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1:九番街

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「……雨が、降ってきましたね」

 言って、トキオ・ユーノスが、右目を隠す黒革のアイパッチを掻いた。

「なにか問題でもあるの?」

 ぶっきらぼうに返して、ハナコは雨のしぶく窓越しに外を見た。

「雨だとすこしだけ運転がしづらくなるんす。それにほら、ネエさん、雨に濡れるのすごくイヤがるでしょう?」
「……まあね」

 たしかにトキオの言うとおり、雨に濡れるのはイヤだ。

 街中の邪悪が集まったような、黒い雨。
 この街の人間は、雨をとても嫌う。ハナコもその例外ではなかった。それに、雨が降ると右太ももの古傷がうずく。

「だけど、人がいなくなるから好都合じゃないか。きっと、もどこかで雨宿りしてるはずだよ」
「だといいんですがねえ……」

 愛用している、三段伸縮式特殊警棒を手持ち無沙汰にいじりながら、ハナコは後部座席の木箱に目をやった。
 顔をしかめたくなるほどの臭いが、そこからあふれ出している。

「どう思う?」
「なにがですか?」
「うしろの」
「ああ……それがなにか?」
「食べたこともないから知らないけど、ってこんなに臭いモノなの? もしかして、もう腐ってるんじゃない?」
「どうですかねえ。腐ってたら、金がもらえないんですか?」
「腐らせるなとは一言も言われていないから、ジイさんがゴネようが金はもらうさ。あたしらは、運ぶのが仕事だからね」
「さすが頼りになりますね、ネエさんは」
「ふん、それにしても臭い」
「景気づけに一杯どうです? 一口分なら残ってますよ」

 トキオが、ナイロン地の黒いサマージャンパーの右ポケットから、バーボンの入ったスキットルを取りだす。

「しまっときな、まだ仕事中だ」
「はいはい、ほんと、ネエさんには頭が下がります」

 トキオのおべんちゃらに鼻を鳴らして窓外に視線をうつし、ハナコは後方へと流れゆく雨に煙る街並みを眺めた。
 物心ついた時から、この街はすでに汚れていた。
 黒い雨のせいでもあるが、それよりも街の空気が、ここに住む人々の深いため息で充たされていることの方が大きな原因だ――

 ――スラム。

 そう、まさにスラム街だ。
 死んだ目をした大人たちと、いずれおなじ目になってしまう子どもたちが、窮屈そうにひしめきあっている――

 ――〈クニオ九番街〉

 それがこの街の名前で、その数字は、偉大なる総統、クニオ・ヒグチ様が統治する〈クニオ共和国〉にある九つの〈番号つきの街ナンバリング・シティ〉の中でも、最下層のゴミ溜めであることを意味する。
 住人は“九番”という略称でこの街を呼ぶが、その上には必ずと言っていいほど“地獄の”という言葉がつく。

『九番、
 九番、
 地獄の九番
 夢も希望も
 ありゃしナイン』

 いつだったか、〈酒場のヌシ〉と呼ばれている老いぼれの酔っ払いが陽気にうたった、ヘタクソな都々逸どどいつがふと頭をぎった。

 それを聞いて笑えなかったのは、まだ心のどこかに淡い希望を抱いているからだろうか?

「あそこ、雨だってのに、ガキどもがいますよ」

 トキオの視線の先をたどると、襤褸ぼろをまとった数人の子どもたちが、廃ビルのさして広くもない軒下で雨宿りをしながら、しけたタバコを大人ぶってふかす姿が目に入った。明日への希望をネズミ色のため息に変えて雨に溶かしている姿に、言いようのない侘びしさを覚える。


 また、この街が汚されていく……

 雨空を見上げる子どもたちの胡乱うろんな目には、大人じみた倦怠感しかなく、すべてを諦めきっているようにさえ見えた。

「ガキども、〈笛吹き男〉が怖くないのか?」

「そんな都市伝説の怪物、おれだって信じちゃいないですよ」トキオが鼻で笑う。「それにあいつら、たぶん〈蜘蛛の巣ウェブ〉のガキどもでしょう? あいつらの感覚は、おれたちには理解できないですからね」

 トキオの言うとおり、九番の奥の奥、さらに深い領域にある、〈マダム・キンブル〉と五人の〈守護者マダムガーディアン〉によって統治される非合法産業複合体アンダー・コングロマリット――〈蜘蛛の巣〉――の住人たちと交流なんてあるはずもなかったが、それでも、あの〈蜘蛛の子チルドレン〉と呼ばれる子どもたちまで人の心を失ってしまっているとは思いたくなかった。

 それに、〈蜘蛛の巣〉には師匠がいる。〈血の八月ブラッディ・オーガスト〉によって母親をうしなったあと、しばらく面倒をみてもらっていた師匠は、ハナコが十四になったときになにも言わずひとりで〈蜘蛛の巣〉の奥深くへとへ消えてしまった。あのとき師匠がなにを思って姿を消してしまったのか、今となってはもう分からないが、元気でやっているだろうか?

