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騎士団は魔女を放さない

ニーナの決意

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 匂いがわからなくなった。
 そう気付いてから、エルートとどんな言葉を交わしたのか、あまり覚えていない。怪しまれないよう、無理やり笑顔を作って対応していたら、「まだ疲れているようだな」などと言ってエルートは帰っていった。
 エルートが帰った後、薬師のカルニックとどんな会話をしたかも、定かではない。いくつか薬草について聞かれ、それに答えた気がする。
 全ては上の空だった。私の頭の半分以上は、ずっと、同じ思考に占拠されていた。
 匂いが、わからなくなった。これから、一体、どうしたら良いのだろう。

 ここにいてはいけない。
 それだけは、強く感じた。

 そもそも、騎士団へ来ることになったのは、私の鼻を求められたからだ。騎士たちが求めるものを追い、魔獣を探すことのできる鼻。人より少し良い嗅覚がなくなったら、私が騎士団ににいる意味はない。ただでさえ足手纏いだったのに、騎士達の役に立てる場面は、もうなくなってしまった。
 求められたら、応える。裏を返せば、求められないことはしない。母の教えに従わずとも、役に立てないのに騎士団に居座ることは、自分の心が許さなかった。
 魔獣を探せなくなったという事実を伝え、騎士団を去るべきだ。なかなか寝付けなかった私は、一晩中考え、そう結論付けた。私にとっては自然で、唯一の結論だった。他に答えはないのに、決めるのに一晩もかかったのは、他でもない。

「やあ、ニーナ。昨日より顔色がいいね」

 朝から訪れたエルートが柔らかく微笑むと、その周りだけ少し明るく見える。私は普段と変わらない彼の笑顔にほっとし、熱くなる目頭を意識から外して、無理矢理に笑顔を返す。

 結論を出すことを阻んだのは、他ならぬエルートの存在だった。騎士団から離れれば、当然、エルートと会うこともなくなる。
 そもそも彼は最初から、私の鼻で魔獣を探すことが目的だ。鼻が利かない私は、エルートの役に立つことはできない。彼は、鼻の利かない私に関心はない。これは、明白な事実だ。
 けれど私は、何とか役立つ方法はないか、あれこれ考えてしまった。討伐に同行できなくても、カルニックの言った通り、薬師に協力できないか、とか。アテリアの手伝いとしてここにいられないか、とか。
 無理だとわかっているのに考えてしまったのは、アテリアの指摘した通り、私がいつの間にか、エルートに思いを寄せていたからに他ならない。

 恋とは、難儀なものだ。私の感情は、判断には関係ないのに、思考を邪魔してくる。
 役に立たない私は、ここにいるべきではない。感情を無視すれば、正しい結論はそれだけだ。

「慣れない場所にいるより、自宅の方が回復が早いだろう? 今日は雨が弱い。カプンに帰るか?」

 だから、エルートがそう提案してくれた時、私は即座に快諾した。

「残念ですね。暫くここに置いておいて、色々と聞き出すつもりでしたのに」
「お前に任せたら、ニーナまでおかしくなる」
「私がおかしいと? 人聞きの悪い」

 エルートとカルニックは、歯に衣着せないやりとりを交わしている。レガットやアイネン相手でもそうだが、エルートは気を許した同僚を、意外とぞんざいに扱うのだ。
 それは、今までの私が知らなかった、エルートの新たな姿。新たな一面を発見すると、心が少し浮き立つ。
 こんな喜びも、今日が最後になるだろう。鼻の良さを失った私は、エルートにとって不要な存在だ。一度騎士団を離れれば、もう会うこともない。受け入れるべき事実なのに、改めて考えると、胸が締め付けられるように痛んだ。
 カルニックに見送られ、私たちは薬師の部屋を出た。部屋の外は、見たこともないほどに絢爛な廊下であった。

「王宮薬師団の本部は王宮に近いから、俺たち騎士団の本部より、さらに豪華だろう? ニーナが来ることはもうないだろうから、よく見ておくといい」

 来ることはもうない、というエルートの台詞が胸に刺さる。

 彼が言っているのは、私は騎士団に所属しているから、王宮薬師とは縁がないということ。けれど今の私には、もう王都との縁を切らなければならないという、確認のように感じられた。
 埃ひとつ落ちていない絨毯。緻密に飾られた窓枠。磨き上げられた窓。趣向の凝らされた調度品。どれをとっても一級品なのだろうと、知識のない私にもわかる代物ばかり。庶民には縁のない、豪華絢爛な空間。
 王都での最後の思い出として、私は薬師団の内装をじっくりと観察する。絢爛な品々は、うっとりするほどよくできていた。
 一歩でも、こんな素敵な場所に足を踏み入れられたことを、誇りに思えばいい。そして身の程を弁えて、二度と来るべきではない。
 無論、私が望んだとしても、ここへ来ることは二度と許されないだろう。鼻の良さを失った私など、何の取り柄もない。

「他の騎士と顔を合わせるのも、疲れるだろう? ニーナが暫く静養することは、団長に伝え、許可を取っておいた。今日はこのまま行こう」

 騎士団へ戻った後、荷物を簡単にまとめたら、そう提案を受けた。

 エルートの配慮はありがたかった。彼の言う通り、今レガットやアイネンに会ったら、ますます辛くなる。皆、もう二度と会わない人。誰かと顔を合わせる度に、寂しさが強まってしまいそうだった。既に私は、エルートと二人で歩いているだけで、胸がどんどん狭くなっていっている。
 誰とも顔を合わせないまま、騎士団の外に出る。雨の香りが立ち込める。涼やかな風に吹かれ、霧のような雨が髪に降りかかる。確かにこの雨なら、雨具で十分に対応できそうだった。魔獣討伐に出た、あの日の土砂降りとは訳が違う。

