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第六話・壊されたモノクルと猫耳少女の慟哭

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 大好きなご主人様からお借りしたモノクルを着用してて、浮かれていたのもあったかもしれない。だけどそれは、明らかに悪意の元に行われた不可抗力でもあった。
 トレーに注文の料理を乗せて軽快にテーブル間を、ランチどきゆえに客が立て込んできてるのもあって、小走りで駆け抜けていくシトリン。そしてそのシトリンを下衆びた厭らしい目で嘗め回すのは、食事中だった常連の荒くれハンターだ。
「ふへっ!」
 変な声を漏らし、シトリンがそばを通りかかる際にスッと軽く足を差し出す。
「あっ‼」
 気づいたときにはもう遅い。シトリンは、そのハンターの足にひっかけてしまった。左側死角から差し出されたとはいえ、誰だってあれでは転んでしまうだろうというタイミングで。
 さらに間の悪いことに、床にぶちまけてしまった料理の一部がそばで食事中だった別の荒くれの足に被ってしまう。
「熱っ‼ 何しやがんだ、このクソ猫が!」
「すいませんすいませんっ‼ 今すぐお拭きします!」
 シトリンが慌ててハンカチを出すが、
「どうしてくれるんだ! 剣は俺の命なんだぞ!」
 よく見るとテーブルに立てかけてあったそのハンターの剣の鞘にも、シトリンがこぼした料理の汁がかかっている。だが命というわりにはろくに手入れもされておらず、明らかに使い捨ての剣なのは一目瞭然だったのだけど。
「もっ、申し訳ありません!」
 そしてシトリンが先に剣の鞘についたシミを拭き取ろうとしたとき、シトリンは重い衝撃を右頬に感じて……その瞬間、床に叩きつけられてしまった。荒くれが、裏拳でシトリンをぶん殴ったのだ。シトリンの鼻孔から口角から、鮮血が垂れては落ちる。
「獣畜生の奴隷の分際で、汚い手で俺の命に障るんじゃねぇ!」
「うっ、うぐぅ……」
 それでもシトリンはなんとか立ち上がると、
「ほ、本当に申し訳」
 と謝罪の言葉を口にしようとしたのだが、荒くれはシトリンの片方の猫耳を掴むと強引にその腕を床に向かって力まかせに下げる。シトリンは、床にはいつくばうような姿勢になってしまった。
「謝り方も知らねえのか? おら、まずは床に落ちた料理を……そうだな、舐めて綺麗にしろや」
 荒くれは、シトリンの猫耳を掴んで床に押し付けたまま無理難題を押し付けてきた。最初に足をかけたハンターは、その様子をニヤニヤしながら食事で口も動かしつつ無責任に眺めている。
「えっ、勘弁してください!」
 自分が悪いので、シトリンはひたすら平身低頭だ。
「あーあ、そうかよ。じゃあ剣は弁償だな?」
「えっ⁉」
 どう見ても、ちょっと汁がかかっただけなので拭き取れば済む話だ。だがシトリンは、『弁償』という言葉に敏感に反応した。
(まだ最初のお給料ももらってないし、どうしよう。店長にお借りしようか……)
 もし本当に弁償が必要な場合、まずお店が負担するのが常識だったのだが、シトリンは戦闘奴隷として裏の世界で働いていたから知る由もなかった。そして次に男が吐き捨てた言葉が、さらにシトリンを追い詰める。
「ったく奴隷がよぉ? こうなりゃお前の『ご主人様』に責任を取ってもらわねぇとな?」
「そっ! それだけは勘弁してください‼ 舐めます、舐めて綺麗にします!」
 ご主人様であるマリンに迷惑をかけてしまう、それだけはどうしても避けたい。シトリンはこぼれた料理を、両手で床に這いつくばうようにしてペロペロと舐め始めた。
 シトリンは、運が悪かった。マリンは外出中、パールは厨房にいてヴァータイトを始めとする正義感の強いハンターが周囲のテーブルにいなかったこと、昼休み中なのでどのカウンターも休止中だったこと。
 また周囲も、この荒くれや足を差し出したハンターのような云わば民度の低い連中が集結していたのだ。
「ぎゃはははは!」
「本当に舐めてやがる‼」
「おーい、こっちも舐めてくれや~?」
 そんな下賤なヤジが、シトリンに降り注ぐ。だがシトリンは粛々と、床にこぼれた料理を舐めて食し続ける。もしシトリンのご主人様がマリンだと知っていれば、彼らもここまでの蛮行は行わなかっただろう。
「あーん、このクソ猫。いいもん着けてやがるな?」
「ふぇ?」
 床の料理を舐めとりながら、横目で荒くれを見ながら反応してみせるシトリン。だが次の瞬間、荒くれの手がシトリンの左眼に着用されたモノクルを取り上げた。
「あっ! か、返してください‼」
「お前奴隷だろ? これは結構な値が張るシロモノだぜ。どっから盗んだ?」
「盗んだんじゃありません、お借りしているんです! お願いです、返してください!」
 荒くれは、シトリンの手が届かないように高くモノクルを掲げた。高身長なので、シトリンが手を伸ばしても届かない。
 シトリンの猫獣人の身体能力を考えれば簡単にその位置までジャンプはできるが、テンパっているシトリンにはそこまで頭が回らなかった。また、無礼を働いたのは自分であるという負い目から強引な態度にでるのはどうしても躊躇してしまう。
 先ほどからシトリンは男の胸板に左手をあてて右手を上に伸ばす格好になっていたのだが、シトリンはこぼれた料理のそばで床にはいつくばっていたのだ。シトリンの手のひらとウエイトレス衣装に付着していた料理が、男の胸の防具を汚してしまっている。
「あ、汚ねぇ! 貴様、よくもやりやがったなっ‼」
 実に理不尽極まりない理由で逆ギレしたその荒くれは、思いっきりモノクルを床に叩きつけた。そして間髪を入れず、グシャリと踏みつぶす。
「……えっ?」
 何が起こったのかわからないといった表情で、右手を挙げたままの姿勢で呆然と床のモノクルを見下ろすシトリン。レンズが粉々に砕け、フレームは元の形を留めないほどにひん曲がってしまっている。
 そこへ追い打ちをかけるように、さらに周囲のヤジがヒートアップしていく。
「あ……あぁ……ああぁっ⁉」
 顔面蒼白になったシトリン、慌てて破壊されたモノクルの前にしゃがみこむのだけれど、ここから先どうしていいかわからないといった塩梅だ。
(な、何が……何が、起こったの?)
