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騎士様は魔女を放さない

馬上のニーナ

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 寒くなってきたから、温泉から立ち上る湯気のせいで、浴室は真っ白に染まっている。朝の厨房での疲れが、温かな湯の中に心地良く溶けて行く。湯にゆったりと浸かり、肩まで湯に沈めると、静かな浴場にちゃぽん、と水音が響く。
 
 それにしても、ここ数日で随分冷えてきた。髪が濡れたままだと凍ってしまいそうなほど、外は寒い。私は髪を丁寧に拭い、暖かな室内で乾くのを待ってから、鍛錬場に向かった。
 ひゅう、と寒々しい風の音。空気はぴんと張り詰め、冷たい香りがする。息を吸うと、鼻の奥から頭の中まで一気に冷える感じがした。
 外に出ると、右手に鍛錬場がある。隊列を組んで鍛錬に励む騎士達を見ると、すっと姿勢が伸びる。
 上半身を支える腹筋の成長を感じるのは、気のせいではない。重さのある盾を持って振り回す練習を重ねた結果、私の体は全体的に引き締まり、筋肉の存在をはっきりと感じるようになった。

 騎士が足を踏み込むと、冷たい土がぱっと巻き上がる。金属の打ち合う音が、寒々しい空に響く。張り詰めた鍛錬の雰囲気には、いつも緊張する。
 私は邪魔にならないよう、鍛錬場の端を歩いて定位置に向かった。通り過ぎざまに軽く頭を下げると、傍の騎士が会釈を返してくれる。
 特に言葉を交わす訳ではないが、鍛錬場でだけは、排他的な雰囲気を感じない。それだけで、私にとっては有難かった。

「それは置いて、向こうに行くぞ」

 盾を両手で持ち上げると、背後から声をかけられた。振り向いた先に立つエルートは、金髪を寒風になびかせている。太陽の光が弱いから、その髪もどこかくすんで見える。それに対して、肌の白さは、いっそう際立っていた。

「今日は訓練はいいんですか?」
「ああ。ニーナに求めているのは、魔獣の初撃をどうにかすることだけだ。今の君なら、魔獣の方向に盾を向け続けることができるだろう」

 毎日の訓練に付き合ってくれたエルートの言葉に、私は頷いた。
 盾の振り方を教わった後、エルートは香りの強い果物を手の内に隠し、その方向に盾を向ける練習をさせてくれた。まずは左右、それから上下、前後も。鼻で感じ取った香りの方向に、素早く盾を向ける。それだけの動作なら、今の私には何とかできそうだ。

「商隊護衛出身の騎士も、少人数での魔獣討伐の立ち回りが身についてきた。ニーナが再度、魔獣討伐に駆り出されるまで、もう幾らも時間がない」

 エルートの言葉に、私は頷いた。このままのんびりと、薬草ばかり摘んで無為に過ごすことは許されない。匂いを追って魔獣を見つけ、騎士たちを手伝うことが私の役目だ。準備が整えば、行かなければならない。
 不安がないとは言わない。一度は落としかけた命だ。しかし、騎士たちも私も対策を練っている。今度は大丈夫なはずだ。

 私とエルートは鍛錬場から、建物の裏手に回ってきた。ここには、馬たちが放牧されている広場がある。どこでエルートの気配を感じたのか、柵のすぐ向こうでスオシーが鼻を鳴らした。
 彼女の毛並みは、相変わらず夜の水面のように美しい。この淡い陽射しの中で、その黒は影のように色濃く映えている。

「やあ、スオシー。今日も良い子だね」

 優しい目つきでエルートが話しかけると、言葉を分かっているかのようなタイミングで、スオシーは鼻を鳴らす。
 その黒く潤んだ瞳は、賢そうに光っている。私が額を撫でると、瞬いた瞳が湖面のように揺らいだ。

「お待ちしておりました」
「今日は彼女の馬を頼むよ」
「ええ、何頭か見繕ってあります」

 スオシー達の世話をしているのは、何人かの馬番だ。見かけたことはあるものの、言葉を交わしたことはほとんどない。爽やかな青年は、意外に掠れた声で言うと、笛を吹いた。
 軽やかな足音がして、何頭かの馬が駆けてくる。どんな風にして彼らは、笛の音を判別しているのだろう。集まった馬たちの背を、馬番の青年は愛おしげに撫でた。尻尾をゆらりと振ったり、耳を動かしたり、瞬きをしたり、それぞれに嬉しそうな反応を見せている。

