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第四話・藍は愛より出でて愛より深し

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「お風呂沸きましたよー!」
 そう言いながらルンタッタしながらやってくるご主人様。少女は、どう反応すればいいのかわからないでいた。
「おいで?」
 そう言って、左手で私の右手を優しく握って。
 気づいたことがある。ご主人様は左利きだ。
 そして左耳に小さな藍色のピアスが二個、右に一個なのは何かこだわりでもあるのだろうか。
 そんなどうでもいいことを考えながら、引かれるまま導かれるままに浴室へ続く脱衣所へ案内される。
「ささっ、脱いで脱いで!」
 言われるがままに……ではなく、強引に衣服を剥ぎ取られあっという間に全裸になる。
 戦闘奴隷だったころのいくつかの小さな古傷があらわになり、筋肉質で締まってはいるものの女性としては貧相な身体であるのが恥ずかしい思い――といっても、まだ十三歳の若干ではあるが。
 こんな干からびたカエルみたいな身体に、四億リーブラもの価値があるのだろうか?
(なるほど! 私はこれから拷問されるのね⁉)
 なんだかとっても不条理な結論に思い立ち、今の自分の置かれている立場に妙に納得してしまう。
(痛くないといいなぁ……って無理か)
 『諦める』ことに関しては自分はプロだ。もうなんだか歪んでしまっているが、仕方がない。それが私の『生きる道』だったから。
 だが、その道は少女の予想とははるかにその様相が異なっているようで――。
「えっ⁉ あの?」
 全裸になった少女の前で、マリンも衣服を脱ぎ全裸となる。鍛え上げられた美しい裸体が眩しい。
 一八〇センチを超すその美裸体は、なかなかの迫力だ。自分とは違いすべすべでツヤツヤな大理石の彫刻のように美麗で、とっても綺麗で。
「な、何をなさって……⁉」
「? 一緒にお風呂に入るんよ?」
 キョトンとしてそう訊き返すマリンに、
「えーと……湯船で拷問されるんですか? 水責め…窒息プレイですよね、かしこまりました」
 なんだか不穏な覚悟を決めてる様子の少女に、
「何の話なん⁉」
 マリンは戸惑いを隠せない。
「え、いや、だからこれからされるお仕置きの……」
 頭上にはてなマークをピヨピヨさせている少女の手を引き、いざ浴室へ。
「とにかく座って座って!」
 そう言って、バスチェアを指さすマリン。
(水責めじゃない…⁉)
 少女は、怪訝そうにチェアに座る。
(熱湯プレイなのかな?)
 それはちょっと嫌だ。
 そんな少女の心中を知ってか知らずか(多分知らない)マリンは洗面器にお湯をためて、左手で湯温を確かめてから少女の頭からザブザブと流す。シャンプーをかけて、ガシガシと優しく頭皮をマッサージしながら、毛の先端まで丁寧に汚れと垢を落とす。
「……あのぅ? ご主人様?」
「何かな?」
「私、ご主人様に髪を洗ってもらってるような気がするのですが……気のせいですよね?」
「? お湯、熱かった?」
「いっ、いいえ! そういう話をしているのではなくっ!」
 少女は、髪を洗ってもらいながらしばし思案に耽る。
(そうか! 綺麗にしたあとに汚す、そういう性癖の持ち主なんだ!)
 失礼すぎる妄想である。
 されるがままに、胸部や腹部……果ては女性器まで丁寧に洗ってもらい、ガサガサのかかとの肉球まで軽石で念入りにケアされてしまう。
「プッ! パミス…ッ!」
 軽石を見て、あの厭らしい笑みの子爵を思い出して吹き出すマリンだが、少女は何がなんだかわからない。ただこの後にどんな非道い目に遭わされるのかを考えると、自然と表情も険しくなる。
「じゃあ、それじゃあ……」
(来たっ!)
 わかってはいたが怖いものは怖い。思いっきりギュッと目をつぶる少女。
「今度はあなたが私の背中を流して?」
「はっ、はい! あまり痛くしないでもらえるとありがた……はい?」
「何であなたが痛くなるん???」
 キョトンとして見つめ合う全裸の二人。
「えーと?」
「あの?」
 最初から、何もかもが噛み合っていない。
 結局、言われるがままに自分にそうしてくれたようにマリンの背中を流す。こころなしか、頬が上気してリンゴ色に染まる。
(なんだろう、この感情……)
 少女はさっきから、戸惑いっぱなしだ。お仕置きはいつ始まるのだろう?
「さて、お湯に浸かりましょうか!」
 そう言って、マリンは湯船に浸かる。
 マリン宅の浴室はその世界ではスタンダードである一人用のそれではなく、南方にあるアルコル諸島連合国からわざわざ個人輸入した広い浴槽である。縦横五メートルほどの大きな浴槽で、身体を洗うためのそれではなく湯温に身をゆだねるための特殊な用途のそれだ。この浴槽を売っていた現地の習慣らしいが、詳しいことはマリンも知らない。
「ふはぁ~!」
 湯に浸かり、愉悦の表情のマリン。そして、何故か湯船の外で正座したままうつむいて動かない少女。
「早くおいでよ。風邪引いちゃうよ?」
「……? おいでよ、とは?」
「いや、じゃから浴槽に」
「私、奴隷ですよ?」
「それもう飽きたけん。早くきんさい」
「は、はぁ……」
 少女は、おずおずと浴槽に浸かる。マリンの、隣に。
(この人は私をどうしたいのだろう?)
