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1章 聖女の使命

1-1 死に戻り聖女は、魔王への愛を叫ぶ

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「やはり、人間が俺達を愛するなど信じられん」

 魔王の瞳が赤く輝き、頭上に生えた2本の角から黒々とした瘴気が噴き出す。瘴気に取り囲まれ、息が詰まる。胸が苦しい。頭に全身の血が上ったかのようにくらくらする。ついに意識が遠のく。その時、パリン、と胸元に僅かな衝撃が走る。

(ああ、どうして……?)

 暗転したはずのフィリスの視界が一気に開ける。天高く伸びる瘴気の壁。黒い瘴気を背にし、たったひとりで立ちはだかる魔王の姿。

「フィリス! あれが魔王だ、矢を!」

 リナルドが大声で叫ぶ。

「早く射よ!」

 そう命じられれば反射的に従ってしまうのは、長く戦場で過ごしたフィリスの習性である。ろくに考えられぬままに狙いを定め、「《聖なる矢》!」と詠唱する。
 胸の前に生まれた白く眩い光の矢が、魔王目掛けて飛んで行く。フィリスは知っている。その矢が届く前に魔王は眉を僅かに動かし、「やはり、人間が俺達を愛するなど信じられん」と言って光の矢ごと瘴気で飲み込みーーフィリス達は、死ぬのだ。

「フィリス! あれが魔王だ、矢を!」

(ああ、どうして?)

 確かに死んだはずなのに、フィリスの目の前にはまたも瘴気の壁が現れる。フィリスが死ぬほどの瘴気では、当然リナルド達も死ぬはずである。彼らが生きていることに安堵すると同時に、絶望する。繰り返されるのは、同じ光景。命じられるままに聖なる矢を放ち、そして死ぬ。何度も何度も。

(駄目。このままでは、この繰り返しから抜け出せない)

 どうやらフィリスは、死の直前に巻き戻っているらしい。リナルドに命じられるままに聖なる矢を射掛ければ、魔王によって皆殺される。何か違うことをしなければ。

「やはり、人間が俺達を愛するなど信じられん」

「やはり、人間が俺達を愛するなど信じられん」

「やはり、人間が俺達を愛するなど信じられん」

 フィリスは、何度も魔王の瘴気に飲み込まれる。魔王の最後の言葉を、何度も耳にする。瘴気に包まれ、気が狂うような苦しみを味わいながら反芻する。人間が俺達を愛するなど信じられん。人間が俺達を愛するなど信じられん。人間が俺達を愛するなど信じられん。……人間が魔王達を愛さないから、殺すの?

 閃いた。

 数えきれないほど死に、網膜に焼き付けるほど見た光景が目の前に広がる。

「フィリス! あれが」

 魔王に矢を射よ、と命令するリナルドの声に重ね、フィリスは叫ぶ。

「魔王様! 私はあなたを愛しています!」
「…………はあ?」

 初めて聞く、訝しげな魔王の声。フィリスが辿り続けた死への一本道が、ここで漸く、別の未来に繋がる。

「……俺の聞き間違いか? 今、お前は」
「あなたを愛していると、そう言いました」
「理解できん。何の罠だ」
「罠ではありません。あなたをひと目見た瞬間、この胸に愛が溢れてきたのです」

 本来フィリスは、こんな大胆な嘘をつらつらと吐ける性分ではない。しかし今、数えきれないほど繰り返された死へのループから逃れられたことへの歓喜に煽られ、唇は滑らかに動き続けた。

「あなたを愛しています。だから、だからお願い」

 殺すのはやめて。
 そう続ける前に、魔王が「わかった」と言葉を継いだ。

「そんなに言うのなら、お前は俺の伴侶となれ」
「はい、喜んで!」

 命令されたら、返事は肯定しか許されない。戦場で叩き込まれた騎士の論理が、思考の前に返事をさせる。

「えっ、おい、待ってくれよフィリス!」

 悲鳴に似た声を上げたのはリナルドであった。太陽に似ると称される美しい金の瞳が、こぼれんばかりに見開かれている。

「僕はどうなるんだ」
「リナルドは、絶対に生きて帰すわ」
「そういうことじゃなくて!」

 死に戻っているのはフィリスだけ。リナルドが、事情を掴めないのは仕方ない。説明できるはずもない。とにかく、大切なのは、ここを生きて切り抜けること。フィリスだけ生きても意味がない。共に戦ってきた仲間の命も、どうにかして守らなければならない。
 魔獣との戦いにおいて、聖女であるフィリスは常に仲間の命を背負ってきた。こんな風に命を背負う状況に、フィリスは強い。

