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7章 聖女は、魔王への愛を叫ぶ

7-1 聖樹の涙

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「……フィリス。俺はお前には敵わん。回りくどいことは良いから、お前の願いを言え」

 プリンの器を空にしたシルヴァンが、深いため息をついた後でそう切り出す。

「わざわざこの男とあんな作業までさせて、何か考えがあるのだろう。もう錆落としは懲り懲りだ。話してくれ」
「……聞いてくださるんですか?」
「誰が耳を傾けないと言った。お前の言葉を無視できるようには作られていないんだ」

 ついさっき、問答無用でリナルドを殺そうとしたではないか。そう思うフィリスだったが、余計なことを言って水を差すのも嫌だ。乗り掛かった船に、素直に乗ることにする。

「私の願いはずっと同じです。人魔戦争を終わらせたい。ねえ、リナルド。私達はずっと、そのために戦っていたのよね」
「ああ……そうだね。戦争を終わらせたら、君は僕のものになってくれると約束していた」
「専属の聖女なんてつけても、魔獣が攻めて来なくなったら意味がないのにね。リナルドは心配性だから」
「君はそんな風に受け止めていたのか……?」

 なぜか愕然とするリナルドに、首を傾げるフィリス。フィリスはそのまま、顔をシルヴァンの方へ戻した。

「私とシルヴァン様が話して分かり合えたように、リナルドの人となりも一緒に過ごせばわかるように……魔人と人間だって、分かり合えると思うんです。争うのはやめて、平穏な暮らしを皆に届けたい。私の願いは、ずっと同じなんです」
「魔獣を退けば平穏になると、本当に思っているのか? 魔石が手に入らなくなるんだぞ。魔石のためにお前すら殺そうとした人間に、何を期待しているのだ」
「それも……きっと、話せば分かり合えると思うんです」

 痛いところをつかれた。フィリスは、まさか魔石のために王が自分を殺そうとするなど、考えてもみなかったのだ。

「分からんだろう。使者として送った魔人を殺され、魔石を抜かれるのは目に見えている。人間のすることが変わったとは思えん」
「……それでも。触れ合って、魔人の皆さんも変わらぬ内面を持っていると分かれば、殺そうなんて思うはずが」
「お前は人間だと思われていないのか? 奴らは、お前をも殺そうとしたんだぞ」
「……」

 シルヴァンのあまりにも真っ当な指摘に、フィリスの口調はどんどん落ち込んでゆく。
 彼の言うことはきっと正しい。賢王が魔獣を送り込むと決めたときと、人間の考え方はそう大きく変わってはいないのだろう。

「……それでも」

 フィリスの紡ぐ願いは、理屈などないものだった。上手くいかないかもしれない。それでもフィリスは、平和な未来を願いたかった。

「それでも私は、そんな未来を見たいんです」
「何がお前をそこまで駆り立てるのだ。聖樹の涙だったか? そんなものに囚われているのなら、気にする必要はない」

 シルヴァンが言っているのは、魔樹の傍で聞いた「人と魔人の争いを母なる聖樹は悲しんでいる」という趣旨の言葉だ。
 フィリスは、聖樹から生まれた聖女である。しかも生まれた時には他のどの聖女も持っていなかった、聖樹の涙を手にしていた。そこには聖樹の願いが込められているのかもしれない。今フィリスが感じていることも、聖樹がそう願ったことなのかもしれない。

「……囚われている、わけではないと思います」
「そうか。お前がそう言うのならそれでいい。魔瘴石さえ壊せば魔獣はすぐに減るだろう。だがお前の望む平穏が、それで手に入るとは到底思えんな」
「そうですね。私もそう思います。……国王陛下のお考えが変わらないことには」

 人間が魔石を熱望し続ける限り、魔獣を生み出すことは止められない。魔獣が出てくる限り、人と魔人との対立は避けられない。その辺りの事情は、フィリスにも掴めてきた。

「父様が考えを変えることはないと思うよ。要するに、魔石を諦めろってことだろう? いきなりそんなことを言い出しても誰も納得しないよ。魔導具に使う魔石はどうするんだ?」
「魔導具は……このお城では、魔導具なしでも生活できているのよ」
「僕達には無理だよ。フィリスだって、戦場で風呂なしの生活ができる?」
「きっと、工夫次第で……」
「そんな工夫をしなきゃならない生活に、本当に戻れるのかな」
「それは……」

 フィリスの語気はますます弱くなる。魔導具なしの生活に、ネフィリア王国民が今更戻れるはずがない。その観点はなかった。魔石が手に入らなくなるなんて、受け入れてもらえるはずがない。

「……もしかして、本当は皆、戦いを続けたかったの……?」

 そしてフィリスは、そこに思い至ってしまった。人間の側に、戦いを止める理由がないではないか。魔石が必要ならば、魔獣と戦い続けるしかないのだ。
 あの戦場での日々は何だったのか。皆と共に平和な未来への願いを語らい、民を守るためと魔獣に立ち向かい続けたあの日々は何だったのか。仲間と交わした「戦争を終わらせよう」という約束は? 魔王さえ倒せば戦いは終わると、その一心で魔王城を目指していたあの協力は?
 フィリスだけが本気で戦いの終結を願っていたのだろうか。本当は、皆が自分に合わせてくれていただけだったのだろうか?
 そう思うと恐ろしくなる。自分が真実だと信じていたことは、一体何だったのだろうか。表情が強張るフィリスに、リナルドが「それは違うよ」と声をかける。