 しげしげと少女の瞳を見つめながら、優しい表情でマリンが口を開いた。
「オレンジ色の綺麗な瞳じゃね。そういやあなたの名前決めちょらんかったね? ほうじゃねぇ……」
 マリンはあごに手をやり、しばし思案に耽る。
「シトリン! シトリンはどうかな?」
「しとりん、ですか?」
「うんっ!」
 とっても嬉しそうに、マリンがうなずく。
「あなたの瞳みたいな、きれいな宝石の名前。琥珀色のね、オレンジ色の光。あなたの瞳は、お日様が燃えちょるみたいじゃねぇ」
 少女は、とまどいを隠せずにいる。私の瞳がお日様?
「というわけで、あなたは今日からシトリンです。よろしくお願いしますね?」
「は、はいっ!」
 わけもわからず了承してしまうが、自然と頬がゆるんでしまう。
(私はシトリン…シトリンなんだ)
 一人で照れてる少女を見つめながら、マリンはふと思い当たる。
「もしかしなくても、本当の名前あるんよね? ご両親からもらった……そっちのほうがいい?」
「……ッ!」
 少女が何か言いかけてやめたのを見てマリンは嘆息すると、
「『命令』です。本心を教えてくださいな」
 そう、命じる。多分だけど『お願い』だと教えてくれないと思ったから。
 でもなんだろう、『命じる』という自分の行為に嫌悪感のようなものがある。一瞬だけ、マリンの表情が曇る。
「両親、いや私を売った人たちにもらった名前があります。私はそれを大事にしなきゃいけないのか、よくわかりません。ただ疎まれたとか虐待されたとかはなく、売られる前までは普通に愛されて……いた、とは思うのですが」
 小声でつぶやく少女のそれに、マリンのこめかみに血管が浮かび上がる。
 どんな事情があるのかわからないけれども、我が子を売り飛ばすような親に親愛の情を捨てきれていないのが、なんだか無性にイラついて仕方がなかった。深呼吸して落ち着きを取り戻して。
「あなたはシトリン。今日からシトリン。私のシトリンじゃけ、よいですか?」
 少女の返事をもらうまで、ちょっとの間があったけれども。
「はい!」
 と元気な言葉をもらい、マリンもホッと胸をなでおろす。
「あの、ご主人様?」
「ん?」
 上目遣いに、シトリンがおずおずと切り出す。
「私がご主人様に買われた理由といいますか、用途みたいなその……あ! 大丈夫です、ちゃんと女性相手の訓練もしてます!」
「訓練?」
 この子は何を言っているのだろうと訝しげだったマリン、シトリンが愛玩奴隷として再教育を受けたということを思い出す。そして愛玩奴隷になる前は……。
「そういう目的であなたを引き取ったわけじゃないんよ、シトリン」
 なんとか、その一言だけ絞り出す。
 神様なんて信じちゃいない。もし神様ってのがいたら、何でシトリンはこんな厳しい環境で育ちゃなきゃいけなかったんだろう。そんなやりきれない思いで、マリンは唇をギュッと噛みしめる。
「ではどういう……私に四億リーブラもの価値があるとは、とても思えないんです」
「シトリンはシトリンのままでおってくれれば、その価値は無限大なんよ」
「……私は、ご主人様が何をおっしゃってるのかわからないです」
 シトリンは、そう言ってうつむく。
「じゃろうね。お互い、わからんこと多いけん。一つずつ、一つずつお互いのことを知っていこう。ね?」
 そのマリンの問いかけに、シトリンからの返事はない。
「シトリンはさ?」
「はい」
「私が何か、あなた――シトリンにひどいことをするために買ったって思ってるふしがあるよね?」
「……否定は……しません」
 またうつむいてしまうシトリンに、安心させるようにマリンは優しく微笑みかける。
「そんなこと、せんけ。私と一緒にご飯食べてお風呂に入って、朝起きたらおはようって。帰ってきたらおかえり、ただいまって。それだけでええんよ」
「……私、奴隷なんですけど?」
 もう、シトリンがこれを言うのは何度目だろう。だがマリンは特に諫めることもなく、
「じゃねぇ。私はご主人様じゃね」
 そう言って、笑う。
 湯温で上気した頬がとっても色っぽくて、シトリンはちょっとドキドキしてしまう。
「それで……私のこの家での役割は何でしょうか?」
「さっき言ったよ? あ、確認だけど料理は作れるかな?」
「大丈夫です。任せてください!」
 『仕事』をもらえて、シトリンは少し安堵の表情を見せた。
「あと、お掃除とお洗濯と……余った時間は好きにしてええよ」
「――そういうの、一番困ります」
「んー……ほいじゃ文字の読み書きとか、数の計算とか。もし勉強したいことがあったら遠慮なく言いんさい。私が教えてあげるけん」
「はい! ありがとうございます!」
