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騎士団は魔女を放さない

ニーナが失ったもの

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 鼻の奥に染み込む、じんわりと苦い香り。熱冷ましの薬草の香りだ。幼い頃、高熱を出した夜に、母が薬草の汁を染み込ませた布を首に巻いてくれたものだ。そうすると、熱がすっと下がり、翌朝には体調が楽になっている。今にも、母の「良くなった?」という囁き声が聞こえてきそうな気がする。

 幼い頃、私はしばしば体調を崩す子供だった。母は「私もそうだったのよ」と微笑んでは、寝込む私に好きなものを食べさせ、世話を焼いてくれた。父はそういう時は早く仕事を切り上げ、案じる言葉をかけ、面白い話をしてくれた。熱は辛かったが、両親がいつもより甘やかしてくれるのが嬉しくて、私は熱を出すのも嫌いではなかった。
 歳と共に体力がついていったのか、十を過ぎる頃には、寝込むことは少なくなった。そういえば暫くは、「久しぶりに熱を出したいなあ」と思う程度には寂しく感じていたものだ。家を出る頃──18歳で成人した私は、病気も全くしない、素晴らしい健康体だった。熱の辛さも、両親に構ってもらえない寂しさも忘れ、ただ健やかな若者となった。
 だからこの感触は、懐かしかった。熱が冷めた後の、汗を吸って妙にじっとりとした衣服の感触。気怠く、それでいてすっきりとした手脚の感覚。目の奥、頭の奥の変にぼんやりとした重たさ。何よりも息を吸う度に染み込んでくる、薬草の独特な香り。
 閉じた目蓋の向こうに、ぼんやりとした明かりを感じる。ぱち、と目蓋が開いた。心ゆくまで寝た日の朝は、こんな風にすぐに目が開くのだ。

 ──あれ?

 視界に開けたのは、見覚えのない天井であった。
 こういう経験は、よくあることだ。初めての場所に泊まった朝には、目が覚めると暫く混乱する。だんだんと昨日の行動を思い出し、自分の居場所を確認するものなのだが、今の私は、待っていてもなかなか記憶が浮かんで来なかった。
 ついでに言うと、声もよく出ない。「あれ」と呟いたつもりだったのだが、唇が微かに動いて、音のない息が漏れただけだった。

「……おはようございます」

 いきなり声がして、びっくりする。肩が大きく跳ねた。近くに人がいることに気づかないなんて、珍しい。特に、こんなに静かな、人気の少ない部屋の中では。
 私は改めて、室内の匂いに意識を向ける。やはり声の主は、匂いがほとんどしなかった。たまにいるのだ。こういう、匂いのない人が。匂いがないということは、求めるものがなく、無欲であるということ。
 無欲な男性の姿が、私の視界に映り込んだ。青みがかった黒髪が顔の前に長く垂れ、片目を隠している。長い白衣を纏っているから、騎士ではないようだ。

「気分はどうです?」

 前髪から覗く片目は優しげで、声音は穏やかだ。その刺のなさに、肩の力が抜ける。返事をしようとしたけれど、乾いた唇がうまく動かない。僅かに目を見開いた彼は、片手に椀を持って来た。私はそれを受け取ろうと、右手を伸ばした。

「……っ!」

 びりりと走った痛みに、顔を顰める。見れば、私の右腕には、手首から肘にかけて包帯がきつく巻かれていた。布に隠されて皮膚は見えないが、その下から響いてくる痛みからは、何か悲惨なことになっていることが予想できる。腕が痺れるようで上手く動かないから、反対の手を差し出した。利き手とは逆の手で、椀を持つ。
 香りを確かめてから、そっと口に運ぶ。動きがぎこちないせいで、口端から僅かに水が垂れた。澄んだ香りの冷たい水が、唇を潤し、渇き切った喉を癒していく。飲んだ先から体内に染み込んでいくような、甘露。

「……美味しい」

 吐息と共に、今度こそ声が出た。

「その様子だと、調子は良さそうですね」

 目を細めた白衣の男性は、そのまま私の隣に腰掛けた。
 彼自身からは、やはり何の匂いもしない。本当に無欲な人なのだ。代わりにこの部屋は、私にとって馴染み深い、薬草の香りで満たされている。青臭い香りをゆったりと胸に含むと、右腕に滲む痛みすら和らいだ気がした。
 水と香りのおかげで、思考が一段クリアになった。私は、記憶をじわじわと呼び起こす。そうだ、あの時私は、魔獣に噛まれたんだ。毒蛇の魔獣に。毒が全身に回るのを防ぐために、毒草を食んだことも思い出した。

「……毒で、寝込んでいたんですね」
「おや、覚えていらしたんですか」

 驚いた、とでも言いたげに、彼の片眉がくいっと上がる。私は緩く頷く。覚えていた、というよりは、今思い出した。雨の降りしきる中、私の声かけのせいで体勢を崩したレガットの前に、思わず飛び出たのだ。腕に走る激痛を思い出す。巻かれた包帯の下には、恐らく、魔獣の牙の痕がある。

「驚きましたよ。一般騎士の代理で討伐に行った王宮騎士団が、2人も負傷して帰ってくるんですから。やはりこの雨の時期の討伐は、危険なのですね」
「2人、ですか?」
「ええ。『命知らず』の騎士が、魔獣討伐で負傷するのは初めてだと思いますよ。それにも驚きました」

 命知らずの騎士とは、エルートのことに他ならない。あの討伐で、エルートが負傷したのか。
 背筋にひやりとしたものが流れ、私は辺りを見回す。左右にはベッドが数台ずつ並んでいるが、そのどこにもエルートの姿はない。
 まさか。最悪の事態が頭に浮かび、私は唾液を飲み込む。

