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第十四話・ジュエリービーンズの乙女たち

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 シトリンは、戸惑っていた。
 料理を作ってマリンを待って待って待って、ひたすら待って。マリンの好きなワインを冷やして、持ち帰った帝王イカで四種類のおつまみを作って。
 そして約束の二十時を一時間ほどオーバーした二十一時過ぎに、マリンは帰ってきたのだけど。
(……誰だろう?)
 マリンは、一人の女性を連れて帰ってきていた。マリンより少し年下で自分より少し年上っぽい少女(後にマリンの四つ年下、十七歳と判明)。
「お客様、ですか?」
「うん。シトリン、いきなり連れてきてごめんね?」
 そのお客様は、鎧を着てて剣を帯刀している。そして何故か、左肩に蝙蝠を乗せていた。
(あれ、ただの蝙蝠じゃないな……)
 とてつもなく禍々しい、魔の圧力をシトリンは感じ取る。だが何より、お客様を連れ帰ってきたというのにマリンの表情が芳しくないのが気にかかった。
「こちら、クラリスでん……クラリスさんじゃけ。私の知り合いっちゅうかね、久しぶりに会ったんじゃけど」
「はぁ……」
(でん? マリンさん、何言おうとしたんだろう)
「あなたがシトリンちゃん? よろしくね!」
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします、クラリスさん」
 とりあえずマリンの客人なのだから、ペコリと頭を下げるシトリン。
(奴隷に対して、イヤな態度をとらない人だな)
 と好感は持つものの。
「それではクラリス様……じゃなくて、クラリス。上がってくださ……ちょうだい」
「うん、じゃ遠慮なく」
「???」
 何故かマリンが、自分より年下であろうその少女をリスペクトしているというかへりくだっているのがシトリンには気になった。そしてそれは、家の中に入っても続く。
 クラリスを椅子に座らせるために自ら椅子を引いたり、クラリスの前でグラスに丁寧にワインを注いだり。
(っていうかそれ、マリンさんの大好きなワイン!)
 マリンのために、決してお財布には優しくなかったが自分の給料から奮発したのにと……シトリンは内心怒っていた。マリンに対してなのか、クラリスに対してなのかは自分でもわからなかったけれど。
「ところでクラリス、その肩に乗ってる蝙蝠……ただの蝙蝠じゃないですよね?」
 マリンが、クラリスの肩に乗ってる蝙蝠をジロリと一瞥する。
「あ、はい。ブルー、ワイングラスをもう一つ用意してもらえますか?」
「は?」
 そして次の瞬間、その蝙蝠から黒い瘴気が漂い始め……それが晴れたそこには鮮やかなショートヘアの金髪、瞳はルビーを思わせる深紅のルビーレッド。そして大きな蝙蝠の羽。
「吸血種の亜人……ううん、違うわね。おそらく、真祖の吸血鬼トゥルー・ヴァパイア?」
 鳥獣人の中には、吸血蝙蝠の獣人もいる。だが古代から連綿と続く血統を持つ、いわゆる『吸血鬼』はそれらと一線を画す。
「クラリス、こちらは?」
 マリンの笑顔は、引きつり気味だ。ただでさえ、シトリンとの晩酌を楽しもうと思っていたところにクラリスの来訪……そして客が一人増えたのだから。
「あー、このポンコツがごめんな? ブルーつーたっけ? 私はデュラ、デュラだ。呼び捨てで構わん」
 だがそれを聞いて、マリンの顔は緊張感に包まれた。そしてスッとデュラの前で片膝をつく。
「メラク王国は天璇の塔を守護するデュラ師マスター・デュラですね? お初にお目にかかります。私はアクアマリン・ルベライトと申します」
 そう名乗って、深々と頭を下げた。ご主人様がそうしたのだから、何がなんだかわからないシトリンも慌ててマリンの横でそれに倣う。
「こちらは私の家族でシトリン、シトリン・ルベライトです」
 そう言ってマリンが、シトリンを紹介する。
(家族……)
 マリンがそう思ってくれているのは知っているが、他人に対して紹介されるとその思いも格別だ。シトリンは嬉しくて、頬が緩んでしまう
「ああいい、いい。そんなに畏まらなくても」
 デュラと名乗ったその吸血鬼の少女は、ちょっと困った顔を浮かべてそれでもフレンドリーにマリンに微笑みを見せて。
「あの、マリンさん? いったい?」
 マリンは立ち上がり、そしてシトリンの腕の下に自分の腕を入れてシトリンも立たせる。
「ここフェクダ王国は天璣の塔にソラ姉がいるように、このカリスト帝国を構成する七つの国のうちで六カ国に塔に住まう賢者がおるのは知っちょるよね?」
「はい」
「そのうちの一人、メラク王国は天璇の塔の守護者にして真祖の吸血鬼。それがこちらのデュラさんなんよ」
 シトリンにそう説明してマリンはクラリスに向き直り、
「まったく、何てVIPをつれてくるのよ⁉ 事前に言ってくれませんか‼」
 少し苛立ちながら、そう言って唇を尖らせる。
「ごめんごめん!」
「にしてもデュラ師と知り合いとか、あなたの交友関係はどうなっているんですか」
 呆れた表情で、マリンは嘆息するのだけど、