 シトリンの表情が、年相応の女の子のような嬉しさと期待で満ちた輝きを放つ。
「初めて笑ってくれたね!」
「え?」
 シトリンがこの家に来て初めて笑顔を見せてくれたような気がして、マリンの表情も自然とほころぶ。
「『笑門来福』っていってね、幸せは笑う人にやってくるって意味なんよ。私がシトリンを幸せにしてあげるけん、その笑顔は忘れんちょってね?」
「……ふぎゅ……うぐっ……うぇっ……」
 シトリンの、琥珀色の瞳から涙があふれ出る。止めようとしても、次から次へと涙があふれ出て止まらない。
「泣きたいときは気が済むまで泣きんさい、怒らんけん。じゃけど、好きなだけ泣いたら――」
 シトリンの頭を優しくなでてやりながら、マリンは慎重に言葉を紡ぐ。
「また笑って?」
「……はい」
 か細い声だったが、マリンにはその返事が届いただろうか。シトリンは衝動的にマリンに抱き着いて、その形のいい乳房に顔をうずめる。しばし泣いたあとでもう一度だけ、今度はちゃんと聴こえるように。
「はい!」
 胸に顔をつけたままだったので、マリンは困ったように笑う。
「ふふ、こそばゆいね」
 そして悪戯っぽい笑みでそう応えると、自分の胸で泣いているシトリンの裸体をギュッと強く抱きしめるのだった。


 マリン宅、庭で洗濯物を干しているのはシトリンだ。
「んっ、いい天気!」
 ハンターギルドへ出勤しているマリンに代わり、この家を守るのがシトリンの役目――とはいっても、今のところ洗濯と掃除くらいしかやることがない。食事は『自分でも作りたいときあるけん、交代で作ろう』ということになっている。
「よし、終わりっ!」
 最後の一枚を干し終えて、ふと干してあるマリンの下着に目が行き……導かれるままにフラフラと歩み寄ると、左右を素早く見渡して誰もいないのを確認。それを鼻に押し当てて匂いをかいでみたりなんかして。
(いい匂い! ……って何やってんの、私)
 紅潮してしまった自分の顔をパタパタと手のひらで仰ぎながら、洗濯籠を片手に室内へ戻る。
「まだ午前十時か……ヒマだな」
 今日はもう、やることがない。壁に貼られたシフト表を念の為に確認してみるが、夕食の当番はマリンである。
 奴隷としてマリンに引き取られて、一ヶ月が経った。家事以外は特に命令されることもなく、空いた時間は好きにしていいと言われている。
 『これ、渡しておくね』そう言ってマリンから手渡されたのは、二本の鍵。
「どこの鍵ですか?」
「玄関と金庫の鍵じゃけ」
「はい!?!?」
「うん?」
 思わずわが耳を疑うシトリンだったが、シトリンがなぜ戸惑うのかマリンにはわからないようだ。
「一応、食材はストックあるから買い物にでかける必要はないと思うけど、下着とか服とか必要な物があったら買いに行きんさい。あ、でも――」
「でも?」
「私がいいっていうまでは村まで。理由はあとで教えるけど、『まだ』街まで出たらいけんよ?」
「かしこまりま……じゃなくて! この奴隷環の呪でご主人様に危害を加えることは絶対にできないことになってますけど、その気になれば不利益なことはできちゃうんです!」
 あわあわと慌てながら、一気にシトリンはまくしたてる。
「う、うん?」
「ご主人様は心配じゃないのですか⁉ 私がお金を盗っちゃうかもですよ?」
「うん。じゃから好きなものがあったら買いに行ってええよ?」
 マリンは、さっぱりわけがわからないという表情だ。
(話が通じない……)
 シトリンは嘆息すると、
「お願いです、命令してください。ご主人様のお金は盗ってはいけない、と」
「???」 
 シトリンの表情は険しい。マリンは何がなんだかよくわからなかったが、とりあえずシトリンがそれを望んでいるというのだけは理解した。
「えっと……大事に使ってね?」
 いや、理解していなかった。
「そうではなく!」
 シトリンは、わかってもらえるまで何度も何度も説明する。心が途中で折れかけそうになったものの……。
「シトリンが盗るわけないじゃんね……」
 マリンはブツブツ文句を言ってたが、なんとか納得させ命令してもらえたのだった。
(街は……)
 村にも小さな個人店がいくつかあるので、わざわざ街まで出向く用は今のところはない。マリンが街への外出を禁じたのは、シトリンが四億リーブラという高額で競り落とされた奴隷であるためだ。
 この全体未聞の出来事は新聞にも大々的に報じられ、街でマリンとシトリンは一躍時の人となっているらしいと、近所のおじさんが話してくれたことがある。
(私が街の人たちにいろいろ訊かれたり、不快な思いをさせないためなんだろうけど)
 じゃあご主人様は? 自分のためにいろいろと面倒なことになっているんじゃないだろうか?