 震える手で、フレーム『だった物』を手に取る。そして一つずつ、割れた無数のレンズのカケラを一つ一つ手のひらに乗せていくのだけれど。
(ご主人様に……ご主人様の……モッ、モノクルが……)
 粉々になったレンズは米粒以下に砕けたものがほとんどで、拾っても拾っても追いつかない。文字どおり『粉』になっている部分は、何度つまもうとしてもつまめず、指先からこぼれ落ちていく。
「あ、シトリン。それあげるけん、大事に使ってね?」
「えっ、あ、あげっ⁉ あのっ? 私、奴隷……」
 自分の聴き間違いじゃなければ、ご主人様は『あげる』と言ったような? シトリンは耳を疑った。だが今日までの優しいマリンの自分に対する接し方を考えると、本当にくれたのだろうと思いは行きついたけれど。
「そっ、そんな! こんな高価な物もらえません!」
 シトリンにそのモノクルの価値はわからなかったが、偶然にもそのモノクルはマリンがオーダーメイドで拵えた特注品だ。フレームもレンズも高価な素材が使用されており、一般人の月収をはるかに超えるお値段である。
「ええんよ。今のままだと、またドジしちゃうけん。シトリンが持っときんさい」
「そんなっ! いやでも……はい、それじゃ『お借りします』ということで」
 ご主人様はちょっと困ったような表情でそれでも笑いながら、
「頑固じゃねぇ。ほいじゃ、シトリンのお給料が出たらシトリン専用のモノクルを買いに行こ? 私のとは度が違うけん、シトリン用に作ってもらったほうがええと思うんよ」
「あ、はい!」
「じゃけんそのモノクルは、それまでの代替品かわりてことでシトリンに預けるけん」
「ありがとうございます、大事に使わせていただきます!」
 マリンとしては一度あげたつもりなので、別にシトリンからの返却はあてにしていなかった。ただこうでも言わないと、シトリンが受け取ってくれないと思ったのだ。
(いい香りだな……)
 ハンターギルドからマリンの自宅を往復する道程で、海の見える小高い丘の上を通る。そこの斜面に咲き誇っている優しい青い色の『勿忘草わすれなぐさ』が群生していて、その花の花粉がとてもいい匂いなのだ。
(ご主人様の匂いだぁ!)
 マリンはその勿忘草から独自の調合で香水を自作しており、普段から使用している。その香水の残り香が、モノクルから香ってくる。
(こっちのほうが欲しいなぁ)
 ご主人様とは自分用のモノクルを買いに行く約束をしてみたはいいものの、これ以上の価値のあるモノクルがあるとは思えない。シトリンにとってそれは、マリンの優しさの結晶でもあったのだ。
 そのご主人様の優しさの結晶が自分のせいで無残な姿を晒し、つまんでもつまんでも指の間からこぼれ落ちていく――。


(真っ白だ……)
 見渡せど見渡せど、前も後ろも上も下も右も左も、全部ぜーんぶ真っ白。なんだかよくわからないけれど、とりあえず歩いてみる。
 テクテク、テクテク……どこまで行っても、どこまで歩いても真っ白。ずっと真っ白。
「ここ、どこなんだろう?」
 シトリンは、ふと立ち止まる。
(私、さっきまで何してたんだっけ……)
 何も、何も思い出せない。ただなんでか知らないけれど、胸がズキズキと痛い。
 どこまでも続く真っ白な世界だと思ったら、天空そらから、赤いインクのようなものが一滴また一滴と四方八方の白い空間の壁?に垂れてきて、真っ白な世界がまだらな赤白の世界へ遷移していく。
「あれは……血⁉」
 違法な闇賭場での、戦闘奴隷時代にイヤというほど嗅いだ血液の咽る鉄のような臭い。
 そうこうしていると、真っ白だった周囲の世界はたちまちのうちに真紅の世界へと様変わりしていく。
(怖い!)
