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6章 フィリスの使命
6-1 呼び出し
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「読める……! 読めます、シルヴァン様!」
「そうだろう。お前に読める文章も書けたのだな、この男は」
「私もびっくりです。初めてなんですよ、リナルドからの手紙を読めたの」
婚礼の儀から程なくしたある日の朝食、例の如く飛んできた配達鳥をシルヴァンが受け止め、内容にちらりと目を通した後「これなら読めるんじゃないか?」と渡してきたところである。
いつもならごてごてとした装飾で意味が取れなくなるフィリスだったが、今回の内容はよくわかった。何しろそこには、たったひとつのことしか書かれていなかったからだ。
「『大切な話があるから会って話したい』と書かれていたが。どうするつもりだ?」
シルヴァンの言う通り、手紙はシンプルに対面を求めていた。
「そうですね……話の内容も気になりますし、何より私がシルヴァン様との婚礼の儀を済ませたことを、ひと言伝えに行っても良いかと思っています」
配達鳥は届くが、フィリスの側から送る手段はない。伝えるならば、いずれにせよ対面しか方法はないのだ。
フィリスの答えに、シルヴァンは眉間の皺を深める。
「行くのか? お前にはもう関係のない相手だろう」
「……聖女と魔王が手を取り合えるという事実は、私達にとっても大切だと思うんです」
それは、魔王や魔人達が、対話できる存在であるという証拠になる。フィリスもかつてはそうだったが、人間達は魔人や魔王について知らなすぎる。知らないままに脅威だと見做しているから戦うしかないのであって、言葉を交わせば手を取り合う道はあるはずなのだ。
それをリナルドーーネフィリア王国の第二王子に伝えられるのなら、きっと有意義なものになる。
それに。結婚の際には、世話になった人に報告するのが騎士のマナーである。フィリスも、家族ができたと知らせたい相手は何人か居た。
「ならば俺も行こう」
「えっ?」
「問題なかろう。それとも、俺に言えない話でもするのか?」
「いえっ! 言えない話なんてありません。ただ、びっくりしただけで」
呼び出されたのはフィリスであり、これはあくまでもフィリスの用事だから、わざわざ付き合ってくれるとは思わなかったのだ。
「……というわけだから、フィリスと共に外へ行ってくる」
「お待ちください、魔王様。罠に決まっています」
「罠だった時のために俺が行くのだろう」
「お二人揃って嵌められたら我々は終わりですよ」
「俺がそんな下手を踏むと?」
「…………」
「ああ、わかった。お前は可能性があると考えているのだな」
無言の抗議の意図を、シルヴァンはきちんと受け止める。
ここで腹を立てないのが、シルヴァンが優しいと評される所以である。少々面倒くさそうな顔はしているが、「ならばどうすれば良い」とグレアムに尋ねた。
「求められているのは、相手方と聖女様との対面なのですよね?」
「そのようだが」
「では、その方をこの城へ案内しましょう。話をするのならここですれば良い。多少の安全は見込めます」
「……普通の人間は、瘴気に包まれたら死ぬのではなかったか」
「聖女様が一緒ならば大丈夫なのですよね?」
「大丈夫なはずです。そうしましょうか。話したいだけなら、場所は関係ありませんものね」
それに城へ招けば、リナルドが他の魔人達と触れ合う場も作れるかもしれない。戦争を終わらせたいという思いはリナルドも持っているから、魔人について知ることは良い方向に働くだろう。そんな期待感もあり、フィリスは賛成した。
***
「……やはり、空が広いな」
「確かに……そうですね、お城から見える空とは全然違います」
瘴気の壁から外に出たフィリスとシルヴァンは、並んで空を見上げる。
