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第一章・塔の賢者たち
第八話『天枢の塔・クラリス』
しおりを挟む「ティア姉、逝ったか……」
揺光の塔の最上階、一人残ったデュラは海岸線から立ち上る光の柱を眺めながら小さくつぶやいた。
(これでしばらくはリリィディアが復活できなくなったとはいえ、急がないといけないな)
自身がクラリスに保留にしている最後の試練を、クラリスに投げかけるときがきたのだ。
ソラが与えた試練は、この帝国に少なからず蔓延る貧富の差。そして空腹にあえいでいる、日々の食事にすら事欠く人々の生活と気持ちを知ること。
アルテが与えた試練は、帝国を治める過去の皇帝が犯した大罪。自らがその血をひく子孫であることを自覚し、為政者として二度と過ちを犯さないこと。
イチマルが与えた試練は、努力は必ずしも実を結ばないという現実。どんなに抗っても乗り越えられない試練があったとき、それを認めて前へ進むこと。
ターニーが与えた試練は、次期皇帝となる自身に他国が抱いている畏怖。意図しようがしまいが、その一挙手一投足が常に注視されているということ。
ティアが与えた試練は、為政者となる者が背負う荷の重さ。その荷を背負いきれなくなったら、安定した平穏は瞬時に瓦解しかねないということ。
そしてデュラが与えたい試練、それは……為政者としてときには自身を裏切らないといけない選択。民を護る立場である以上、心を殺して決断しなければいけないということ。
(ティア姉が転生してくる前に、クラリスに『私を殺って』もらわねーとな)
自身が魔皇リリィディアの復活のカギを握るパズルの一欠片であるならば、それが欠ければいい。六賢者では最年少ながら、デュラとしてはもう十分長生きしてきたと自身の決断に納得している。
ただなぜか、デュラを含めこの六人は自ら命を絶つという選択ができないのだ。それは魔皇リリィディアの呪いなのか、創生神リリィとしての観念なのか。
すべてを超越した強靭な肉体を持つ六人は、不老だ。ある日いきなり現在の姿でこの世界に顕現したので、両親も子ども時代も存在しない。
例外的にティアという存在がいるが、ティアも二度目の生からはほかの五人と同じである。最初の生こそすれ古代の妖精として産まれ出でて育ったものの、二度目の生からはひたすら現在の姿のままで。
つまりリリィディアの欠片たちがこの世界を去るには、魔皇として復活する前に他者によって殺されるしかないのだ。
「まぁクラリスは拒否するだろうなぁ」
だけど選択、そして決断してもらわなければならない、大災禍を阻止するために、たとえ自身の愛する仲間を自ら手にかけてでも。
この先、皇帝に即位したクラリスになんどかそういう機会が訪れるだろう。自身の心を裏切らなければいけない、悲しい選択を強いられるときが。
「ま、とりあえずはティア姉の供養だな。骨も灰も残らないだろうが」
デュラは、主なき揺光の塔を出る。そして海岸線でいまなお立ち上る、ティアの遺骸から発せられる膨大な魔力の柱と傍らで呆然と立ち尽くすクラリス。
「クラリス」
「デュラ……私は……私は……」
背後から呼びかけたデュラに、やつれ切った表情でクラリスが振り向く。
(ティアさんは、人間嫌いのまま逝ってしまった……)
それが悔しくて切ない。クラリスは、人間はまだまだ捨てたものじゃないとティアに認めさせたかったのだ。
(だけど、それはもう叶わない)
その憂いを帯びた表情が、沈痛で歪む。