 そこらへんは何度訊いても『私は大丈夫じゃけん』としか言ってくれない。『私は』というのがどうにもひっかかる。
(汗かいちゃった。軽くシャワーでも浴びようかな)
 お風呂は好きなときに沸かして入っていいとは言われている。『それで汚い身体を拭いとけ!』と吐き捨てられながら、腐った少量の水を貧相な木の皿で出されていたころには想像もできない暖かい空気に、今は包まれている。
 毎日熱々のおいしい食事が出て、絶大的な信頼を寄せてくれて金庫と家の鍵まで預けてくれる。広くて気持ちのいいお風呂に入れてもらえて、ふかふかのベッドで眠りにつく。
 毎日が、終わらない白昼夢を見ているような気分だ。それはとっても、とっても幸せな夢。
 タンスから下着とタオルだけを持ちだし、浴室へ。服を脱ぎ捨てて、ふとなんとなく大きな鏡に映った自分の身体が目に入る。
(結構、肉が付いてきたな)
 健康的な食生活を送っているため、ここに来たばかりの貧相だった身体はもう面影すらもなかった。ただ、変わらないのは……。
「女の子の身体じゃないよね、やっぱ」
 そう呟いて、嘆息する。大小無数の古傷が、筋肉質でスレンダーな少女の身体に刻まれていた。戦闘奴隷だったころ、生きるために――いや殺されないために殺すという修羅のような生活をしていた忌まわしき名残だ。
 自然に、左手が左目の目尻にいく。側頭部方向に三センチほどの古傷が盛り上がっている。
 この傷痕はまだ戦闘奴隷だったころ、一年前のあの日に――。


 フェクダ北西の国境近く、ポラリス山脈の中腹に地図に載ることすらも許されなかった猫獣人の村――いや村というよりは十世帯ほどの小さな集落。
 十三年前、シトリンはそこで産まれた。
 どの家もその日暮らし……いや満足に食事も摂れないほどの赤貧ぶりで、小動物や鳥を捕まえて喰らう。それらを捕獲できなかった日は、草や木の根をかじって空腹をごまかす日々。
 国から『忘れられた村』だったからこそ税金を納める必要もなかったが、ゆえに国からの保護や補助は皆無だ。むしろその存在がばれたら、過去に戻って税金を追徴課税されるだろう。だから、自分たちも隠れるように暮らしていた。
 いくら猫獣人といえど生活習慣は人間寄りなので、野良猫のように日々暮らすことは屈辱以外何ものでもない。その出口の見えない貧困は、確実に村人たちの心に影を落としていた。
 そんな村人たちが唯一食い繋ぐ手段――それは『奴隷売買』。男児女児問わず最初の一人だけは残し、二番目以降に産まれた子は十歳前後まで育てたあとに地下奴隷商人に売り飛ばす。
 それが村の長年にわたる『習慣』になっていた。二番目以降の子どもは、『売るために産む』という歪んだ習慣だ。
 この村にその習慣が始まったのは、数百年以上前に遡らないといけない。
 今の村は山の中腹にあるが、当時は山のふもとに村があった。ちゃんと国から認められた村で、今ほど貧しくはなかったという。
 ある日、メグレズ王国の王女がフェクダ王国の王室に嫁入りすることが決まる。そして王女の一団がフェクダ入り後に王城へ向かう途中で、この村に一泊することになった。
 村には、一団を手厚く迎え入れもてなせとの王命がくだる。村人たちは伝統の料理をふるまい、古くから伝わる踊りを披露し……つつがなく歓待の責務を果たしていったのだが。
 夜明け前、一団に同伴していたフェクダの奴隷商人が物音で目を覚ました。王女も同じ宿に泊まっているので、念の為に音の正体を確認すべく廊下に出て――そして目撃してしまう。
 ――猫獣人の村の青年が、嫁入り道具をはじめとする大量の金品や物資を保管している部屋から出てきたのを。その小脇に、盗品が抱えられているのを。
 その猫獣人の青年が村長の息子だったこと、盗んだ箱の中に入っていたのが結婚式に使う王女のティアラだったこと、早朝の騒ぎにさせないために静かに取り押さえたこと。色々な不幸な偶然が重なったが、何よりもの不幸はこの商人が闇の奴隷売買を手がけるフィクサーだったことだろう。
 奴隷商人は盗品を取り戻したあと、この事実を王女に報告しなかった。もし報告されていたら、この村はフェクダ王室から重罰が課せられただろう。歓待にあたった村民たちは死刑を免れなかったかもしれない。
 こうして『弱み』を握られた村は人里離れた山の中腹に居を移し、以後は『奴隷牧場』としてその命運を闇の奴隷商人に委ねることになる。
 数百年間にわたり猫獣人たちも代替わりして当時を知る世代はもういないものの、奴隷商人もまた代替わりしていく。親から子へ子から孫へと『奴隷牧場の管理』が引き継がれていったのだ。
 七つの国から成る帝国では、唯一フェクダのみが奴隷の売買を合法としている。
 ほかの六国ではフェクダの奴隷商人から『買う』のは合法であったが、『売る』のは重罰を伴う違法行為だ。またそのフェクダですら『身内を売る』行為は禁じられている。
 つまり村民たちはこの二つの重罪を数世代にわたって犯していることになるわけで、司法に助けを求めることはできない状況にあった。そもそも村がその存在自体を国に隠蔽していて、それもまた違法行為なのだ。
 こうした悲しい歴史が積み重ねられていく中、シトリンはその村で産声をあげる――その家の、三女として。
 シトリンは、両親と姉に愛されて育つ。だが同時に、十歳になると奴隷として売られ村を離れるのだと言い聞かされて育った。奴隷という言葉もわからない小さなころから、ずっと。
 だから普通にそれを受け入れていたし、三つ年上の二番目の姉が売られていった日は当たり前のように見送った。別れが寂しくはあったけれども。
 そして自分が八歳の誕生日を迎えたあの年に、奴隷商人が今年も猫獣人の村へやってきた。
 黒い呪術師のローブを羽織っていて、歳のほどは四十歳前後だろうか。フードから覗くその見目はダンディな顎ヒゲをたくわえた精悍な顔つきの男性で、ハンター顔負けの鍛え上げられた長身の体躯だ。長めのダークブラウンの頭髪をオールバックにして、後方でまとめているように見える。
