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47 夏休みで人は変わる
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その日の朝、私は驚くほど、緊張していた。
まず、いつもより2時間も早く、日の出前に目が覚めた。睡眠不足は肌に悪いから寝直そうと思ったのに、頭が妙に冴えて、眠れない。しかたないから課題を見直して、持ち物を確認し直して、したこともないストレッチまでして、漸く起床時刻になった。
「おはようございます、藤乃様」
「おはよう、シノ。朝早くからごめんなさい」
「いえ、これが日常ですから」
何気ない風に言うシノに、申し訳なくなる。休みの期間と学園がある時期とでは、朝の支度の時間が、少しずれるのだ。
「肩が凝ってらっしゃるような」
身支度の合間に、シノが私の肩に手を当て、圧をかける。強張った首筋が、柔らかく解れるのを感じる。
肩に力が入っているのだ。緊張して。
「藤乃様、何だか入学式みたいですよ」
「そう?」
車に乗り込むと、山口にも指摘される。
そう、なんて涼しい顔をして見せたが、彼は正しい。山口の目は、誤魔化せない。
入学式みたいに、緊張している。久しぶりの学園に、である。
とは言え、休みの間は、文化祭の準備のために度々通学していた。顔を合わせていない級友も中にはいるが、よく会い、親しくなった級友もいる。
他でもない。慧に会うからだ。
顔はおかしくないだろうか。バックミラーを覗き込むと、山口と目が合い、にこりと微笑みかけられた。
夏休みの間中、慧に会うことはできなかった。小部屋のゲームの形跡から、慧の気配を感じたくらい。巡り合わせが悪かったようで、私たちは本当に、会わなかった。
……忘れられてはいないだろうか。
いや、忘れられるということはないだろう。でも、もう私への関心は、薄れているかもしれない。
いや、きっとないだろう。だけど、私にいろいろあったように、夏休み中に慧にもいろいろあったら。
前と同じように話せなかったら、どうしよう。
考えれば考えるほど不安になり、変な汗をかく。学園が近づくほど鼓動が高まり、喉が渇く。
そこの角を曲がった時、慧に会ったらなんて言おう。階段を上った先にいたら。
いちいち心の準備をしたけれど、彼には会わなかった。
「おはよう」
教室に入り、声をかける。いくつかの顔が、ぱっとこちらを向いた。
「おはよう、藤乃さん」
「おはよー」
その中には、アリサもいる。文化祭の準備に多く来ていた人たちと、私は仲良くなった。こんな風に、挨拶を交わせる程度には。
自分の机に、荷物をしまう。いつもの朝の動作だ。
時間は空いてしまったが、日常というのは、こんな風に、大きくは変わらないらしい。
「おはよう、藤乃さん」
「泉さん。おはよう」
「これ、お土産なの。良かったらもらって」
泉に、小さな紙袋を手渡される。丸みを帯びたものが入っていたので、振ってみると、リンと音が鳴る。
「……鈴?」
「そうなの。幸運を呼ぶ、藤の鈴ですって。旅行先で見つけたから、藤乃さんにと思って」
「ありがとう……!」
私はそれを、胸元に引き寄せる。
旅行のお土産を交換する級友を、私はいつも少しだけ、羨ましく眺めていた。私には、そんな関係の友人はいなかったから。
「ごめんなさい、私、何も用意していなくて」
「いいのよ、気にしないで」
向日葵のような笑顔を咲かせ、泉は他の机へ移動した。クラスの誰とでも仲の良い彼女は、お土産をたくさん用意してきたようだ。
最初の登校日は、午前中で授業が終わる。私は屋上で、弁当を開けた。お昼を食べ、午後は文化祭の準備に当てられている。
文化祭の際には、教室も大幅に飾りつけられる。前日は準備日として1日設けられ、そして当日を迎える。