広く平坦な戦場では、空は遠くまで見えるのだ。フィリスにとっては見慣れた懐かしい光景だったが、シルヴァンにとっては違うらしい。
(あの城にずっと居るのだものね……)
余程のことがない限り外には出ないシルヴァンは、丸く切り取られた空ばかり見ているのだ。そう思うと、空を見上げる横顔が、青い空と同じ色をした青い瞳に宿るものが、何だか寂しげに感じられる。
見たい時にいつでも広い空を見られる暮らしを、シルヴァンだってしてもいいはずなのに。城に居るしかない魔人達も同様だ。彼らがその自由を得るためにも、やはり戦いは終わらせなければならない。
「では、合図を送るか。フィリス、頼むぞ」
「はい。行っておいで、鳥さん」
フィリスは、手紙を付けた配達鳥を手放す。ふわりと浮き上がった配達鳥は、すぐに真っ直ぐ飛び去った。
リナルドからの手紙には彼の髪の毛が同封されていた。これも初めてのことだ。おかげで、こうして返事ができる。一度瘴気の中を通って朽ちかけていることもあり、外に出てから送ろうとグレアムとも話し合って決めたのだ。
リナルドの髪の毛も瘴気の中を通ったことでだいぶ変質していたが、配達鳥が動くには足りたらしい。やがて点となって消えていくのを見て、フィリスは安心した。
「戻るか」
「……はい」
フィリスとシルヴァンが連れ立って瘴気の中へ戻るのも打ち合わせ通りである。瘴気の壁へ少し戻ると、暗くぼんやりした靄の向こうに外の様子が微かに見える。こちらは暗く、向こうは明るいのでそうなるらしい。
シルヴァンはこうして、時々戦場の様子を伺っていたという。かつてフィリス達が壁に接近したことにも、それで気づいたとのことだった。
「奴がひとりで来るのなら、話は早いのだがな」
「先程も言いましたが、それはあり得ないです。リナルドひとりで魔獣を掻い潜ってここに来るのは無理ですから」
「お前が『ひとりで来てほしい』と書いても、それを叶えようとはしないのか」
「万が一リナルドがそうしたいと言ったって、周りが許しませんよ。彼は国の宝なんですから」
リナルドに返送した手紙には、落ち合う場所と「ひとりで来てほしい」旨が書かれている。
そう書いておけば、リナルドがひとりで居るように見せるために護衛も多少の距離を取るだろう、というのがグレアムの意見だった。その距離を利用し、リナルドだけをさらうのだ。
「それもそうか。俺も、フィリスをひとりで行かせる気にはならなかったものな」
「ですよね? そういうことですよ」
「……俺は今、お前は俺の宝だと言ったのだぞ」
「えっ」
「お前は本当に何もわかっていないな、フィリス」
そう返すシルヴァンの声は、どこか楽しげだ。表情が見えない暗い靄の中にいるからこそ、彼の楽しそうな雰囲気だけが伝わってくる。自分の傍に居るシルヴァンが楽しそうにしてくれるのは、フィリスにとっても嬉しいことだった。自然と、頬が緩んでしまう。
「ふふっ……だめです、緊張していないといけないのに」
「奴らの到着まではかなり時間がかかると言っていたではないか。緊張するのはその時で良い」
「言いましたけど……お話に夢中で気づけなかったら困ります。瘴気越しだと、向こうがよく見えないので」
「俺が気づくから問題ない。何ならお前は昼寝をしていてもいいぞ」
「昼寝? こんな時に眠れませんし、夜眠れなくなっちゃいますよ」
「夜眠れないくらいがちょうど良いだろう、お前は」
「眠れないのがちょうど良いなんてことあります……?」
云々。普段なら食堂で交わすような他愛もないやりとりをしていれば、時間はあっという間に過ぎて行くものだ。
「お。……来たな」
「来ましたね」
気配を感じたのは、同時だった。二人は会話を止め、瘴気の向こうを注視する。
「……リナルドだ」
遠目に、瘴気越しにもわかるくらいには、フィリスは彼の姿を見慣れていた。あのすらりと長い手足、すっと伸びた姿勢の良い背筋。少し右足に重心が寄る立ち方。彼と一緒に魔獣を倒して回っていたのは遠くない過去のことなのに、なんだか随分と長い時間が経ってしまった気分だ。あまりにも懐かしくて、つい見入ってしまう。