「魔王様……!」

 仲間を背にし、一歩前へ出る。魔王を見据える。まだかなりの距離があるというのに、その姿はとても大きく感じる。彼の放つ威圧感が、実際よりも大きく見せているのだ。
 恐ろしい。何度も何度もフィリスを殺した、死の気配の塊に向かって小走りで駆け寄る。

「早く、私を連れて行ってください」

 魔王の頭に、リナルド達を殺すことを思いつかせてはならない。追い込まれた状況でそんな計算を働かせ、フィリスは魔王を急かす。

「そう騒がずとも、我が城はすぐそこだ。来い」

 聖女の纏う純白の衣装が、魔王の導きによって瘴気の黒い闇に消える。

「……何が、起こった……?」

 残された面々は、ただ呆然と。リナルドは、もう何の姿もない瘴気をぼんやりと見つめ、呟く。
 あまりにも唐突な、聖女の離脱。彼らがその事実を受け止め、一旦離れる判断をするまでには、もう暫くの時間を要するのだった。

***

「人間というのは瘴気に触れると苦しんで死ぬと聞いていたが。お前は大丈夫なのだな」
「はい……聖女が居れば大丈夫だそうです。実際、魔獣に付けられた傷も、私は人一倍早く治るんですよ」
「そうか。不思議なものだな」

 少し前を歩く魔王の後ろ姿すら気を抜いたら見失ってしまいそうな、濃密な濃い瘴気。声を頼りに追いながら、フィリスは進む。

(リナルド達は、ちゃんと帰ったかしら)

 フィリスの命を奪った、あの瘴気は凄まじかった。リナルド達はひとたまりもないはずだ。彼らを無事に返すためにも、フィリスは決して、魔王の機嫌を損ねてはならない。
 緊張感を新たにするフィリスの視界が、突然、白い光で埋まる。

「あっ」

 あまりの眩さに目がくらむ。涙目になりながら何度も瞬きをして、その明るさに目が慣れた。

「ようこそ、我が城へ」
「……ここが、魔王城……?」
「そうだ」
「……こんなに、明るいなんて」

 不思議な光景だった。
 禍々しい瘴気の壁がここだけぽかりと大きな円形に開き、天から陽射しが降り注ぐ。光の中に、立派な城がそびえている。人ならざるものの力を感じる、幻想的な光景。

「今はここから入るが、他にもいくつか出入り口がある。後で案内させよう」
「……あっ、はい」

 思いもよらない景色に、つい見入ってしまった。これではいけない。敵地にたったひとりで乗り込んでいるのだ、少しの油断が命取りである。自らを戒めつつ、フィリスは魔王の後に続いて城内へ入る。

「ここは玄関ホールだ。来客など居らぬし、日当たりも良いから、最近では厨房のディルが何やら育てている。素材にこだわっているだけあってディルの飯はうまいぞ。夕飯を楽しみにしておくと良い」
「はい」

 大きな天窓からさんさんと陽射しの注ぐ玄関ホールは、明るく清潔な空間だった。もっと暗く、おどろおどろしく、恐ろしい場所を想像していたのに、瘴気の壁を抜けた先にあるのがこれほど心地良い場所だったとは。
 油断してはならないと思いつつも、驚きは抑えられず、フィリスはついきょろきょろと辺りを見回してしまう。

「この廊下を進むと西塔だ。反対が東塔。この城で働く者の私室はそこにある。訪ねる機会は少ないだろうが」
「なるほど」
「階段を上ろう。2階には……」

 魔王の案内で、玄関ホールの奥にある階段を上がっていく。あちらには食堂が、あちらには浴場が、と案内する魔王の横顔を、フィリスは初めてしっかりと見る。
 日に焼けたような健康的な肌の色。鼻筋はすっと通り、頬はややこけている。目尻が切れ長なのもあり、鋭い印象の顔つきだ。青く冷たく光る瞳もその鋭さを増している。
 鋭く理知的な印象の顔立ちに対し、体付きは騎士と並んでも遜色ないほど立派なものだった。肩幅が広く、胴が厚い。体を覆う黒いローブが装飾のほとんどないシンプルなものであるため、その体つきを強調しているのである。
 歳の頃も、フィリスとそう変わりないだろう。騎士のひとりだ、と言われても納得できる精悍な青年である。ただひとつ、さらりとした黒髪から伸びる、ぐねぐねうねる立派な2本の角を除いては。