お化け屋敷の大道具はかなり揃ってきた。あとはその手直しと、小道具の作成。そして前日準備の日に、一斉に組み立てという計画だ。
図書室に行けるかしら。
改めて予定を脳内で思い描き、最初に心配したのはそのことだった。放課後を準備に割く中で、どれだけの時間が取れるだろう。
「藤乃さん、やっぱりここにいた」
「あっ……泉さん」
現れた泉は、私の隣に座る。お弁当を開け、食べ始めた。
「初日なのに、他の方と一緒じゃなくていいの?」
「いいの。それに教室、なんだか居心地が悪くって」
泉は、食べながら肩をすくめた。おどけた仕草だ。
「居心地が?」
「前にも増して、すごいんだもの。海斗さんと、早苗さん。夏休みって怖いわね、人が変わっちゃうから」
「……そんなに」
いったい、どれほどの行為なのだろう。
「特に海斗さんが……あ、ごめんなさい。聞きたくないわよね」
「そんなことないわ」
どちらかというと、気になる。積極的に言うのもおかしいので、口には出さなかったけれど。
夏休みって、人が変わっちゃう、か。
おかずを口に運びながら、泉の言葉を反芻する。
それって、慧もだろうか。
「……早苗、行くなって」
「でも私、昼休みは、生徒会室に……」
「昼じゃなければならない、そんな仕事はないだろ?」
教室に戻ると、早苗と海斗が何やら揉めていた。生徒会室に向かおうとする早苗を、海斗がかなりしつこく引き止めている。
……何だか本当に、三角関係になっているみたい。
ゲームでは見たことのない展開に、首をひねる。人が変わったかはともかく、彼らの関係が変わったのは、確からしい。
あれだけ思いが強ければ、海斗のイベント自体を起こすことはできそうだ。早苗さえ、思い通りになれば。
「藤乃さん、器用ね」
「そうかしら。夏休み中、ずっと血のりを塗っていたから、慣れたのかも」
お化け用の衣装に、血のりを塗る。良い感じにおどろおどろしく塗るのにも、コツがあるのだ。赤の色合いや厚みを変えて塗り付けると、迫力のある血になる。
「うん、こんな感じね」
「わあ……」
完成した衣装には、赤黒い血痕がついている。それを見て、隣の女生徒は顔を引きつらせた。
ひとつの小物が仕上がると、達成感がある。出来上がったものを乾かしながら、また次に手を出した。
「ありがとう。これで今日の作業は終わりにしましょう」
アリサの合図で、皆解散する。私は後片付けを手伝い、教室を出た。
窓の外は、薄暗い夕暮れだ。夏は終わり、夜が長くなる季節になりつつある。
下校時刻までまだあったので、私は図書室へ向かった。図書室へ向かう廊下は、相変わらず人気がない。
近づくにつれて、朝と同じ緊張感が蘇ってきた。窓に映る自分の顔を、廊下を歩きながら、ちらりと確認する。髪は乱れていない。顔に、塗料はついていない。服装も整っている。これなら、夏休み前と、何も変わらない。
泉の話していた、「夏休みで人が変わる」という言葉が、どうしても気にかかる。何しろ、これだけの時間が開いてしまっているのだ。私が変わらなかったからといって、慧が変わらないとは、限らない。
果たして、図書室に着くと、扉の向こうは暗いままだった。
「……いないんだ」
中には誰もいない。辺りを見回してみたけれど、人のいる気配はない。慧は来ていないようだった。あるいは、私が来る前に、もう帰ってしまったか。
授業が終わったのは、午前中である。とっくに帰宅していても、おかしくはない。
暫く廊下で待ち、そして私は帰ることにした。残念なような、ほっとしたような、複雑な気分。
いろいろ話したかったのに。早苗がイベントを進めたところから、文化祭のイベントのことも、夏休みの出来事のことも、何も話せていない。