「フィリス? 来たぞ、フィリスー!」
彼の張り上げた声が、ここまで届く。
(大声を出すの、得意じゃないはずなのに……)
リナルドは、不得意なことでも一生懸命に頑張る。だから皆に好感を持たれるのだ。騎士団長のアラバが「実直なところは殿下の美徳です」と評していたのを思い出す。懐かしい。魔王城では思い出すきっかけもなかった記憶が、次々に蘇ってくる。
「では、行ってきます」
「くれぐれも気をつけろよ」
「大丈夫ですって」
話し合いの結果、最初はフィリスひとりで瘴気から姿を現すことになった。シルヴァンは随分と渋ったが、初めからふたりで顔を出したら最大級の警戒をされてしまう。少しでも油断させよう、とのことだった。
フィリスは、多少の怪我なら聖なる力によってすぐ治る。それに何より、長年共に戦ってきた仲間がフィリスを攻撃するはずがない。そう説得し、この形になったのだ。
「……リナルド」
「フィリス! ああ、無事だったんだな!」
フィリスは、瘴気の壁から一歩だけ踏み出す。暗い靄の中から不意に現れたフィリスを見て、リナルドは心底ほっとした表情をした。会わない間にも、彼の善良さは損なわれていなかった。変わらないリナルドの姿に、フィリスも少しほっとする。
「君に話があるんだ、フィリス。僕と一緒に戻って、ゆっくり話をしよう」
「……今は戻れないわ。せっかく魔王城に入り込めたのに、今戻ったら台無しだもの」
グレアムの予想通り、リナルドは一緒に帰ることを提案してきた。それに返すフィリスの台詞も、グレアムが考えたものである。
シルヴァンの腹心の部下と言うだけあって、グレアムのいうことは正しい。無計画に出向こうとしていたフィリスは、改めて彼を評価した。ひとりだったら、こう上手く言い逃れることなんてできなかった。フィリスは、嘘をつくのは苦手なのである。
「そうか……やはり、君にはそういう考えがあったんだな。だが、君が思っている程僕達に時間はない。フィリス……一度、戻ってくれ」
グレアムの指示を思い出す。何を言われても、返す言葉は同じ。会話のキャッチボールは、ここでは必要ない。
「時間がないわ。ひとりで来てって言ったのは、リナルドだけに渡したいものがあったからなのよ。ねえ、こっちに来て。私の気持ちを受け取って欲しいの」
フィリスは片手を差し出し、手に持った包みを見せる。中には何も入っていない。
こういう言い方をすればリナルドは間違いなく寄ってくる、と言ったのはシルヴァンであった。なぜそう断言できるのかフィリスにはよくわからなかったが、彼の予想通り、リナルドは歩み寄ってくる。
リナルドが近づいてくると、その顔や姿がはっきりと見える。懐かしい。フィリスの表情はつい緩んだ。つられるようにリナルドも微笑する。その表情もまた、フィリスにとっては懐かしいものだった。
「ゆっくり話す時間がなくてごめんね。急いで戻らないといけないから……これは、あとで見てくれる?」
「フィリス……もういいんだよ。とにかく戻ろう」
言いながら、包みを持つフィリスの手首を、リナルドがぐっと掴む。
フィリスはたじろいだ。包みを渡す振りをして、反対の手でリナルドを捕まえ、不意をついて瘴気の壁に引き込むというのが当初の計画だったのだ。寧ろ、リナルドが手に力を込めてフィリスを引っ張り始めた。こうなれば力で勝てるはずはなく、フィリスはじりじりと引き摺られる。
「待って、リナルド。私は戻らないといけないの、やることがあるのよ」
「駄目なんだよ。一緒に来ないと、君は、君は……」
その瞬間、リナルドの表情が悲痛に歪んだ。彼の視線がちら、と揺れる。それを追うように顔を動かしたフィリスの目の前に、黒が広がった。
「うえっ」
「な、何だ?!」