 村から出たことがなかったシトリンにとっては、初めて見る『猫獣人以外』の人種だった。
 両親と姉に見送られながら奴隷商人の荷馬車に押し込まれ、別れの挨拶もそこそこに荷馬車は走り出す。
 まだ言葉も解さない年齢のころから『そうなる』ことをくり返し聴かされていたから、疑念も持たないし抵抗もない。淡々と運命を受け入れるだけだ。
 逃亡防止のために首枷と手枷足枷をはめられ、荷室は外部から施錠されており窓はない。今年この村から売られていく奴隷は、シトリン一人だけのようだ。
 途中で小さな人間の村で馬車が停まり、見知らぬ女児一人が合流した。
 年齢はシトリンと同じ歳くらいで、おかっぱの髪型。クリクリした瞳の可愛らしい……いや何よりも特徴的だったのは、黒い髪と黒い瞳。この大陸ではどの国にも居住していないタイプの人間だ。
「……こんにちは」
 おずおずと話しかけてみるシトリンだったが、少女からの反応はない。
「あっ、あの……珍しい髪の色だよね? 瞳も……」
 猫獣人以外を見たのは奴隷商人に続いて二人目だ。どんな話題で繋いでいいかわからず、絶望の表情で俯いたまま微動だにしない少女の態度に困惑してしまう。
「珍しいから……だよ」
 俯いたまま、少女がつぶやいた。
「え?」
「黒髪と黒い瞳だから、高く売れるんだって」
「……」
 何か地雷を踏んだような気がして、シトリンも黙りこくってしまう。
「あなた、猫なの?」
 そう言いながら興味なさそうに、少女が顔をあげた。
「えっと、猫獣人デミ・キャットって言って猫と人間の中間みたいな感じ」
「ふーん」
 シトリンのその説明には興味を示さず、再び少女はうつむいて一言も発さなくなった。
(人間の子か……仲良くなれるといいな)
 晴れた日の昼下がり、隣国へ続く道を荷馬車がゴトゴトと売られていく奴隷少女たちを運んでいく。
 馬車がたどりついたのは、空気の淀んだ陽の当らない路地裏の賤が家だった。
 窓も扉も鉄柵がはめ込まれており、外出の自由などない。そこへ二人とも暴力的に押し込まれ、奴隷商人たちは姿を消す。
 結局その日は食事ももらえず、当然ながらお風呂にも……部屋というよりは牢に近いそれの片隅に、人の頭ほどの大きさの穴が掘られている。そこで用を足せということなのだろうとすぐに理解できた。
 すでに何度も奴隷を閉じ込める部屋として使われたのだろう、とにかく悪臭がひどかったからだ。
 その日は私語を命令で禁じられていたのもあって、シトリンと少女との間に会話はなく――小さな窓から差し込む月明かりに照らされて、ボロ布を身にまとい眠りについたのだった。
 翌日、奴隷商人と部下らしき荒くれが部屋にやってくる。
「ブラッド様、こいつらはどうしやすか?」
 奴隷商人の名前はブラッドというらしい。
「愛玩奴隷にするにしてもまだ子どもだしな。今からコッパーがテクニックを仕込むか?」
 部下の名前はコッパーなのだろう。そのおぞましい二人の会話を聞かされ、シトリンは平気だったがもう一人の少女は涙と震えが止まらないようだ。
(奴隷ってそういうもんだし)
 小さいころから、両親からずっと刷り込み続けられてきた自分の運命。それを受け入れる覚悟は、もう決まっている。
 焦り顔のコッパーが口を開く。
「冗談じゃないですぜ、ブラッド様! こんな小便臭そうなのは勃つモノも勃ちませんわ!」
 何のことを言われているのかは幼いシトリンにはわからなかったが、なんかムカつくことを言われたのは理解した。
「そうか、なら戦闘奴隷にしよう。ラッキースケベで客が呼べるからな!」
 ブラッドとコッパーは厭らしい嗤い声をあげて、まるで汚物でも見るような視線をこちらに投げかけてくる――その日は、カチカチのカビたパンと水を一杯だけもらえた。
 次の日、二人とも初めて部屋から出してもらう……といっても二人とも首枷・手枷をはめられたままで、腰に巻き付けたロープで連結させられて。一人だけ逃げ出すということができないようにするためだ。
 連れていかれたのは地下の闘技場。客席には人はおらず、あたりは静まり返っている。
 ブラッドがふんぞり返りながら、厭らしい視線を投げかけつつ言った。
「よく聞け、ガキども! お前たちは明日からここで『闘う』んだ」
 意味がわからなかったが、明確な『命令』だ。奴隷環に込められた呪によって、その命令にはただただ従うことしかできない。
「といっても、お前ら同士が対戦するんじゃない。私が運営する戦闘奴隷チームの一員として闘ってもらう」
 そう言うや否や、ブラッドはもう一人の少女に目をやって。
「まず『黒い』の、お前は今日から一〇一三号だ。『黄色い』の、お前は一〇一四な。これが今日からのお前らの名前だ。今後一切、これまでの名前を口にするなよ?」
 自分の名前さえも奪われてしまった、二人はそんな絶望的な表情を浮かべる。そして追い打ちをかけるように、
「これは、『命令』だ!」
 ブラッドは二人を順番に一瞥しながら、厭らしくニヤリと嗤ってみせた。
「わかりました」
「かしこまりました」
 奴隷環の呪のせいか、逆らう気もおきない。二人はただ機械的に、魂の宿っていない言葉を紡ぐ。
(今日から一〇一四て名前か……)
 シトリンは表情に出さないように留意しつつ、ふとそんなことを思う。この番号が意味するのは、たぶん『そういう』ことなんだろう。つまりこの男にとって、自分は一〇一四番目の――。
 そんなシトリンの思考を、ブラッドのよく通る声が無遠慮に遮る。
「まずその前にだな、命令に疑念を持ったり逆らおうとしたらどうなるか教えてやろう。俺が言ったらそれは命令になってしまうからそうだな……おい、コッパ―」
 ブラッドは、コッパ―に何やら耳打ちをする。
「へへっ、わかりやした!」
 ニヤリと嗤いながら、コッパ―が振り返った。