「ソラさんの妹分でもあるブルーにそれ、言われたくないですね?」
 クラリスに明るく言い返され、ぐうの音も出ないマリンだ。
(ブルー呼び……つまり、マリンさんのハンター時代からの知り合いだろうか)
 シトリンは、その意味について考える。
 かつてマリンは『闇より昏き深海の藍ディープ・ブルー』というクラン名で活動していたことから、ハンター時代からマリンを知る人やハンター時代のマリンを尊敬・崇拝している人からは『ブルー』という愛称で呼ばれていた。
 ちなみにマリン自身は、そう呼べと言ったことは一度もないのだけれど。
 クランと言いつつ臨時で助っ人を雇ってパーティを組むことがあるものの、基本的にソロ活動だ。そして今は自分シトリンが、そのクラン唯一無二のマリン率いる一員として登録されている。
「あっ、あの、クラリスさん?」
「ん? 何かな、シトリンちゃん」
「クラリスさんは、昔のマリンさんを知ってる方なのですか?」
 シトリンのその発言を受け、クラリスがマリンの顔色を伺う。だがマリンは特に肯定も否定も態度に表さないので、
「うん。と言っても私のほうが四つ年下だから、私がブルーを尊敬しているんです。そこらへんはシトリンちゃんと同じですね」
「あ、はい!」
 俄に、クラリスに仲間意識を持つシトリンだったけど。
「でもそれにしては、マリンさんの態度が? さっきからまるで、マリンさんのご主人様のようです」
 ずっとモヤモヤしてたシトリン、続けてとんでもないことを口にする。
「マリンさん、浮気ですか? クラリスさんは、マリンさんのご主人様なんでしょうか」
「うっ、浮っ⁉」
 シトリンのその言葉を受けて動揺するマリンだが、シトリンは真剣だ。そして、目に涙を溜めてウルウルしている。
「そうじゃなくて……」
 困った表情でマリンはクラリスを見るが、
「あ、ブルー。大丈夫です、ばらしても。ただお忍びなので、内緒にしてもらえたら……」
 との言質を得て、改めてシトリンに向き直り。
「シトリン、こちらはクラリス・カリスト殿下。このカリスト帝国の皇帝であるディオーレ・カリスト陛下の第一皇女で、いずれ次期皇帝になられる皇太子殿下なんです」
「……」
「シトリン?」
 明らかに様子がおかしいシトリンに、マリンが心配そうに問いかける。そしてクラリスが、シトリンの目の前で手を振って何ごとかを確認。
「シトリンちゃん、立ったまま気絶していますね……」
 シトリンの人生の中で何番目かに長い夜が、こうして始まろうとしていた。


 俄に始まった酒宴で、マリン宅のリビングはかつてない賑わいを見せていた。
 といってもマリンとシトリンはキッチンで次々と料理というか酒の肴の用意に追われ、とてもじゃないがその輪には加わることができず。
「シトリン、本当ほんまにごめん……」
 鍋をお玉でかき回しながら、マリンが申し訳無さそうにシトリンに詫びる。
「気にしないでください、マリンさん。こうしてマリンさんと並んでお料理ってのも、悪くないですから!」
 シトリンは包丁を片手に、野菜を切り刻みながら楽しそうに話す。
「まったく、あのクソ皇女……」
「不敬罪ですよ、マリンさん。もうちょっと声を抑えてください」
 そう言ってマリンを諌めながらも、シトリンは何故か楽しそうで。これまで料理を作るのはマリンと交替シフトをとっていたので、並んで料理するのはこれまで数えるほどしかなかったからだ。
「ねぇ、ブルー。まだですかー?」
 だがそんな雰囲気をぶち壊すかのごとく、リビングからは脳天気そうなクラリスの催促が聴こえてくる。
「もうちょっと待ってください!」
 マリンはイラ立ちを隠さず、半ば怒鳴るように応じて。
「シトリン」
「はい」
「あいつら帰ったら、抱いてちょうだい」
「⁉」
 マリンの耳を疑うようなリクエストに、思わず包丁を持つ手が止まるシトリンである。
「あっ、あのっ⁉」
「もう本当に……」
 だがマリンは憤慨したまま、特にシトリンの反応を気にする様子はなかった。そしてブツクサ言いながら調理を続行する。
(マリンさん、本気かな?)
 シトリンとしては、マリンが自分のを言ったことを理解しているのかどうかわからなくて。でも、それでもいい。
(たとえ、無意識だろうがその気じゃなかろうが……マリンさんの中で、私がマリンさんの心を慰める存在になったってことだよね?)
 ポジティブシンキングのシトリンである。
(問題は、マリンさんが自分の言ったことを理解しているかどうか)
 憤慨のあまり、意味もなく発しただけかもしれない。期待しすぎてそれがハズレだったら、自分もがっくりだがマリンにも恥をかかせてしまう。
 だがシトリンのそのささやかな胸の高鳴りは、不意に鳴った呼び鈴によって終焉を告げた。
「お客さん?」
「こんな時間にですか?」
 時刻は午後十時過ぎ、アポイントも無しに来訪していい時間ではない。
「私が出るけん、ここはお願いするけ」
「かしこまりました」
 そしてマリンがエプロンで手を拭きながら、いそいそと玄関へ向かう。
「どちらで……」
「あ、マリン。お招きありがとうね」
「ソラ姉⁉」
 思わずマリンは、首をかしげる。
(お招き? 誰が? 私が?)