想定外のことがあったら、シルヴァンが飛び出し、問答無用でリナルドとフィリスを瘴気の中へ連れ込む。そんな手筈だとわかっていても尚驚く程の衝撃がフィリスにかかった。首根っこを掴まれ、後方に強く引かれる。フィリスの手首を捉えたリナルドの手も、浅く焼けた手に掴まれていた。シルヴァンの手である。
「シルヴァン様、一体何が」
「黙れ。もっと奥へ戻るぞ」
「何だこれは、フィリス? おい離せ、離せよっ!」
言葉少なに歩き出すシルヴァンの背を、訳もわからぬままフィリスは小走りで追う。リナルドはシルヴァンに引きずられる形で、ずるずると瘴気の中を進んでいく。
「戻ったぞ、グレアム」
「魔王様……魔王様! 何ですか、それは!」
グレアムの悲鳴と同時に、フィリスにもそれが目に入る。シルヴァンの黒い服の上から、矢が腕に刺さっているではないか。
「シ、シルヴァン様……!」
「だから気をつけろと言ったろう。お前目掛けて矢が飛んできていたぞ。咄嗟のことで、俺の体で受けるしかなかった」
「私目掛けて……?」
「ああ。そいつが事情を知っているのだろう? 聞き出したいところだが……どうも矢尻に毒が塗ってある。回復を優先したい」
「毒が……!」
仲間であるはずの人間から矢を射掛けられ、矢尻には毒が塗ってあった。どうやらシルヴァンが身代わりとなり、彼は苦々しい表情で脂汗を滲ませている。
フィリスは、彼の額に浮く冷たい汗から視線を逸らせなかった。シルヴァンは正しい危惧を述べていたのに、自分が呑気だったせいで怪我をさせてしまった。
「もちろんです、魔王様。この男は自分が案内しますから、急ぎ中庭へ」
「ああ、行ってくる。フィリスは休んでいてくれ、奴との話には俺も同席する」
「あ……待ってください、私も行きますっ」
それは反射的な行動であった。フィリスはゆっくり歩き出すシルヴァンを追い、城へと入っていく。
「……何なんだよ……?」
魔王城の傍へ出た途端にシルヴァンに手を離され、勢い余って尻餅を付いたままのリナルドが呆然と呟く。涼しい顔のグレアムが、手を貸すことなく「ご案内致します」とだけ声をかけたのだった。
「そうだろう。お前に読める文章も書けたのだな、この男は」
「私もびっくりです。初めてなんですよ、リナルドからの手紙を読めたの」
婚礼の儀から程なくしたある日の朝食、例の如く飛んできた配達鳥をシルヴァンが受け止め、内容にちらりと目を通した後「これなら読めるんじゃないか?」と渡してきたところである。
いつもならごてごてとした装飾で意味が取れなくなるフィリスだったが、今回の内容はよくわかった。何しろそこには、たったひとつのことしか書かれていなかったからだ。
「『大切な話があるから会って話したい』と書かれていたが。どうするつもりだ?」
シルヴァンの言う通り、手紙はシンプルに対面を求めていた。
「そうですね……話の内容も気になりますし、何より私がシルヴァン様との婚礼の儀を済ませたことを、ひと言伝えに行っても良いかと思っています」
配達鳥は届くが、フィリスの側から送る手段はない。伝えるならば、いずれにせよ対面しか方法はないのだ。
フィリスの答えに、シルヴァンは眉間の皺を深める。
「行くのか? お前にはもう関係のない相手だろう」
「……聖女と魔王が手を取り合えるという事実は、私達にとっても大切だと思うんです」
それは、魔王や魔人達が、対話できる存在であるという証拠になる。フィリスもかつてはそうだったが、人間達は魔人や魔王について知らなすぎる。知らないままに脅威だと見做しているから戦うしかないのであって、言葉を交わせば手を取り合う道はあるはずなのだ。
それをリナルドーーネフィリア王国の第二王子に伝えられるのなら、きっと有意義なものになる。
それに。結婚の際には、世話になった人に報告するのが騎士のマナーである。フィリスも、家族ができたと知らせたい相手は何人か居た。
「ならば俺も行こう」
「えっ?」
「問題なかろう。それとも、俺に言えない話でもするのか?」
「いえっ! 言えない話なんてありません。ただ、びっくりしただけで」
