忘却の彼方

ひろろみ

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五歳編

六話 瞑想 (響)

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 耳元で目覚まし時計が鳴り響き、目を覚ました。時刻を確認すると、朝の四時を少し回ったところであった。気付いたら眠っていた。慌ててベッドから起き上がり、カーテンを開けると、まだ少しだけ空は薄暗かった。

 ニ九九〇年七月十九日

 響は動きやすいジャージ姿に着替えると、顔を洗い、歯を磨いてから庭に向かった。風祭家の庭は山々に覆われ、広大な敷地となっている。見渡すかぎりに青々とした芝生が広がり、新緑の木々が生い茂っていた。手入れの行き届いた庭でもある。

 庭に到着すると陽が昇り始め、空は明るくなっていた。雲一つない青空で空気が澄んでいた。山の合間からは市街地を眺めることができた。夜になると、街の灯りが点灯して夜景を眺めることができる。響のお気に入りの場所でもある。

 「おはようございます。待たせてしまいましたか?」

 「おはようございます。私も今、来たところですよ。安心して下さい」

 既に庭では源十郎が準備運動をしながら待っていた。響も源十郎に合わせて準備運動を行う。身体の緊張を和らげ、柔らかくしないと筋肉痛になったり、怪我の原因にもなったりする。激しい運動の前後には必ず行わなければならない。

 「さて、準備運動はこの辺りにしときましょう」

 「はい、次はロードワークですか?」

 「ええ、そうです。まずは体力作りから始めましょう」

 「分かりました」

 響の朝はロードワークから始まる。平坦な道ではなく、崖や斜面を上ったり、下ったりすることで足腰を鍛えることから始める。これを毎朝、二時間ほど続ける。ただ、通常のロードワークと異なる点があり、常に全力疾走でなければならない。

 気付けばジャージが汗ばんでいた。全力疾走しているうちに眠気は吹き飛び、頭が冴えるような感覚を覚えた。二年間もの間、休むことなく続けているため、呼吸を乱すことすらもなかった。何よりも体力作りには欠かせない日課でもある。

 ロードワークを終えると、時刻は六時を回っていた。太陽の陽射しが強く、虫の鳴き声が響き渡っていた。ここ最近は雨が降っていないせいもあり、地面が乾燥していた。蒸し蒸しとした暑が続き、源十郎でさえも汗で濡れていた。

 「響様、朝食はいかがしますか?」

 「朝食はいりません。源十郎さんは食べて来て下さい。僕は自主練してますので」

 「いえ、私も朝食は遠慮しておきます。では、早速ですが魔術の鍛錬に入りましょう」

 「はい、宜しくお願い致します。今日はどんなことをするのですか?」

 「今日は氣を制御下に置く鍛錬に入ります」

 「……はい。僕にできますか?」

 「大丈夫です。自信を持って下さい」

 「……はい」

 「では、響様。まずは発勁を行ってみましょう」

 「分かりました」

 響は両足を開き、足腰を踏ん張りながら全身に力を込めた。同時に瞼を閉じ、全身を流れる氣を体外に放出するイメージを脳裏で思い浮かべた。沈黙が訪れ、数秒、数分は経過した。しかし、何も変化が起きなかった。ここまではいつも通りだ。

 毎回、この段階で失敗してしまう。発勁どころか、氣を感じることができないまま五歳を迎えてしまったのだ。いくら身体に力を入れても、変化が起きない。ただ、力んでいるようにしか見えなかった。やはり自分には才能がないのであろうか。

 昨日の系統検査の結果を未だに引き摺っているのか、響の表情に陰りが見られた。不安に押し潰されそうな怯えた表情を浮かべ、源十郎の顔色を窺っていた。どうすれば発勁を行うことができるのか、必死に考えたが、答えは分からなかった。