 だがそんなマリンの戸惑いを勘違いしたのか、
「あ、大丈夫。ちゃんと『言われたとおり』、お酒持ってきたから」
 そう言ってワインのボトルを二本取り出して、ソラは満面の笑みだ。
「ソラ姉、つかぬことをお伺いしますが」
「何かな?」
「ソラ姉にここへ来るようにとは誰が?」
 マリンのその言葉で、ソラは不思議そうな表情になって。
「え、デュラから魔電で……まさかデュラ、マリンに承諾も得ず勝手に私を呼んだの⁉」
「はぁ、デュラさんですか……」
 マリンは思わず両手両膝をついて、思いっきり疲労困憊の沼に沈む。クラリスなら文句の一つも言ってやれるし、耳をつまんで外に放り出しもしただろう。
 だが相手がデュラとなると分が悪い。いくらマリンとて今日初めて会った、しかもすべてを超越した賢者相手にそんな態度はとれないからだ。
「ごめんなさい、マリン! 私はてっきりマリンも了承してるものだと思って……とりあえず今日は帰るけど、明日また来るわ。あのバカ蝙蝠に一発くれてやらないと気が済まない!」
 ソラは憤懣やる方なしといった塩梅で、申し訳無さそうにマリンに頭を下げる。だがマリンはやんわりとそれを手で制し、
「いえ、せっかくですから……料理も多めに作ってますので、参加していってください」
「いいの?」
「ご遠慮なく」
 そしてソラをリビングに案内して、自分は再度キッチンに戻る。そのマリンの背後から、
「このバカタレがーっ‼」
 というソラの怒鳴り声がして、おそらく頬をはたいたような破裂音。
(やれやれ……)
 呆れて呆れて、もうマリンは言葉も出ない。ここは私の家のはずなのだけどと、無力感だけが押し寄せる。
 そして続けて聴こえてきたのは。
「クラリスっ! あなたも見てたなら止めなさいよ!」
(ソラ姉とも交友あるのか、あのポンコツ皇女)
 まぁよく考えればデュラとも親交があるようなので、ここフェクダに住まうソラと顔見知りであっても不思議ではないのだが。
「あんなのが次期皇帝とか、大丈夫なんかねぇ?」
 思わずため息をつくマリンと、
「あの人たち、今晩帰ってくれるんでしょうか……」
 マリンの発言の真意を知りたいシトリン、心底震えながらそう呟くのだった。
 そしてその日の晩……マリンとシトリンは、シトリンのベッドで一緒に横になっていた。といってもシトリンの期待どおりの結果になったわけではなく――。
「シトリン、怒っちょる?」
「マリンさんには怒ってないですよ」
 ニコッと笑ってそういうシトリンだが、『マリンさんには』の部分を強調。今マリンの部屋のマリンのベッドでは、クラリスとデュラが酔い潰れて寝ているのだ。
 ちなみにソラは、『マリンとシトリンちゃんに悪いから』と自宅へ一人で帰っていったものの。そういうわけなので同じ屋根の下、マリンとおっ始めるわけにもいかなくて。
「確認ですけど、マリンさん」
「何ね?」
「先ほど、私に抱いてくれって言ったのを覚えていますか?」
 意を決して、シトリンは言葉を紡ぐ。そして対照的にマリンは、この子は何を言い出すのかと動揺しきりだ。
「シトリン⁉ それ、何のこと……」
「ふふ、そうですか。そんな気はしてました」
 結局自分の一人相撲だとわかって、シトリンは思わず笑ってしまう。
「あの、シトリン?」
「なんでしょう」
「あ、いや。その……」
「?」
 マリンが何かを言いたそうだが、なかなか踏ん切りがつかなさそうでシトリンは訝しむ。
「なんでしょう? 遠慮なくおっしゃっ」
 そしてそう途中まで言いかけたシトリンの唇を、マリンの唇が塞いだ。
「シトリン、おやすみっ!」
 マリンは顔を真赤にしてそう言うと、照れ隠しにガバッと背中を向ける。
「……はい。おやすみなさい、マリンさん」
 思わず自分の唇をおずおずと触り、マリンの唇の感触を反芻するシトリン。
(眠れそうにないな)
 シトリンはそのマリンのおやすみのキスで、今日一日の疲れが全部吹っ飛んだ心地になったのだった。そして翌朝――。
「ブルー、昨夜はごめんなさいね?」
 さすがに申し訳無さそうな顔になるクラリス。デュラは蝙蝠形態になって、クラリスの肩にチョコンと乗っている。マリンはジト目でデュラに目をやるが、さすがに蝙蝠デュラも気まずそうに顔を背けた。
「いいですけどね。今日も私とシトリンは仕事がありますので、さっさと出ていってくれると本当に助かります」
 マリンのその迫力ある雰囲気に、クラリスは一瞬ビクつくのだけど。
「えーと、朝ごはんは……」
「びび漬けなら用意できますよ?」
 優しく笑顔でそう言うマリンだったが、ここフェクダ王国の首都・ガンマでは『びび漬けを振る舞う』というのは『さっさと出ていけ』という隠喩だ。びび漬けとは昨夜の残り物にお湯をぶっかけただけの料理とは呼べない代物で、『これでも食らえ』という嫌悪の情を意味する。
「は、はは……ご立腹なようで」
 結局、クラリスとデュラはそのままマリン宅を退散してくれた。マリンとシトリンは大きな溜め息を同時につきながら、背中をくっつけたままへなへなと座り込んでしまう。
「嵐がやっと去ってくれたけん」
「えぇ、本当に……」
 だがゆっくりもしていられなくて、マリンとシトリンともに出勤の準備に入る。
「今日はシトリン、『どっち』じゃっけ?」