呼び出されたのはフィリスであり、これはあくまでもフィリスの用事だから、わざわざ付き合ってくれるとは思わなかったのだ。
「……というわけだから、フィリスと共に外へ行ってくる」
「お待ちください、魔王様。罠に決まっています」
「罠だった時のために俺が行くのだろう」
「お二人揃って嵌められたら我々は終わりですよ」
「俺がそんな下手を踏むと?」
「…………」
「ああ、わかった。お前は可能性があると考えているのだな」
無言の抗議の意図を、シルヴァンはきちんと受け止める。
ここで腹を立てないのが、シルヴァンが優しいと評される所以である。少々面倒くさそうな顔はしているが、「ならばどうすれば良い」とグレアムに尋ねた。
「求められているのは、相手方と聖女様との対面なのですよね?」
「そのようだが」
「では、その方をこの城へ案内しましょう。話をするのならここですれば良い。多少の安全は見込めます」
「……普通の人間は、瘴気に包まれたら死ぬのではなかったか」
「聖女様が一緒ならば大丈夫なのですよね?」
「大丈夫なはずです。そうしましょうか。話したいだけなら、場所は関係ありませんものね」
それに城へ招けば、リナルドが他の魔人達と触れ合う場も作れるかもしれない。戦争を終わらせたいという思いはリナルドも持っているから、魔人について知ることは良い方向に働くだろう。そんな期待感もあり、フィリスは賛成した。
***
「……やはり、空が広いな」
「確かに……そうですね、お城から見える空とは全然違います」
瘴気の壁から外に出たフィリスとシルヴァンは、並んで空を見上げる。
広く平坦な戦場では、空は遠くまで見えるのだ。フィリスにとっては見慣れた懐かしい光景だったが、シルヴァンにとっては違うらしい。
(あの城にずっと居るのだものね……)
余程のことがない限り外には出ないシルヴァンは、丸く切り取られた空ばかり見ているのだ。そう思うと、空を見上げる横顔が、青い空と同じ色をした青い瞳に宿るものが、何だか寂しげに感じられる。
見たい時にいつでも広い空を見られる暮らしを、シルヴァンだってしてもいいはずなのに。城に居るしかない魔人達も同様だ。彼らがその自由を得るためにも、やはり戦いは終わらせなければならない。
「では、合図を送るか。フィリス、頼むぞ」
「はい。行っておいで、鳥さん」
フィリスは、手紙を付けた配達鳥を手放す。ふわりと浮き上がった配達鳥は、すぐに真っ直ぐ飛び去った。
リナルドからの手紙には彼の髪の毛が同封されていた。これも初めてのことだ。おかげで、こうして返事ができる。一度瘴気の中を通って朽ちかけていることもあり、外に出てから送ろうとグレアムとも話し合って決めたのだ。
リナルドの髪の毛も瘴気の中を通ったことでだいぶ変質していたが、配達鳥が動くには足りたらしい。やがて点となって消えていくのを見て、フィリスは安心した。
「戻るか」
「……はい」
フィリスとシルヴァンが連れ立って瘴気の中へ戻るのも打ち合わせ通りである。瘴気の壁へ少し戻ると、暗くぼんやりした靄の向こうに外の様子が微かに見える。こちらは暗く、向こうは明るいのでそうなるらしい。
シルヴァンはこうして、時々戦場の様子を伺っていたという。かつてフィリス達が壁に接近したことにも、それで気づいたとのことだった。
「奴がひとりで来るのなら、話は早いのだがな」
「先程も言いましたが、それはあり得ないです。リナルドひとりで魔獣を掻い潜ってここに来るのは無理ですから」
「お前が『ひとりで来てほしい』と書いても、それを叶えようとはしないのか」
「万が一リナルドがそうしたいと言ったって、周りが許しませんよ。彼は国の宝なんですから」
リナルドに返送した手紙には、落ち合う場所と「ひとりで来てほしい」旨が書かれている。
そう書いておけば、リナルドがひとりで居るように見せるために護衛も多少の距離を取るだろう、というのがグレアムの意見だった。その距離を利用し、リナルドだけをさらうのだ。