 ふと、師匠の「環境が人を殺す」という言葉を思い出す。

 たしかにこんな街で過ごしていると心も荒むし、死にたくなる日のほうが多いのは事実だ。それでも、あたしはまだ生きているし、あの子たちだってまだ生きている。

「……どこに住んでようが、人は、人だろ? 大差ないよ」
「まあ、ですよねえ」

 トキオがハナコの言葉を鼻で笑う。

 次の刹那、破裂音とともに、車が大きく左にかしいだ。

「ちくしょう!」

 とられたハンドルを必死にもどしながら、トキオが叫ぶ。
 後部座席の木箱がすべり、ドアにぶち当たった。

「止めろ!」

 怒鳴ると同時に、スピードのまだ落ちない車から、ハナコは外に飛び出した。
 二三度ころがり、すぐに体勢を整える。

 ……黒い雨、サイアクだ。

 警棒を一気に振り下ろして伸ばし、車が傾いだ場所へ向かうと、そこには、赤錆びたクギをL字に曲げた、手製のマキビシがばらまかれていた――

 ――コブシ一家か?

 便所の黄ばみよりもしつこい〈強奪屋〉どもの、あのバカみたいな極悪ヅラが脳裡にちらつく。

 ハナコは警棒をベルトに提げたホルダーにしまって、ぬかるんだ地べたに転がるちょうどいい大きさの石ころを拾い、深呼吸をしてから辺りを見渡した。だがどこにも奴らの影は見当たらず、それどころか雨が聴覚の邪魔をして、衣擦きぬずれや息づかいさえ聞こえてこない。

「ネエさん!」

 廃ビルの壁に突っこんでようやく止まった車から、頭をおさえたトキオが這うように出てきた。

「よそ見してるからだバカ、木箱を守ってろ!」

 トキオに命令し、ハナコは耳を澄ませた。

 すると、風切り音が右後方からかすかに聞こえ、瞬時に反応したハナコは、右へ飛び退きながら、アタリをつけたビルの割れた窓へと石ころを力いっぱいぶち込んだ。

「ぐげっ」

 寝ぼけたヒキガエルのような声とともに、人が倒れる音がする。

「おいおい、ハナコよ、少々やりすぎじゃないか?」

 つぎの瞬間、窓横の壁が豪快に吹き飛び、右腕が鋼鉄製の義手になったごま塩角刈り頭の大男が、粉塵を身で切りながら姿を現した。手入れの行き届いた機械仕掛けの手の甲には、でかでかと〈拳〉という漢字が書かれている。

 男の名はトラマツ・コブシ。その異形の義手から〈鉄腕坊てつわんぼう〉という異名で呼ばれるトラマツは、この一帯を縄張りにするコブシ一家の家長だ。

「やりすぎ? 人の首筋を狙って、矢を打ち込むような連中に言われたかないね。それに名前で呼ばないでって、なんど言えば分かるわけ?」

 背を向けた廃ビルの壁に突き刺さった矢が、雨に濡れて黒くなっていく。

「ガハハ、失敬、失敬。だが、を殺す気はさらさらないぜ。首筋に向けたのはゴエモンのミスだ」
「だれが結婚するって言ったよ? あんたのバカ息子のために、花嫁衣装を着る予定は入ってねえよ」
「その跳ねっ返りの強さも、お前の可愛いところだな」

 腹をさすりながら笑うトラマツ。

 その横から、二つに割れたカラスマスクを両耳にぶら下げた緑色のリーゼント頭が、鼻をおさえながら涙目で顔を出した。

 男の名はゴエモン・コブシ。犬並みの異常嗅覚から〈鼻探偵はなたんてい〉という異名を持つ、コブシ一家の末っ子長男は、なんの因果かハナコにベタ惚れしている。

 はじめてコブシ一家に襲撃された一年半前、ノされたのにも関わらず――元来、被虐趣味があったのかもしれないが――ハナコに恋したゴエモン。そして恋の病に苦しむ愛息を応援すると誓ったトラマツから「依頼のブツを一度でも奪うことができれば、ハナコはゴエモンの嫁になる」という条件を一方的に突きつけられ、それからことあるごとに仕事の邪魔ばかりされている。

「ばながおれぢまっだじゃねえが、バナゴオォッ!」

 ゴエモンは叫びながら、矢をつがえたクロスボウをハナコに向けた。

「しばらく使えないね、自慢のお鼻」
「ギギギッ!」
「仕留めきれなかった、お前が悪い」

 言って、ゴエモンが構えたクロスボウを下げさせるトラマツ。

「しょうがねえが、お仕置きだ」
「やめ――」

 トラマツが、で力いっぱいにゴエモンを殴り飛ばした。

「まったく、いくつになっても犬並みの嗅覚以外は使い物にならねえ。そんなんじゃいつまで経っても……ちっ、ノビてやがらあ」
「じゃあ、わたしがもらうわよ、パパ」

 頭上から聞こえた声で見上げると、背にした廃ビルの二階から、黒い下着姿の黒髪おかっぱ頭の女が黒い木刀を振り上げながら飛び降りてきた。ハナコは寸でのところでそれを避け、飛び退きざまに、壁から抜き取った矢をその女めがけて投げつけた。女はそれをかわし、不敵な笑みを浮かべてハナコと対峙する。

