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君に笑顔でいてほしいから

オオカミと裏切り者

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「オオカミはね、一度つがいになった相手とは死ぬまで一緒なんだ」

 いつだったか、ベッドの中でそんな話を聞かされた。
 誇らしげに語る口元のピンと立ったヒゲを指でくすぐりながら、じゃあ相手が先に死んじゃったら?と聞いたらすっかり機嫌を損ねてしまってそこから小一時間ばかり、撫で回して耳元で謝罪と愛を囁いて宥め賺したものだ。
 飲みかけのハイボールをあおる。職業病と言うべきか、ストレスで荒れた胃壁に安っぽいアルコールが染み込んで痛みに思わず顔をしかめる。やがてそれも麻酔のような熱に溶かされていく。
「ずっと……一緒に……」
 どうして今になってこんな事を思い出してしまうんだろうか。目を閉じると身体に感じる浮遊感とは裏腹に、優しい刃が胸をえぐり僕を責め立てる。もういっそのことこのまま死んでしまうのも悪くは無いのかもしれない。
 ソファーにもたれかかり、かつてそこに有った温もりを求めるように匂いを嗅いでみても、無機質な芳香剤の香りが僅かに漂うのみだった。目を開けて今はもう広すぎる部屋を見渡す。社員旅行のお土産だと言って買ってきてくれた可愛くないマスコットの目覚まし時計、いつも神妙な顔で歴史小説を読んでいたテーブル、肉球のワンポイントが入った緑色のエプロン。君が居た証拠はいくつも残っているのに、どれも止まった時間の中で凍り付いている。

 半ば導かれる様にして、ふらふらとした足取りでもうしばらく使われていない箪笥の引き出しを開ける。虫に喰われていないかと心配だったが杞憂だったようだ。聖骸布でも扱う様にして慎重に折り畳まれた黒いコートを取り出す。
 付き合って初めての誕生日に彼にプレゼントしたものだ。オオカミの厚い毛皮をもってすれば、こんなものに頼らずとも冬の寒さも難なくしのげただろうに大げさに喜んで、毎年冬になっては袖を通してくれた。
 懐かしむ様に、寂しさを紛らわせる様にしてコートにすがりついた。一縷の望みをかけてそれを抱きしめて匂いを嗅いでみる。もう人間には感知出来ない程に薄まってしまったそれが、失った時間の大きさを物語っていた。
 諦めて箪笥に戻そうとした時に、視界の端に一筋の銀色を捉えた。襟元に光る灰色の毛。いつも抜け毛を気にしてコロコロを手放さなかった彼も、この一本は見逃したらしい。滲んだ視界でかつて何度もそうしたようにコートを抱きしめる。折角綺麗に折り畳まれたコートを汚してしまわないか、そんな事はどうにも気にならなかった。
 コートの中でくしゃりと乾いた音がした。何かのレシートでも入っているのだろうか。ポケットの中を漁り、その色あせた紙片を取り出す。折り畳まれたメモ用紙を開くと一言。
 ずっとまってる

 震える指で発信ボタンを押す。もう番号が変わっているかもしれない、何を今更と詰られるかもしれない。自分からあんな事を言っておいて、こんな事をするのは虫が良すぎるだろうと電話を切ろうとした時、画面には通話中という表示と共に時間が流れ始めた。
「……あの……」
「…………」
「おが…………は、隼人?」
 沈黙。遠くで電車の音。固唾を飲む。
「……遅い」
 聞き慣れたその声は不満を漏らす。
「え、えっと」
 勢いで電話を掛けてみたものの、何を話そうかなんてこれっぽっちも考えていなかった。不機嫌なその声に気圧されてしどろもどろになってしまう。
「今から行くから」
「あ、うん」
 手短な連絡を終えると電話は切れてしまう。僕はこれがアルコールの作り出した幻では無かろうかと考えながら呆然としていた。夢ならばいっそのこと寝てしまおうかと思いつつも、心臓は早鐘のように打っている。時刻は22時58分。何か食べ物でも用意しようか、飲み物は冷蔵庫に入っていただろうか、そんな場違いな事ばかり考えてしまう。頭の中では色々と考えが渦巻いているのに、身体は杭で張り付けにされたかのように動けない。そもそも今から行くって、尾上くんはどこから来るつもりで、何時に着くんだ。まだ三ノ宮に住んでいるのなら十分もかからないだろうか、でも引っ越している可能性もあるし、もう一度電話して子細に聞くべきだろうか、移動中で電話は取れない可能性を考慮してショートメッセージにするべきか。時間に猶予があるのなら、コンビニに買い出しに行くのもやぶさかでは無い。
 いやまてよ、そもそも何をしに来るんだ。久々に会ってひとつ晩酌でもいかがなんて流れでは無いだろう。電話口の尾上くんは怒ったような呆れたような態度で「遅い」と言った。何に対して?僕は尾上くんに会ったらまず謝らなければならない。決して許されない事をした。尾上くんの気が済むのなら、殴られても殺されても文句は言えない。「どうして」そう言って泣きながら僕にすがりついた尾上くんをろくな話し合いもせずに独善的な考えで一方的に突き放した。長い年月を掛けて培った信頼を踏みにじった。自己防衛の本能が蓋をしていた光景が脳裏に思い返される。ああきっと尾上くんは僕に裁きを下しに来るのだ。その牙でこの裏切り者の喉笛をかき切って、臓腑を喰らい尽くしておくれ。
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