「相性の良い馬を選ぼう。ニーナ、彼らに乗ってみてくれ」

 もしかして、と期待していた胸が、エルートの言葉で高鳴った。

「やっぱり、この子たちは……」
「言わなかったか? 討伐に出るなら、ニーナの馬が要るだろう」

 エルートはかつて、確かに私の馬を見繕うと言ってくれていた。随分前に聞いた話だから、現実的ではないと思っていたのだ。

「小柄ですが、脚はしっかりしていますよ。さあ、どうぞ」

 馬番に案内され、私は柵の中へ入っていく。草と土の香りが鼻をつく。澄んだ馬たちの瞳が、私を真っ直ぐ見つめる。
 淡い灰色の馬。濃い茶色の馬。たてがみの長い馬に、気品のある顔立ちの馬。それぞれ個性的で、誰もが素敵に見えた。
 なんて可愛いんだろう。そっと右端の馬に手を伸ばすと、頭を軽く下げた茶馬が額を撫でさせてくれた。

「人懐っこいでしょう。可愛い奴です」

 そう言う青年は、目尻を垂らしている。愛情込めて育てられているから、皆輝く瞳をしているのだ。
 ひとりで乗る練習をするということで、小さな足場を用意してもらった。馬の背は高いけれど、足場に乗れば、あぶみに足が届く。
 片足を乗せ、重心を移動する。

 ヒヒーン、といななきが聞こえたのはその瞬間だった。手のひらを置いていた馬の背が、びりりと緊張する。
 目の前にあった鞍がぐらりと回転し、代わりに灰色の空が広がった。足場が消え、浮遊感に襲われる。
 あ、落ちる、と思った。恐怖に、思わず目を閉じる。

「大丈夫か、ニーナ」
「エルートさん。ありがとうございます」

 後ろに控えていたエルートが、私の背を受け止めてくれた。ゆっくりと 地面に降りると、駆け去る馬たちの姿が見えた。土埃を軽く立て、その姿は遠くなっていく。

「ああ……申し訳ありません」

 馬番の青年は、眉尻を垂らしている。エルートは、片手を軽く挙げて謝罪を制した。

「構わない。あの暴れ馬を飼い続けているのは、俺たち騎士団だからな」
「相変わらず、奴は乱暴なので……小柄な馬たちは虐められるのを恐れて、皆逃げてしまうんです」
「せっかくの脚力が勿体ない。あの優秀な血縁を繋げる牝馬は、まだ見つからないんだな」

 エルートはスオシーの背を撫でた。スオシーは特に動じる様子もなく、穏やかに撫でられている。

「こういうことはよくあるのか?」
「いえ。奴は基本的に自由にしているので、わざわざ出てくることはないのですが」

 高らかな蹄の音が、近づいてきた。再度のいななきが、冷たい空気を切り裂く。スオシーが、声のした方をちらりと見た。

「あ」

 スオシーの視線を追って、思わず声が出た。悠然となびく尾と、ガラス玉の瞳。馬の顔を判別できる自信はないが、その力強い眼差しには、覚えがあった。

「あまり見るな。敵意があると思われる」

 エルートは黒馬から目を逸らし、スオシーを見つめている。馬番は、横目で馬の様子を観察していた。

「どうしてですか?」

 助言に従って視線を逸らしながら聞くと、エルートは「気性が荒いんだ」と言った。

「奴は脚力があって、仔馬の頃からよく脱走していたんだ。野生に近い生活をしていたのか、元来のものか、喧嘩っ早くて乱暴で、小柄な弱者ばかり虐める」
「まだ中身が子供なんですよ。普通なら、徐々に落ち着いてくるものなんですが」

