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45 兄妹は似ている

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「お姉さん、海行こう! 海」

 食事を終えた凛は、即座に立ち上がり、砂浜の上で足踏みをする。私は、とうもろこしと焼きそばを食べ、もうお腹いっぱいだった。なのに凛に手を引かれ、立ち上がるしかなくなる。

「わかったから、凛ちゃん、待って」
「えー、早く入りたいのに」
「二人だけだと心配だから、僕も行くよ。いいかな?」

 私の背を押しながら、兄が立ち上がる。
 振り返ると、慧はシートに座ったまま。

「はい。俺は水着もないから、ここで荷物番をしています」
「なら、私も……」
「お姉さん、うちと遊んでくれないの?」

 慧だけ待たせるのは申し訳なくて、シートに戻ろうとすると、手が軽く引かれる。凛が、私の手を取っていた。眉尻を下げ、寂しげな表情。

「藤乃さん、大丈夫。行っておいで」
「でも……」
「俺が見ておくから。いろいろと」

 いろいろと。そこには、樹と早苗のことも含まれている。けれど、彼にだけ任せるなんて。
 私は慧と凛の顔を見比べる。慧は、手を前に差し出した。「どうぞ」の仕草。

「すみません、お願いします」
「こちらこそ、凛をよろしく」
「やった! 行こう!」

 私の手を離した凛が、海に向かって走り出す。兄は、軽快にその後を追う。私は追いかけ、途中でバテた。歩いて兄のそばまで近づくと、海面から、凛ががばっと顔を出す。
 凛が顔を左右にぶるぶる振ると、濡れた髪から水が盛大に弾け飛んだ。

「わ、しょっぱい」

 口元に飛んできた水滴を、つい、舐めてしまう。苦く塩辛い味が、舌の上に広がる。顔をしかめていると、ばしゃ、といきなり顔に水がかかった。

「……!」

 声が出ず、私は固まる。鼻の先から、ぽたりと滴が落ちる。

「凛ちゃん、予告しないのはいけないよ。藤乃が驚いてるじゃないか」
「あ……ごめんなさい」
「いえ、大丈夫よ」

 凛に水をかけられたのだ。前髪から落ちる滴が、また唇に当たる。

「お姉さん、凛にもかけていいよ!」

 凛は両手を広げ、待ち構える仕草だ。

「え、だけど」
「いいの、うちもかけたから」
「なら、藤乃の代わりに僕がかけてあげる」

 ばしゃ。
 言うが早いか、水を手ですくった兄が、凛に勢いよくかける。

「なんで! 予告してって言ったのはお兄さんなのに!」
「言ったよ、かけてあげるって」
「言ったときにはかかってた! もー!」

 凛が、腕全体で海水を跳ね上げる。兄に向かって放たれた水は、私の顔にもびしゃびしゃとかかる。
 手の甲で、顔についた滴を払う。まぶたを開けると、きらりと光る瞳と目が合った。期待の眼差し。

 仕方ない。

 私は海水をすくい、凛にかけた。凛は嬉しそうに叫び、また水をかけてくる。やがて誰が誰に水をかけているのか、どうなっているのかもわからなくなった。
 どのくらい、そうしていただろうか。

「つめたーい!」

 全く冷たさを感じさせない笑顔で、凛は言う。水をかけるのに疲れた私たちは、海水に浸っていた。

 海水はひんやりと冷たく、陽射しに熱された肌には心地良い。私は、腰ほどの深さの海に屈んで、肩まで浸かっている。兄は私の隣で、同様に海に沈んでいる。
 寄せる波に合わせ、体が持ち上がったり、沈んだり。波が来るたび、凛が嬉しそうに悲鳴を上げる。
 凛の楽しそうな様子を見ていると、私も、笑顔がこらえられない。

「藤乃のそんな顔、久しぶりに見たよ」

 浮いたり、沈んだり。その合間に、兄が呟いた。

「そうかしら」
「そうだよ。藤乃がそんな風に笑うのなんて、いつ以来かな。僕もなかなか、藤乃と遊ぶことなんてなかったから……」

 兄とこんな風に遊んだのは、いつが最後だろう。兄に言われて、思考が過去に飛ぶ。兄が中等部の頃には、同じことをして過ごす時間は、そんなになかった気がする。その前というと、初等部の低学年の頃だけれど、その頃の記憶なんてほとんどない。