「黒足袋亭のほうです。だから一緒に出ましょう」
「んっ」
 シトリンは日によって、ハンター業に専念することがあるのだ。その時はマリンが先に家を出るのだけど、黒足袋亭のシフトが入っているときは職場が同じなのもあって同時に出るようにしていた。
 そしていつもの海を見下ろす小高い丘の上の小径を、てくてくと二人並んで歩く。海へと続く青い花の絨毯が、潮風を受けて笑っている。
「シトリン」
「はい?」
「多分じゃけど、今晩……はないかな。明日以降で、クラリス殿下はまた来ると思うんよ」
「……そうですか」
 思わず無表情になるシトリンに、マリンは思わず吹き出してしまい。
「また『ああなる』わけじゃないけ、安心しんさい」
「はぁ」
「殿下は、根は悪い子じゃないけ。改めて謝りに来ると思うんよね」
「そうですかね」
 シトリンは懐疑的だ。昨夜マリンを諌めておきながら、シトリンも無意識に不敬な態度を隠せない。
 そのとき強い風が吹いて、マリンとシトリンの髪を漉いてゆく。二人は思わず髪を抑えて、会話が途絶えた。そして道はやがて街の中に入ったところで、シトリンがボソッと口を開く。
「できれば、夜には来ないようにしてほしいですね」
「うん?」
 シトリンの発言の真意がわからないマリンだったが、シトリンがそう望むならと心にそれを留めおく。そしてハンターギルドに到着してマリンはカウンターへ、シトリンは厨房へ。
 そしていつもの、一日が始まる。その日も黒足袋亭はハンターたちで大混雑を極め、その間隙を縫うようにシトリンが軽やかに料理を乗せたトレーを持って軽やかに駆けずり回るのだけど。
「あっ……」
 どちらが悪いともいえなかったが、出会い頭で一人の筋骨隆々な大男のハンターとぶつかってしまうシトリン。料理は間一髪でこぼさずに済んだが、衝撃で飛び散った料理がその男の顔にかかってしまった。
「熱っ! 何しやがんだこのバカ猫が‼」
「すっ、すいません‼」
「ったく獣人って奴はコレだから……」
 男はぶつくさ言いながら、その太い腕で顔の汚れを拭う。
「ごめんなさい‼ 私がお拭きします!」
 本当に申し訳無さそうに、シトリンがハンカチをポケットから出してその男の顔にあてようとするのだけど……身長差が大きいため、思わず背伸びのシトリン。思わずよろけて男の胸に手を付いてしまう。
「触るなっ!」
 男はそう言ったが早いが、シトリンの頬を手の甲で振り抜いた。男としては反射的にそうしただけで、シトリンを殴ろうとする意図はなかったかもしれない。
 だがその衝撃で、シトリンは軽く吹っ飛んでしまい床に叩きつけられてしまった。
「汚れた奴隷ごときが、俺様の顔に触るんじゃねぇぞ?」
「……っ‼」
 シトリンは思わず振り返りながら男の顔を睨むものの、店員と客という立場を考えて湧き上がる感情に無理やり蓋をする。そして周囲にいるハンターたちは、一斉にハンターギルドの三番カウンターを振り向いた。
 そこには、眼鏡を外したマリンが……禍々しい狂乱の藍色の瞳を光らせて、その経緯いきさつを見守っている。そしてそれを目撃したハンターたちは、青い顔で一斉に目を背けて。
(あーあ、あいつ死んだわ)
(あの野郎、新人か? シトリンちゃんてあのブルーの子飼いだぜ?)
(いやいや、前の騒ぎ忘れたか? シトリンちゃんを怒らせてもまずいんだぞ!)
(ブルーとシトリンちゃん、どっちが先にキレるんだ⁉)
 ハンターたちは口々に、そんなことを小声でつぶやき合う。
 幸いにして、前回と比べて周囲はシトリンに好意的な常連ばかりだった。そして本来ならシトリンの助けに入りたいところだったが、前回と違うのはマリンの存在。
 前回と違い、今日はマリンがいるのだ。下手をすると、巻き込まれてしまう。そして厨房へと続く扉からは、パールがその真紅の眼を光らせていた。
(シトリンちゃんを止めるべきか、マリンさんを止めるべきか……先に私がアイツをぶっ飛ばしちゃおうか⁉)
 どちらにしろ、シトリンの頬を打ったのだ。マリンがやるにしろシトリンがやるにしろ、五体満足では帰れまい。
「ったく躾のなってねぇ奴隷だな? ご主人様とやらの顔が見てみたいもんだ」
 男のその発言で、シトリンの猫耳がピクッと反応した。ハンターの何人かが、おそるおそる席を立って遠ざかる。
「なんだぁ、その目はよぉ? 奴隷が奴隷なら、お前のご主人様もそうなんだろうな! きっと醜悪なツラしてやがるに違いないぜ‼」
 男がその言葉を発した瞬間、ガタガタッと大勢が席を立つ音が響く。いつのまにか男とシトリンの周囲の席は、人が一人もいなくなっていた
獣臭けものくっっせーな、本当によ! どうせお前のご主人もウンコみたいな臭いすんだろ、ぎゃははははは‼」
 無表情でうつむいたまま、シトリンの握りこぶしが小刻みに震えている。そして兎獣人であるパールもまた、不穏な表情で拳をコキコキ鳴らしながら歩み寄ろうとするのを……ハンターの少年、ヴァータイトが制した。
「ヴァータイト君?」
「マリンさんから伝言です。『シトリンに任せてほしい』と」
 それを聞いて、パールは思わず三番カウンターを振り返って。マリンが怒りで引きつった表情ながらも、パールに向けて無言で頷く。
(シトリンちゃんに任せるって……でもこの前みたいなことになったら?)