 得体のしれぬ不安感が押し寄せてきて、シトリンは思わず駆けだす。
「どこ……ここ、どこなの⁉」
 走れど走れど、四方八方が血に染まった世界から抜け出すことができない。
(ご、ご主人様‼ 助けて‼)
 ついには頭を抱えて、しゃがみこんでしまった。どれくらいそうしていただろう? ふと人の気配を感じた。おそるおそる目を開けて見ると……。
「あ……!」
「シトリン?」
 目の前に立っていたのは、ご主人様――マリンだ。
「ご主人様‼」
 すごく安心して嬉しくて、シトリンは思わず抱き着いてしまう。
(いい匂いだぁ……)
 普段から嗅ぎ慣れている、マリンの匂い。青い花の、香水の香り。気づけば周囲は再び真っ白な世界に戻っていて、さっきまでの血の臭いは微塵もしなくなっていた。
「ふふ、シトリンどうしたん? 甘えん坊じゃねぇ」
 マリンはそう言って、シトリンの頭をなで回す。
「あ……すいません!」
 思わず反射的にマリンから離れるシトリン、赤面して俯いてしまう。
「あ、あの?」
「なぁに?」
「ここ、どこなんでしょう?」
 改めて周囲を確認してみるが、やっぱり真っ白。どこまでも、ずっとずっと真っ白。
「ほうじゃねぇ、どこなんじゃろうね」
 マリンはあまり気にしていないようで、生返事だ。
「とっ、とりあえずご主人様! ここから脱出しましょう‼」
 シトリンはマリンの手を握り、自ら先頭に立って駆けだす。普段ならこんな強引なことをご主人様にはやらないが、押し寄せてくる不安感に急き立てられるようにマリンを先導していく。
「シトリン、そのままでええから聴いてね」
「はい?」
 そのままで、という命令だったのでシトリンは後ろを振り向かずに返答する。
「出口が見えるまで、絶対に後ろを向いちゃいけんよ?」
「はい?」
「約束」
「あ、はい」
 どういう意味だろう? とりあえずご主人様の命令なのだ、ここは従うしかない。
 マリンの手を引いて、どれだけ走っただろう。息もきれるし、身体中もじっとり汗ばんできた。少し休んだほうがいいのかな、とは思うけれど。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
 前を向いたまま、マリンに問う。
「私は大丈夫じゃけん、急ぎんさい」
「はい!」
 引き続き、マリンの手を引いてひたすら走る。この広くて白い何もない世界を、どこまでも。
 どれだけ走っただろうか、ふと『白じゃない空間』が見えてきた。あれは出口だろうか? いや、きっとそうに違いない! シトリンはマリンに伝えるべく……後ろを振り向いた。
「ご主人様、出口でぐ……」
 そこまで言いかけたとき、真っ白だった世界が一瞬にして再び真紅に染まる。
「え⁉」
 そして次の瞬間、『大きな足』が天空に顕現し……マリンの体躯を踏み抜いた。
「な、何?」
 その『大きな足』は再び天空に帰っていったのだが、そんなことはどうでもいい。今もシトリンの手は、マリンの手を握ったままだ。だけど、そのマリンの手は肘から先が……無かった。
 シトリンの目の前に、マリンはいない。だけど、間違いなく私はご主人様の手を握っている……違う、肘から先の『手だけ』を握っている。
 そしてその切断された肘からは、膨大な量の鮮血が吹き出していた。
「なっ、なっ……⁉」
 おそるおそる、視線を足元を下げていくと……そこには、見るも無残な姿に変わり果てたご主人様がいた。手足はありえない方向にひん曲がり、一部は潰れている。鼻、口、耳、目のあらゆる孔から鮮血が吹き出していて。
 シトリンのお気に入りだったマリンの藍色の綺麗な髪も、頭部からの出血で染まって真っ赤だ。割れた眼鏡のレンズが、片方の眼球に突き刺さっている。
「ごっ、ご主人様! し、しっかり‼ 大丈夫ですか⁉」
 大丈夫なわけがない。もはや虫の息で、まるで笛のようにかすれた異音のような呼吸音がマリンの口から洩れる。
「シ、シトリ……」
「はっ、はい!」
 思わずマリンの横にしゃがみこんでみたはいいものの、ここからどうしていいかわからない。
(そうだ!)
