忘却の彼方

ひろろみ

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五歳編

四十四話 裏切り (響)

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 身体が重い。何故だか分からないが手足が動かせない。周囲は卵が腐ったような悪臭が漂っていた。時折、車の走る騒音が響き渡り、振動が身体に伝わってきた。洞窟にいるのではないかと錯覚するほどに肌寒かった。

 うっすらと目を開けてみると、薄汚れた天井が視界に入った。ペンキが剥げ掛かり、全体的に錆びが目立った。壁も天井と同じように錆びていて、穴が開いた箇所からは隙間風が吹いていた。ランタンの灯りが室内を照らしているが、薄暗かった。

 室内というよりは廃墟と化した倉庫の中といった方が正しい。響は首だけを動かして倉庫内を見渡した。周囲には人の姿が見当たらず、響は一人だった。響は鉄パイプ製の椅子に座らせられ、後ろ手に手錠を掛けられていた。

 両足も手錠で固定されているため、身体を動かすことができなかった。着ていた和服は既にボロボロになっていて肌が露出していた。身体に怪我はないが、衣服は血で染まっていた。気を失っている間に何が起ったのか、混乱を隠せなかった。

 「ここは……?どこ?源十郎さん……?」

 響の声が倉庫内に反響した。誰からも返事はなく、辺りは静まり返っていた。その時、外から話し声が聞こえた。壁は薄く、所々に穴が開いているため、女性と男性が会話をしているのが分かった。響は身体と椅子を器用に動かして壁際まで移動すると、壁の穴から外を覗いた。

 「予定通り、連れて来たわ。約束の金は振り込んだの?」

 「ああ。今、確認を取って貰っても構わない」

 響が覗いている穴からは歩道で会話をする男女が視界に入った。壁の穴が小さく、辺りが薄暗いせいで顔まではハッキリとは見えなかった。しかし、聞き覚えのある声だった。男性の方は誰だか分からないが、女性は響が知っている人物の声だった。

 第三秘書の薫子の声だと、すぐに悟った。源十郎がいないことに不信感を感じたが、顔見知りである薫子が近くにいて安堵の息を漏らした。だが、拘束されている理由が分からなかった。それに見知らずの場所に一人でいるのは不安だった。

 「分かったわ。今から確認する。引き渡しは確認してからよ」

 「分かっている。時間がないから早く確認を取れ」

 薫子は携帯電話を取り出して、自身の銀行口座を確認していた。響は信じたくないものを見せられている気分だった。薫子と男性の少ない会話の中から自身の置かれた状況を理解した。いや、理解させられた。薫子は風祭家を裏切ったのだ。

 響が気絶している間に、拘束して倉庫に連れて来たのだ。そして、金と引き換えに響の身柄を引き渡そうとしていると悟った。薫子が裏切る筈がないと信じたかったが、現実は無情だった。口座を確認している薫子の様子がハッキリと見渡せた。

 「OK。確認が取れたわ。彼は倉庫の中にいるわ」

 「案内しろ」

 「ついて来て。まだ気絶しているけどね」

 「構わん」

 薫子と男がこちらに向かって来た。響は倉庫内を見渡して、隠れる場所がないか必死に探した。しかし、倉庫内はコンテナが山積みに置いてあるだけだった。コンテナには鍵が掛けてあり、中に隠れることはできない。

 コンテナの裏に隠れてもすぐに見つかってしまう。万事休す。どこを見渡しても隠れることはできない。それどころか逃走する手段すらも思い浮かばない。手足を拘束している手錠を力尽くで引き千切ろうとするが、手錠が手首と足首の肉に食い込み、血が滲むだけだった。焦燥感に包まれた響は思考を働かせ、打開策を考える。

 「こっちよ」

 「ああ」
 
 倉庫の扉が左右に開き、薫子と男が倉庫に入ってきた。男が足裏を引きずる音と、薫子のヒールが擦れる音が倉庫内に響き渡った。隠れることができなかった響は咄嗟の判断で気絶したふりをすることにした。敵の目的は響と金の交換だ。すぐには殺されることはないと、響は確信していた。

 「この小僧が宗家の子供なのか?」

 「ええ、間違いないわ」

 男は携帯端末を取り出すと、携帯に保存してある画像と目の前で気絶している少年を見比べていた。携帯に保存してある画像には響の顔写真が精密に写り込んでいた。男は写真の人物と目の前にいる少年が同一人物だと確信を得ると、笑みを浮かべた。

 「分かった。風祭響、五歳。身長も体格も報告通りだな。確かに本人だと確認した」

 「私はこれで退散するわ。私に追手がつくのは時間の問題だし」

 「薫子。これからどうする気だ?行く当てがあるのか?」

 「見掛けによらず樋口も心配性ね。なんとかなるわ」

 「当分の間は危険な状況が続く。いくら薫子でも風祭家を敵に回して無事でいられる保証はない。もし、行く当てがないのならば我々をバックアップしている組織を紹介する。一人ぐらいならば匿って貰える筈だ」

 気絶しているふりをしている響は男の名前が樋口だと理解した。うっすらと瞼を開け、顔の確認も怠らなかった。樋口は身長二メートル以上はある巨漢だった。灰色のスーツを着込み、サングラスを掛けていた。坊主頭で頬から左目をなぞるように大きな傷跡があるのが特徴的な男性だった。