「もちろん、僕達は本気で戦いを終わらせる気だったさ。仲間達もね。その気がなかったら、わざわざ危険を承知で瘴気の壁のそばまで近寄るわけがないじゃないか」
「だって……おかしいわ、リナルドの言っていることはめちゃくちゃよ」
「そうだね、わかってる。……僕も、その先のことなんて考えていなかったんだ。戦いが終わったら魔獣がいなくなって、魔石が手に入らなくなるとか……そこまで考えなかった。魔獣が居なくなったら皆安心して暮らせる、せいぜいその程度の考えだったよ」
「ああ……私も、そうだったわ」
「二人の話を聞きながら考えて、それで気づいたんだ。きっと、こうして少し離れた位置から考えれば気づけたことなんだろうけど……僕は戦線にずっと出ていて、君や騎士達に近すぎたから」

 そう語るリナルドの横顔は、いつになく大人びて見える。フィリスはほんの少しだけ、置いて行かれてしまった気がした。リナルドは現実を見ている。平和を夢見ている自分だけが、いつまでも青いみたいだ。
 切ない気持ちで、言葉が出ない。リナルドもぼんやり遠くを見ていて何も言わない。沈黙を破るのはシルヴァンだった。

「その上でお前は何を願う、フィリス」
「私は……」

 今までと何も変わらず、人と魔人が戦いを続ける。結局、それがいいのかもしれない。少なくとも人間にとってはそうだ。多少の危険はあれど、魔石が安定的に手に入り、魔導具のある暮らしを送れるのだから。
 フィリスは、シルヴァンの青い瞳を見上げる。その先にある、立派な角を見る。
 魔人達にとってはどうなのだろうか。彼らは、この角があるゆえに外に出られない。城の中がいくら快適だとしても、この中で一生を過ごし、広い空を拝むことだってままならないのは苦しいはずだ。シルヴァンですら、あの空を見た時にしみじみとしていたのだから。
 そう。人魔戦争とは、人間の欲望に魔人達を付き合わせているだけの構図なのである。魔人達と言葉を交わし、彼らに対して愛情を抱いてしまった今、フィリスには現状をそのままにしておく判断はできなかった。

「……それでも、戦いは終わって欲しいと思っています」

 ディルが気兼ねなく美味しいご飯を食べに行けて、グレアムやシルヴァンと共に街を歩けて、マレーナ達子供も広い空を見られるような未来があるのなら、その方がずっと良い。

「ならば国王を説得せねばならんな。どうする? 俺が行って脅してやってもいいが。国が滅びるのとどちらが良いか迫れば、答えは自ずと絞れるだろう」
「そんなことをしたら、シルヴァン様が悪者になっちゃいますよ」
「何を今更。俺はずっと悪者ではないか」
「そうだったかもしれませんが、私は、シルヴァン様に悪者になって欲しいわけじゃないんです」
「しかし、どんな方法があると言うのだ。お前が直接行くのは許さんぞ。命を狙う者がいるのだから」
「う……」

 自分が言って頼み込むしかない。思いついた瞬間に封じられ、フィリスの言葉は詰まる。

「僕が父様と話すよ」
「お前が話して何か変わるのか。今の今まで魔石と戦いの関係に思い至りもしなかった愚鈍の言葉に、王が耳を傾けるとでも?」
「随分と辛辣じゃないか……これでも僕は息子だよ。君が脅したりフィリスが頼み込んだりするよりは、建設的な話ができるかもしれないだろ」

 言いながらリナルドは、ほんの少し胸を張る。

「大丈夫、いきなり父様に本題をふっかけたりしないさ。僕は政治には疎いけれど、根回しが大切だってことくらいわかってるんだよ。まずは父様の周囲を探ってみる。良い情報が聞けるかもしれない」
「お前を信じて任せろと?」
「そうだよ。僕にだって、フィリスの願いを叶えたいって思いはある。君ならわかるだろ? フィリスの願いは僕の願いでもあったから、やれることはやるさ。たとえ、一番欲しかったものが手に入らないとしてもね」
「ふん。……まあ良い。上手くいかなければ俺が出るまでだ」
「配達鳥は届くんだろう? 怪しまれないよう、定期的に……そうだな、3日に1度は送ることにするよ。届かなくなったら失敗したと判断してくれ。まさか父様がフィリスを殺そうとするなんて思っていなかったんだ。僕だってどうなるかわからない」

 フィリスも見慣れた、リナルドの素直な顔つき。何でもないような調子で、彼は「自分が父に殺されるかもしれない」と語る。

(どうしてそんな顔で、そんな話ができるの……?)

