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第一章「異世界転生侍」

第三話「改革の余波」

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「それでさ、単に本を書いただけで捕まっちまったって訳だ。ひでえだろ?」

「と言っても、俺はその『異世界転生侍』とかいう本は読んでないからな。何がお上の気に障ったか分かんねえよ」

 銭湯に入った夢野達は、風呂屋の二階にある休憩所で酒を飲みながら将棋に興じていた。

「お奉行様の言う事には、主役の玉木が次々と女を仲間にしていくのは、この前お亡くなりになられた大御所様を揶揄しているので不届きだってさ。訳分かんねえよ、なあ遠金とおがねさん」

「ああ、家斉いえなり様か。まあそういう見方も出来なくはないか? う~む」

 遠金さんと呼ばれた遊び人風の男は、渋面を作って独り言ちた。

 先年亡くなった十一代将軍徳川家斉は、その好色ぶりで知られている。十数人の側室を持ち、その子女は数十人にも及ぶ。もちろん子孫を残すのは将軍家として当然の役割なのだが、流石にこの数は異常である。

 また、精力増強のためにオットセイの陰茎を粉末にしたものを飲んでいたとも言われ、口さがない江戸の町人からは「オットセイ将軍」などと呼ばれていた。

 そのため、町奉行所も強硬な態度に出た可能性がある。

「でもよ。急度叱きっとしかりくらいで済んで良かったぜ、夢野さんよ」

「良かった? 何が良いって言うんでぇ」

 夢野としては、判決が出るまで取り調べを受けたり、小伝馬町の牢屋にぶち込まれたりと酷い目に遭ってきた。それが良かったなどと言われるのは気に食わない。

「知らねえのか? 最近は老中の水野忠邦みずのただくに様の御指図で、改革改革で取り締まりが厳しいんだぞ。それで世を惑わすとか不埒であるとかの理由で、大勢の戯作者が手鎖にされたりしてるんだ。それが叱られるくらいで済んだんだ。運が良かったじゃねえか」

「手鎖? 本を書いただけだろ? そりゃあお偉い方々から見れば、馬鹿馬鹿しいだろうけどよ。だから何だってんだ」

 夢野は版元の虚屋とは付き合いがあるが、その他の出版業界の人間とは全く付き合いが無い。まさか、その様な惨状になっていようとは予想だにしていなかった。

「待てよ、そういえば、お白州で俺に罵詈雑言をくれやがったあの町奉行、鳥居甲斐守とか言う奴、確か長屋の連中が妖怪とか何とか言ってた気がするぞ。その時は何とも思ってなかったけど、あれはそういう事だったのか」

「はは、酷い言われ様だな。まあ仕方ない部分も多いだろうが」

 最近南町奉行に就任した鳥居甲斐守耀蔵とりいかいのかみようぞうは、町人から酷く嫌われている。老中水野忠邦の懐刀であり、その引きで町奉行に納まった男だ。そのために前の町奉行を強引に失脚させたなど、黒い噂は絶えない。そして町奉行に就任するや、上司である水野忠邦の政策を真っ向から実現し始めた。

 水野忠邦の政策は、要は倹約である。倹約の推奨はこれまでの改革でも幾度となくされてきた。八代将軍徳川吉宗やその孫であり老中であった松平定信の政策が有名であろう。だが、これまでの倹約は主に武士を縛るものであり、町民は対象とされてはこなかった。もちろん、武士が人口の半分を占める江戸の町である。その武士が倹約に励んでいればその空気は町人にも伝わるし、贅沢品を扱う商家は買い手が無くなり打撃を受ける。だが、それでも町人を積極的に摘発するような事は無かったのだ。

 だが、それが今回の改革では違うのである。

「は~そうなんすか。全然知らんかった」

「知らんかったって、お前も江戸に生きる町人だろうが。それに随分儲けたそうじゃねえか。贅沢してお咎めを受けたとか、贅沢するにはこっそりとやるしかなかったとか、あるだろうが」

「いや、全然。金なんか史料集めで本に使っちまうしな。それに普段は長屋で執筆してるし、外に出る時は風呂入って、飯屋に寄って、後は軽く酒を一、二杯飲めば事足りるからな。贅沢と言うほどの事はしてねえな」

「へえ、変わった奴だねえ。お前さんは」

 戯作者でも役者でも、人気商売の者は売れる時には凄まじい売れ方をする。売れる前は赤貧洗うが如しの生活だったのに、急に唸るような金が懐に入ってくるのである。ついつい羽目を外して馬鹿騒ぎをしたくなるものだ。

 しかるにどうやらこの夢野という男、稼いだ金の大半は本につぎ込み、普段の生活は質素そのものだった様だ。それが、他の売れっ子戯作者よりも軽い罰で済んだ理由かもしれない。

