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第二章「標的は勝海舟」
第九話「徳川慶喜」
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吉直とアンリエットは、二人揃って上野寛永寺の境内を見廻っていた。謹慎中の元将軍、徳川慶喜の護衛のためである。
仏蘭西で断頭台を奪った一味は、それを日本に持ち込んで大きな革命を起こそうとしている。既に徳川の世が終わるという大変革期を迎えているが、仏蘭西における革命の事を思えば、こんなもので済まそうとしているとは思えない。そして、一味の狙いは旧勢力の頂点であった徳川慶喜を断頭台にかけることだと予想されていた。
徳川慶喜が寛永寺に謹慎のために入ってから、わずかな休息の時を除いて二人はずっと護衛についているのであった。本来、穢れた処刑人の血筋と見做される吉直や、異人であるアンリエットが将軍の護衛につくなどありえない事だ。だが、勝海舟のたっての願いである事や、もはや徳川の世が終焉を迎えようとしている情勢を鑑みて、特例として許されたのであった。
もちろん、他の先祖代々将軍家に仕えてきたような者達は二人の事を疎ましく思っており、話しかけようともしない。彼らとて将軍の護衛に就くだけあって剣の腕は相当なものである。自分達以外の怪しげな者が名誉ある警護に紛れ込むなど許し難いと思うのは当然である。それに、直参旗本たる自分達と穢れた処刑人などが共に戦えるかと思っているのだ。
もっとも、彼らはアンリエットが仏蘭西の処刑人の末裔である事は知らないので、その怨嗟の念は主に吉直が受ける事になる。寺で用意された食事が、吉直の分だけ置かれていなかったり、巡回中にすれ違った時に露骨に避けられるなど日常茶飯事である。
まあそんな扱いは、これまでの人生でずっと受けていたので、もう慣れており何も感じたりしないのだが。
だが、ふと思う事はある。徳川を頂点とした武士の世は終わりを告げようとしている。だが、次に来る世では、自分に一体どの様な生き方が待っているのだろうか。天下泰平の世は身分を固定化し、武士は武士、百姓は百姓、処刑人は処刑人としての生き方しか出来なかった。もちろん例外はあるが、基本的にそうだと言える。武士の世が終わったなら、一体これまでの身分や生き方はどうなるのであろう。それが最近の吉直の関心事項であった。
朝廷側の軍には、百姓や町人出身の者が参加しており、武士ばかりの幕府軍と戦い大きな戦果を上げているという。武士が身分制度の頂点にいたのは、雑な言い方をすればその武力を背景にしている。その均衡が崩れた以上、身分というものは崩壊するのかもしれない。
その後に来るのが新たな身分制度なのか、平等な世の中なのかは全く予想が出来ない。
異国では、かつて革命により大きな社会の変革があったと聞いている。少し前に異人が居住している横浜居留地を見聞した時は、そこに様々なしがらみからの開放感を感じ取る事が出来た。実際、異国ではまだ身分が残っている国もあるのだが、入れ札によって国王や大名の様な代表者を決めているとアンリエットから教えられた。ならば、身分はあるにせよ非常に流動的と言え、日本もこれからそうなるのかもしれない。
しかし、大きな懸念はある。横浜居留地で見たアンリエットに対する他の者の態度は、普段自分達山田朝右衛門の一族が受けているのと同じ扱いであった。アンリエットが、仏蘭西の処刑人の一族たるサンソン家の人間だからだ。
ならば、日本においてどの様な革命が起きようと、自分の生き方は変わらないのかもしれない。横浜居留地で感じた自由の風は幻想に過ぎなかったのかもしれない。
「君達、精が出るな。少しは休んだらどうかな?」
不意に二人に声をかける者が現れた。何者かが接近してくるのは二人とも気付いていたのだが、これまで二人に話しかけて来る者などいなかった。そのため、まさか話しかけて来るなどとは予想外で、二人は顔を見合わせた。
その男は歳は二十の後半頃で、役者絵から抜け出してきたような二枚目だ。不思議な事に着流し一つしか身に纏っていない。寛永寺は徳川家の菩提寺である。その様な格の高い寺院であるし、今中にいる武士は皆徳川慶喜の警護という事もあり、それなりの服装をしている。着流しの男など居ようはずも無かったのだ。
だが、侵入者とも思えない。それにしては態度が堂々とし過ぎているし、わざわざ吉直達に声をかけてくる理由が見当たらない。
「ボンジュール、マドモアゼル。おっと、残念ながらあまりフランス語は得意ではないので、フランス語は挨拶だけにさせてもらうよ」
そういうと男は、アンリエットに右手を差し出した。アンリエットは不思議そうな顔をしたが、とりあえず握手をして返す。
「そしてそちらが、山田吉直君だね。今まで私を守っていてくれてありがとう。これからも頼むよ」
男は吉直に対しても握手を求めて来た。そしてその言葉に、吉直は目の前にいる男が何者なのかに気付いた。
「もしや、上様であらせられますか?」
「それは正確ではないな。もう私は征夷大将軍ではないのだからな。それに官位も剥奪されたし、敢えて名乗るとしたら徳川宗家といったところかな」