 一刻も早くマリンを救護しないと。病院へ運んで……そう思って、さきほど見つけた出口らしき空間を確認するために振りむいた。
「え⁉ 嘘……」
 そこには、何も無かった。四方八方がどこまでも続く真紅の世界だけが、そこにあった。
「そんな‼」
 どうしよう、そう思って再び倒れたマリンに視線を移すのだけど。
「シトリン……」
「ご主人様、しゃべっちゃダメです! 傷に障ります‼」
「ねぇ、シトリン……何で、」
 ずれた眼鏡から垣間見えるマリンの藍色の瞳は、シトリンに対して怨嗟の感情を投げかけていた。
「どうして、後ろを振り向いたの?」
「ち、違っ……」
 いや、何も違わない。私は、出口が見つかるまで振りむいちゃいけないと命令を……約束したのに。
「まさか、私が約束を破ったから?」
 約束を破ったから、ご主人様がこんな目に遭った⁉
(そんな……)
 シトリンは頭を抱えたまま両膝をつき、真紅の地に頭を落とした。ガンッという鈍い音がして、
「ああああああああああっっっ‼」
「シトリンちゃん、落ち着いて! それ以上はダメ、ダメだから! そいつ死んじゃうから‼」
 モルガナは絶叫しながら背後からシトリンを力づくで引きはがそうとするのだけど、猫獣人であるシトリンの怪力に抗うことができず、為すすべがない。
 シトリンは真っ赤に泣きはらした目で……倒れた荒くれにまたがり、無数の鉄拳を振り下ろしていく。十発、二十発、五十発、百発、二百発……。
 すでに荒くれに意識はなく、眼球も鼻もシトリンの振り下ろす拳に潰されていた。頭蓋はとうに砕けているようで、もう顔の形を成していない。
「よくもよくもよくもよくもよくも! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね‼」
 真っ赤に血走った両目からは、あとからあとから涙が溢れ出る。噛み締めた唇からむき出しの牙が下唇を刺し貫き、血が滲んでいた。だがそんなことはおかまいなしに、シトリンは怨嗟の言葉を無数に投げかけながらひたすら荒くれの顔に憤激の拳を振り下ろす。
(ダメだ、私じゃシトリンちゃんを止められない……)
 モルガナとて、マリンのような規格外ではないものの腕に覚えはある。荒くれの集うハンターギルドの受付嬢なのだからそれ相応の修行も訓練もしているし、何よりBランクハンターの免許も持っているのだけど。
 振り下ろされるシトリンの腕を全身で制止しようとしたが、逆にシトリンの振り下ろされる腕の遠心力で自身が吹っ飛んでしまった。
「だ、誰かシトリンちゃんを止めてください!」
 周囲のハンターに嘆願してみるが、誰もがシトリンの狂乱にあてられて一歩も動けないでいた。目の前で繰り広げられる虐殺ショーに対して、青い顔で立ち尽くすしかできなかったのだ。
「パ、パール姉! パール姉さん、聴こえますかっ⁉」
 厨房へ向かって、絶叫するモルガナ。マリンはいないし、周囲は動こうとしないし、自分では何もできない。もうパールしか、頼れる人がいない。
 間髪を入れず厨房の扉からパールが出てきたときは、本当に心の底から安堵したのだけど……今は安堵してはいられない緊急事態だ。
「モルガナさん?」
「パール姉、来てくださいっ! シトリンちゃんを止めてくださいっ‼」
 モルガナのただならぬ様子に、訝し気にこちらを見ていたパールが反射的に駆けつけてきた。
「どうしました⁉」
 とモルガナに問うが、その返事を待つことなく荒くれを殴打し続けるシトリンに気づいて。
「シトリンちゃん、ダメです!」
 慌ててシトリンに駆け寄り、背後から腕を回してなんとかシトリンを羽交い絞めすることができた。
 パールは兎獣人なので、シトリンとほぼ互角の腕力を持つ。くわえて自身はSランクハンターでもあるので、無事シトリンを……いや『なんとか』制御することができた。
 憤怒の暴走状態にあるシトリンは火事場のバカぢからとでもいおうか、パールですら抑えることが困難なほど羽交い絞めされたままで抗い続ける。
「放して! 放してください!」
「ダメ、ダメです! シトリンちゃん、それ以上やったらあなたが悪者になっちゃう!」
 どんな事情があったか知らないが、明らかにこれはやりすぎだ。
「マリンさんにも迷惑がかかるのですよ‼」
 特に意識して言ったわけじゃなかったが、『マリンに迷惑がかかる』というワードでシトリンの身体が反射的に停止する。
「あ……」
 その間隙を狙い、パールはシトリンを羽交い絞めにしたまま立ち上がり一気に荒くれの身体から引きはがすことに成功した。
 チラと倒れた荒くれを見下ろしてみるが、もうこれはもたない。命の炎が、今まさに消えかけようとしている。
「シトリンちゃん、いったい何があったの?」
 羽交い絞めを解き、シトリンが再び殴りかからないように倒れた荒くれとの間に入って心配そうに問うパール。だがそんなパールには目もくれず、シトリンはふらふらと……砕けたモノクルのある場所まで歩みより、ペタンと座り込んでしまった。
「シトリンちゃん?」
 シトリンは憑かれたように無言でぶつぶつ言いながら、右手でモノクルの破片を拾っては左の手のひらに集めていく。だけど粉々になってしまったレンズは上手く拾い集めることができず、時折イラついたように舌打ちをしてみせた。
 パールと同じく両脚は肉球形態だが、両手が人間形態のパールと違いシトリンは左手が人間形態で右手が肉球形態だ。その肉球が邪魔をして、細かいレンズの欠片がその指の隙間からこぼれて落ちていく。
「いったい何が……モルガナさん、ギルマス命令です。ギャラリーどもに事情聴取!」
「は、はい!」
 モルガナに指示を出して、パールは倒れた荒くれの呼吸を確認。
(呼吸してない⁉)
 この国では、十五歳で成人だ。シトリンは十三歳なので、少年少女保護法という法律が適用されるのだけど……。
(十三歳じゃ……準成人扱いだよね)
 少年少女保護法により凶悪な犯罪を犯しても少年少女が保護されるのはおかしいという社会の機運が高まったことがあって、新たに十三歳と十四歳が『準成人』として制定された経緯がある。準成人では、凶悪犯罪に限り成人と同等の罰が適用されるのだ。
「とっ、とりあえず人工呼吸……‼」
 こんな荒くれとキスはまっぴらごめんだったが、そうも言ってられない。
 パールは速やかに人工呼吸を試みるが……五分ほど続けたところで呼吸が一瞬だけ復活したものの、再び停止。そして思い出したようにまた弱い呼吸をしたかと思うと、また停止するというのを断続的に繰り返している。
「だ、誰か! 治癒魔法を使える方はいませんか⁉」
 周囲に訪ねてみるが、芳しい反応はない。
(どうしよう⁉ このままじゃシトリンちゃんを……逮捕しなくちゃいけなくなる!)