「そう言われてみれば、久しぶりね」
「良かったよ。藤乃と海斗の間にいざこざがあって。おかげで藤乃と、今までより仲良くなれた気がする」

 驚いて兄の顔を見ると、相変わらずの絵になる表情で、にこりとして見せた。この笑顔は、本物の笑顔だ。私は笑顔を返し、波に合わせて、また浮き上がる。

 それにしても、兄の口からそんな言葉が出るとは。
 私自身にとっては、海斗との間に生じた問題は、かえって良いものであった。父が望んでいるからと、好きでもない海斗と無思考に婚約を続けるよりも、ずっと。慧という大切な人もでき、自分の幸せのための目標もできた。
 けれどそれは、私自身のこと。兄には関係のない問題である。

 浮き上がり、沈んで、また元に戻る。私と兄の間に、凛の顔が出てくる。このしょっぱい海水の中に、平気で潜る凛は、髪がすっかり濡れている。
 前髪からぽたぽた垂れる大粒の海水も気にせず、凛は、私と兄を順番に見る。

「お兄さんとお姉さん、そっくり! うちもお兄と似てるって言われるけど、同じくらい似てるね!」

 けたけたと笑い、その勢いで水を飲んで、海中に沈んだ。兄が凛の体を支え、水上に引き上げる。
 げほげほ、と軽く咳き込む凛。その顔は、相変わらず笑顔だ。

「凛ちゃんたちほど似てるかなあ、僕たち。似てるなんて、言われたことないけど」

 私と兄は、いつも「違うね」と言われて育ってきた。兄は成績優秀、私はずっと2番手。兄は外向的、私は内向的。兄は文武両道、私は運動が苦手。似ているどころか、「正反対だ」と評価されるところばかりだったのに。
 凛は丸い目を、ぱちくりとさせる。

「似てるよ。あ、髪が濡れてるからだ! おでこが、すごい似てるもん」
「おでこ……?」

 私は額に手を当てた。兄も同様の仕草をしている。その間抜けなポーズのまま、目が合った。
 ふっ、と兄が吹き出す。

「そうか、おでこか。ありがとう、凛ちゃん」
「やっぱ似てるでしょ? そう思ったんだあ」

 額が似ているかなんて自分ではわからないが、なんだか、心が温かくなる。

 バタ足で岸に向かう凛を、歩きながら追う。水から出る面積が増えるに連れ、全身で重力を感じる。海から上がるときには、思いきりが必要だった。

「ああ、気持ちよかった!」

 嬉しそうな凛を見ると、疲れたとは言えない。私の全身は、自ら上がった直後の、特有のだるさに襲われていた。
 ふう、と息を吐きながら、軽く肩を回す。
 隣から、長く息を吐く音が聞こえた。見れば、さすがの兄も、顔に薄く疲労を浮かべている。

 兄の髪は濡れ、前髪が分かれて、つるんとした額が露わになっている。

 ……おでこが、似てるのか。

 つい観察すると、兄の視線も、私の額に向いていて。

「いや……思わず見ちゃうね」
「ごめんなさいお兄様、じろじろ見て」

 どちらともなく、はにかむのだった。

「うち、喉渇いた。水筒の中身、全部飲んじゃったの」

 人とテントでごった返す砂浜を歩き始めると、凛がそう訴える。さっきから凛は、何度か咳き込んでいる。

「本当? 僕も、あげられるほどはないなあ」

 凛はまた、けほ、と咳き込む。海水を飲み過ぎて、喉が渇いたらしい。

「買ってから戻ろうか、凛ちゃん」
「いいの?」
「もちろん。僕も喉が渇いたし、慧くんの分も買って帰ろう」

 兄はそう凛に答え、私を見る。

「慧くんもずいぶん待たせちゃってるね。藤乃、シートの場所はわかる? 先に戻っててよ」

 人は多いものの、自分たちがシートを引いていた場所くらいは、さすがにわかる。記憶を頼りに、人の間をくぐり抜けて進む。そろそろ、と思ったところで、見覚えのある猫っ毛が見えた。

 あれ?