 不安を隠せないパールだったが、ここはマリンを信じて鉾を収めることにした。
「今、何て言いましたか?」
 シトリンはうつむいたまま立ち上がり、地の底から響いてくるような重低音で静かに言葉を紡ぐ。
「あ?」
「私のマリンさんが、臭い?」
 自分が言われるのは納得できる。猫獣人だから、たとえば夏場とかは自分でもわかるぐらい体臭がきつい。だがマリンは違う、違うのだ。
 いつも、あの小高い丘に咲く勿忘草わすれなぐさのいい香り。シトリンを優しく包み込むかのような、至福の――。
「あ、なんだ。やろうってのか‼」
(やっぱ無理じゃった⁉)
 マリンとしては、あの日にシトリンにかけた言葉を思い出してほしかった。だから自分も我慢して、あえて耐えていたのだけど。
 だが今シトリンは、猫獣人と蔑まれたことに怒ってはいない。そして、奴隷扱いされたことにもだ。
 シトリンの怒りが沸点を越えたのは、ひとえに敬愛するご主人様であるマリンを侮辱されたこと。ただただ、その一点のみ。
 それまで大人しく(?)見守っていたマリンだったが、思わずバンッとカウンターを両手で叩いて立ち上がった。そして隣の二番カウンターでは、暴走しかねないマリンとシトリンに先んじてその男を制しようと、モルガナが投げナイフを構える。
「……取り消せ」
「あ?」
「取り消せ!」
 シトリンは右手の鋭く尖った猫爪をニョキッと露出させ、今にも飛びかかりかねない悪鬼の表情を浮かべていたのだけど……不意に脳裏に甦るは、あの日マリンがかけてくれた言葉。
『もしまたこんど、どうしようもない感情の渦に取り込まれそうになったときは、心を落ち着けてゆっくり心の中を見渡しんさい』
「あ……」
 シトリンは、一気に血の気が下がるのを感じた。マリンのその優しい声で、出した爪も無意識的に引っ込んでしまう。
「あぁん? やるのかやらねーのか、どっちだ?」
 不意にクールダウンしてしまったシトリンに、男は拍子抜けたような表情で訝しげにシトリンを見やった。シトリンはハッとして、脳裏に響く優しいマリンの声に耳を傾ける。
『シトリンの中に私はおるけん。シトリンから見えやすいように、一番キラキラした場所におるけん』
 そしてガバッと三番カウンターを振り返ると、マリンと目が合って……ホッと安堵した表情で、マリンが無言で頷いた。
『そしてそのキラキラが指さすほうへ、臆せず惑わず進むとええよ。もしその道が間違ってたら、私が一緒に怒られてあげるけん』
(キラキラ……私の中のキラキラは、いつもマリンさんがいる場所だ)
 シトリンは、たちまちのうちに冷静に帰った。だがその男にとって不幸だったのは、シトリンと違い冷静に帰らなかった人物がその場にいたことである。
(よく耐えたね、シトリン)
 シトリンが冷静になったことで、逆にマリンの憤怒の感情が竜巻のように舞い上がる。マリンは無言で、下を指差すジェスチャーをして見せ、続けてデコピンのようにピンッと指を弾くジェチャー。
(かしこまりました!)
 ニッコリと笑ってシトリン、男のほうに向き直ると。
「本当にすいませんでした!」
 と深々と頭を下げた。だが男は却って逆上してしまい、
「それぐらいで許すと思うのか、この猫奴隷が!」
 といきり立ち、テーブル上のエールの瓶を手に取る。そして振りかぶって、まだ頭を下げたままのシトリンの後頭部に向かって振り下ろそう……として。
 シトリンの電光石火ともいえる腕と指の動きは、高い動体視力を持ってしても目で追うのがやっとだったかもしれない。
『グジュッ』
 という謎の音が男から発せられた。そして同時に、男が泡を吹きながら後方へ派手にぶっ倒れてしまう。
 男は白目を剥いて、すっかり失神していた。そしてその股間が、みるみる腫れ上がっていき……。
(あ、まさか⁉)
(おいおい、嘘だろ!)
(やべぇ、俺まで痛くなってきた)
 シトリンが『何をやったか』がかろうじて見えた高ランクハンターの男たちが、口々に青い顔で呟き合う。何人かは、思わず自分の股間を押さえながら。
「……何が起こったんでしょう?」
 その様子を遠目に見ながら、ヴァータイトは不思議そうに首を傾げた。
「あー、ヴァータイト君には見えなかったのですね」
「何がでしょうか?」
「えーと……」
 どう説明していいのかわからず、パールは思わず赤面してしまう。だが不思議そうにこちらを見てくるヴァータイトに、意を決して口を開いた。
「クルミを潰したんですよ」
「クルミ?」
 何のことだかわからず、ヴァータイトはさらに混乱したのであった。


「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
 ここはマリン宅、リビングのソファーにマリンとシトリンが並んで座っている。そしてローテーブルを挟んで、紫水晶アメシストの瞳はクラリス。
 本来ならば、そう簡単に頭を下げていい身分ではないクラリス……この帝国の皇太子にして、次期皇帝となる身。それが申し訳なさそうに、深々と頭を下げていた。
「いや、その私も……止めるべき立場だったと思う。すまない」
 そしてその隣、真祖の吸血鬼トゥルー・ヴァンパイアにして隣国・メラクは天璇の塔を守護する賢者・デュラ。紅く燃えるような真紅の紅玉ルビーレッドの瞳が印象的だ。
 こちらも申し訳なさそうに、ペコリと頭を下げている。
