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第二章「標的は勝海舟」
第七話「最悪の未来」
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中渋谷村での戦いが終わった後、吉直達は北町奉行所に来ていた。金王八幡宮で断頭台を密造していた一味を捕えたので、これを連行するためである。
以前の戦いで、彼らは殺さずに生け捕りにしたとしても自害を試みるのは既に承知していた。そのため、殴って気絶させた後に速やかに猿ぐつわを噛ませ、舌を噛まない様に注意している。更に、救い出した職人たちから状況を確認しなければならない。
だが、北町奉行所に到着した一行は、天地をひっくり返したかの如く混乱が生じた町奉行所の役人達だった。いや、実は町奉行所に到着する前、江戸市中も混沌の渦に巻き込まれているのを目撃していた。そして、その理由も噂ながらに聞いていた。その内容は吉直にとって余りにも衝撃的で、とても信じる事は出来なかった。だが、この町奉行所の有様を見ればそうと信じるより他無かった。
「本当に、幕府軍は朝廷軍に惨敗を喫したのですね。しかも、将軍様は戦いもせずに逃げ帰ったと」
「その通りだ。既に幕府の各機関にはその情報が来ていたのだが、それは隠し通していたのだ。だが、最早皆が知ってしまったようだな。恐らく、公方様が上方から落ち延びて来たのを目撃されたのだろう」
町奉行所の同心たる文吾は、この情報を知っていたのである。これで、何故先程の捕り物が最後になると覚悟していたのか、吉直にも合点がいった。
徳川が政権を朝廷に返上しただけならば、日本最大の諸侯としてこれからも一定の勢力を保つことは可能だったかもしれない。その場合、江戸の町はこれまで通り徳川家が支配し、その下で働く町奉行所が役目を継続しただろう。
だが、幕府軍が大敗北した今となっては、そうもいくまい。徳川の力の根源は、何と言っても武力であった。列強の最新式の軍隊には届かないかもしれないが、それでもその一部は仏蘭西の教練により実力を身につけた精鋭が揃っていた。彼らは決して戦国時代と同じ様な古臭い侍ではなく、英吉利などを後ろだけにした薩摩や長州の軍と互角以上の戦いを演じる事が出来たはずである。
そしてこの精鋭達以外にも旧式ながら徳川に付き従う兵の数は他を圧倒しており、戦い様によっては西国の雄藩に勝利できたはずである。
だが、実際には大敗北を喫してしまった。これには天の時や戦の準備など、様々な要因が重なったのであろう。そして一旦戦って優劣がついてしまった以上、これを覆すのは至難の業である。
実のところ朝廷軍が江戸まで攻めて来たとしても、戦い様によってはこれを一度や二度くらい跳ね除けるだけの戦力は江戸に残ってはいる。これは純粋な戦力や兵糧の備蓄等の計算によるものだ。そして、何度か局地的に勝利を収めれば、それを糧に交渉する事も可能かもしれない。だが、一度ついた弾みはそれを許さない。時流に抗えるものなどこの世にいないのだ。
「ただでさえこれだけ混乱しているのです。もしもこれで将軍様の首が晒される様な事になったら……」
「間違いなく、江戸は混乱に陥るでしょうね。そして大きな反発が起き、流されなくても良い血が流される事になるでしょう」
吉直の言葉に、アンリエットが賛同を示した。アンリエットの言によると、仏蘭西においてかつて革命が起きた時、当初国王は実権を失ったのだがまだ彼を慕う者も多く、命まで奪おうという風潮ではなかったそうだ。それは、国王一家が国外に逃亡しようとした時も同じで、市民感情の風向きが変わってもまだ処刑にまで至る様な世論では無かった。だが、議会である議員が国王は革命のためには処刑されるべきであるという趣旨の見事な演説をした事により、状況が一変した。結果、国王夫妻は処刑される事になり、後継者たる王子も幽閉されたまま不幸な最期を遂げたという。
そして、この後には政敵の抹殺に歯止めが効かなくなり、国王支持者も過激な革命派も、自勢力が力を握るたびに敵対勢力を葬る事になったのだ。それは断頭台によってなされ、巻き添えで何の罪もない市民が何人も犠牲になったのだ。その中には、国王を処刑に導いた一派も例外ではない。結果、誰もが断頭台の恐怖に怯える事になり、恐怖が凶行を加速させていったのである。
血生臭い処刑の巷に中心には、常にアンリ・サンソンがいたのである。何処か冷静な目で社会の狂乱を眺めていたサンソン家の人間には、人の愚かな面がありありと見えており、それは代々語り継がれて来たのだった。
吉直は想像した。もしも何らかの手段により将軍慶喜が断頭台で公開処刑されたのなら、その反動により幕府に仕えていた侍たちは決死の反撃に出るかもしれない。数は幕府方が多いのであるし、江戸において地の利がある。処理する事は不可能ではない。だが、そうなった場合、一体何が待っているのだろう。
吉直は、薩摩や長州で実権を握っているという西郷隆盛や桂小五郎という者達が反撃により捕獲され、断頭台にかけられるところを想像した。そして、その断頭台を操作するのは、幕府の処刑人たる義父や兄弟、そして自分である。
そうなった場合、復讐の連鎖により日本中で血の雨が降る事になるだろう。
これは考え得る限り最悪の未来である。そしてアンリエットは、仏蘭西ではもう何十年も前にそうなったといっているのだ。今の仏蘭西はある程度安定しているらしいが、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかったそうだ。
