屋で使用するような教本まで、幅広く取り扱うのが特徴だ。また、最近は夢野枕辺という戯作者の書いた、大八車に撥ねられて死んだ部屋住みの侍が異世界に転生して大活躍する作品や、妖怪を使役して妖怪を退治する主人公を描いた作品など、奇想天外な読本を出版して好評を博している。

 もっとも、内容が徳川家や町奉行を揶揄していると言いがかりをつけられ、絶版や罰金刑の処分を受けているので、順風満帆とばかりは言えないのだが。

 だが、家財没収や手鎖を受ける版元や戯作者すらいるご時世である。絶版程度済んでいる虚屋は、まだ幸運と言えよう。そのため、版元の中では羽振りが良い方である。

 その虚屋の前に、数人の人影があった。時は夜の闇に覆われる頃で、月も雲に隠れている。

 辺りには他に出歩く者も無く、人影は提灯も持たずに夜の闇に紛れていた。

 人影の中の一人は虚屋の壁に張り付くと、音も無くよじ登り、屋根へと登って行った。そして、慎重に屋根瓦の上を歩き、二階の窓を開いて中に入って行った。恐るべき体術である。名の知れた盗賊でも、ここまで見事に侵入できる者はそうはいないだろう。

 暫くすると、戸口が開いた。中に侵入した男が裏から開放したのだろう。外で待っていた男達は懐から短刀を取り出した。これから中に押し入って、家人を惨殺する算段だろうか。最近江戸の町に流行る殺人事件と同じ手口だ。金目の物には目もくれず。一陣の風の如く襲撃し、誰にも目撃される事なく去っていくのである。

 ここまで彼らを阻止するものは何も無かった。このまま、彼らは目的を達成してしまうのだろうか。

 いや、彼らがこれまでと同様凶刃を振わんと店の中に侵入した瞬間、彼らの上に覆いかぶさる物があった。

「なんだこれは?」

「畜生身動きがとれねえ」

「暴れるな、刃が刺さる」

 これまで一言も喋らずに行動していた彼らも、突然の事に喚きだした。だが、この程度では彼らの不幸は終わらなかった。体のあちこちに激痛が走る。周りから何本もの棒状の物で、殴りつけられているのだ。

 頭部や体を徹底的に痛めつけられた彼らは、たまらずその場に崩れ落ちた。

「やあ、諸君。気分はどうかな。網にかかった魚の気分かねえ」

 痛みに耐えながら、急に降って来た声の方を見ると、提灯を持った男が近づいて来た。そして、その後ろには一人の男を抱えた女がついてくる。女が抱えているのは、最初に二階から潜入したはずの男であった。その男がこうなっていると言う事は、戸を開けたのは別の人物で、その時から罠にかけられていたのだ。

「君たちが、江戸の町を騒がす暗殺教団の者か……いや、教団は関係ないんだろうね。おっと、申し遅れたな。俺は戯作者の夢野枕辺だ。一応、教光院で虚屋への呪いを依頼した者だが、これは君たちに暗殺を依頼した事になるのかねえ?」

 夢野は、男達の近くにどっかと座り込んで、笑いながら言った。
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