 聖樹から生まれたフィリスに本当の家族はいない。だからこそ家族というものに興味があって、妻子持ちの騎士達を観察しがちだった。
 家族とは、何よりも大切なもの。幸せを願い、願われる関係。家族は騎士に身を案じる手紙を送ってきていたし、騎士達は家族のために危険を承知で魔獣と戦っていた。
 それなのに、リナルドは自分の家族から、命を狙われる可能性があると言う。自然な表情でそう話すリナルドが、フィリスには信じられなかった。

「はは、随分深刻な顔をしてるじゃないか。君のそんな顔、見たことないよ」
「だって……リナルドのお父さんが、リナルドを殺そうとするなんてこと」
「そんなことにショックを受けてたのか。仕方ないよ、国王陛下にとっては家族より国が大事なのさ。僕にもそのくらいのことはわかってる。殺されるかもっていうのは万が一の話……僕が怪しまれるようなことをしなければ、まずありえないだろう。息子はそう簡単には殺せないさ」
「どこかで聞いたような言い分だが」
「……私のことですよね」

 シルヴァンが口を挟む。まず殺されないだろう、とたかを括る物言いに、フィリスも覚えがあった。

「ああ。『聖女だから殺されないはずだ』と言っていたフィリスに向かって矢は放たれたからな。……くれぐれも気をつけろよ。お前が死んだらフィリスは悲しむ」
「フィリスが僕のために悲しんでくれるのなら、失敗したらしたで、悪くはないね」
「馬鹿を言うな。俺だって積極的に人間を脅したり、殺したりしたいと考えているわけではないのだ。恨みは恨みでいつか返ってくるからな。……お前の働きに期待している。気をつけろよ」
「あはは、父様には大して期待されてないのに、魔王に期待されるなんて妙な話だな。わかってる、もちろん気をつけるよ。ただ、限度があるんだってば。僕は君やフィリスのように頑丈にできてないからね」

 確かにそうだ。リナルドは普通の人間である。フィリスがすぐに治せる体調不良や怪我だって、リナルドは治すまでに何日もかかるのだ。あの毒矢だって、リナルドを掠めていたらどうなっていたかわからない。
 リナルドの死。それは、フィリスやシルヴァンの死よりも近くに感じられた。

(リナルドが、死んでしまうかもしれないの……?)

 戦場は死と隣り合わせだとよく言うが、フィリスがいる限り、近くにいる人に身の危険が及ぶことはほとんどなかった。だからこそ、リナルドという身近な人の死を思ったとき、背筋にざわざわと形容し難い震えが走ったのである。
 リナルドが平然としているのを見るのが何だか辛くて、視線を落とす。その時、フィリスの視界に白い輝きが映った。
 薬指できらきらと主張する「聖樹の涙」。フィリスが初めてシルヴァンと対面した時、彼がフィリスを殺す度に聖樹の涙は弾け、フィリスの時間は巻き戻った。
 聖樹の涙を身につけていれば、死の運命が間近に迫っても抗える。そのことを思い出したフィリスは、迷いなく指輪を外した。シルヴァンの角から出来た黒い輪と聖樹の涙の白のコントラストを、目を細めて見つめてから、リナルドに差し出す。

「これを、あなたに貸すわ」
「これを僕に貸す? ……突然どうしたんだフィリス、意味がわからないよ」
「そこに光る宝石は聖樹の涙といって、命を落とした時、自分の代わりに壊れてくれるの。それを持っていけば、万が一のことがあっても死から逃れられるわ」

 そうであってほしい。そんな気持ちが、フィリスに断言させた。
 リナルドとフィリスは暫し見つめ合う。彼の手が、指輪を摘んだフィリスの手を優しく押し返した。

「そんなに大切なものを受け取れないよ。それは、フィリスの命を守るためにあるものなんだから」
「ここにいる限り私の身に危険が迫ることはありえないもの。だからあなたに持っていて欲しいの」
「……わかったよ」

 神妙な面持ちでリナルドは指輪を受け取る。彼はまじまじと指輪を見つめ、それからフィリスを見た。

「ありがとう。……君は今でも、僕を守ろうとしてくれるんだね」
「聖女だもの、守ろうとするのは当たり前だわ」
「……そっか」

 フィリスの答えを聞いたリナルドは、きゅ、と切なげに表情を歪める。
 暫しの沈黙。交わすべき言葉が終わり、手持ち無沙汰になったフィリスがプリン用のスプーンに手を触れた時、シルヴァンがぽつりと呟いた。

「フィリス。お前はいつ『聖樹の涙』が身代わりになることを知ったんだ……?」

 動揺したフィリスは、スプーンをからんと落とす。

(そうだわ。そのことを、私が知っているのはおかしいじゃない)

 フィリスはシルヴァンに殺され、何度も巻き戻った。今フィリスが過ごしているのは、シルヴァンに殺されることを回避し、聖樹の涙は身代わりにならなかった時間だ。
 シルヴァンがフィリスを何度も殺したことを、彼に知られたくない。そう感じたフィリスは、どうにか頭の引き出しを開ける。

「それは……天からの知らせのように、ふとわかったんです」

 誤魔化す声が震えている。どうか疑わないでくれという願いが通じたのか、シルヴァンは「そうか」と呟いて空の器に視線を落としたのだった。
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