「ああ、ご心配なく。彼は軽症でしたから、もう復帰していますよ」

 私の不安を察したらしく、男性はそう言って微笑む。噛み締めた唇が、ふっと緩んだ。良かった。
 良かったけれど、エルートの負傷と、私が噛まれたことは関係があるはずだ。意識を失った私を庇って魔獣を討つのは、通常より負担が大きかったに違いない。
 迷惑をかけたくなかったのに、エルートの足手纏いになってしまった。申し訳なくて俯く私の肩を、男性が優しい手付きで叩く。不思議に思ってそちらを見ると、彼の黒い瞳の奥が、きらりと輝いた。

「あなたも、魔獣の毒に侵された一般人にしては、症状が軽いのです」
「そうなんですか?」
「ええ。普通なら、あと丸一日は寝込んだままです。直ぐに毒を吸い出したのも理由の一つでしょうが、それだけではない。何か心当たりは?」

 心当たりと言えば、一つしかない。意識を手放す前に口に運んだ、あの毒草である。母に教わった、血の巡りを悪くするもの。症状が軽いのだとしたら、毒草の効果で、毒の巡りが遅くなったのだろう。
 説明しようと口を開く前に、彼が矢継ぎ早に言葉を重ねる。

「ミルキッダを食べたようですね」
「ミルキッダ?」
「……ご存知ありませんか? あなたが口にしたという、雑草の名称ですよ」

 ああ、と私は頷く。彼が指しているものと、私が思い浮かべているものは同じだ。あの肉厚で、紫色の葉をした植物。

「ミルキッダという名前なのですね。私は草の効果は知っているのですが、名前には疎くて」
「ミルキッダの効能も知っておられる?」
「血の巡りを悪くするんです。だからきっと、毒の巡りが」
「なぜそんなことを知っているんですか?」

 私の言葉を遮る勢いで、質問が次々と飛んでくる。彼の黒い瞳から放たれる眼差しは、柔らかくて、それでいて目を逸らすことを許さない強さがある。
 こんなに圧のある目をしているのに、やはり彼からは何の匂いもしない。思いがあるのに、求めてはいないなんて。言動と無欲さが噛み合っていないことに、違和感がある。初めて出会うタイプの人だ。

「母が詳しくて。いろいろと教わったんです」
「……へえ。面白いですね。魔女の薬学は、書物ではなく、口伝で行われるのですか」

 肩を竦め、曖昧に笑って返した。私は魔女なんかではないけれど、今ここで頑なに否定することに意味はない。
 彼は細い顎に手を添え、暫く考え込む。そのまま視線だけこちらに向けた。

「毒から完全に回復するまでは、討伐への同行も許されないでしょう。それまで暫く、この王宮薬師団に協力しませんか?」

 何か提案されたのはわかったが、すぐに声は出なかった。一拍遅れて、内容を理解する。それでも返答は出なかった。
 王宮薬師団。その名は初めて聞いたが、王宮騎士団があることを思えば、どんな組織なのかはなんとなく推測できる。王家に近しい場所で働く、貴い方々。そうとわかれば、彼のもつ不思議な雰囲気にも納得がいく。
 そんな王宮薬師団に協力する? 私が? 返事ができず、ただ、瞬きを幾度かする。いくら「魔女」と呼ばれていても、私は単なる一般人だ。何をどう間違えたら、「王宮薬師を手伝う」なんて話になるのだろうか。

「カルニック。勝手にニーナを勧誘するな。ニーナの所属は騎士団だ」
「おっと、見つかってしまいましたか。無論、ずっととは申しません。復帰するまでの、少しの間ですよ」
「万全の体調になるまでは、ニーナには休んでもらう。お前のところには寄越さん」

 カルニックと呼ばれた薬師は立ち上がる。空いた椅子に座ったのは、見慣れた騎士であった。

「目が覚めたんだな」

 エルートの表情は、いつもと変わらない。本当に、軽症だったのだ。そうわかって、心の呵責が少し取れる。

「エルートさん、いらしたんですね。気付きませんでした……」

 言いながら私は、ある事実に気付き、愕然とした。エルートがこの部屋に入ってくるのに、私が気付かないはずがない。いつもなら多少離れていても、彼の強烈な花の匂いを感じるから、近くにいれば必ずわかる。なのに全然、匂いがしなかった。近づけば多少の匂いは感じるが、これは単なる体臭であり、エルートから魔獣に向かう強い匂いではない。

「どうした? まだ具合が悪いのか」
「いえ……大丈夫です」

 案じる表情のエルートに返し、私は椀に残った水に口をつける。たしかに、水の香りがする。改めて、部屋の匂いに意識を向ける。薬草の青い香りに混ざって、カルニックとエルートのほのかな匂いがする。けれど、二人のどちらからも、何かを求める時に流れる、方向のある匂いは感じられない。
 カルニックはともかく、エルートは常に匂いを発しているはずだ。魔獣を求める強い思いから来る、強い匂い。それがない。ないというより、感じ取れない。
 衝撃で、胸がわなわなと打ち震える。信じられない。信じたくない。しかし、生まれてからずっと私の周囲にあった「匂いの流れ」は、今やはっきりと消え失せていた。
 このことが表しているのは、ただひとつ。
 毒で倒れた私は、命こそ落とさなかったものの、大切な能力を失った。匂いを辿って人の探し物を見つける、人より少し良い鼻。ささやかだけど特別な能力が、私の中から、綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。
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