「それもそうか。俺も、フィリスをひとりで行かせる気にはならなかったものな」
「ですよね? そういうことですよ」
「……俺は今、お前は俺の宝だと言ったのだぞ」
「えっ」
「お前は本当に何もわかっていないな、フィリス」
そう返すシルヴァンの声は、どこか楽しげだ。表情が見えない暗い靄の中にいるからこそ、彼の楽しそうな雰囲気だけが伝わってくる。自分の傍に居るシルヴァンが楽しそうにしてくれるのは、フィリスにとっても嬉しいことだった。自然と、頬が緩んでしまう。
「ふふっ……だめです、緊張していないといけないのに」
「奴らの到着まではかなり時間がかかると言っていたではないか。緊張するのはその時で良い」
「言いましたけど……お話に夢中で気づけなかったら困ります。瘴気越しだと、向こうがよく見えないので」
「俺が気づくから問題ない。何ならお前は昼寝をしていてもいいぞ」
「昼寝? こんな時に眠れませんし、夜眠れなくなっちゃいますよ」
「夜眠れないくらいがちょうど良いだろう、お前は」
「眠れないのがちょうど良いなんてことあります……?」
云々。普段なら食堂で交わすような他愛もないやりとりをしていれば、時間はあっという間に過ぎて行くものだ。
「お。……来たな」
「来ましたね」
気配を感じたのは、同時だった。二人は会話を止め、瘴気の向こうを注視する。
「……リナルドだ」
遠目に、瘴気越しにもわかるくらいには、フィリスは彼の姿を見慣れていた。あのすらりと長い手足、すっと伸びた姿勢の良い背筋。少し右足に重心が寄る立ち方。彼と一緒に魔獣を倒して回っていたのは遠くない過去のことなのに、なんだか随分と長い時間が経ってしまった気分だ。あまりにも懐かしくて、つい見入ってしまう。
「フィリス? 来たぞ、フィリスー!」
彼の張り上げた声が、ここまで届く。
(大声を出すの、得意じゃないはずなのに……)
リナルドは、不得意なことでも一生懸命に頑張る。だから皆に好感を持たれるのだ。騎士団長のアラバが「実直なところは殿下の美徳です」と評していたのを思い出す。懐かしい。魔王城では思い出すきっかけもなかった記憶が、次々に蘇ってくる。
「では、行ってきます」
「くれぐれも気をつけろよ」
「大丈夫ですって」
話し合いの結果、最初はフィリスひとりで瘴気から姿を現すことになった。シルヴァンは随分と渋ったが、初めからふたりで顔を出したら最大級の警戒をされてしまう。少しでも油断させよう、とのことだった。
フィリスは、多少の怪我なら聖なる力によってすぐ治る。それに何より、長年共に戦ってきた仲間がフィリスを攻撃するはずがない。そう説得し、この形になったのだ。
「……リナルド」
「フィリス! ああ、無事だったんだな!」
フィリスは、瘴気の壁から一歩だけ踏み出す。暗い靄の中から不意に現れたフィリスを見て、リナルドは心底ほっとした表情をした。会わない間にも、彼の善良さは損なわれていなかった。変わらないリナルドの姿に、フィリスも少しほっとする。
「君に話があるんだ、フィリス。僕と一緒に戻って、ゆっくり話をしよう」
「……今は戻れないわ。せっかく魔王城に入り込めたのに、今戻ったら台無しだもの」
グレアムの予想通り、リナルドは一緒に帰ることを提案してきた。それに返すフィリスの台詞も、グレアムが考えたものである。
シルヴァンの腹心の部下と言うだけあって、グレアムのいうことは正しい。無計画に出向こうとしていたフィリスは、改めて彼を評価した。ひとりだったら、こう上手く言い逃れることなんてできなかった。フィリスは、嘘をつくのは苦手なのである。
「そうか……やはり、君にはそういう考えがあったんだな。だが、君が思っている程僕達に時間はない。フィリス……一度、戻ってくれ」
グレアムの指示を思い出す。何を言われても、返す言葉は同じ。会話のキャッチボールは、ここでは必要ない。
「時間がないわ。ひとりで来てって言ったのは、リナルドだけに渡したいものがあったからなのよ。ねえ、こっちに来て。私の気持ちを受け取って欲しいの」