「これまでの前例からすると、この魔核分裂の柱は朝まで消えないぜ? クラリス、戻ろう」
「だって、ティアさんをこのまま……え? これまでの?」
「あ、しまった」
まだクラリスは、ティアが魔核分裂で命を落としては再びティアとして転生してくることを知らされていなかった。
(いや、もう教えてもいいだろ)
デュラはそう考える。とりあえずティアがクラリスに伝えたいことは、十分に伝わったはずだからだ。
「そのことで、話がある。とりあえず来な」
「……朝まで、消えないんですよね? 『これ』」
「あ、あぁ?」
「だったら!」
デュラの言う『これまでの前例』というのが気にかかったが、クラリスはその場を離れたくなかった。ティアの発する魔力の灯が消えるまで、最期まで見届けたかったのだ。
そして再び光の柱に振り向くが、その中心にはすでにティアの躯は見えない。ただただ、光が立ち上る光景だけがそこにある。
(ティアさんが絶命しても、この魔法陣は消えないのか)
その魔法陣があるからこそ、この夥しく噴出し続ける膨大な魔力が魔法陣の外に出られない。その魔法陣に遮られた光が柱となって、天に立ち上っているのだ。
「まぁ好きにするさ。風邪ひかないようにな」
とりあえずその場は諦めて、デュラは揺光の塔に戻る。
これからクラリスに教えないといけないことがあるのだが、急いてはことを仕損じる。その順番を、違えるわけにはいかない。
「まずティア姉が転生して再降臨を繰り返してるってことだろ、それと魔皇リリィディアのこと。そして私を……殺してもらうこと」
どれもこれも、クラリスからすれば想像だにできない衝撃だろう。それを考えると、デュラは気が重かった。
「こりゃあ骨が折れそうだ」
この先の大変さを想像するも、なぜか笑ってしまうデュラである。
(とりあえず、連絡だな)
ここ揺光の塔にもデュラの住まう天璇の塔と同様にティアが居住空間として使用していた最上階の部屋、その中央に大きな魔法陣がある。これはソラが描いたものであり、デュラのところのもそうだ。
その真ん中に大きな魔導紋があり、それをぐるっと六人の塔の位置を示す小紋様が囲む。
魔導紋を叩けばほかの五人全員と通信でき、小紋様なら任意の相手と一対一での通信が可能だ。相手方にはこちらの映像が3D立体映像で届き、またこちらでは相手のそれが届く。
要は電子会議システムとテレビ電話の魔法バージョンだ。ただし塔の賢者である六人以外が映像と音声を送受信するのは不可能である。
デュラは、足元に落ちていたティアの魔法杖を手に取った。
(もう二度と転生してこないなら、これが遺品てことになるんだろうな)
そんな縁起でもないことを思いながら、それで魔導紋をコンコンと叩いて。すぐさまそれがピカピカ光りだしたのは、送信可能の合図である。
「こちら揺光の塔、デュラだ。たった今、クラリスがティア姉の試練を乗り越えた。ティア姉、もたなかったよ」
ほどなくして、ターニーの映像が浮かび上がった。
『へぇ、これで試練制覇?』
「まだだな、私からのが残ってる」
『ふーん? お手柔らかにね!』
「ターニーが言えた義理かよ、とんでもない試練をくらわしといて」
『あはは! ところでティアは?』
来た、とデュラは思った。もとより、そっちのが本題だ。
(言ったつもりだったんだがな)
だがターニーが信用しなかった、察しなかったのも無理はないのかもしれない。ティアと一番親しいのがターニーで、二人は親友ともいえる関係だったからだ。
「つい先ほど、逝ったよ」
『……そう』