 ハンターギルドは、いわゆる警察としての職務も兼任していた。なので、たとえどんな理由があろうともシトリンの犯した犯罪は見て見ぬふりはできないのだ。
(治癒用のポーションは、こんなひん死状態ではもはや役に立たないし……)
 絶望のあまり、パールはへなへなと座り込んでしまった。そしてうつろな視線を、レンズの欠片を拾い集めているシトリンに向けるのだけど。
 一心不乱にレンズの欠片を拾い集めるシトリンの横に、大きな蝶の羽のようなものがついた少女が立っていた。年齢は十代半ばくらい、シトリンより少し年上だろうか。
(人間サイズの……妖精?)
 その少女は心配そうにシトリンに何ごとか話しかけているが、シトリンは何も耳に入らないようでひたすらブツブツ言いながらレンズの欠片を拾い集めるのに没頭していた。
 少女は諦めたように嘆息する。そしてパールに歩みよってきて、
「そいつ、助からないとあの猫獣人の子がまずいですか?」
 そう言って、倒れた荒くれをチラと……まるで道端の吐しゃ物でも見たかのように侮蔑の視線を投げかけた。
「はい! どんな理由があろうともあの子、シトリンちゃんを犯罪者にさせたくないんです。妖精さんは、治癒魔法は使えませんか⁉」
 パールとしては、もう藁をもすがる気持ちだった。
 確か妖精は、治癒魔法が使えたはずだ。ただ、この亜人の少女が妖精かどうかは確信がもてない。『存在している』のは知っているが、ここフェクダでは見かけたことがなかったからだ。
「人間なんて助けたくないんですけどね……」
 その妖精の少女は溜め息をついてみせたものの、
「ま、泥船に乗ったつもりで私に任せてください」
 泥船では沈んでしまうのだが。少女は自分の言い間違いに気づかないまま荒くれに歩みよると、その顔面に手をかざして。
「『神恵グラティア!』」
 少女の手のひらから無数の光の粒が顕現し、荒くれの破壊された顔面に降り注いだ……かと思うと、次の瞬間には傷一つない綺麗な顔に復元してしまった。
「へ⁉」
 信じられないものでも見たという表情で、パール始め周囲は唖然としてしまう。
「これでいいです?」
「あ、あの……?」
 荒くれの顔は完全に復元しているが、まだ気を失ったままだ。
「あぁ、私が直したのは殴打による損傷だけです。痛みで失神しているだけですから、じきに目を覚ますと思いますよ?」
「あ、ありがとうございます‼」
 その少女は、取り憑かれたようにレンズの欠片を拾い集めるシトリンを心配そうに見やる。
「それより、あの子についててあげてくださいな」
「はい、そうします!」
 パールはシトリンの元に駆け寄ろうと少し走ったところで、
「あ、あなたの名前は」
 と振り向いたけれど……倒れたままの荒くれが静かな寝息をたてているのみで、もう少女の姿はそこになく。
「ただいま戻りました! ……あの、何かあったんですか?」
 そう言って代わりに姿を見せたのは、ほかならぬマリンであった。
「シトリン?」
「ふぇっ、うぐっ……ひっく……あ、ご……ご主……」
 マリンは泣きじゃくりながら座り込んでいるシトリンに慌てて駆け寄ると、片膝をついて心配そうにシトリンの頭に手をやる。
「シトリン、どうしたん⁉」
 見ると、シトリンの左の手のひらには無数のガラス片に折れ曲がった針金のようなものが置かれている。ガラス片で切ったのか、左手の手のひらもそうだが右手の肉球にも無数の切り傷が、そして血が滲んでいた。
(これは……モノクル?)
 右拳は鮮血に染まっていたが、シトリンの血だけではないようだ。それに、ウエイトレスの制服にも夥しい……これは、返り血?