「おいガキども! 『ご主人様』にこう言うんだ。『イヤです、闘いたくありません!』とな! ほら、言ってみろ」
 ご主人様、つまりブラッドから受けた命令に反する言葉だ。何がなんだかわからなかったが、とにかく口々に言ってみる――そのときだった。
「ギャッ⁉」
「痛い‼」
 二人の奴隷環から鈍い金属音が響いたかと思うと、灰色の蒸気のような煙のような何かが奴隷環から立ち上る。同時に、筆舌に尽くしがたい激痛が二人の身体中を駆けめぐった。
「qあwせdrftgyふじこlp!?!?」
 立っていられず地面に倒れこむ。筆舌に尽くしがたい七転八倒の苦しみに、眼球をひん向き泡を吹きながら悶絶する。身体中から、涙・脂汗・よだれが吹き出してきて止まらない。
 失神するほどの激痛だが、激痛ゆえにすぐに覚醒してしまう。あまりの苦痛に、もう一人の少女――一〇一三号が小水を失禁してしまった。
 まるで、肉体に癒着した魂を力任せに剥ぎ取られているような、地獄の苦しみがエンドレスで続く。
「よし、もうよい」
 ブラッドのその一言で奴隷環は再び元の静寂を取り戻し、二人は苦しみから解き放たれた。
「わかるか? ガキども。私の命令に従わなかった場合、こうなるのだ! もし理解できたならば、地面に這いつくばってこの私に赦しを請え!」
 激痛が引いたとはいえ、その感触ははっきりと残っている。そして二度と忘れることはできないだろう。
 二人はガクガクと恐怖に震えながら、地に額を付けて口々に謝罪の言葉を口にする。何に謝っているのか、自分ではわからなかったけれど。
「よーしよし、いい子だ。明日からこの闘技場で戦闘イベントが開催されるが、お前たちはその兵隊として生きていくのだ。もっとも――」
 ブラッドがニヤリと嗤う。
「もっとも、殺されてしまっては働くこともできないがな。ここの観客席は、賭博が大好きな貴族やお金持ちたちで埋まる。お前たちの『仕事』はそいつらを愉しませることだ」
 そしてキッと眉をあげて厳しい表情を見せて、
「殺すか殺されるか? それはお前たち次第、相手を殺さないと試合は終わらない。自分が殺されたら、試合は終わるのだ。早めにくたばるなんてことは勘弁してくれよ?」
 カエルのように這いつくばったままで動けずにいる一〇一三号の後頭部をぐりぐりと踏みにじりながら、ブラッドはそう吐き捨てた。
 次の日から、その地獄は始まった。
 異様な雰囲気の中、大歓声を浴びながら闘技場に入場する。武器を持って、見知らぬ奴隷商の見知らぬ奴隷たちと殺し合う。何の疑問も抱かず、淡々と。
 負けたら『死』という『地獄からの解放』が待っているが、『絶対に勝て』という命令に逆らうことができない。
 幸いにして、この二人の戦闘力は高かった。生命が危ぶまれる試合もあるにはあったが、なんとか勝ち抜いた――いや、生き抜いた。シトリンは猫獣人ゆえに、その戦闘能力は先天的な才能があったのが幸いだった。
 そして何故だかはわからないが、一〇一三号は純血の人間でありながらシトリンに負けじと劣らぬ戦闘能力を保持していた。彼女は両手にナイフの二刀流で勝負する闘い方で、肉を斬り刻み体力と精神を削ぎ取っていく。
 その蹂躙を愉しむような陰惨なバトルスタイルは、趣味の悪いオーディエンスたちの間で大人気を博していた。
 そんな一〇一三号とは対照的に一〇一四号ことシトリンは、自分の身体の大きさにも匹敵する大型のウォーハンマーを操って闘う。
 その一撃必殺の打撃は、まともにヒットすれば瞬時にして人をモノ言わぬ肉塊に変える。相手選手の四肢を、無慈悲に吹っ飛ばす。
 これはこれで、グロ展開を好む層から絶大な支持をもらっていた。
 その日も『いつものように』相手を殺し、食事を受け取って寝床に戻る。試合のある日は食事がちょっとだけ豪華になるのが数少ない楽しみであった。
「ねぇ、ヨン」
「何? サン」
 二人きりのときは互いに、一〇一三と一〇一四の末尾の数字で呼び合うことにしている。シトリンは『ヨン』だ。
 その日も遅めの食事を終えて手持無沙汰に壁を見つめて座り込んでいたときに、サンが話しかけてきた。
「私たち……こういう生活いつまで続くんだろう?」
「負けるまででしょ」
 つまり、試合で『死ぬ』ことを意味する。何当たり前のことを訊くんだろうと、シトリンは興味なさげだ。
「……こんなのっ、ニホンじゃ考えられなかった! こんな、こんな……」
(ニホン?)
 サンがたまに、変な言葉を口にしていたのをシトリンは覚えている。
「仕方ないよ、私たちはそうするために産まれてきたんだ」
「違う、違うよ。絶対違う! 私は両親に愛されて産まれて、そして育ったんだ。でもこの世界に転生して、孤児院に預けられて……そこの孤児院では、『運営資金』を孤児を奴隷商に売ることで賄っててさ。何でこんなことできるの、こんなひどいことを」
(『テンセー』てなんだろう?)
 悔しそうにつぶやくサンの気持ちは、当時のシトリンにはわからなかった。だって自分は、最初から奴隷として産み落とされたのだから。
「サンはさ、今何歳なの?」
「十一歳だよ。ヨンより一つ上かな?」
 この生活も、もう二年になる。
「うん。十歳。私の村では、二番目以降の子は奴隷として売り飛ばされるの。だから私が今ここにいるのは、『何も違わない』んだ」
 シトリンのその告白に、サンは驚愕と困惑の表情を隠せないでいた。
「……私はヨンが何を言っているのかわからない」
「そう?」
 もう誰もがこの生活を抜け出すことを諦めていたが、サンだけは常に『明るい明日』を夢見ていたように思う。そんな明日は、絶対に来ないのに。
 静かに涙を流しながら、サンがつぶやくように歌いだす。

 かごめ かごめ
 かごの中の鳥は いついつ出やる
 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
 後ろの正面 だあれ?