「こんなところで何してたの、慧くん」
「俺は荷物持ちですよ。樹先輩たちこそ、どうしてるんですか」
「早苗と海へ行くって、言わなかったっけ?」

 そして、聞き覚えのある声。
 やっぱりだ。

 私が顔を出すと、慧と樹が、楽しげに話していた。その傍らで、早苗が飲み物を飲んでいる。青く透明な瓶に入った、あれはラムネだ。3人とも、シートに座っている。

「良かったよ、落ち着ける場所があって。早苗が飲み物を飲みたいって言うのに、もう、どこにも座る場所がなくてさ」
「ありがとうございました」

 樹と早苗が、笑顔で慧に礼を述べる。
 いったい、どういうことだろう。なぜ樹が慧に声をかけるのだろうと思ったが、そう言えばつい最近まで、慧と共に生徒会室を掃除していたのだ。慧と樹は、よく話していた。ひとりで荷物番をしている慧を見たら、早苗はともかく、樹は話しかけるかもしれない。
 ならなぜ、早苗は平気であそこにいるのか。私が来るとわかっているのに。頭に疑問符を浮かべながら、3人に近寄る。

「あ、おかえり、藤乃さん」
「……お待たせしました、慧先輩。それで、こちらは……」

 樹と早苗に、視線を向ける。早苗は、ゲームのイベントと同じ、派手な水着を着ている。樹も、画面で見たような格好だ。二人揃って、涼しげな瓶を持っている。

「え、慧くんが待ってたのって、藤乃ちゃんなの? 仲良いなとは思ってたけど、驚いたな」

 なるほど、慧が誰と一緒に来ているかまでは、知らなかったらしい。

「二人じゃないですよ、樹先輩。兄も直ぐに戻ってきます」
「げ、桂一先輩が?」

 まずい、と顔をしかめる樹。生徒会室を散らかしっぱなしにしていたことに、ずいぶんな負い目があるようだ。
 その隣で、平然とした表情の早苗が、ぐ、と瓶を傾ける。瓶に内蔵されたビー玉が、カランと音を立てる。

「ごめんね藤乃さん、勝手に。声をかけられて、少し休憩させてって頼まれたから、つい引き受けちゃった。俺もひとりで暇だったし」

 慧の弁解の言葉に、私は緩く首を振る。

「こちらこそ、お待たせしてすみません」
「ううん、いいんだ。いろいろ話ができたから。先輩たち、落とし物が見つからないんだってさ」

 落とし物が、見つからない?
 それって。
 ピンと来るものがあって慧を見ると、彼は目だけで頷いた。

「そうなんだよ。藤乃ちゃん、見なかった? ええと……なんだっけ……赤いラベルのボトル?」
「そうなの」

 樹の言葉に、早苗が頷く。
 赤いラベルのボトル。【メッセージボトル】だ。早苗は、イベントアイテムを探して、樹と一緒に砂浜を歩き回っていたわけか。
 探しても見つからない。つまり、私たちが先に拾っておいたことで、イベントが起きなくなっていると言える。

「ごめんなさい、飲み終わった。ちょっと座れて、嬉しかった。樹が場所を見つけてくれたからだわ。ありがとう」

 早苗は相変わらず、樹にしか話しかけない。彼女は私たちが、イベントアイテムを先に拾ったなどとは思っていないのだろう。私や慧に対する、何のアクションもない。
 それでいい。「横取り」みたいに真っ向からぶつかるのではなく、気づかれずにイベントを回避しようとするのが、私たちの作戦だったから。

「おれじゃないよ。慧くん、ありがとうね。じゃあ、行こうか」

 樹が早苗の手を取り、去ってゆく。あんな風に睦まじくしていても、イベントは起こっていない。ゲームの進行上、イベントを阻止できれば、ストーリーは進められないはずだ。

「まだ探すの、早苗?」
「うーん、どうしよう」

 歩き去ってゆく、早苗と樹の会話が聞こえる。

「ほら見て。これ、ラムネに入ってたの。すごい、【綺麗なガラス玉】ね」

 早苗の声が微かに聞こえ、私ははっとした。【綺麗なガラス玉】。それは、イベントアイテムだ。
 まさかラムネに入っているビー玉を、アイテムに見立てようとでも言うのだろうか。
 慧は聞こえなかったらしく、シートに座り直して、のんびりと飲み物を飲んでいる。

「慧先輩、今」
「うおっと」

 声をかけようとしたとき、慧の顔が、ばっと前に移動する。

「危ないな、凛!」
「失敗しちゃった、お兄、なんでわかったの」
「冷気を感じたよ」

 慧の後ろで、凛がペットボトルを掲げている。慧は今回、首に当てられる直前に、回避したらしい。
 辺りを見回したが、もう早苗たちの姿は見えなかった。嫌な予感がする。

 イベントが起こるきっかけは、曖昧だった。だから私が、樹のイベントを「横取り」するようなことが起きたわけで。
 あのビー玉でも、もしかしたらイベントが起きてしまうかもしれない。