「どうしたん、シトリン! 何があったん⁉」
 気まずそうにうつむくシトリンの、鼻腔と口角から血液が垂れては床に落ちる。右頬が真っ赤に腫れあがっていて、これはどう見ても『殴られた痕』だ。
 ユラッ……そんな擬音でもしそうなただならぬ雰囲気を漂わせながら、マリンは黙って立ち上がる。
「マ、マリンさん⁉ 落ち着いて! ね?」
 いち早くマリンの異様な気配を察したパールが、冷や汗を垂らしながらマリンを宥めるのだけど。
 マリンはゆっくりと眼鏡に手をやり、
だあれが……」
 そしておもむろに眼鏡を外して。
「……シトリン……」
 眼鏡を胸ポケットにしまいながら、ゆっくりと振り返る。
「……泣かしたん?」
 その禍々しい藍色の狂乱の瞳とともに醸し出す殺気は、その場にいた全員を心の底から震え上がらせた。
 ハンターギルドの窓ガラスが、その殺気に共振反応を起こしカタカタと鳴動を始める。何人かがその狂気にあてられ、失禁する者、失神する者……。
「マリンさん、それよりもシトリンちゃんを‼」
 パールのその言葉で、正気に返るマリン。再び心配そうにシトリンの横にしゃがみこみ、どうしていいかわからず頭をなでくり回す。
「シトリン、泣かんといて? どうしたん? モノクル、壊れちゃったん?」
 マリンのその言葉に顔を上げるシトリンだったが、その表情は気の毒なくらいに焦燥しきっていた。唇や頬がプルプルと小刻みに震えていて、涙があとからあとから溢れ出て……言葉も発することができないでいるようだ。
 シトリンは右手でハンカチを出すと床の上に広げ、一つ一つ丁寧に左の手のひらに置かれたモノクルの破片をハンカチの上に移すと……両手と額を床につけて、そのままの姿勢でようやっと言葉を絞り出す。
「申し訳……申し訳あり、ありま……申し訳ありませ……」
 これはアルコル発の風習で、ドゲザと云われる謝罪方法だ。地に這いつくばる姿勢で後頭部を見せるやり方で、『どうぞ頭を踏みつけてください』という意思表示。
 奴隷がその教育の過程で一番最初に叩きこまれるとされているように、もっとも屈辱的とされる謝罪方法として知られている。
「そんなことせんでええけ、顔あげんさい」
 マリンは両手でシトリンの上半身を半ば強引に起き上がらせる。
「壊れてしまったもんは仕方ないけん、気にせんでええよ。怒ってないけん。ね?」
「怒って……ください……私は、私は……ご主人様から預かった大事な……まもっ、守れな……」
 シトリンは、怒られるのが怖くて震えてるんじゃない。マリンから預かった大事なモノクルを壊してしまった責任を感じて……その心痛は、マリンにも痛いほどよくわかった。
「パールさん、何があったんですか?」
 マリンは振り返りながら眼鏡を再度装着すると、パールに事の仔細を訊ねる。
「それが私にもよく……モルガナさん、ちょっといい?」
「あ、はい」
 パールに命じられた事情聴取を中断して心配そうに見守っていたモルガナが、小走りで駆け寄る。
「現時点でわかってることは?」
「……報告の前に、まずマリンを拘束してください」
「モルガナさん⁉」
 厳しい表情でマリンを一瞥するモルガナ、怒っているとも泣きそうとも見える表情だ。
「先ほどはパール姉さんの言葉で我に返ったマリンですけど、これを聞いたらもう誰も止められません。そして私は、止めようとも思わないです」
 モルガナのその言葉からは、静かに怒気が漂ってくる。
「とりあえず、場所を変えて話し合いましょう。マリン、シトリンちゃん、それでいい?」
「……わかりました」
 シトリンは、マリンの横で無言で頷く。
「とりあえず私は、もう少し事情聴取を続けます」
 モルガナはそう言って踵を返し、ギャラリーたちの元へ戻っていくのだけど。
「キャッ‼」
 椅子にでも躓いたのか、モルガナが前に勢いよくスッ転んだ……ように見えた。少なくとも、誰もがそう判断しただろう。
 だがパールもマリンも、そのモルガナの行動に違和感を感じていた。
 そして倒れるモルガナの頭部が、ちょうど目の前にいたハンターの……脛を直撃する。
「うっぎゃあああああっ‼」
 ベキッというイヤな音がして……そのハンターの脛がありえない方向に曲がり、立っていられなくなったそいつは痛みで絶叫しながら倒れ、苦悶の表情を浮かべながら床を七転八倒する。
「いたた……あらあら、ごめんなさいね? でもその躾のよくない足、ちょっと痛い目にあったほうがちょうどいいんじゃないですか?」
 冷淡にハンターを見下ろしながら、モルガナはそう言って無表情のまま嘲笑する。最初に、シトリンをわざと転ばせたハンターだった。
 モルガナの意図を察したパール、命令待ちで控えていたギルドの守衛たちに目配せして、そいつの拘束を顎で命じつつ。
「脚の治療は後回しで。まず事情聴取が先だから、牢にでもぶち込んどいてください。それと、そこで寝てるバカも一緒に」
「はっ!」
 そしてパールはマリンとシトリンを交互に見やり、
「じゃあ行きましょうか」
 事情がわからないながら連行されていくそのハンターたちに厳しい一瞥をくれるマリンだったが、すぐに気を取り直してシトリンに向き直り……優しく笑って、シトリンの手を取った。
「その前にパールさん、シトリンの治療と着替えの時間をいただけますか?」
「もちろんです。ただし、私も同席します」
「パールさん?」
 先ほどのモルガナの言葉が、パールは気になっていた。
『まずマリンを拘束してください』
 恐らくだけど、マリンの赫怒が限界を突破するような出来事が起こったのだということは想像に難くない。モルガナの言うように、冗談抜きでマリンを拘束しておいたほうがいいかもとまで思う。