「不思議な歌だね。初めて聴く……」
 シトリンが不思議そうに問うと、サンはなんとか笑顔を振り絞って。
「うん、私の『前の世界』で習った歌なんだ」
(前の世界ってなんだろう? サンの故郷のことかな?)
 特に興味もなかったので、そのときは聴かずにおいた。
「ねぇ、ヨンはさ?」
「うん?」
「何の恨みもない見知らぬ人とさ。殺し合って殺して。心が壊れてしまいそうにならない?」
「別に……殺せって命令だし」
 ぶっきらぼうにそう応える。ほかになんと言えばいいのかわからないし。
「それはそうなんだけど……」
 サンは、納得がいってない表情だ。
 同じ女の子同士ということで彼女とは仲良くなったが、環境が環境だけに女の子らしい会話をすることは稀であった。何か言いたげなサンに、
「私、もう寝るから。おやすみ」
 そう言ってぶっきらぼうに話を切り上げ、横になってズタボロの麻布をかぶる。
「う、うん。おやすみなさい」
 しばらくしてサンの寝息が聴こえてきたが、シトリンは眠れずにいた。窓から差し込む月明かりを、ボーッとしながら見つめて。
「……かごの中の鳥、か」
 シトリンはそう小さくつぶやくと、目を閉じて自分も眠りにつく。
 このときはまだ、人としての揺れ動く感情というものがまだわずかながらに残っていたかもしれない。だがそれは無残にも翌日の試合で粉々に打ち砕かれるということを、そのときはまだ知る由もなく――。
 翌日は試合がなかったはずなのだが、闘技場の選手控室にシトリンだけが呼び出された。
 闘技場からの大歓声が聴こえるから、臨時で大会が開かれるのだろうか? だとして自分だけが呼び出されたのは何故なんだろう。サンは?
 そんなことを思っていたときだ、ブラッドが若干忌々しそうな表情で吐き捨てるように命じる。
「今日は特別イベントの試合だ。いつものように『殺せ』」
「かしこまりました」
 命令には何も疑問を持たず、機械的に返答するシトリンは無表情だ。
「ハァ……」
 ブラッドが忌々しそうに、これ見よがしにため息をついて。隣にいるコッパーも、また不機嫌そうだ。
「ブラッドの旦那、今日のイベントは理不尽ですぜ! こっちは何の得もありゃしない!」
「まったくだ。こいつらが勝ちすぎるために、『あんなカード』を強要されるとはね! 商売あがったりだ」
 何のことだろう? 今日の試合相手はいったい?
「まぁ誰もが旦那のチームに賭けるようになったから、賭けが成立しなくなるってのもわかるんですけどね」
「だからといって、何でつぶし合いのカードを組まされないといけんのだ!」
(つぶし合い?)
 何のことか訊いてみたかったが、どうせ応えてくれないだろう。余計な口出しはするなと殴られるのが関の山だ。
 シトリンはグッと言葉を飲み込む。
「一〇一四号選手、出番だ!」
 闘技場の係員が呼びにきたので、いつものようにウォーハンマーを左肩の上にかけて控室を出る。闘技場へ近づくにつれ歓声が大きくなっていくのがわかるが、ちょっと違和感を感じた。
(いつもより歓声が大きい、ような?)
 やがて入場口の閉まった青い扉の前にたどりつき、エントリーコールを待つ。
「さーて次は夢の対決! まずブルーゲートの選手は一〇一四号選手だ!」
 ゲートが開かれる。
(夢の対決???)
 何がなんだかよくわからないが、いつものように闘技場中央に歩みよる。
「続いてレッドゲートッ!」
 正面に位置する赤い門が開かれた。
「さぁ夢のオールスター戦っ! 少女戦闘奴隷で一二を争う実力者同士のカードだ! 今夜っ、真の最強が決まるっっ‼」
 実況席から聴こえてくる声がやけに遠い。目の前の信じられない現実を目の当たりにして、驚愕のあまりほとんど何も聴こえてこない。
 もう何がなんだかわからなくて、魂だけが遠くの空を浮かんでいるような錯覚さえ覚える。これは『現実』なのだろうか?