「3階だな。日中、俺は大体この階にいる。この上には寝室があるが、案内は後で良かろう。まずは帰りの報告をせねば」

 具体的な案内を受けていると、ここに「魔王の伴侶」として連れて来られたことを実感する。
 自分で望んだことなのに、フィリスは何か不思議な心持ちで彼の案内を受けていた。戦場で、初対面で、敵に「愛している」と叫ぶ行為がどれほどおかしなものなのか、少し冷静になったフィリスにはよくわかる。そんな気の狂ったような主張を、なぜ魔王は受け入れてくれたのか。
 わからないが……この「愛」を貫かない限り、自分の命はないことはわかる。

「これが俺の執務室だ」

 魔王はそう言いながら、廊下に並んだ扉のひとつを開ける。
 廊下の広さと比較すると、狭い印象の部屋だった。左右の壁は本棚で埋まり、そこからはみ出すように床にも本が積まれている。中央には紙の束が積まれた机。書き物の途中だったのか、筆記用具も机上に散らばっている。

「帰ったぞ、グレアム」
「魔王様、よくぞご無事でーーおや?」

 部屋の奥から笑顔で出て来た男が、フィリスを見て眉間に深く皺を寄せる。執事が着るような白いシャツに、細身の黒いパンツを穿いている。灰色の短髪から生える、羊のように渦巻く角。魔人である。
 戦線に毎日赴いていたフィリスでさえ、魔人の姿を見たことはない。ここが敵地の中枢であることを実感し、自然と、肩が緊張する。

「そちらの方は……?」
「聖女だ」
「その桃色の髪、まさかとは思いましたが……生け捕りにしたのですか。どのようなお考えで?」
「俺を愛していると言うので、伴侶にすることにした」
「うん? 今、何と」
「俺を愛していると言うので、伴侶にすることにした」
「ああ、耳がおかしくなったようです。何度聞いても、聖女を魔王様の伴侶にするとしか聞こえません」
「そう言っている」
「そんなわけないじゃありませんか!」

 急に張り上げた声量に、周囲の空気がびりりと震える。

「聖女の一隊が魔王城の付近まで来たから、様子を見に行くと仰いましたよね?」
「ああ」
「相手の出方によっては、賢王の教えを破ることも辞さないと」
「ああ」
「それが! 何をどうしたら! 聖女を伴侶にすることになるのですか!」

 大声を上げる男の白い肌が、赤みを帯びてゆく。微かに震える下唇が、怒りの大きさを表している。

「こいつが俺を愛している、と言うから」

 魔王の手が、ひょいとフィリスを指す。男の視線が、フィリスに注がれる。
 フィリスは、顎を少しだけ引く。ここはまた、ひとつの正念場だ。フィリスは皆のためにも、この嘘を突き通さなければならない。

「はい……私は魔王様を愛しています。瘴気の前に佇むお姿を拝見して……この胸に、愛が溢れたのです」

 己のふくよかな胸に手を当てる。ここに、魔王への愛があるのだ。そう自分を信じ込ませる。

「一目惚れ……としか、言いようがありません」
「という具合だ。こう主張するので、俺の伴侶とすることにした」
「こんなもの、嘘に決まっているではありませんか!」

 至極真っ当な指摘に、フィリスの鼓動は速くなる。確かに嘘なのだ。それを指摘され、魔王はどう出るのか。また、殺されてしまうだろうか。

「そんなこと、わかっている」

 魔王は、低い声でそう答えた。

「ならば、なぜです」
「全てを終わらせる前に、一度は人間を信じてみても良いと思ったのだ」

 彼の言葉は、フィリスの思いもよらない方向へ続く。

「俺も嘘だと思うが……こいつは俺を愛していると言うのだ。その言葉が本当ならば、賢王の教えも正しいと言える。そうあって欲しいと思わんか? 人間を滅ぼすのは最後の手段だ」
「そう、ですが……しかし、どう考えても」
「わかっている。『俺を愛する』という言葉が嘘ならば、それが最後の時だ」

 魔王の瞳の奥が、じんわりと赤く光る。あの光は、フィリスが死の間際に何度も見たもの。本能的な怯えで、背筋に冷たい汗が流れる。

(絶対に、嘘だと知れてはいけないわ)

 フィリスが死ぬほどの瘴気を出せるのなら、国中の人間を殺すのも容易いはずだ。魔王の言葉は脅しではない。もしフィリスの愛が嘘だと分かれば、フィリスどころか国中の人間が死ぬ。
 命を背負う状況にフィリスは強い。だからこそ、顔色は変わらなかった。しかし心の内には、強烈な焦燥と恐怖が渦巻く。

(とにかく、とにかく魔王への愛を、貫かないと……!)

 フィリスはその金の瞳に、決意の光を宿すのであった。
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