吉直とアンリエットに話しかけて来た男、それは、元征夷大将軍徳川慶喜であった。つい数か月前まで、日本における権力の頂点に君臨していた男である。
仏蘭西で断頭台を奪った一味は、それを日本に持ち込んで大きな革命を起こそうとしている。既に徳川の世が終わるという大変革期を迎えているが、仏蘭西における革命の事を思えば、こんなもので済まそうとしているとは思えない。そして、一味の狙いは旧勢力の頂点であった徳川慶喜を断頭台にかけることだと予想されていた。
徳川慶喜が寛永寺に謹慎のために入ってから、わずかな休息の時を除いて二人はずっと護衛についているのであった。本来、穢れた処刑人の血筋と見做される吉直や、異人であるアンリエットが将軍の護衛につくなどありえない事だ。だが、勝海舟のたっての願いである事や、もはや徳川の世が終焉を迎えようとしている情勢を鑑みて、特例として許されたのであった。
もちろん、他の先祖代々将軍家に仕えてきたような者達は二人の事を疎ましく思っており、話しかけようともしない。彼らとて将軍の護衛に就くだけあって剣の腕は相当なものである。自分達以外の怪しげな者が名誉ある警護に紛れ込むなど許し難いと思うのは当然である。それに、直参旗本たる自分達と穢れた処刑人などが共に戦えるかと思っているのだ。
もっとも、彼らはアンリエットが仏蘭西の処刑人の末裔である事は知らないので、その怨嗟の念は主に吉直が受ける事になる。寺で用意された食事が、吉直の分だけ置かれていなかったり、巡回中にすれ違った時に露骨に避けられるなど日常茶飯事である。
まあそんな扱いは、これまでの人生でずっと受けていたので、もう慣れており何も感じたりしないのだが。
だが、ふと思う事はある。徳川を頂点とした武士の世は終わりを告げようとしている。だが、次に来る世では、自分に一体どの様な生き方が待っているのだろうか。天下泰平の世は身分を固定化し、武士は武士、百姓は百姓、処刑人は処刑人としての生き方しか出来なかった。もちろん例外はあるが、基本的にそうだと言える。武士の世が終わったなら、一体これまでの身分や生き方はどうなるのであろう。それが最近の吉直の関心事項であった。
朝廷側の軍には、百姓や町人出身の者が参加しており、武士ばかりの幕府軍と戦い大きな戦果を上げているという。武士が身分制度の頂点にいたのは、雑な言い方をすればその武力を背景にしている。その均衡が崩れた以上、身分というものは崩壊するのかもしれない。
その後に来るのが新たな身分制度なのか、平等な世の中なのかは全く予想が出来ない。
異国では、かつて革命により大きな社会の変革があったと聞いている。少し前に異人が居住している横浜居留地を見聞した時は、そこに様々なしがらみからの開放感を感じ取る事が出来た。実際、異国ではまだ身分が残っている国もあるのだが、入れ札によって国王や大名の様な代表者を決めているとアンリエットから教えられた。ならば、身分はあるにせよ非常に流動的と言え、日本もこれからそうなるのかもしれない。
しかし、大きな懸念はある。横浜居留地で見たアンリエットに対する他の者の態度は、普段自分達山田朝右衛門の一族が受けているのと同じ扱いであった。アンリエットが、仏蘭西の処刑人の一族たるサンソン家の人間だからだ。
ならば、日本においてどの様な革命が起きようと、自分の生き方は変わらないのかもしれない。横浜居留地で感じた自由の風は幻想に過ぎなかったのかもしれない。
「君達、精が出るな。少しは休んだらどうかな?」
不意に二人に声をかける者が現れた。何者かが接近してくるのは二人とも気付いていたのだが、これまで二人に話しかけて来る者などいなかった。そのため、まさか話しかけて来るなどとは予想外で、二人は顔を見合わせた。
その男は歳は二十の後半頃で、役者絵から抜け出してきたような二枚目だ。不思議な事に着流し一つしか身に纏っていない。寛永寺は徳川家の菩提寺である。その様な格の高い寺院であるし、今中にいる武士は皆徳川慶喜の警護という事もあり、それなりの服装をしている。着流しの男など居ようはずも無かったのだ。
だが、侵入者とも思えない。それにしては態度が堂々とし過ぎているし、わざわざ吉直達に声をかけてくる理由が見当たらない。
「ボンジュール、マドモアゼル。おっと、残念ながらあまりフランス語は得意ではないので、フランス語は挨拶だけにさせてもらうよ」
そういうと男は、アンリエットに右手を差し出した。アンリエットは不思議そうな顔をしたが、とりあえず握手をして返す。
「そしてそちらが、山田吉直君だね。今まで私を守っていてくれてありがとう。これからも頼むよ」
男は吉直に対しても握手を求めて来た。そしてその言葉に、吉直は目の前にいる男が何者なのかに気付いた。
「もしや、上様であらせられますか?」
「それは正確ではないな。もう私は征夷大将軍ではないのだからな。それに官位も剥奪されたし、敢えて名乗るとしたら徳川宗家といったところかな」
吉直とアンリエットに話しかけて来た男、それは、元征夷大将軍徳川慶喜であった。つい数か月前まで、日本における権力の頂点に君臨していた男である。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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