「行こう、ニーナ」

 エルートは、歩き始める。私はその背を追いながら、背後を振り返った。大きなコの字型の騎士団本部も、もう見納めだ。初めてあの入り口を潜った時には、あまりにも身の丈に合わないので、強烈に緊張していたのを覚えている。
 今だって、身の丈に合うようになった訳ではないが。匂いの方向を感じ取れなくなった私は、この騎士団には、もう不要だ。霧雨に煙る騎士団の光景に別れを告げ、馬を放している広場へ向かう。

 エルートの呼びかけに応じて、遠くからスオシーが駆けてくる。黒く美しい毛並み。潤んだ、慈愛深い瞳。霧雨にしっとりとした体に触れ、水を含んで流れるようになった毛並みを撫でた時、胸にぐっと何かが込み上げてきた。スオシーの感触には、心を緩ませる何かがある。慌てて手を離すと、スオシーは不満げに鼻を鳴らした。
 いつもの袋に手を掛けると、エルートの手が、私の手の甲に重なった。不意に温もりを感じ、どきんとする。

「病み上がりだ。今日は気にせず、俺と共に乗れ」
「ですが、それでは人目が」
「構わない」

 耳を疑った。人目を集めることを、構わないと言うなんて。エルートにあるまじき発言だ。
 どうしてこんな時に限って、騎士の評価より、私の体を案じてくれるのだろうか。優しさが切なくて、私は痛む胸に手を押し当てた。

 いつも、袋にぶち込まれて揺さぶられながら、エルートにとって、私は荷物程度の扱いなのだと、自分に言い聞かせていた。彼の優しさに、自惚れてはいけないと。甘く聞こえる台詞は全て、魔獣を探すという目的のためだと。大切なのは鼻だけで、私自身はどうでも良いのだと。
 今回も病み上がりだなんて気にせず、遠慮なく袋に入れてくれた方が、いっそ楽だった。それなのに私はエルートに背後から抱かれ、本部を後にしようとしている。今まで彼は決して、王都内ではスオシーに同乗しなかったのに。
 背中から伝わるエルートの温もりが、どうしようもなく、切なかった。

「やはりな。雨だから、人出はほとんどない」

 切なさが緩和されたのは、王都の街中には、通行人がほとんどいなかったからだ。エルートの言葉通り、雨のせいか、道行く人はほとんどいない。たまに雨具を着て歩いている人もいるが、皆俯いて、早足で歩いていた。
 これなら、人目に付くことはほとんどない。だからエルートは私をスオシーに乗せたのだとわかり、ほっとする。別に、エルートは自身の評判より私を優先したのではない。評判に影響がないから、街中でスオシーに乗せてくれたのだ。荷物同様の扱いなのは、変わらない。
 彼の気持ちがわかれば、変な期待をして、切なさに胸を痛めることもなくなる。

 気が少し楽になると、辺りを見回す余裕が出てきた。王都に来るのも、最後になるかもしれない。見納めのつもりで、観光する。
 王都の道は、とても広かった。騎士団の門から外に出ると、舗装された広い道が左右に伸びていた。道の脇には樹々が生え、静謐な空間だ。暫くそのまま歩き、道を曲がる。目の前に開けた光景に、息を呑んだ。
 通りの雰囲気ががらりと変わる。ここは繁華街だ。今でこそ人は少ないが、通常時は大勢の人で賑わっているのだろう。所狭しと立ち並ぶ店が、その活気を表していた。物珍しさから、左右に視線を揺らしていると、つい上体が揺れる。エルートが支えるように、そっと腕に力を込めてくれた。

「大丈夫か?」
「……はい」

 雨音にかき消されそうなほど、小さな声しか出なかった。ささやかな気遣いが、どうしようもなく、胸に染み入る。
 この時間を、忘れてはいけない。エルートと過ごしたひと時は、きっと一生記憶に残る、大切な思い出となる。そんな予感を抱え、背中に彼の温もりを感じながら、街中を進む。

 王都の門を出て、外の光景は見慣れたものだった。広がる畑と草原の、緑の風景が細かな雨にぼやかされている。雨の香り。
 そこで改めて、私は自分の鼻が利かないことを実感した。
 王都の中では多少の香りが入り混じっているから、エルートの匂いも香りの渦に混ざり、薄く感じられることはある。しかし今、こうして外に出て、雨と土と草の香りしかしなくなっても、エルートの花の匂いはわからなかった。体臭程度のほんのりした匂いはするが、それだけ。あの強烈な、魔獣に向かう強い匂いが、全く感じられない。
 本当に、これで最後だ。僅かな望みも絶たれた私の心に、その事実がずしんと重くのしかかる。

 スオシーの軽やかな足音も。腹部を支える温かなエルートの腕も。背中から伝わる息遣いも。呼吸を合わせ、上体でバランスを取るのも。何もかも、最後。役立たずになった私は、騎士団本部を去らなくてはならない。
 仕方ないのだけれど──最後という言葉を積み重ねるうちに、どんどん胸が切なくなる。狭くなった胸から溢れるようにして、目尻に涙が滲んだ。
 スオシーに乗っている間は、エルートから私の顔は見えない。涙を拭うために変に動いたら、その方が勘付かれる。私は肩を震わせないよう気をつけながら、そっと、涙の粒を頬に垂らした。

 最後だから、エルートの温もりを心に焼き付けておきたかったのに。悲しみに震える心は、それすらも許してはくれなかった。
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