「デュラ、もう少し深く頭を下げたら? そしてマリン、私からもお詫びするわ。本当の本当にごめんなさい!」
 そう言って深々と頭を下げるは、ここフェクダは天璣の塔を守護する賢者にして『魔女』であるソラ。縞瑪瑙オニキスを思わせる艶のある漆黒の瞳には、灯りが反射して白い天使の輪を顕現させている。
「いえ、ソラ姉はデュラさんに騙されただけですから」
 そう優しく声をかけるはマリン、澄んだ藍玉アクアマリンの瞳。本名も同じくアクアマリンである。
「そうです、ソラ様『は』悪くないです」
 意味深にそう言ってソラを庇うのは、太陽のような黄水晶シトリンの瞳。こちらも名前は同じ、シトリンだった。
 マリンとシトリンが、揃ってチラとデュラを見る。
 デュラは居心地悪そうに顔を背けるのだが今度はクラリスと目が合ってしまい……二人仲良く、うつむいてしまった。
 この三人が何故頭を下げているかというと、それは数日前のこと。
 この大陸で二人しか存在しないSSランクハンター、クラリスはそのうちの一人だ。そしてもう一人が、マリン。
 二人は決して仲が悪いわけではなかったが、せいぜいがとこ顔見知り程度……にも関わらず、クラリスはフェクダに別件で訪れたついでにデュラを連れてマリン宅を訪問。
 そしてマリンとシトリンに料理作りを任せ、デュラと二人でどんちゃん騒ぎの酒宴をやらかしたのだ。
 クラリスは皇太子で、デュラは六賢者の一人。対してマリンは平民で、シトリンにいたっては奴隷民――。
 アポ無しの来訪とは云えど身分差もあって、マリンとシトリンの二人は招かれざる客であっても立場上もてなさざるを得ず。そしてマリンには無断で、同じ六賢者仲間であるソラをマリン宅に勝手にデュラが呼び寄せるという暴挙まで行ったのだった。
 なおソラの名誉のために言っておけば、ソラはマリンからの招待であると騙されてはいたのだけど。
「まぁ、いいでしょう。今後は注意していただければ」
 身分、立場それぞれ三者ともに大陸を代表するVIPだ。マリンも、頭を下げられたとあってはそう強く出られない。
「ありがとう、ブルー。本当にごめんなさい」
「えっと、マリン? ブルーだっけ、本当に済まない」
「ごめんなさいね、マリン。このお詫びは、何かで絶対に埋め合わせするわ」
 ハンター時代の通称がブルーであるマリンは、同業のクラリスからはブルーで呼ばれている。一方でソラは昔なじみではあるものの、幼いころからマリンを知ってるのもあってマリン呼びなのだ。
「だからもういいですってば……それより、ソラ姉」
「何かしら?」
「そのお詫び、というのを……今返していただくわけには?」
 おそるおそるマリンが、顎を引いて上目遣いでソラの顔色を窺う。マリンは一八〇センチを超す長身なので、普通に上目遣いをすると天井に視線が行っちゃうためである。
「もちろん、構わないわ。えっと、お金ということかしら?」
「いえ、そうではなく」
 そう言ってマリンは、隣に座っているシトリンをチラと見やる。つられるようにして、ソラ・デュラ・クラリスもシトリンに視線が行って。
「???」
 何の予備知識もないので、シトリンは自分が注視されてる意味がわからなくてドギマギだ。
「シトリンの、奴隷環についてです」
「うん」
「あの、マリンさん?」
 訝し気にマリンを見上げるシトリン、なんだかイヤな予感に包まれる。
 マリンは一つ大きな深呼吸をして、
「シトリンの奴隷解放について、相談したいんです」
 真剣シリアスな表情のマリンとは対照的に、シトリンは愕然とした表情を隠さない。まるでこの世の終わりが来たような暗い面持ちで、唇が小刻みに震えている。
 犯罪奴隷や借金奴隷、性奴隷など一部の奴隷には奴隷解放の手段というものがある。
 閑話休題――たとえば性奴隷だったパールは、主人であるカルセドニー男爵の老衰に伴う逝去により奴隷解放された。なお男爵は生涯に於いて一度たりとも、パールに指一本触れずにいたことは明記しておきたい。
 ゆえにパールも亡き男爵を敬愛しており、男爵亡き後は自身が爵位を継いでその家名カルセドニーを守り続けているのだ。
 話は戻るが、では違法奴隷出身のシトリンの奴隷解放の手段――これはどういう契約の元に奴隷環が装着されたのかが不明なので、事実上不可能に近い。唯一、マリンの死によってのみ解放されるのだ。
 だが奴隷環に刻み込まれた契約内容がわかれば、奴隷解放の手段がほかにもあるのではないかとマリンは考えた。しかし奴隷環は下手にいじると、その呪を奴隷自身に発してしまう。
「だから、確かめる手段がなくて困ってたんです」
「なるほどね……そこで、呪術師でもある私の出番てわけか」
「はい」
 だがマリンとソラのその真剣な会話を、横でシトリンは……目に涙を溜めて聴いていた。
 マリンが自分を奴隷解放してくれようとする優しさが、嬉しかったわけではない。奴隷解放されたとて、マリンは自分を捨てはしないだろう。そうではなくて、ただただマリンの奴隷じゃなくなるのがイヤだったのだ。
 奴隷解放されたら、マリンとは他人同士になってしまう。だが奴隷でいられる間は、ご主人様と奴隷という一蓮托生の間柄でいられる……そう思って。
「そうね。私なら呪を作動させることなく調べることができるから、シトリンちゃん。ちょっとその奴隷環に触ってもいい?」
