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5章 婚礼の儀へ
幕間1 初夜の意味
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婚礼の儀を終えたシルヴァンは、風呂へ入ってから夫婦の寝室へ向かった。
夫婦の寝室、である。
いつもと違う廊下を通り、ここ何年も使っていなかった寝室の扉の前に立つ。
(もう良いだろう)
新婚初夜の女性にはいろいろと身支度があるのだからゆっくり時間を使ってから行け、とはライラからの厳命であった。よって、執務室でひと仕事終えてからここへ来たのである。落ち着かなくてかけた時間のわりに仕事は進まなかったのだが、それも致し方ないと思う。
あのフィリスの白い肌に触れることをやっと許されるのだ。考えるだけで、緊張が指先を走る。シルヴァンは寝室の扉に手をかけ、ぐっと押し開けた。
「入るぞ」
「……」
返事はない。
部屋には蝋燭の灯りだけが揺らめき、静かな雰囲気を演出している。……それにしても静か過ぎる。
「……おい、フィリス?」
声をかけるが返事はない。ここで、シルヴァンの予定は一気に崩れた。天蓋越しに少し言葉を交わして緊張を解してやってもいいかと思っていたのに、そんなこと忘れ、寝台を覆う薄布をぐっと引く。
果たしてそこに、フィリスは居た。
ライラが「絶対気に入るわよお」とにやついていた意味がわかった。やたらと薄手で扇情的な寝巻きは、彼女の綺麗な肌を美しく透かしている。四肢を投げ出して寝ているものだから、体の線まで丸見えだ。
四肢を投げ出して寝ているものだから。
「はー……」
思わず、本気のため息が出た。
静かな訳だ。寝息しかしないのだから当然である。
「初夜の意味も知らないのか……」
いつもと違う寝巻きも、やたらと体を手入れされることも、寝室が変わったことすらもよくわからないまま「そんなものか」で済ませそうな柔軟さがフィリスにはある。困った人だ、まったく。
柔らかな頬を指の腹でするりと撫でてやる。くすぐったそうに眉を揺らす仕草が可愛らしい。
「……一体どこまでわかっているのだろうな」
まるで何もわかっていないだろう、と心の中で付け足す。
思い返せば、フィリスと出会ってから今まで、あっという間に過ぎたような感覚がある。人間への見方も、抱く感情も随分変わった。
魔獣の量を調整して、ネフィリア王国側へ差し向けるのが魔王の務めのひとつ。歴代の魔王が成してきたことに、当時のシルヴァンはあまり納得していなかった。魔人達を守るために魔獣を差し出すという構図なのだが、そもそも人間が居なければそんな配慮も必要ないのだ。
怖がらせないよう城に引き篭もり、適正量の魔獣を送り出してやる。そんな我慢こそが、人間に向けた愛だとシルヴァンは認識していた。「愛には、愛が返る」。賢王はそんな言葉を残したが、200年もの間人間達に向けてきた愛が、いつ返ってくるというのか。返らないのならば、この手で全てを終わらせて城から解き放たれた方がよほど魔人達は幸せになれるのではないか。
あの日は、その答えを確かめるために聖女の前へ姿を現したのだった。愛が返ってくるのなら、賢王の言葉を信じていられる。しかし敵意を向けられるのなら、賢王の見立ては誤っていたとしてーーネフィリア王国を、滅ぼすことも辞さないと。
そんな決意で臨んだあの日、フィリスは突然「愛している」と叫んだのだ。
心を読まれたのかと、最初はそう思った。しかしすぐに、それでもいいと思い直した。
シルヴァンは、人間を虐殺したいわけではない。今まで向けてきた愛が愛で返ってくるのなら、その方が望ましかった。だからあの唐突な告白をひとまず受け入れ、フィリスを城へ連れてきたのである。
婚礼の儀を急いだのは、逃げ場をなくすためだ。本気かどうか知らないが、一度は全て滅ぼすと決めたシルヴァンの決意を鈍らせたのだ。その責任を取らせようと考えた。聖女が魔王の妻として隣に立つ姿を見れば、他の魔人達も、賢王の言葉は正しかったのだと納得できる。城に閉じ籠り、あるいはサディロ街側にしか出られない状況にあっても、賢王の言いつけだと我慢することができる。
逃げ場をなくす……という思惑が建前となってしまったのは、配達鳥とかいうものが飛んできてからだ。「仲間」とやらから送られた手紙には、フィリスへの愛が繰り返し綴られていた。当の本人は「内容がわからない」などと言うので拍子抜けしたが、城の外にはフィリスを手に入れようとする男が居るのだと、シルヴァンはあの時認識したのだ。
やるものか、と思った。その頃には毎日菓子ばかり作って呑気に過ごすフィリスの純朴さに、シルヴァンはすっかり絆されていた。微笑ましく見守る気持ちが、嫉妬と独占欲に変わった瞬間である。
婚礼の儀は済み、フィリスは自分の妻として隣に収まった。シルヴァンは、その結果に満足していた。妻となったのだから、あの男もフィリスを奪っていくことはできないだろう。
手に入れたのだから、この先はそう急かずとも良い。頬を一頻り撫でたシルヴァンは、今宵は部屋を立ち去ることにした。