 女の名は、リン・コブシ。コブシ一家の長女であり、九番では右に出る者はいないと言われるほどの卓越した鍵開けピッキングの技術から〈千本鍵せんぼんかぎ〉という異名を持つ。

 リンは、五年前に勃発した革命戦争――〈血の八月〉――で母親を失ってから、実質的にコブシ一家を支えてきた肝っ玉の据わった女であり、ゴエモンが惚れているハナコに、なかば嫉妬とも思えるような憎悪を抱いていて、一家にあって唯一、ハナコの命を本気で狙っている、最も厄介な存在だった。

「いつから露出狂になったんだ、リン。オシャレは卒業?」
「濡れるのがイヤだから、上で脱いできたの」
「下着はいいわけ?」
「バカね。これは下着じゃなくて水着なのよ。あんたみたいな、色気のかけらもない小娘には着れない代物さ」
「あたしはまだ若いから、そんなもん無くても男は寄ってくるんだよ、年増のオバサン」
「オバ……わたしは、まだ二七よ!」

 という四文字に敏感なリンは、とても扱いやすい。

 リンが怒り任せに突き出してきた木刀をハナコは鼻先でかわし、ホルダーから抜き取った警棒で鳩尾みぞおちを思うさま突いた。ぬかるんだ地べたに足をとられ、ド派手なしぶきをあげながら水たまりに倒れこんだリンは、胸をおさえて息も絶え絶えになった。

「なんど来ても同じことだよ、諦めな」
「バカめ、諦めるのはお前のほうだ!」

 ドスの利いた声に振り向くと、トキオに左腕でアイアンクローを極めたトラマツが高らかに笑い声をあげた。

「今日こそ、お前の泣きっ面が見れるぜ」

 すでに意識が飛びかけたトキオは、白目をむきはじめている。

「泣かす? 殺すつもりできなよ。その腕を使ってさ」
「あいにくと、〈射出機能内蔵義手カタパルトアーム〉はお前を殴り殺すためのものじゃねえ」

 言って、笑うトラマツ。

「分かってるだろ、カワイイ息子のためにお前を殺すことはできねえからな。だが、いやだからこそ、せめてお前の泣きっ面を見るのがおれさまの悲願だ」
「親バカの極みだね」
「なんとでも言え。そして頼りない相棒を恨むこった」
「……トキオをあまりナメない方がいいよ」
「あん?」

 虚を突かれたトラマツの顔に、トキオがポケットから取りだしたバーボンを振りかけた。
「てめえ、何を――」

 次の瞬間、トラマツの顔から青い炎が立ちのぼる。雨によってすぐにそれはかき消されたが、トラマツが怯んだすきにトキオは左腕から滑り抜けていた。

 怒りで顔を紅潮させながら右腕を振り上げたトラマツの顎を、一気に距離を詰めていたハナコが、体を反転させながら逆手に握った警棒で薙いだ。落とされたことに気づかぬうちに、白目をむいてどす黒い水たまりへと突っ伏すトラマツ。

「あ……危なかった」

 こめかみをさすりながらトキオが言う。

「ほんと弱いねえ、あんた」
「おれはケンカが苦手なんす」
「お手製の煙玉を、なんで使わなかったんだ?」
「あれはただの目くらまし、逃げるためのもんです」
「使ったのなんて、見たことがないよ」
「いつも逃げる前に、ネエさんがやっつけちまいますから」
「たまには頑張りな」

 言って、ハナコは警棒を縮めてホルダーにしまい、潰れたヒキガエルみたいになったトラマツを、足で転がしてあおむけにした。

「なんであおむけに?」
「水たまりで溺れ死んだら、このオヤジが浮かばれないだろ」
「ハハ、意外と優しいじゃないですか」
「殺す気で来ない連中を殺すほど鬼じゃないっての。ただし木箱はあんたが持ちなよ。あたしはからさ」

 不満そうに鼻から息を漏らすトキオの肩を小突き、ハナコは歩き出した。
 車から出した木箱を背負いながら、トキオがそのあとを追う。

「車、オシャカになっちゃいましたね。借金が増えちまう」
「オシャカサマは『執着を捨てろ』と言ってるよ」
「ネエさん、ブッディストでしたっけ?」
「そんなわけないだろ。むかしチャコに借りた本に書いてあったんだよ」

 雨の勢いが増している。
 雨は、本当にイヤだ。

「走るよ」

 雨で汚されていくのに耐えきれなくなり、ハナコは三つ編みをおどらせて走り出した。


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