 一目見ただけで危険な男だと理解した響は息を押し殺した。気絶しているふりが不自然にならないように心を落ち着かせようとするが、心臓の鼓動が激しく脈打つのが分かった。敵に意識が戻ったことがバレないか不安になった。しかし、敵達は気付くことなく会話を続けていた。

 「大丈夫よ。お金が入ったし、海外でゆっくりと過ごすわ」

 「そうか……困ったことがあれば、いつでも連絡してくれ」

 「ええ、そうさせて貰うわ。これは彼の手足を拘束している手錠の鍵よ。受け取りなさい」

 「ああ、相変わらず手際が良いな。感謝する」

 薫子は樋口に手錠の鍵を投げ渡すと、腕時計で時刻を確認した。時刻は既に二十三時を回っていた。現状で薫子が風祭家を裏切ったことは誰にも知られていない。だが、油断できる状況でもない。薫子が風祭家で働くようになってから十年。 

 長いようで短かい期間だった。この十年間、薫子はプライベートすらも切り捨てて、風祭家に貢献してきた。信護からも信頼されていると自負している。その上、風祭家内部の情報は知り尽くしていると言っても過言ではない。

 まさか薫子が裏切るとは風祭家の誰もが思ってはいない筈だ。だが、宗家と分家の四家の情報網を侮ってはいけない。長年、第三秘書として働いてきた薫子だからこそ理解していた。諜報機関、医療機関、軍事力、経営能力、風祭家は全てを兼ね揃えていた。薫子が宗家を裏切ったことが知られるのは時間の問題だ。

 どんなに遅くても今日中には宗家の者に知られると考えて置くべきだと、薫子の直感が警告を発していた。響の身柄は従者である源十郎から預かった。もし、宗家の屋敷に響の姿がないことに源十郎が気付いたら真っ先に薫子が疑われる。

 しかし、初めから裏切りがバレることも想定していた。だからこそ早急に国外に逃げる必要があった。国外に出てしまえば如何に風祭家であろうと、易々と手出しはできなくなる。明日の飛行機は既に予約済みだ。泊まるホテルも既に確保している。

 問題は国外に出るまでの間に捕まることだ。それだけは何としても阻止しなければならない。捕まった場合、薫子にとって残酷な運命が待っている。拷問され、薫子が握っている取引相手の情報が全て宗家の人間に知られてしまう。

 必要な情報さえ得てしまえば、風祭家は薫子を生かす必要はなくなる。つまり無残に殺されること意味する。抵抗さえ許されないであろう。風祭家にとって薫子は、その程度の人間だと理解していた。どんなに努力をしても薫子では第一秘書になることができない。このまま風祭家に仕えていても定年まで第三秘書のままだ。

 限界を感じ、潮時だと感じていた。そんな時、ある組織に取引を持ち掛けられた。響の身柄と引き換えに大金を支払うという取引だった。薫子の生涯年収とは比較できないほどの大金を提示されたのだ。風祭家を欺くのは至難の業だが、成功すれば見返りは大きい。海外でバカンスを楽しむのも悪くはないと思った薫子は取引に応じた。

 「当たり前よ。それじゃあ、私はもう行くわ。明日には成田空港に向かって、海外に逃げないと追手に掴まるわ。樋口、あなたも風祭家を甘く見てはいけないわ」

 「分かっている。用が済んだなら行け」

 「またね」

 「ああ」

 薫子は樋口に挨拶を済ますと、踵を返して倉庫から出て行った。ヒールの擦れる音が徐々に遠ざかって行った。響はいつでも逃げれるように気を引き締めた。必ず敵は隙を見せる。それまでは我慢して耐えるしかなった。

 選択肢を誤れば死ぬ可能性が高い。それでも自力で抜け出すしか方法がなかった。他力本願ではいつまで経っても状況が改善しないことを理解していた。樋口は響の手足を拘束している手錠を外すと、響を肩に背負うように持ち上げた。

 倉庫を出ると駐車場が視界に入り、一台の車が目立たないように停めてあった。樋口は響を銀色のセダンの後部座席に放り投げると、運転席に回り、車を発進させた。倉庫の駐車場から猛スピードで車を走らせ、大通りに出た。

 時間帯が遅いこともあり、対向車線を走る車の数も疎らで、歩道を歩く人の姿も見掛けなかった。響達を乗せた車は山を越える主要道路に入ると、猛スピードで車線変更をした。主要道路は片側二車線の道路だ。

 樋口は追い越し車線に移動すると、次々と車を追い抜いて行く。響は運転席側の後部座席に座りながら、うっすらと瞼を開けて、現在位置を確かめていた。窓から見渡せる景色は緑が生い茂る山々から湖に変わった。

 このまま行けば風祭家の管轄区域を越えてしまう。敵が向かっている先は、おおよそ理解していた。敵達のアジトに向かっていることは容易に推測できる。だが、敵のアジトまで踏み込むつもりはない。

 樋口は運転に集中していて、後部座席を見向きもしなかった。やるなら今しかない。響は覚悟を決めた。戦って勝てるのか分からない。だが、敵が運転に集中している今ならば可能性があった。響は意を決して運転席に座る樋口に襲い掛かった。
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