フィリスは片手を差し出し、手に持った包みを見せる。中には何も入っていない。
こういう言い方をすればリナルドは間違いなく寄ってくる、と言ったのはシルヴァンであった。なぜそう断言できるのかフィリスにはよくわからなかったが、彼の予想通り、リナルドは歩み寄ってくる。
リナルドが近づいてくると、その顔や姿がはっきりと見える。懐かしい。フィリスの表情はつい緩んだ。つられるようにリナルドも微笑する。その表情もまた、フィリスにとっては懐かしいものだった。
「ゆっくり話す時間がなくてごめんね。急いで戻らないといけないから……これは、あとで見てくれる?」
「フィリス……もういいんだよ。とにかく戻ろう」
言いながら、包みを持つフィリスの手首を、リナルドがぐっと掴む。
フィリスはたじろいだ。包みを渡す振りをして、反対の手でリナルドを捕まえ、不意をついて瘴気の壁に引き込むというのが当初の計画だったのだ。寧ろ、リナルドが手に力を込めてフィリスを引っ張り始めた。こうなれば力で勝てるはずはなく、フィリスはじりじりと引き摺られる。
「待って、リナルド。私は戻らないといけないの、やることがあるのよ」
「駄目なんだよ。一緒に来ないと、君は、君は……」
その瞬間、リナルドの表情が悲痛に歪んだ。彼の視線がちら、と揺れる。それを追うように顔を動かしたフィリスの目の前に、黒が広がった。
「うえっ」
「な、何だ?!」
想定外のことがあったら、シルヴァンが飛び出し、問答無用でリナルドとフィリスを瘴気の中へ連れ込む。そんな手筈だとわかっていても尚驚く程の衝撃がフィリスにかかった。首根っこを掴まれ、後方に強く引かれる。フィリスの手首を捉えたリナルドの手も、浅く焼けた手に掴まれていた。シルヴァンの手である。
「シルヴァン様、一体何が」
「黙れ。もっと奥へ戻るぞ」
「何だこれは、フィリス? おい離せ、離せよっ!」
言葉少なに歩き出すシルヴァンの背を、訳もわからぬままフィリスは小走りで追う。リナルドはシルヴァンに引きずられる形で、ずるずると瘴気の中を進んでいく。
「戻ったぞ、グレアム」
「魔王様……魔王様! 何ですか、それは!」
グレアムの悲鳴と同時に、フィリスにもそれが目に入る。シルヴァンの黒い服の上から、矢が腕に刺さっているではないか。
「シ、シルヴァン様……!」
「だから気をつけろと言ったろう。お前目掛けて矢が飛んできていたぞ。咄嗟のことで、俺の体で受けるしかなかった」
「私目掛けて……?」
「ああ。そいつが事情を知っているのだろう? 聞き出したいところだが……どうも矢尻に毒が塗ってある。回復を優先したい」
「毒が……!」
仲間であるはずの人間から矢を射掛けられ、矢尻には毒が塗ってあった。どうやらシルヴァンが身代わりとなり、彼は苦々しい表情で脂汗を滲ませている。
フィリスは、彼の額に浮く冷たい汗から視線を逸らせなかった。シルヴァンは正しい危惧を述べていたのに、自分が呑気だったせいで怪我をさせてしまった。
「もちろんです、魔王様。この男は自分が案内しますから、急ぎ中庭へ」
「ああ、行ってくる。フィリスは休んでいてくれ、奴との話には俺も同席する」
「あ……待ってください、私も行きますっ」
それは反射的な行動であった。フィリスはゆっくり歩き出すシルヴァンを追い、城へと入っていく。
「……何なんだよ……?」
魔王城の傍へ出た途端にシルヴァンに手を離され、勢い余って尻餅を付いたままのリナルドが呆然と呟く。涼しい顔のグレアムが、手を貸すことなく「ご案内致します」とだけ声をかけたのだった。
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夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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