 「やっぱり僕にはできないのでは……?」

 「今の段階では発勁は難しそうですね。では、氣を感じることから始めましょう」

 「どのようにすれば氣を感じることができますか?」

 「少しの間、瞑想をしてみましょう」

 「瞑想ですか……分かりました」

 響と源十郎は芝生に座り込むと、目を瞑った。体内を意識して静かに集中する。辺りは物静かで鳥の囀りが聞こえた。響は思考を無にすることを意識しながら体内を循環する氣を感じるように努力した。だが、いくら時間が経過しても変化が起きない。

 「源十郎さん……何も感じません」

 「簡単に身に付くものではありません。人によっては習得に時間の掛かる方もいらっしゃいます」

 「分かりました。もう少しだけ集中してみたいと思います」

 「ええ、諦めてはいけません。努力は必ず結果に反映します」

 いつも源十郎に励まされる。挫けそうになると、いつも背中を押してくれる。源十郎には感謝の一言に尽きる。お礼が言いたくても、今は言えない。魔術を使い熟せるようになることが、源十郎へ感謝を伝える一番の方法だと響は考えていた。

 だからこそ一生懸命に瞑想を繰り返した。だが、現実は甘くはなかった。いくら瞑想をしても変化が起こらないまま、時間だけが過ぎ去っていった。響に段々と焦りの色が窺えた。やはり才能がなければ氣を感じることもできないのであろうか。

 このままでは成果を上げることができない。響には残り一年しか猶予がない。早く結果を出さなければならないのに、未だに成長を実感できない状況が続いている。焦り、緊張、不安、様々な感情が胸を締め付ける。気付けば集中力が乱れていた。

 「……響様……休憩にしましょう。もうお昼です」

 「え?もうそんな時間ですか?」

 「ええ。昼食の準備をして来ますので、お待ち下さい」

 「分かりました。ありがとうございます」

 源十郎は昼食の準備をするために、自宅へと戻って行った。久しぶりの休憩に何をすれば良いのか戸惑う。響は芝生の上に横たわり、空を見上げた。太陽の光が眩しく、風が心地よかった。響が休憩を取っていると、女性の話し声が聞こえた。

 「ええ、今日ですか?急ですね。分かりました。準備をしておきます」

 響が辺りを見渡すと、携帯電話を片手に会話をする女性が視界に入った。パンツスーツ姿であり、黒縁の眼鏡が似合っていた。黒髪を肩まで伸ばし、仄かに香水の香りがした。スタイルは良く、身長も高い。風祭家に仕える秘書である柊薫子だった。

 東京大学法学部を卒業後、迷うことなく風祭家の秘書となり、今年で十年目になる。仕事が忙しいのか、三十路を過ぎた今でも独身である。何度かお見合いの話しがきているみたいだが、全て断っているみたいだった。響が抱いた印象は仕事人間だ。

 風祭家の秘書にも階級があり、薫子は第三秘書になる。仕事一筋といった人間でありながらも、響にも優しく接してくれるので、悪い印象はなかった。時間が空いている時などは勉強を教えてくれる姉のような存在でもあった。

 「響様、おはようございます。こんなところで何をされているのですか?」

 「薫子さん、おはようございます。さっきまでは瞑想してたのですが、今は休憩中です。薫子さんこそこんな時間に庭にいるなんて珍しいですね。急な仕事ですか?」

 「ええ。急な用事が入りまして、急いで戻って来たところなんです。午後から花菱家の方々が、いらっしゃるとのことでして、その準備に参りました」

 「そうなんですか。美玲さんもいらっしゃるのでしょうか?」

 花菱家とは風祭家と同様に歴史のある名家である。十二支家とも呼ばれている。十二支家は十二の名家で成り立っている。伝統のある一族である。響の両親と花菱家の当主は仲が良く、互いの家を行き来する仲でもあった。

 響は未だに風祭家の敷地から出ることが許されていないため、花菱家の屋敷には行ったことがない。だが、誠一や紅葉は偶に遊びに行っているようだった。響の表情が自然と明るくなった理由は花菱美玲に会えるからだ。

 響と同い年の女の子であり、花菱家の次女に当たる。そして、響の許嫁でもある。まだ恋というものが、どのようなものなのか理解できてはいないが、響にとっては数少ない大切な友人だった。
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