いくら再転生してくるからといって、仲間の不幸は繊細な話題だ。再転生は『またしてくるだろう』というだけで確実ではないし、仲間の誰しもがその壮絶な死に様を迎えることを知っている。
そのとき、チカチカと再び魔導紋が点滅した。ほかの仲間からの受信があった合図である。
『デュラさん、ティア姉が亡くなったって本当なのですか⁉』
「イチマルか」
ターニーの映像がスッと消えて、代わりに顕現したのはイチマル。白い妖狐の姿だ。
「本当だ」
(イチマルはティア姉の信奉者だから、つらいだろうな)
デュラがそう危惧したとおり、イチマルは顔面蒼白で絶句していた。いくらまた会えるからといって、それはすぐではない。
実際にティアが前世で亡くなって今世のティアが再転生してくるまで、実に四十年ほどの空白期間があったのだ。
ほどなくして、通信相手はアルテに変わる。
『クラリスはどうした?』
「件の柱のそばから離れなくてな」
『……そうか』
アルテとも簡単に別れの挨拶をかわし、入れ替わりに現れたのはソラ。ティアとターニーがそういう関係であるように、デュラの親友がソラだ。
『ティア姉の最期って、やっぱ……あの?』
「あぁ。いってーこんちくしょーって泣いてた」
『言い方!』
こんな話題、冗談めかしてじゃないとやってられない。かと言って、茶化した言い方をすればいくら仲間といえども不謹慎だと非難のそしりは免れない。
デュラにとって、そういう軽口が叩ける相手がソラである。
「でだ、私が保留にしてるクラリスへの試練だけどさ」
『うん』
「私を殺してもらおうと思う」
『……なんですって?』
「この先、皇帝として自分を裏切らなきゃいけない決断をするときってあるだろ? そういうのを教えようと思ってさ」
『デュラ、ちょっと待ちなさい‼』
さすがにソラも狼狽する。そりゃそうだろう、親友が仲間に殺されて死のうとしているのだから。
『なんか悩みがあったら聞くわ。早まった真似はしないで?』
「そういうんじゃないんだけどな……要はさ、私らの誰かが欠ければリリィディアは復活できないじゃん?」
『それはそう……かもしれないけど』
軽いノリで言ってのけるデュラだが、親友であるソラにはそれが本気であることがわかる。だがだからといって、そう簡単に看過できない行為だ。
『クラリスの精神が壊れてしまうわ。それ以前に、クラリスは絶対に拒否すると思うのだけど?』
ソラが真剣に、本当に真剣にデュラを諭そうとしているのがデュラにはわかった。
『もちろん、私も大反対だわ』
「まぁ、そうだよな」
だがデュラの決意は、固い。自分がその手段を思いつかなかったとしても、遅かれ早かれ誰かがその手段に気づくだろうとデュラは懸念している。
(だったら私が……)
そうデュラは決断したのだ。
「いま、なんて?」
「いや、言葉どおりだけど」
引き続き主なき揺光の塔、二人でお茶を飲みながらクラリスいわく。
「最後はデュラからの試練ですね」
に対してデュラの返答が。
「私を殺す、それだけでいい」
だったもんだから、クラリスはさっぱりわけがわからないでいた。
「えっと、コロスというのは……私もそれなりに勉強してきたつもりですし、簡単な日常会話程度なら七ヶ国語を話せますが、それはどこの国の言葉なんでしょうか」
「普通に帝国語だが? それより七ヶ国か、すげーな! アルテ姉やティア姉も同じくらい話せたが、ただ単に無駄に長生きしてるから覚えただけだしな」
「いえ、それほどでも!」
師と仰ぐデュラに手放しで褒められて、クラリスもまんざらではない。
「で、帝国語でコロス? なんの名称でしょうか」
(方言かな?)