 ソラが優しくそう声をかけるのだけど、シトリンは慌てて後方へ飛びずさり右手の爪を出して臨戦態勢を取る。そして鬼気迫る殺気を放出しながら、フーッフーッと息も荒い。
「シトリン、どしたん⁉」
「シトリンちゃん?」
 喉の奥からグルルルと威圧の声を発しながら、さながら獰猛な猛獣と化したシトリンにマリンとソラは戸惑いを隠せない。クラリスとデュラはわけがわからないといった塩梅で顔を見合わせる。
 対してシトリンは誰にも奴隷環これには触らせないぞとばかりに、琥珀色の強い眼光を発しながら……泣いていた。
「私は、イヤですっ‼」
「シトリン……」
「こっ、来ないでください‼」
「じゃけどシトリン!」
「私は、私は……マリンさんには抗えないんです。奴隷は、ご主人様に危害を加えることができない……からっ」
 そう言ってシトリンは、ヘナヘナと座り込んで声を殺して泣きじゃくる。
 確かに奴隷環には、ご主人様に物理的な危害を加えようとするとその呪が奴隷に降りかかる仕様になっていた。もしマリンが力づくでその奴隷環に手を触れようとした場合、シトリンには抗う術はないに等しい。
 マリンは困ったように、ソラへ振り向く。ソラは無言で、何ごとかを考え込んでいる様子。
「私の『魅了眼チャーム・アイ』を使えば、一時的にあの猫を大人しくさせることができるが?」
 デュラが小声でソラに耳打ちするが、
「それってデュラに一時的にベタ惚れにさせて、言うことを聞かせるスキルでしょ? シトリンちゃんのそんな姿を見せられたら、今度はマリンが発狂するわね」
「……ソラ姉、どういう意味です?」
 なおここまでの会話は小声ながら、本来ならシトリンの聴力ならばそれをものともしないのだ。しかし動揺して泣きじゃくってるのが幸いしてか、シトリンの耳には入らなかった様子。
 マリンはゴクリと唾を呑み込み、意を決してシトリンに歩みよる。そして泣きじゃくってるシトリンの前にしゃがみ込み、
「シトリン、今すぐどうこうしようというわけじゃないんよ。ただ、方法があるのかどうかだけでも知りたいだけなんじゃけ。ね?」
「……」
 シトリンは無言で、涙目の顔を上げる。
「わっ、わた、私はマリンさんに引き取られてまだっ、まだ一年も経ってないけど……わかるんです」
「何が?」
「もし方法があったら、マリンさんは絶対に『そう』してくれるって……だから、お願いです。奴隷のままで、奴隷のままマリンさんのそばにいたいんです‼」
「シトリン……」
「お願いします‼」
 そう言ってシトリンは、マリンのブラウスの両袖をしがみつくように握りしめる。そしてそのまま、フッと気を失ってしまった。
「シトリン⁉」
 慌ててシトリンを抱きとめるマリン。そして背後にソラが歩みよって、シトリンの奴隷環に指を触れた。
「ソラ姉?」
「シッ! シトリンちゃんが気を失っている今がチャンスなの」
 マリンは、無言で頷く。
「ふむ……なるほどね」
 ソラはそう言って奴隷環から指を放すと、
「もういいわ、マリン。とりあえず、シトリンちゃんを寝かせてきてあげて?」
 そして席に戻り、何ごとかを考え始め……。マリンはとりあえずソラの言うとおり、シトリンを姫だっこしてシトリンの居室まで運んでいくべくその場を後にした。
(何か、方法が見つかったんじゃろうか……)
 シトリンを運びながらも、マリンの気は逸る。そしてシトリンを無事ベッドに寝かせると、小走りでリビングへ。
「ソラ姉!」
「ん、とりあえず座ってちょうだい」
「あ、はい」
 ドキドキしながら、ソファに腰を下ろすマリン。ソラの表情からそれを読み取ろうとするも、ソラは穏やかな表情で。
(もしかして、なんとかなるん⁉)
 淡い期待を膨らませたマリンだったが、ソラは一転して厳しい表情に変わった。
「まず、シトリンちゃんは『裏』ながら『借金奴隷』のようなの」
「はい」
「私が読み取れたのは、元金が五万リ―ブラね」
 たったの⁉とマリンは驚愕する。マリンがシトリンを競り落とした落札金額は、四億リーブラだったのだ。
「シトリンちゃんは奴隷になってから、何年経っているの?」
「確か、裏の期間が四年で表のマーケットに回されてから一年ほどかと……」
「ふむ、表の奴隷ギルドに登録変更されてるのは僥倖ラッキーだったわね」
「ソラ姉?」
 ソラはしばし考え込んだ後に、
「もし『裏』のままだったら違法利率の複利契約だろうから、利子の加算が日数か月数か……それにもよるけど、数千億リ―ブラにまで膨れ上がっててもおかしくはなかったかもしれない」
「そんなに……あ、でも表に回ったことで?」
「うん、それは無効になるの。新たに奴隷環の呪を上書きしてるからね。ただ逆に言うと、これで奴隷解放する方法が無くなったともいえるのだけど……」
「……」
 マリンは、絶望感に打ちのめされた。頭の中がぐわんぐわんと鳴っているようで、必死に意識を繋ぎとめている状態だ。
「ソラ、その上書きした呪ってのは?」
 デュラが怪訝そうに問うのに、
「元の契約を無効にするだけね。つまり『お金を返すか』『ご主人様が死ぬか』の二択のうち、『お金を返すか』の選択肢が消えただけというか」
 元々期待してなかったつもりだった。ただ、それ以外の方法があればと……思っていたつもりだったのに。
「うっく……」
 マリンは眼鏡を外してあふれ出た涙を拭うも、その藍色の瞳から流れる涙はとどまるところを知らない。