 エルートの言葉に、馬番が掠れ声で説明を重ねた。浅く焼けた彼は、はあ、と溜息をつく。

「勿体ない。優れた体躯を持っているのに」

 こうして近くで見比べると、黒馬はスオシーよりも大柄だ。少し動くだけで、太腿の筋肉がしなやかに波打つ。いかにも速そうな脚である。

「おっと、危ない」

 私の視界を遮るように、エルートが回り込む。一歩近づいてきた黒馬と私の間に、割り込む形だ。暴れ馬から、守ろうとしてくれたのだ。
 鼻先に、彼の騎士団服が僅かに触れる。あまりの近さに、心臓の鼓動が一気に早くなった。
 鼓動の音に紛れて、重たいものをそっと落としたような、控えめな音が鳴る。

「……うん?」

 不思議そうに唸ったのは、馬番の青年であった。

「見てくださいよ、こんなとこで寝ちまいました」

 驚きのあまり、畏まった口調が崩れている。青年の驚きに誘われ、私たちは音のした方を見た。

 やっぱりあの時の、中庭で会った馬だ。私はその様子を見て、確信を持った。黒々とした毛並みを持つ美しい馬が、枯れかけた草原の上に、ゆったりと横たわっている。
 私はエルートから離れ、馬の方に近寄った。ぱた、と耳が動かされる。蹴られないように背中側に腰掛け、毛並みに手を添えた。
 毛の流れに沿って手のひらを動かすと、するするとした滑らかな触感が返ってくる。

「ニーナ……それも、君の魔法か?」
「違います。エルートさんは、魔法の種をご存知じゃないですか」

 呆然と呟くエルートに、否定を返す。
 彼は、私が探し物を見つけられるのは、鼻が良いからだと知っている。当然、馬を手懐ける魔法なんて、持ち合わせていない。

「私、この間この子に中庭で会って、薬草をあげたんです。美味しかったのかもしれません」
「餌付けですって? そんな単純な……」

 そんな単純なことで心を許した黒馬が、私の側で呑気に寝そべっている。

「もしかしたらこいつ、乗せてくれるかもしれませんね」
「止めてくれ。ニーナを危険な目に遭わせる気か」
「いえ! 申し訳ありません、つい」

 乗せてくれるかもしれない。馬番の台詞が気にかかり、私は黒馬の瞳を見た。
 乗れるなら、乗ってみたい。スオシーよりも高いこの馬の背に乗れば、世界はきっと、もっと広く見えるだろう。
 黒い瞳が、ちら、とこちらを見た。立ち上がった黒馬は、緩慢な動きで歩み、足台の横に立つ。

 前足の蹄が、軽く足踏みをする。
 乗れと言われているようで、私は足台に乗った。鞍も付いていない馬の、たてがみを掴んで支える。片手を馬の背に乗せ、強引に体を持ち上げた。

「よいしょ……うわっ」
「鞍がない馬に乗る時は、脚を締めるんだ」
「はいっ」

 エルートに言われた通りに脚に力を入れると、どうにか体勢を整えることができた。

「こいつが人を乗せるなんて」

 黒馬は私を乗せたまま、のんびりと歩き回る。鞍のない背中は不安定で、必死で掴まる私の耳に、青年の呟きが聞こえた。
 辺りを一回りすると、馬はまた足台の横へ帰ってきた。賢い馬だ。私はエルートの手を借り、馬の背から降りる。久々に踏んだ地面は、妙にふわふわして感じられた。特に太腿に力が入らない。一歩進もうとしてよろめく私の背に、柔らかいものが触れた。

「あ……ありがとう」

 黒馬は、私を支えるようにして、後ろから鼻を押し付けてくれる。離れていったあとに残った温もりを、冷たい風が流し去った。

「初めてなのに鞍なしで乗れるなんて、筋が良いですねえ」
「ニーナはバランス感覚が良いんだ」

 二人の会話を聞き流しながら、私の胸は浮き立っていた。高いところから見る景色は、やはり爽快だった。それに、鞍なしで馬の温もりや動きを直接感じるのは、興味深い体験だった。
 次に乗るなら、鞍は欲しいけれど。
 黒馬にまた乗ることを想像するくらいには、私はこの乗馬を楽しんでいた。

「黒か……」

 低い声が聞こえたので見ると、エルートは、何やら渋い顔をしていた。
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