「ねえ、お姉さん!」
「あっ……ごめん、凛ちゃん。なあに?」

 凛の呼びかけは、何度か呼んでいたかのような、強めの語気だった。考え込んでいて、無視してしまったらしい。

「お姉さんは、炭酸とスポドリとウーロン茶、どれがいいー?」
「ありがとう。お茶を頂いてもいい?」
「もちろん。お兄は炭酸だよね」

 答えを聞く前に、凛が慧にペットボトルを手渡す。あれは、図書室の小部屋で、慧がいつも飲んでいるものだ。
 慧は早速、ペットボトルの蓋を開けた。ぷしゅ、と気の抜ける音。

「やっぱりお姉さんは、お茶だったよ」
「ほらね。僕は、藤乃の好みはわかるんだ」

 ウーロン茶を持つ私を見て、兄が自慢げに言う。

「お兄は、炭酸だったもん」

 兄に張り合う凛。口を尖らせ、拗ねたような表情だ。

「ああ、そっちも正解だったね」
「桂一先輩は、俺たちで遊んでたんですね」

 スポーツドリンクを持った兄と凛が、私の左右に座る。

「遊んでないよ。クイズだもん」
「慧くんたちで遊ぶなんてこと、しないよね」

 凛は、口元を押さえ、くつくつと楽しげに笑った。
 楽しいやりとりだ。楽しいやりとりなのだが、慧に肝心なことを伝えるきっかけが作れない。
 イベント自体は、たった数回の会話のやりとりだ。もしかしたら、もう、終わってしまっているかも。

 心を落ち着けるために、お茶のボトルを傾ける。
 よく冷えたお茶は、渇いた喉を潤してくれる。飲んでいると、自分の喉がとても渇いていたことに気づいた。汗をかいて失った水分が補給され、全身に染みわたる感覚。

 してやられた。アイテムを代用できるなんて。

 私は、苦々しく、そう思っていた。

「さあ、帰ろうか」

 結局、慧と二人で話す時間は取れず、私たちは帰ることになってしまった。
 早苗と樹のイベントは、止められていない。恐らくビー玉で代替されている。慧はそれに気付いていない。やきもきするのは自分だけで、話しかけるタイミングもなく、既に西陽が射している。

「楽しかった! 二人とも、ありがとう!」

 焦っているときでも、屈託のない凛の笑顔には、心を癒される。

「私も楽しかったわ」
「お姉さん、写真撮ろう、写真!」

 凛が掲げる携帯電話の画面に、私は顔を写し込む。ぱしゃ、と音がして、私と凛の顔が記録された。

「ごめんね藤乃さん、凛とたくさん遊んでもらって」
「いえ、私も楽しかったので」

 本当に楽しかった。慧は眉尻を下げ、申し訳なさそうに笑う。

「夏休みも俺は、文化祭の準備がある日は図書室に行くから。またその時まで」
「そうですね、そうしましょう」

 そのときに、慧には伝えればいいのだ。

 今回駄目でも、次のイベントを、また別の方法で止めれば良い。夏休みは長いし、慧もいる。一緒にゲームをして、続きを探れば良い。幸いにして、時間はまだある。

「また今度、藤乃さん」
「はい、また今度。慧先輩に、……凛ちゃん」
「またね、お姉さん、お兄さん!」

 夕陽に向かって歩いていく二人の背中が、シルエットになって見える。仲良さげに、顔を合わせて話している。
 あそこまで仲良くはないが、私も兄と、今日はたくさん話せた。兄を見る。二人を見送る兄の、前髪が分かれて見える額。
 おでこが似ている、だなんて。誰も気づかないようなところだが、なんだか嬉しかった。

「楽しかったね」
「お兄様も?」
「ああ。……いい人たちだよね、慧くんも、凛ちゃんも。藤乃が好きになるのがわかるよ」

 私たちも歩いて、浜辺の近くで待たせている車に向かう。兄の表情が、柔らかく緩んでいる。
 慧も凛も、いい人だ。兄の言う通り。私は、深く頷く。

「そうなの。慧先輩は特待生で庶民だって卑下するけど、私は本当に、いい人だと思っているの」
「……そうなんだね。庶民、か。そんなの関係ないのにね」
「そうなの」

 兄にも、特待生の友人がいる。家が裕福かどうかなんて、人柄には関係ないのだ。前を見ていた兄が、ふ、と私を見下ろす。

「おでこが似てる、って言われたね」

 その目は、凛を見る慧の目と同じだ。
 私は、額を押さえる。髪が変な風に乾いて、額が出ていたらしい。

「嬉しいわね、似てるって言われると」
「初めて言われたかもしれないよ」

 こんな雰囲気で兄と会話したのは、本当に、久しぶりだった。
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