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1 依頼は婚約破棄

1-9 アレクセイは自覚する

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「『ぎりぎり合格で良い』じゃねえよ、俺。まったく駄目だっただろうが……」

 寮の自室で、アレクセイは額に手を当て、ため息をつく。室内は既に暗く、世話をする使用人も部屋へ帰らせた。彼のひとりごとは、横たわるベッドを包む暗闇に吸い込まれる。

 頭に浮かぶのは、メイディのことだ。「星満亭」で見た彼女の笑顔が、閉じたまぶたの裏にちらつく。

 思い返せばあれは数ヶ月前、学院内で何でも屋的な仕事をしている女生徒がいる、という噂を聞いたことから始まった。探し物から告白代行、実習の手ほどきからレポートの代筆まで。少しの代金で何でも引き受け、叶えてくれる。
 レポートの代筆なんて、見つかったら一発退学だ。そんな危険な橋を、せいぜい金貨数枚で渡るという変な生徒の存在は、アレクセイには渡りに船だった。
 アレクセイの望みを叶えるために必要な、婚約者との婚約破棄。いろいろと考えた結果、恋にとち狂ったふりをして、身勝手に婚約破棄を宣言するしかないという結論に至った。
 ただ、本当に恋人を作るのは気が引けた。何も知らない相手の恋心を弄び、傷つけるのは、楽しいやり方ではない。
 だからこそ、金を渡せば「恋人役」を引き受けるかもしれない存在に、アレクセイは興味をもった。

 流れる噂に、「特待生に依頼をしたら、暴露された」というものはなかった。その気になれば、アレクセイの耳に入らない噂はない。だから彼女の口が堅く、誰にも話さないだろうことは確信がもてた。
 そうして、アレクセイが彼女に声をかけたのが、つい数日前。

 偽の「恋人」として振る舞う了承を得たアレクセイは、さっそく翌日、メイディが講義を受けている教室まで迎えに行った。
 メイディが親しくしているエミリー・サルロ・カテール伯爵令嬢は、噂好きで、様々な茶会に顔を出しては他人の噂に興じている。そんなエミリーなら、アレクセイとメイディとの恋人関係を吹聴するはずだ。
 そのつもりで共にした昼食でのメイディの振る舞いを見て、アレクセイは、彼女に頼んだことを少々後悔した。

 どうもこの特待生は、人間関係はからきしのようだった。アレクセイとエミリーが話しているのをぼんやり聞くだけで、全然口を挟んでこない。うまく「恋人」役をやれるのか、いささか……かなり心配になった。

 頼りないから、任せるのはやめる。その判断は簡単だ。婚約破棄の計画を聞いてしまったメイディを、排除するのも簡単だ。誰かのレポート代筆の件を教員に報告すれば、それで退学なのだから。望みを達成するのなら、頼りないメイディは切り捨てて、別の策を取る選択肢もあった。

 けれどアレクセイは、その判断をしなかった。

 相手の好きなところを聞かれて口から出まかせを言ったアレクセイに対して、「見た目は素敵だし、一目惚れしたと思う。でも、それだけじゃなくて。目的のために頑張ろうとするところとか、好きかも……」などととしどろもどろに答えたメイディの言葉は、おそらく真実だった。
 驚くべきことにメイディは、アレクセイの身分に全く察しが付いていないようなので、彼女はただ「アレク」としての自分を見て、好ましい部分を見つけてくれたのだとわかる。
 身分というフィルターを介さない評価が、アレクセイには心地良かった。

 身分など関係なくアレクセイを見てくれるメイディは、しかし、身分にとらわれている。一代男爵の娘には確かに継ぐべき家などなく、平民同様というのも事実だ。特待生になったとしても、騎士にも魔導士にもなれないのも事実だ。この国では、貴族でないと、せめて男でないと、成功者になる道はほとんどない。
 何も成せなければ自分の人生に価値はないと、そう語るメイディの目はあまりにも深刻だった。
 だからつい、「俺が、何かでかいことを成してやる」などと口走ってしまった。家を出られたら何をしようかなんて、考えたこともなかったのに。

 感情をあまり見せないメイディの瞳は、星満亭で、見たことがないほどに輝いた。建物を見たとき、紅茶を飲んだとき、美味しい食べ物を食べたとき。
 そして、「こんな素敵なところに、連れてきてくれてありがとう」と言ったときの、幸せそうな笑顔。

 またその顔をさせたい、と思ってしまった。喜ばせてやりたい、と思ってしまった。それでつい合格を告げると、戸惑いながらも、メイディは嬉しそうに笑った。
 こうなるともう駄目だった。「次は上手くやれる」と根拠のない自信で胸を張るときにも、帰りがけにまた魔導具を検分して上の空になっているときにも、その瞳が輝いているのに、アレクセイの眼差しは吸い込まれてしまった。

「あーもう……面倒だな、本当に」

 こんなはずではなかった。卒業パーティーで婚約破棄をして、アレクセイの望みは叶い、メイディは十分な金を手に入れる。互いに利があり、そのための関係のつもりだった。
 なのにどうだろう。アレクセイの頭は勝手に、次のデート先を選び出し、メイディの喜ぶ瞳を想像している。

「一目惚れとか言って……本当になっちまったじゃねえか。くそ、面倒臭え」

 ぐしゃ、と片手で髪を乱す。
 メイディを利用して終わるつもりだったのに、これでは話が違ってしまう。それでも、この気持ちを恋と呼ぶ勇気くらいは、アレクセイにもあった。
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