扉を開け、廊下に出たシルヴァンは己の唇をひと撫でする。少し乾燥しさらりとした質感の唇は、なかなか良い感触だった。
夫婦の寝室、である。
いつもと違う廊下を通り、ここ何年も使っていなかった寝室の扉の前に立つ。
(もう良いだろう)
新婚初夜の女性にはいろいろと身支度があるのだからゆっくり時間を使ってから行け、とはライラからの厳命であった。よって、執務室でひと仕事終えてからここへ来たのである。落ち着かなくてかけた時間のわりに仕事は進まなかったのだが、それも致し方ないと思う。
あのフィリスの白い肌に触れることをやっと許されるのだ。考えるだけで、緊張が指先を走る。シルヴァンは寝室の扉に手をかけ、ぐっと押し開けた。
「入るぞ」
「……」
返事はない。
部屋には蝋燭の灯りだけが揺らめき、静かな雰囲気を演出している。……それにしても静か過ぎる。
「……おい、フィリス?」
声をかけるが返事はない。ここで、シルヴァンの予定は一気に崩れた。天蓋越しに少し言葉を交わして緊張を解してやってもいいかと思っていたのに、そんなこと忘れ、寝台を覆う薄布をぐっと引く。
果たしてそこに、フィリスは居た。
ライラが「絶対気に入るわよお」とにやついていた意味がわかった。やたらと薄手で扇情的な寝巻きは、彼女の綺麗な肌を美しく透かしている。四肢を投げ出して寝ているものだから、体の線まで丸見えだ。
四肢を投げ出して寝ているものだから。
「はー……」
思わず、本気のため息が出た。
静かな訳だ。寝息しかしないのだから当然である。
「初夜の意味も知らないのか……」
いつもと違う寝巻きも、やたらと体を手入れされることも、寝室が変わったことすらもよくわからないまま「そんなものか」で済ませそうな柔軟さがフィリスにはある。困った人だ、まったく。
柔らかな頬を指の腹でするりと撫でてやる。くすぐったそうに眉を揺らす仕草が可愛らしい。
「……一体どこまでわかっているのだろうな」
まるで何もわかっていないだろう、と心の中で付け足す。
思い返せば、フィリスと出会ってから今まで、あっという間に過ぎたような感覚がある。人間への見方も、抱く感情も随分変わった。
魔獣の量を調整して、ネフィリア王国側へ差し向けるのが魔王の務めのひとつ。歴代の魔王が成してきたことに、当時のシルヴァンはあまり納得していなかった。魔人達を守るために魔獣を差し出すという構図なのだが、そもそも人間が居なければそんな配慮も必要ないのだ。
怖がらせないよう城に引き篭もり、適正量の魔獣を送り出してやる。そんな我慢こそが、人間に向けた愛だとシルヴァンは認識していた。「愛には、愛が返る」。賢王はそんな言葉を残したが、200年もの間人間達に向けてきた愛が、いつ返ってくるというのか。返らないのならば、この手で全てを終わらせて城から解き放たれた方がよほど魔人達は幸せになれるのではないか。
あの日は、その答えを確かめるために聖女の前へ姿を現したのだった。愛が返ってくるのなら、賢王の言葉を信じていられる。しかし敵意を向けられるのなら、賢王の見立ては誤っていたとしてーーネフィリア王国を、滅ぼすことも辞さないと。
そんな決意で臨んだあの日、フィリスは突然「愛している」と叫んだのだ。
心を読まれたのかと、最初はそう思った。しかしすぐに、それでもいいと思い直した。
シルヴァンは、人間を虐殺したいわけではない。今まで向けてきた愛が愛で返ってくるのなら、その方が望ましかった。だからあの唐突な告白をひとまず受け入れ、フィリスを城へ連れてきたのである。
婚礼の儀を急いだのは、逃げ場をなくすためだ。本気かどうか知らないが、一度は全て滅ぼすと決めたシルヴァンの決意を鈍らせたのだ。その責任を取らせようと考えた。聖女が魔王の妻として隣に立つ姿を見れば、他の魔人達も、賢王の言葉は正しかったのだと納得できる。城に閉じ籠り、あるいはサディロ街側にしか出られない状況にあっても、賢王の言いつけだと我慢することができる。
逃げ場をなくす……という思惑が建前となってしまったのは、配達鳥とかいうものが飛んできてからだ。「仲間」とやらから送られた手紙には、フィリスへの愛が繰り返し綴られていた。当の本人は「内容がわからない」などと言うので拍子抜けしたが、城の外にはフィリスを手に入れようとする男が居るのだと、シルヴァンはあの時認識したのだ。
やるものか、と思った。その頃には毎日菓子ばかり作って呑気に過ごすフィリスの純朴さに、シルヴァンはすっかり絆されていた。微笑ましく見守る気持ちが、嫉妬と独占欲に変わった瞬間である。
婚礼の儀は済み、フィリスは自分の妻として隣に収まった。シルヴァンは、その結果に満足していた。妻となったのだから、あの男もフィリスを奪っていくことはできないだろう。
手に入れたのだから、この先はそう急かずとも良い。頬を一頻り撫でたシルヴァンは、今宵は部屋を立ち去ることにした。
扉を開け、廊下に出たシルヴァンは己の唇をひと撫でする。少し乾燥しさらりとした質感の唇は、なかなか良い感触だった。
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