 モルガナがこの場でそいつの足をへし折っていたこと、パールがそいつらを牢に放り込んだこと。これが多少なりともマリンの留飲を下げていて、結果的にそいつらはマリンに殺されずに済み、そしてマリンも犯罪者にならずに済んだ……とは、あとになってわかることである。
 パールとモルガナにそのつもりはなかっただろうけれど、図らずもそれは不幸中の幸いになったのだった。


 これまで、長らく『空室』だったギルドマスター室。肝心のギルマスがレストランの店長職にかかりきりだったのだが、シトリンという新人の入社によって時間の余裕ができたことから、パールもぽつぽつながらギルマスとしての職務を再開していた。
 ひととおりの怪我の治療とシャワーで血痕を洗い流して着替えを終えたシトリン、そしてマリンとパールがギルドマスタ―室のソファーテーブルで向かい合う。シトリンはマリンの横で、身を小さくしてうつむいたままだ。
「では聴取を始める前に……シトリンちゃん、あなたは自分がしでかしたことを理解はしていますよね?」
「はい……すいませんでした」
 パールはちょっと弱めに微笑むと、
「じゃあ手を出してくれる?」
 そう言って、ソファーテーブルに備え付けの小さな引き出しから……手枷を取り出す。両手を拘束するためのものだが、いわゆる両手を同時にはめる一枚板のそれではなく、金属製のリングが二つ、鎖で連結されている手錠のようなタイプの手枷だ。
 シトリンは一瞬だけハッと息を呑んだが、おそるおそるではありながらおとなしく両手をパールに差し出す。パールは、まずシトリンの右手に手枷をはめて。
「ちょっ、パールさん! 何を」
 反射的にそれを阻止しようとしてマリンの左手がパールに伸びるのだが、そこをすかさずパールは……マリンの左手に片方のリングをはめた。
「へ?」
 シトリンの右手とマリンの左手が、手枷で連結された状態となっている。
「マリンさんの両手を拘束しても、そのままでドラゴンの百匹や二百匹は楽勝で屠りそうですからね。シトリンちゃんと繋がっていれば、マリンさんも変な気を起こさないでしょう」
「……なるほど?」
 マリンは少し憮然とした表情ながらも、手枷をされた左手でシトリンの右手を握り、手を引いた。この状態でマリンだけが手を引けば、シトリンの右手が手枷で引っ張られてしまう。それを危惧した故の行為ではあったのだが。
 シトリンは、横目でマリンに握られた手を確認する。その両人の手首は、頑丈な鎖で繋がれていて。
(シトリンちゃん、なんで顔を赤らめてんだろ?)
 パールはちょっと不思議に思ったが、まぁそれは置いておこう。
「さて、シトリンちゃん。何があったか、話してくれる?」
「私が……お客様の大事な剣に料理をこぼしちゃって……モノクルを……割っちゃったんです」
(要領を得ないわね……多分だけど、大事なところをあえて抜かしてるような)
「シトリン、それだけじゃないじゃろ? ここ、殴られたんよね?」
 そう言って、優しくシトリンの頬を触る。 
「あの男に殴られたん? それともモルガナさんが足をへし折った奴に?」
「……」
 シトリンは何も言わない。パールとマリンは困ったように、顔を見合わせた。
「そう言えばパールさん、シトリンのほうにも誰かに危害を加えたような形跡があったんですが」
 それを聴いて、シトリンの肩がビクッと震えた。
「でもあの寝てる男? どこにも怪我してる様子が無かったんですけども……」
「えぇ、そうですね。あの男は無傷です。シトリンちゃんは、何もやっていませんよ」
「えっ⁉」
 びっくりしたように、シトリンが素っ頓狂な表情で顔をあげた。
「だってそうでしょう? あの男、どこも怪我していません。まぁモルガナの不注意で別のハンターさんが脚を怪我したのと、シトリンちゃんが殴られて怪我しましたけど」
 そう言ってニヤリと笑うパール。あの妖精さんが完璧に治癒してくれたのをこれ幸いとばかりに、この線で押し通す腹積もりだった。
「いったい何がなんだか?」
 そこへ、扉がノックされた。
「モルガナです」
「入ってください」
「失礼します」
 そう言って入ってきたモルガナは……憤懣やるかたないといった表情だ。そしてシトリンに、憐憫の視線を向ける。
「仔細はわかりましたか?」
「はい、おおよそは。……ところでマリンとシトリンちゃん、なんで仲良く手枷されてるんです?」
「マリンさんを拘束しろと言ったのはモルガナさんでしょう? こうすれば、マリンさんはシトリンちゃんと繋がってるから下手なことはできないと思って」
「なるほど、考えましたね!」
 マリン、なんだか置いてけぼりにあった感じでちょっとモヤる。
「モルガナさんは私の横に」
「はい、失礼します」
 モルガナが着席する。そして抱えていたレポート用紙を持ち替えて、
「シトリンちゃん。いい?」
「……はい」
 再びうつむくシトリンを、心配そうに無言で見守るマリン。元気づけるように、シトリンの手を強く握り直す。
「では報告を始めます」
 モルガナは、淡々と読み上げる。本当なら感情を込めて荒くれどもを罵倒しながら読み上げたいところだが、マリンがそれに影響を受けてしまっては困るからだ。
「――以上になります」
 パールとモルガナは、おそるおそるマリンの表情を確認……そして、やっぱりかとばかりに嘆息を漏らす。
「マリンさん、落ち着いてね。いや、落ち着いていられないでしょうけど、それでも落ち着いてください」
「はい……」
 まるで般若のような表情になっているマリン。シトリンと繋がっているのとは反対側の右手の拳が、パンパンに充血するほどに強く握りしめられている。だがすぐに、隣のシトリンがポロポロと落涙するのを見て……。
「シトリン、怖かったね? 悲しかったね? 私がその場におらんで、本当ほんまにごめんね?」
「違っ! マリ……ご主人様は悪くないです‼ 私がすべて悪いんです!」
(今、マリンさんて言いかけた?)
