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第二章「当世妖怪捕物帳」
第九話「呪詛」
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その晩、夢野と綾女は教光院を監視していた。若い男女が一つ屋根の下で一晩共にいる訳であるが、特に色っぽいことなど何も無い。二人は幼馴染なので今更二人きりになったからとて何の事は無いし、そもそも二人は交代で監視している。夜通し語り合う事すらないのである。
まあ一晩語り合ったとて何も進展など無いだろう。これまで話す機会は幾度もあったのだから。
二人の事は兎も角、教光院の監視は続いた。綾女の方はあまり乗り気でなかったが、元来の性質が真面目である。一度決めて承諾したのなら、気乗りのしない監視を行う事はやぶさかではない。実は夢野も似た様な気質であり、これまでには逆の状況が何度もあった。要は二人は似た者同士なのである。
「起きて。何か中で妙な動きがあるわ」
綾女に監視が変わってすぐ、夢野は身体を揺すられて起こされた。
「状況は?」
「敷地内に何人か入って行った様ね。提灯はつけていなかったけど、静かだったから足音や門を開ける音で気付いたの」
「へえ、月はそれ程暗くないけど、提灯を持ってなければ足元が危ないだろうに。よほど隠密に行動したいと見える」
夜の暗がりを利用してこっそりと、寺院の中に入って行く。暗殺教団に仕事を依頼しに行くのだとしたら実に相応しい状況である。遠金が言っていた暗殺教団などという事に関して、調査のために綾女を誘った夢野も半信半疑であったのだが、これは本当にひょっとするやもしれぬ。
二人はねぐらにしていた茶店を出て、教光院に近づいていった。もしかしたら見張りがいるかもしれないと警戒し、足音を忍ばせてゆっくりとだ。
「何か、聞こえるな」
「何かしら?」
何かに感づいた二人は囁くようにやり取りを交わし、更に教光院に近づいていく。すると、中から何やら物音が聞こえて来た。いや、物音というより、何かの声に聞こえる。更には太鼓や銅鑼を打ち鳴らす様な音もだ。
「あまり、こっそりっていう雰囲気じゃないわね」
「そうだな。てっきり、暗殺を依頼して密談でも交わしているんだと思ったんだが」
何か様子が予想とは違う事に拍子抜けした二人は、教光院の壁に取り付いた。
「怨敵調伏!」
「怨敵調伏!」
「水野忠邦に災い有れ!」
「水野忠邦に死を!」
教光院の中での会話が、はっきりと聞き取れるようになった。いや、会話というよりは叫び。その中に祈りの様な怨念の様なものが感じ取れるのであった。
「……これはあれだな。暗殺というか何というか」
「呪詛ってやつかしら? 確かに死を望んでいるのは暗殺と同じでしょうけど」
「祈っているだけなのと、本当に殺すのでは大違いだな。いや、確かに呪詛事態御法度だけどさ」
人を呪うだけならば、何の物理的な作用をもたらす事はない。迷信深い者の中には呪いを信じる者もいるだろうが、夢野も綾女も信じてはいない。最近夢野は妖怪退治の読本などを書いており、設定作りのために様々な祈祷や呪いの手段について調べたりもした。綾女も挿絵を描く参考のために夢野が集めた資料をいくらか読んだし、時折夢野から呪いについての知識を語られたりした。
だが、調べて知識を得てしまったからこそ、逆に呪いの事を信じる気になれないのである。調べ過ぎたせいで、設定の粗が見えてきてしまったり、とある流派の呪いの特定の手法が、別の流派の呪いから手法や設定を借りている部分があるのに気付いてしまったりしたのだ。
だが、呪詛の効果を信じる者が一定数いるのがこの時代の現実である。また、本気で信じてはいないが、心のどこかで気にしている者は多いだろう。だからこそ、お上は呪詛を禁じているのである。これは、徳川の世だけでなく、古くは平安の時代から同様である。
人を害せんとする意志は、時として災いを招くからだ。例え呪詛の儀式自体に人を害する力が無かったとしても、それを行使する事は害意を明らかにして世界に解き放つ事である。露わになった殺意は、相手に対して物理的な牙を剥く事もある。それに自分が呪われていると知った者は良い気がしないだろうし、気に病んで衰弱する者もいるだろう。
「もしかして、ここでやってるのは暗殺とかじゃなくて、ただの呪いの儀式って事かな」
「そうかもね。それが噂として広まるうちに事実とは姿を変え、依頼された対象を暗殺している事になったんでしょ」
「で、誰かが運悪く死んだ場合、暗殺のせいってことになったんだな」
「なんて馬鹿馬鹿しい」
「まあ、執筆のネタにはなったかもしれないな」
暗殺教団などというのでどんなものかと見に来たら、単なる呪詛の祈祷をしていただけである。二人は拍子抜けした。一応呪詛は禁じられているのでお上に訴え出れば教光院は摘発されるだろうが、馬鹿馬鹿しくてそんな事をするつもりにはなれなかった。
夢野も綾女も、人を呪うなどあまり褒められた行為では無いと思っているが、それでも鬱屈した気持ちのはけ口は必要である事も理解している。この様にして呪いを依頼して気が晴れるのなら、それはそれで結構な事だ。実際に切りかかったりするよりずっと良い。
「それにしても、中から聞こえて来る名前……」
「水野忠邦って、つまり老中様ね。やっぱり恨まれているのね」
水野忠邦が老中としての実権を握って以来、その改革を謳ってなされた数々の政策は武士、町人、百姓を苦しめ続けている。水野忠邦は自分が正しい事をしていると信じての行動であるが、現実が見えてない部分が多いのは事実である。今江戸で一番嫌われているのは、老中の水野忠邦かその懐刀である町奉行の鳥居である事は間違いがない。