変わらない日常の中で、一番大切だった部分だけ、まだ取り戻せていないまま。慧の顔が見たいのに。そう思いながら、私はゆっくりとした足取りで、家に帰った。
まず、いつもより2時間も早く、日の出前に目が覚めた。睡眠不足は肌に悪いから寝直そうと思ったのに、頭が妙に冴えて、眠れない。しかたないから課題を見直して、持ち物を確認し直して、したこともないストレッチまでして、漸く起床時刻になった。
「おはようございます、藤乃様」
「おはよう、シノ。朝早くからごめんなさい」
「いえ、これが日常ですから」
何気ない風に言うシノに、申し訳なくなる。休みの期間と学園がある時期とでは、朝の支度の時間が、少しずれるのだ。
「肩が凝ってらっしゃるような」
身支度の合間に、シノが私の肩に手を当て、圧をかける。強張った首筋が、柔らかく解れるのを感じる。
肩に力が入っているのだ。緊張して。
「藤乃様、何だか入学式みたいですよ」
「そう?」
車に乗り込むと、山口にも指摘される。
そう、なんて涼しい顔をして見せたが、彼は正しい。山口の目は、誤魔化せない。
入学式みたいに、緊張している。久しぶりの学園に、である。
とは言え、休みの間は、文化祭の準備のために度々通学していた。顔を合わせていない級友も中にはいるが、よく会い、親しくなった級友もいる。
他でもない。慧に会うからだ。
顔はおかしくないだろうか。バックミラーを覗き込むと、山口と目が合い、にこりと微笑みかけられた。
夏休みの間中、慧に会うことはできなかった。小部屋のゲームの形跡から、慧の気配を感じたくらい。巡り合わせが悪かったようで、私たちは本当に、会わなかった。
……忘れられてはいないだろうか。
いや、忘れられるということはないだろう。でも、もう私への関心は、薄れているかもしれない。
いや、きっとないだろう。だけど、私にいろいろあったように、夏休み中に慧にもいろいろあったら。
前と同じように話せなかったら、どうしよう。
考えれば考えるほど不安になり、変な汗をかく。学園が近づくほど鼓動が高まり、喉が渇く。
そこの角を曲がった時、慧に会ったらなんて言おう。階段を上った先にいたら。
いちいち心の準備をしたけれど、彼には会わなかった。
「おはよう」
教室に入り、声をかける。いくつかの顔が、ぱっとこちらを向いた。
「おはよう、藤乃さん」
「おはよー」
その中には、アリサもいる。文化祭の準備に多く来ていた人たちと、私は仲良くなった。こんな風に、挨拶を交わせる程度には。
自分の机に、荷物をしまう。いつもの朝の動作だ。
時間は空いてしまったが、日常というのは、こんな風に、大きくは変わらないらしい。
「おはよう、藤乃さん」
「泉さん。おはよう」
「これ、お土産なの。良かったらもらって」
泉に、小さな紙袋を手渡される。丸みを帯びたものが入っていたので、振ってみると、リンと音が鳴る。
「……鈴?」
「そうなの。幸運を呼ぶ、藤の鈴ですって。旅行先で見つけたから、藤乃さんにと思って」
「ありがとう……!」
私はそれを、胸元に引き寄せる。
旅行のお土産を交換する級友を、私はいつも少しだけ、羨ましく眺めていた。私には、そんな関係の友人はいなかったから。
「ごめんなさい、私、何も用意していなくて」
「いいのよ、気にしないで」
向日葵のような笑顔を咲かせ、泉は他の机へ移動した。クラスの誰とでも仲の良い彼女は、お土産をたくさん用意してきたようだ。
最初の登校日は、午前中で授業が終わる。私は屋上で、弁当を開けた。お昼を食べ、午後は文化祭の準備に当てられている。
文化祭の際には、教室も大幅に飾りつけられる。前日は準備日として1日設けられ、そして当日を迎える。
お化け屋敷の大道具はかなり揃ってきた。あとはその手直しと、小道具の作成。そして前日準備の日に、一斉に組み立てという計画だ。
図書室に行けるかしら。