「ちょっと、御解き放ちになったなら、さっさと戻ってきなさいよ。家に全然帰って来ないから、本が絶版になったのを儚んで身投げでもしたんじゃないかと思うじゃないさ」

 夢野と遠金が話し込んでいると、休憩所に上がって来た女が声をかけて来た。その女は夢野が良く知る者である。夢野が執筆する本にいつも挿絵を提供している絵師、狐日狸きつねびたぬき――本名綾女あやめである。

「俺が身を投げて死ぬ玉に見えるか?」

「いんや」

「だろ? なら、放免祝いに風呂位入って来たっていいだろ。小伝馬町では、ほとんど入れなかったんだぜ」

 多くの犯罪者が入れられる小伝馬町の牢屋であるが、衛生上の観点から一応定期的に風呂を提供される。不衛生な状態では疫病が蔓延しかねないし、それで犯罪者が死ぬだけなら兎も角役人に感染し、江戸中に広まったなら一大事であるからだ。だが、その回数は非常に限られており、風呂好きが多い江戸っ子が、到底満足は出来ないのだ。

 しかも、牢の中には牢名主を頂点とした階級が暗黙の了解として存在し、夢野の様な新入りは肩身が狭い。どこぞのヤクザで兄貴分であったなら、新入りでもでかい顔を出来るのだが、生憎夢野は一戯作者に過ぎないのであった。もっとも、夢野の著作は牢名主をはじめとする何人かが読んでおり、彼らは夢野に最初から好感を持っていた。おかげで、それ程不自由はしてこなかったのだが、牢は牢である。

「でも、風呂に入ったならさっさと戻ってくれば良いじゃないさ。こんな所にいないでさ」

「まあまあ、俺が夢野さんを誘ったんだ。俺の顔に免じて許してやってくれよ」

「それなら仕方な……あんた誰さ。枕辺さん。あんたの友達?」

「おお、友達だぜ。さっき知り合ったばかりだけど。遠金さんって言うんだ。何やってるかは知らね」

「あらそ。ところで何を話してたの? なんだか楽しそうだったじゃない」

「おう、俺達はだな、文化について語っていたんだよ」

 ぼろい銭湯の二階で、牢から出たばかりのむさくるしい男と遊び人が文化について語っていたなど、普通なら笑止千万である。だが、この男達は本当に文化について語り合っていた。夢野が執筆の際に参考にしている史書や、最近の出版状況などだ。もっとも、語り合うのは楽しくはあるが、改革の影響で最近の出版状況はあまり思わしくないとの結論に至っていた。夢野が捕縛されたのも、その社会的風潮のせいであろう。

「あらそうなの。枕辺さんそういうの好きだからね。話し相手が出来て良かったじゃないの」

「まあな、牢の中でこういう話を出来る奴はあまりいなかったからな。ところで、お前は無事だったのか? 俺と虚屋うつろやさんが先に引ったてられちまったから、お前がどうなったか見てなかったんだが、その分だと早めに放免されたみたいだな」

「あたし? あたしは捕まってないよ」

「はあ?」

 長屋に捕り手が押し寄せた時、間違いなく絵師である狐日狸も対象にしていた。何故狐日だけ捕縛されなかったのか、理由が分からない。

「町方たちは狐日狸って絵師を捕まえに来たらしいけど、誰の事かしらね。あたしも絵師だけど画号は風谷鼬かぜたにいたちだし」

「綾女、おまえまた名前を変えたのか……」

 綾女はころころとよく画号を変える。きっかけは長い付き合いがある夢野にも分からない。挿絵を提供する本ごとに画号を変えるのはまだ分かる。それに新年を機に変えるのもだ。だが、雨が降ったからとか、おいしい物を食べたからとかになると、本当にどういうつもりなのか分からなくなる。

 そして奇妙な事に、画号を変えた綾女はそれまでの画号の事を一切記憶から消去してしまうのだ。

 そういう訳なので、あの日町方にお前が狐日狸だなと問われた際に、綾女は本心から別人ですと答えたのだろう。だからこそ人の嘘に敏感な町方同心が、綾女の虚言を信じたのだ。

「まあ良いじゃないさ。長屋でみんながあんたを待ってるよ。酒なんか飲んでないで、早く帰ろうよ。あ、何なら遠金さんも来たら? 賑やかな方が良いし」

「いや、俺はここでお暇するとしよう。久しぶりの娑婆を楽しむんだな」

 夢野は負けそうになっていた盤面の駒を何気ない素振りで払い落すと、杯に残った酒を一気に呷り立ち上がった。
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