「ブルー‼ 気を確かに持って!」
 思わず上半身がフラついたマリンに、クラリスが対面側から駆け寄って間一髪でキャッチした。
「う、うん……」
「まぁ、そうね。『法律を変える』ことができれば、光明は見いだせるかもしれない」
「法律、ですか」
「そう。奴隷ギルドだって、収入が減るならともかく増えるならありがたいだろうし。だから、違法奴隷は普通の借金奴隷に変更するとかね。そして借金の返却先は奴隷ギルドとすれば、奴隷ギルドとしても乗ってくれる可能性が高い、かな?」
 だがそうだとしても、数千億リ―ブラとなるとさすがのマリンもそこまで蓄えはない。そのマリンの懸念を読み取ったのか、ソラが続ける。
「もちろん。そんな違法利率での複利は法律違反だからね、『絶対に不可能』な方法にはならないとは思うのだけど」
「まずは、法律を変えるほうだな。そうだろ、ソラ」
「ええ」
「だけど私らには、『不可侵条約』がある。法律どうこうには関われないぜ?」
 ソラとデュラのその会話を、クラリスとマリンは黙って聴いていた。
 不可侵条約――かつて、六賢者の一人と国軍とで一触即発になったトラブルを教訓に、『六賢者は内政干渉をしない』と同時に『国は六賢者に不利益な干渉はしない』という契約が定められたのだ。
 よってソラとデュラはもちろん、六賢者全員が国の法律に関わることができないという不文律が存在する。
「まぁ……法改正に口出しなんて、王侯貴族にコネがないと無理よね」
 ボソッとソラがそう言うのと同時に、ソラ・デュラ・マリンの三人が一斉にクラリスに振り向いた。
「え? 私?」
 そして腐っても皇女であるクラリス(失礼!)の尽力によって、話はトントン拍子に動き出す。まずクラリスの提案がフェクダの王城に届けられ、緊急の国会が開催される運びとなって。
 そして奴隷ギルドのギルドマスターも招聘されてのそれは、喧々諤々とした議論の応酬が白熱する様相となった。
 主に『いくらの借金を背負っていることにするか』という奴隷ギルドマスターを中心とした慎重派、『全額が奴隷ギルドに入るのはおかしい』という王室を中心とした条件付きの反対派、『違法奴隷を世に放つ可能性は絶つべき』という過激な選民思想の論調は貴族派が中心だった。
 だが帝都のクラリス皇女が持ち込んだ議題とあって、貴族派は今一つ精彩を欠く。
 そして奴隷ギルドにお金が入るならばと反対の立場は取らなかった奴隷ギルドと、税収増を見込みたい王室とが中心となって、法改正の手回しは前例のないスピードで進んでいく運びとなった。
 そしてクラリス皇女が迅速な法改正を急がせたのも功を奏して、その一か月後――。
 奴隷解放の条件として『奴隷購入金額の十倍をハンターギルドに収める』という高い敷居が設定されるも、無事新しい法律が公布されることとなる。
 シトリンの購入金額は、四億リ―ブラ。一般庶民ならば、死ぬまで遊んで暮らせる金額である。
 それはマリンが奴隷オークションで仕かけた倍々マネーゲームにより、落札価格が相場の五百倍近くにまで膨れ上がったためだ。
 よってシトリンの奴隷解放には、その十倍の四十億リ―ブラを奴隷ギルドに納入する必要が生じる。シトリンを競り落とすためとはいえ、当時の落札価格が現在いまになって奴隷解放のネックになった形だ。
 その日はシトリンは黒足袋亭の仕事が有ったが、マリンはシフトの都合で休日だった。だからマリンはシトリンの出勤を、手を振って笑顔で見送る。
 そして時刻は黄昏どき、シトリンがいそいそと家に帰ってきた。
(あれ? 火事⁉)
 マリンの家の裏手から、煙が立ち上ってるのだ。シトリンは慌てて家の反対側まで駆け足で向かう。
「シトリン、おかえり!」
「あ、はい。ただいま帰りました。……焚火たきびですか?」
 火事かと焦っていたのもあって、シトリンは安堵とともに拍子抜けしてしまう。
「うん、お芋を焼いちょったんよ」
 マリンが軒に座って、美味しそうに焼き芋を頬張っていた。
 季節はすでに晩秋、庭に枯れ落ち葉が積もる時期だ。冬は、もうすぐそこまで来ている。
「ほい、これシトリンの分。火傷せんようにね?」
「ありがとうございます!」
 そしてマリンと二人、軒に並んで座ってシトリンも焼き芋を頬張る。
「おいしいです!」
「うん、たまにはこういうのもええじゃろ」
 そう言ってマリンは立ち上がると、焚火の傍に歩み寄って枯れ枝を手にする。
「まだあるけん、欲しかったら言いんさい」
 マリンはそう言いながら、枯れ枝で熾火おきびをかき回す。そして枯れ枝を芋に突き刺して、焼き具合を確認。
「これ、もう焼けちょるけ」
「いただきます!」
 落ち葉の燃えかすに混じって、まだ完全に焼けていない紙ゴミの紙片が顔を覗かせる。そこには『奴隷契……』の文字がうっすらと焼け残っていた。
 それに気づいてマリンは、再び焚火に歩みよる。そして火種を掻き寄せて、その紙片を完全に灰にして。
 そしてポケットから一枚の紙を取り出すと、その火種の上に無造作に丸めて捨てた。
 すぐさま火種が燃え移り、丸めた用紙は広がりながら白煙を上げていく。
 そこに印字されている『四十億リーブラ』の領収書は、晩秋の風に煽られた炎に包まれて、あっという間に灰燼に帰してしまった。
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