 なんだか、ちょっと頬が綻んでしまうマリン。何度か『マリンさんて呼んでほしい』とお願いはしているのだけど、いつも断られているのを思い出す。『命令』してもよかったが、シトリンの意思でそう決断してほしいので『お願い』にとどめておいているのだ。
(シトリンも、心の中ではマリンさんって言ってるんじゃろうか。もう一押ししたら、呼んでくれるかな?)
「マリンさん? 何ニヤニヤしているんです?」
「あ、いえ。何でもないです、すいません。それとシトリン、今の話を聞く限りじゃあなたは全然悪くないですよ」
「そうですよ、シトリンちゃん。むしろシトリンちゃんは被害者! 顔を殴られて、モノクルを壊されて。被害届、出しましょう‼」
 事情聴取にあたった本人だけあって、モルガナは怒り心頭だ。
「パールさ……いえ、ギルドマスターに問います」
「何でしょう?」
「あいつらはどうなりますか? いえ、それはどうでもいいですね。シトリンはどうなりますか?」
 キッとマリンがパールに毅然と言い放つ。
 親切な妖精さんのおかげで、私怨による傷害に問われるかどうかはグレーゾーンにまで下がったが、それでも何のお咎めなしというわけにもいかないだろう。
「シトリンは私の奴隷です。奴隷の責任は主人である私にあります。ですからシトリンの責は私が」
 そのときだった。シトリンが勢いよく立ち上がって、マリンのその発言を遮る。
「マリンさんこそ悪くありません! 悪いのは私なんです、マリンさんに責任を問うことは絶対やめてください、お願いしますお願いしますお願いします!」
 手枷で繋がっているマリンの左手が立ち上がったシトリンに引っ張られてちょっと持ち上がっているのだが、シトリンはそれに気づかずパールに頭を下げたまま何度も懇願する。
(シトリン、気づいちょるんじゃろうか。興奮のあまり『マリンさん』呼びになっちょるんじゃけど)
 場がそんな空気じゃないというのにどうしても顔が綻んでしまい、顔を背けて誤魔化すマリン……を見て苦笑いのモルガナ。
(上手く誤魔化してるつもりなんだろうけどマリン、あなたプルプルしてるよ?)
 パールも気づいていて、苦笑いしきりだ。
「シトリンちゃん、落ち着いて。ね? とにかく座ってちょうだいな」
「お願いですお願いです! 私一人が罪を被ります‼ マリンさんは……マリンさんは悪くな……ふぇ…ふえぇ……ふえええーん‼」
 感情が臨界点を突破してしまったシトリン、まるで幼い少女のように声をあげて泣き出してしまった。
「シトリン、泣かんといて!」
 慌ててマリンが立ち上がり、シトリンを優しく抱きしめる。
 その二人を慈愛の笑みを湛えて眺めながら、パールはシトリンが落ち着くのを待つことにした。三十分ほどしてシトリンが少し泣き止んだので、再び二人を椅子に座らせて。
「あいつらからも事情聴取を行わないといけません。ですので、話はそれからになります。とりあえず今日はシトリンちゃん、家にお帰りなさい。マリンさんも、今日は早上がり扱いにしますからついててあげてくださいな」
「わかりました」
「ま、悪いようにはしませんから安心してくださいね」
 パールは二人を安心させるように、そう言ってウインクしてみせたのだった。
 マリンがシトリンを抱きかかえるようにして部屋を後にするのを見送りながら、モルガナは再び怒り冷めやらぬ表情を浮かべる。
「じゃああいつらの事情聴取、さっそく始めましょうか!」
 一人憤るモルガナを苦笑いしながら見つめるパールであったが、
「いえ、明日にしましょう」
「ギルマス⁉ 何でですか‼ 今すぐにでもあいつらをケチョンケチョンに……」
「『事情聴取』、でしょうに」
 パールは静かに扉を閉めて、
「今日は色々ありましたからね。たとえば牢の中の人間が怪我をしていることをすっかり忘れてしまったり、食事の用意を忘れてしまったりしてもしょうがないです。そう、思いませんか?」
「あ……」
 パアァッと明るい表情を浮かべるモルガナに、パールはニッと笑ってみせたのだった。
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