教光院に呪詛を頼む者がいたとしても、何も不思議に思えなかった。
暗殺教団の噂の実態を目にしてしまった二人は、白けた気持ちでその場を後にした。
まあ一晩語り合ったとて何も進展など無いだろう。これまで話す機会は幾度もあったのだから。
二人の事は兎も角、教光院の監視は続いた。綾女の方はあまり乗り気でなかったが、元来の性質が真面目である。一度決めて承諾したのなら、気乗りのしない監視を行う事はやぶさかではない。実は夢野も似た様な気質であり、これまでには逆の状況が何度もあった。要は二人は似た者同士なのである。
「起きて。何か中で妙な動きがあるわ」
綾女に監視が変わってすぐ、夢野は身体を揺すられて起こされた。
「状況は?」
「敷地内に何人か入って行った様ね。提灯はつけていなかったけど、静かだったから足音や門を開ける音で気付いたの」
「へえ、月はそれ程暗くないけど、提灯を持ってなければ足元が危ないだろうに。よほど隠密に行動したいと見える」
夜の暗がりを利用してこっそりと、寺院の中に入って行く。暗殺教団に仕事を依頼しに行くのだとしたら実に相応しい状況である。遠金が言っていた暗殺教団などという事に関して、調査のために綾女を誘った夢野も半信半疑であったのだが、これは本当にひょっとするやもしれぬ。
二人はねぐらにしていた茶店を出て、教光院に近づいていった。もしかしたら見張りがいるかもしれないと警戒し、足音を忍ばせてゆっくりとだ。
「何か、聞こえるな」
「何かしら?」
何かに感づいた二人は囁くようにやり取りを交わし、更に教光院に近づいていく。すると、中から何やら物音が聞こえて来た。いや、物音というより、何かの声に聞こえる。更には太鼓や銅鑼を打ち鳴らす様な音もだ。
「あまり、こっそりっていう雰囲気じゃないわね」
「そうだな。てっきり、暗殺を依頼して密談でも交わしているんだと思ったんだが」
何か様子が予想とは違う事に拍子抜けした二人は、教光院の壁に取り付いた。
「怨敵調伏!」
「怨敵調伏!」
「水野忠邦に災い有れ!」
「水野忠邦に死を!」
教光院の中での会話が、はっきりと聞き取れるようになった。いや、会話というよりは叫び。その中に祈りの様な怨念の様なものが感じ取れるのであった。
「……これはあれだな。暗殺というか何というか」
「呪詛ってやつかしら? 確かに死を望んでいるのは暗殺と同じでしょうけど」
「祈っているだけなのと、本当に殺すのでは大違いだな。いや、確かに呪詛事態御法度だけどさ」
人を呪うだけならば、何の物理的な作用をもたらす事はない。迷信深い者の中には呪いを信じる者もいるだろうが、夢野も綾女も信じてはいない。最近夢野は妖怪退治の読本などを書いており、設定作りのために様々な祈祷や呪いの手段について調べたりもした。綾女も挿絵を描く参考のために夢野が集めた資料をいくらか読んだし、時折夢野から呪いについての知識を語られたりした。
だが、調べて知識を得てしまったからこそ、逆に呪いの事を信じる気になれないのである。調べ過ぎたせいで、設定の粗が見えてきてしまったり、とある流派の呪いの特定の手法が、別の流派の呪いから手法や設定を借りている部分があるのに気付いてしまったりしたのだ。
だが、呪詛の効果を信じる者が一定数いるのがこの時代の現実である。また、本気で信じてはいないが、心のどこかで気にしている者は多いだろう。だからこそ、お上は呪詛を禁じているのである。これは、徳川の世だけでなく、古くは平安の時代から同様である。
人を害せんとする意志は、時として災いを招くからだ。例え呪詛の儀式自体に人を害する力が無かったとしても、それを行使する事は害意を明らかにして世界に解き放つ事である。露わになった殺意は、相手に対して物理的な牙を剥く事もある。それに自分が呪われていると知った者は良い気がしないだろうし、気に病んで衰弱する者もいるだろう。
「もしかして、ここでやってるのは暗殺とかじゃなくて、ただの呪いの儀式って事かな」
「そうかもね。それが噂として広まるうちに事実とは姿を変え、依頼された対象を暗殺している事になったんでしょ」
「で、誰かが運悪く死んだ場合、暗殺のせいってことになったんだな」
「なんて馬鹿馬鹿しい」
「まあ、執筆のネタにはなったかもしれないな」
暗殺教団などというのでどんなものかと見に来たら、単なる呪詛の祈祷をしていただけである。二人は拍子抜けした。一応呪詛は禁じられているのでお上に訴え出れば教光院は摘発されるだろうが、馬鹿馬鹿しくてそんな事をするつもりにはなれなかった。
夢野も綾女も、人を呪うなどあまり褒められた行為では無いと思っているが、それでも鬱屈した気持ちのはけ口は必要である事も理解している。この様にして呪いを依頼して気が晴れるのなら、それはそれで結構な事だ。実際に切りかかったりするよりずっと良い。
「それにしても、中から聞こえて来る名前……」
「水野忠邦って、つまり老中様ね。やっぱり恨まれているのね」
水野忠邦が老中としての実権を握って以来、その改革を謳ってなされた数々の政策は武士、町人、百姓を苦しめ続けている。水野忠邦は自分が正しい事をしていると信じての行動であるが、現実が見えてない部分が多いのは事実である。今江戸で一番嫌われているのは、老中の水野忠邦かその懐刀である町奉行の鳥居である事は間違いがない。
教光院に呪詛を頼む者がいたとしても、何も不思議に思えなかった。
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