日本においても、場合によっては長い戦乱に突入するかもしれないが、最終的には落ち着くかもしれない。だが、それまでに幾程の血が流れるか想像したくもない。
決して、最悪の未来にはさせないと吉直は改めて心に誓った。
以前の戦いで、彼らは殺さずに生け捕りにしたとしても自害を試みるのは既に承知していた。そのため、殴って気絶させた後に速やかに猿ぐつわを噛ませ、舌を噛まない様に注意している。更に、救い出した職人たちから状況を確認しなければならない。
だが、北町奉行所に到着した一行は、天地をひっくり返したかの如く混乱が生じた町奉行所の役人達だった。いや、実は町奉行所に到着する前、江戸市中も混沌の渦に巻き込まれているのを目撃していた。そして、その理由も噂ながらに聞いていた。その内容は吉直にとって余りにも衝撃的で、とても信じる事は出来なかった。だが、この町奉行所の有様を見ればそうと信じるより他無かった。
「本当に、幕府軍は朝廷軍に惨敗を喫したのですね。しかも、将軍様は戦いもせずに逃げ帰ったと」
「その通りだ。既に幕府の各機関にはその情報が来ていたのだが、それは隠し通していたのだ。だが、最早皆が知ってしまったようだな。恐らく、公方様が上方から落ち延びて来たのを目撃されたのだろう」
町奉行所の同心たる文吾は、この情報を知っていたのである。これで、何故先程の捕り物が最後になると覚悟していたのか、吉直にも合点がいった。
徳川が政権を朝廷に返上しただけならば、日本最大の諸侯としてこれからも一定の勢力を保つことは可能だったかもしれない。その場合、江戸の町はこれまで通り徳川家が支配し、その下で働く町奉行所が役目を継続しただろう。
だが、幕府軍が大敗北した今となっては、そうもいくまい。徳川の力の根源は、何と言っても武力であった。列強の最新式の軍隊には届かないかもしれないが、それでもその一部は仏蘭西の教練により実力を身につけた精鋭が揃っていた。彼らは決して戦国時代と同じ様な古臭い侍ではなく、英吉利などを後ろだけにした薩摩や長州の軍と互角以上の戦いを演じる事が出来たはずである。
そしてこの精鋭達以外にも旧式ながら徳川に付き従う兵の数は他を圧倒しており、戦い様によっては西国の雄藩に勝利できたはずである。
だが、実際には大敗北を喫してしまった。これには天の時や戦の準備など、様々な要因が重なったのであろう。そして一旦戦って優劣がついてしまった以上、これを覆すのは至難の業である。
実のところ朝廷軍が江戸まで攻めて来たとしても、戦い様によってはこれを一度や二度くらい跳ね除けるだけの戦力は江戸に残ってはいる。これは純粋な戦力や兵糧の備蓄等の計算によるものだ。そして、何度か局地的に勝利を収めれば、それを糧に交渉する事も可能かもしれない。だが、一度ついた弾みはそれを許さない。時流に抗えるものなどこの世にいないのだ。
「ただでさえこれだけ混乱しているのです。もしもこれで将軍様の首が晒される様な事になったら……」
「間違いなく、江戸は混乱に陥るでしょうね。そして大きな反発が起き、流されなくても良い血が流される事になるでしょう」
吉直の言葉に、アンリエットが賛同を示した。アンリエットの言によると、仏蘭西においてかつて革命が起きた時、当初国王は実権を失ったのだがまだ彼を慕う者も多く、命まで奪おうという風潮ではなかったそうだ。それは、国王一家が国外に逃亡しようとした時も同じで、市民感情の風向きが変わってもまだ処刑にまで至る様な世論では無かった。だが、議会である議員が国王は革命のためには処刑されるべきであるという趣旨の見事な演説をした事により、状況が一変した。結果、国王夫妻は処刑される事になり、後継者たる王子も幽閉されたまま不幸な最期を遂げたという。
そして、この後には政敵の抹殺に歯止めが効かなくなり、国王支持者も過激な革命派も、自勢力が力を握るたびに敵対勢力を葬る事になったのだ。それは断頭台によってなされ、巻き添えで何の罪もない市民が何人も犠牲になったのだ。その中には、国王を処刑に導いた一派も例外ではない。結果、誰もが断頭台の恐怖に怯える事になり、恐怖が凶行を加速させていったのである。
血生臭い処刑の巷に中心には、常にアンリ・サンソンがいたのである。何処か冷静な目で社会の狂乱を眺めていたサンソン家の人間には、人の愚かな面がありありと見えており、それは代々語り継がれて来たのだった。
吉直は想像した。もしも何らかの手段により将軍慶喜が断頭台で公開処刑されたのなら、その反動により幕府に仕えていた侍たちは決死の反撃に出るかもしれない。数は幕府方が多いのであるし、江戸において地の利がある。処理する事は不可能ではない。だが、そうなった場合、一体何が待っているのだろう。
吉直は、薩摩や長州で実権を握っているという西郷隆盛や桂小五郎という者達が反撃により捕獲され、断頭台にかけられるところを想像した。そして、その断頭台を操作するのは、幕府の処刑人たる義父や兄弟、そして自分である。
そうなった場合、復讐の連鎖により日本中で血の雨が降る事になるだろう。
これは考え得る限り最悪の未来である。そしてアンリエットは、仏蘭西ではもう何十年も前にそうなったといっているのだ。今の仏蘭西はある程度安定しているらしいが、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかったそうだ。
日本においても、場合によっては長い戦乱に突入するかもしれないが、最終的には落ち着くかもしれない。だが、それまでに幾程の血が流れるか想像したくもない。
決して、最悪の未来にはさせないと吉直は改めて心に誓った。
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