改めて予定を脳内で思い描き、最初に心配したのはそのことだった。放課後を準備に割く中で、どれだけの時間が取れるだろう。
「藤乃さん、やっぱりここにいた」
「あっ……泉さん」
現れた泉は、私の隣に座る。お弁当を開け、食べ始めた。
「初日なのに、他の方と一緒じゃなくていいの?」
「いいの。それに教室、なんだか居心地が悪くって」
泉は、食べながら肩をすくめた。おどけた仕草だ。
「居心地が?」
「前にも増して、すごいんだもの。海斗さんと、早苗さん。夏休みって怖いわね、人が変わっちゃうから」
「……そんなに」
いったい、どれほどの行為なのだろう。
「特に海斗さんが……あ、ごめんなさい。聞きたくないわよね」
「そんなことないわ」
どちらかというと、気になる。積極的に言うのもおかしいので、口には出さなかったけれど。
夏休みって、人が変わっちゃう、か。
おかずを口に運びながら、泉の言葉を反芻する。
それって、慧もだろうか。
「……早苗、行くなって」
「でも私、昼休みは、生徒会室に……」
「昼じゃなければならない、そんな仕事はないだろ?」
教室に戻ると、早苗と海斗が何やら揉めていた。生徒会室に向かおうとする早苗を、海斗がかなりしつこく引き止めている。
……何だか本当に、三角関係になっているみたい。
ゲームでは見たことのない展開に、首をひねる。人が変わったかはともかく、彼らの関係が変わったのは、確からしい。
あれだけ思いが強ければ、海斗のイベント自体を起こすことはできそうだ。早苗さえ、思い通りになれば。
「藤乃さん、器用ね」
「そうかしら。夏休み中、ずっと血のりを塗っていたから、慣れたのかも」
お化け用の衣装に、血のりを塗る。良い感じにおどろおどろしく塗るのにも、コツがあるのだ。赤の色合いや厚みを変えて塗り付けると、迫力のある血になる。
「うん、こんな感じね」
「わあ……」
完成した衣装には、赤黒い血痕がついている。それを見て、隣の女生徒は顔を引きつらせた。
ひとつの小物が仕上がると、達成感がある。出来上がったものを乾かしながら、また次に手を出した。
「ありがとう。これで今日の作業は終わりにしましょう」
アリサの合図で、皆解散する。私は後片付けを手伝い、教室を出た。
窓の外は、薄暗い夕暮れだ。夏は終わり、夜が長くなる季節になりつつある。
下校時刻までまだあったので、私は図書室へ向かった。図書室へ向かう廊下は、相変わらず人気がない。
近づくにつれて、朝と同じ緊張感が蘇ってきた。窓に映る自分の顔を、廊下を歩きながら、ちらりと確認する。髪は乱れていない。顔に、塗料はついていない。服装も整っている。これなら、夏休み前と、何も変わらない。
泉の話していた、「夏休みで人が変わる」という言葉が、どうしても気にかかる。何しろ、これだけの時間が開いてしまっているのだ。私が変わらなかったからといって、慧が変わらないとは、限らない。
果たして、図書室に着くと、扉の向こうは暗いままだった。
「……いないんだ」
中には誰もいない。辺りを見回してみたけれど、人のいる気配はない。慧は来ていないようだった。あるいは、私が来る前に、もう帰ってしまったか。
授業が終わったのは、午前中である。とっくに帰宅していても、おかしくはない。
暫く廊下で待ち、そして私は帰ることにした。残念なような、ほっとしたような、複雑な気分。
いろいろ話したかったのに。早苗がイベントを進めたところから、文化祭のイベントのことも、夏休みの出来事のことも、何も話せていない。
変わらない日常の中で、一番大切だった部分だけ、まだ取り戻せていないまま。慧の顔が見たいのに。そう思いながら、私はゆっくりとした足取りで、家に帰った。
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