 今自分の目の前に立っている試合相手、シトリンが殺すことを命じられたその人は――。
「う……っそだぁ?」
 シトリンは呆然と立ち尽くす。思わずウォーハンマーを落としてしまった。
 そしてそれは、開かれた赤い門のところで顔面蒼白になって立ち尽くす一人の少女……サンも同じだ。両手に握られたナイフが小刻みに震える。身体中から、脂汗が吹き出してきて止まらない。
「ちょっ、ちょっと待って! 待って!」
 戸惑うシトリンの声が、大観衆にかき消されて埋もれていく。
 レッドゲートから、サンが入場してきた。
「やだやだやだ、なんで足が! 足が止まらな……⁉」
 サンの意思とは無関係に、ブラッドの『命令』どおりフィールドの中央に足が動いてしまうのだ。
「ヨン……」
「サン……」
 フィールドの中央で、二人。お互い涙が、脂汗が停まらない。小刻みに震える拳も汗でじっとりと濡れている。
『カーン!』
 そして、無常にも試合開始を告げる悪夢の鐘が鳴った。
 先手を仕かけたのはサンだった。
 鋭利に尖った右手のナイフをシトリンの顔面にねじ込むように突き出してくるのを、落としてしまったウォーハンマーを拾いあげつつ薄皮一枚ギリギリで左方に回避。カウンターでウォーハンマーをサンの右方から横殴りにスイングさせるが、サンは巧みにジャンプして躱してみせた。
 お互い近接戦闘を得意とするが、武器の軽さと手回しの利便さからどうしてもサンの手数が多くなる。何度もサンの鉄爪が、シトリンの顔や身体の皮膚を切り裂く。
 ギリギリで皮膚一枚、筋肉の表面までに斬傷を押さえてはいるものの、どちらかというとシトリンは劣勢だった。
 血に染まったサンのナイフの鋭い刀身が、情け容赦なくシトリンの四方八方から襲いかかる。
 シトリンの巨大なウォーハンマーが、何度もサンの体躯を揺らす。サンはうまく打点をずらして致命傷を避けていたが、時折いいのをもらってしまっていた。
 ――どれだけの時間が経っただろう。闘いたくないのに、闘いたくないのに腕が止まらない。殺したくないのに、殺したくないのに足が止まらない。
 この日、何十……いや何百回目と飛び込んでくるサンのナイフを後方に飛びのきながらクリアすると、そのままカウンターで上からウォーハンマーを両手で振り下ろした。前方への速度が乗っていたサンは、瞬時に後方に退避を試みる。
 だが、タイミングが一歩遅かった。サンの裸足の左足の甲部分がウォーハンマーでプレスされ、五本の足指が見る影もなく破壊されてしまった。
 それでも追撃に備え地に軽くめり込んだままのウォーハンマーに右足をかけて土台代わりにするやいなや、強く蹴りを入れて強引に後方へ飛びのく。
 ――肉のちぎれる、嫌な音がした。
「ウグッ⁉」
「サン⁉ だ、だいじょ……」
 シトリンが、一瞬だけ惑った。今度は、サンがそのスキを逃さない。
「ヨン! ごめんっ‼」
 とても左足先が潰れてちぎれているとは思えないほど、サンは素早くダッシュで飛び込んでくる。サンの左手のナイフが、シトリンの左胸……心臓に照準を定めた。
(もう一度、カウンターでっ!)
 シトリンは右方へ飛び込みサンの左方から横殴りにウォーハンマーをスイングしようとするが、地面に残されたままのサンの『左足甲だったモノ』を踏みつけてしまい、前のめりに足を滑らせてしまった。
 シトリンの心臓を狙ったサンのナイフは、前方向につんのめったシトリンの左眼に照準が意図せず移動する。サンの脇腹を狙ったシトリンのウォーハンマーは軌道が狂い、そのままサンの大腿部付近まで照準が下がる。
 サンの左手のナイフがシトリンの左眼の目尻を切り裂くのと、シトリンのウォーハンマーがサンの左膝あたりにヒットするのがほぼ同時だった。
「ウァッッ‼」
 焼けるような痛みが左目を襲い、シトリンは自分の振ったウォーハンマーの遠心力に負けてそのまま倒れこんだ。だがシトリンが炸裂させたウォーハンマーの打撃は……サンの両脚大腿半ばから下を破断して、十数メートル先まで吹っ飛ばしてしまった。
 まるで棒きれのように、サンの二本の脚が砂埃を立てて転がっていく。
「ぎゃああああっ⁉」
 両脚を失ったサンは、七転八倒の苦しみで断末魔の悲鳴をあげながらその場をのたうち回る。ウォーハンマーによって切断、というよりも衝撃で破断された大腿の動脈の切断面から、勢いよく鮮血が噴出していく。
 一方でシトリンは、斬り裂かれた左目尻――いや眼球も少しやられたようで、出血と痛みのせいで目の前の状況をまだ把握できないでいた。
「サ……サン?」
 どれぐらいそうしていただろう。
 シトリンの目の前に、うつろな目をしたサンが倒れている。もう叫ぶ気力もないようで、視界も定まってない。
 出血量が多かったせいか、もはや虫の息だ。その呼吸音が、笛のような異音を立てている。
 サンの命の火が、今まさに消えようとしていた。
「サッ、サン!」
 ウォーハンマーを投げ捨て、サンの身体を起こす。
「しっ、しっかり! しっかりして! ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい!」
 シトリンの琥珀色の猫目から、涙が次々とあふれてきて止まらない。
 戦いを放棄して武器も捨てたのに、奴隷環は無反応だ。つまりそれは『殺せ』という命令を『完遂』したことを意味していた。
「イヤだイヤだイヤだイヤだよっ! サン、聴こえる⁉ お願い、こっち向いて‼」
 その声を受けて、わずかながらサンの唇が動いた。
「ヨ、ヨン……コ、コユ……コユキ……」
「え?」
 サンの目はうつろで、開いた瞳孔は焦点が定まっていない。その視線は、シトリンの姿をもうとらえていない。
 はるか上空を、ただただぼんやりと見上げているだけで。
「わ、わた……わたし……の、ほんと……本当の……なま……」
 本名を名乗ることは『命令』で禁じられていた。もう死を待つばかりだったからこそ、サン――コユキはその禁を犯したのだろう。
「コユキ、コユキなんだね⁉ サンの本当の名前! わた、私も教える! 私の本当の名前は」
 悲しいかなシトリンが必死で絞り出したその声は、もう生きているコユキの耳には届けることができなかった。
「嘘だ嘘だ嘘だ、絶対嘘だよ! コユキィ……」
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