ともクラリスは思ったが、当然ながら帝国七ヶ国全域の方言は脳内に網羅している。だがクラリスの知る限り、それは記憶にない。
「違う違う。コ(上)ロ(中)ス(下)じゃなくてな? 抑揚なしでのコロスだ」
「えっと、どなたの名前で……」
「言いかた変えるな? 私を殺せ、とそう言っている」
「……どこを?」
「どこをって……」
確かにクラリスのいうとおり、『殺す』という言葉はさまざまな言葉にかけることができる。『息を殺す』とか『声を殺す』に『感情を殺す』、『童貞を殺す』なんてのもある。
だがそのいずれも『命を奪う』ということではなく、あくまで比喩表現だ。
「そうじゃなくて、私の命を奪えと言っている。だから私を、いまクラリスの目の前にいるデュラを殺す……これが私から与える、塔の賢者として最後の試練だ」
「……」
「当然、イヤだろうが……これはそうだな、クラリスとして『自分を殺す』ことにもなるな?」
それは感情面でもそうだが、同じリリィディアの欠片として物理的にもそうだ。ただデュラは、感情面での話をしている。
「えっと、整理しますね? デュラがコロスさんを」
「混乱してんじゃねーよ、わざとか⁉」
クラリスは大パニックだ。なぜ、どうして、そんな感情ばかりが脳内をグルグル回る。
(あ、目も回りそう……)
それを必死でこらえて、デュラをガン見る。デュラはそれに対して、真剣な表情で向き合って。
「私がデュラを殺す……ですよね?」
「そうだ」
「理由をうかがっても? というか理由なしにそんなことはできませんし、理由があったとしても……できるわけがないっ」
「理由は、あるんだ」
「へえぇ~? どんなぁ?」
あくまで真剣なデュラに対し、バカバカしいとばかりに少し小馬鹿にしたような視線をクラリスが投げかける。
「やさぐれてんじゃねぇよ‼ まぁ聞け、クラリス」
そしてデュラは、『すべて』を話した。
創生の女神と思われていたロードを創った、真の創生の女神がいたこと。人を愛しすぎたがゆえに人を呪ったその女神は、魔皇となって世界を滅ぼしかけたこと。
永き眠りについた、その神の名前はリリィディア。そしていま再び目覚めようとしていること、そのリリィディアの魂は現在七分割されており――。
「私とデュラが……ううん、ソラさんもアルテさんも、イチマルさんにターニーさんが⁉」
「なんで外したのか知らねーけど、ティア姉もな」
「言ってませんでしたか」
この六賢者の中では、クラリスにとってティアが一番遠い存在だったので無意識に外していた。なぜならば自分はこの帝国の民を愛し、その安寧を保証し支える立場で。
翻ってティアは、人間を憎んでいる。少なからず自分に対しても、あまり友好的な態度ではなかったと振り返ってクラリスは気づいた。
(あ……)
それこそ今しがたデュラが話してくれた、魔皇リリィディアの転生体にして再び魔皇として覚醒した魔法少女・リリィにティアが被るのだ。
人を愛したがゆえに、その悲しみの沼に沈んで人を呪い憎んだ真祖の女神・リリィ。
「そ……それと、デュラを私が殺すことがどう関わるのですか?」
震える唇で漏らすクラリスの声が、揺れる。
わからなくて訊いているのではない、わかっているのだ。わかっているからこそ信じられなくて信じたくなくて、それでも確認せずにはいられなくて。
「私ら七人がもとはリリィ、リリィディアだったことをすんなり信じてくれて助かったよ」
「すんなり、ではないですね」
実際クラリスはまだ半信半疑だ。安心しきった表情でクラリスの質問をまずはスルーするデュラに、釘を刺すのを忘れない。
「こたえてください、デュラ。どうして私があなたを殺さないといけないのですか?」
「つまりだ、私ら七人全員が一つになることがリリィディア復活を意味するならば……『どれか』が欠ければ済む話だろう?」
「理論上はそうですね。でもなぜそれがデュラになるんですか‼」
「落ち着けよ、クラリス。まぁクラリスとティア姉以外は誰でもいいのは確かだ」
「? どうしてそこでティアさんの名前が出てくるんです? というか私も除外対象なのはどうしてでしょうか」
自分もまたリリィディアの一欠片であるならば、自分が滅しても『それ』は阻止できる。それ以前にティアが亡くなった今、その必要がないのではとクラリスは思い当たる。
「まずクラリスを除いた私ら六人、なぜだか知らないが自死……つまり自殺ができない」
「え?」
「不思議と、そういう感情にならないんだ。これは多分、創生の女神としての核となる意思とでもいうか」
「……」
「そうするとだな? 私らは不老だ。だがクラリスは人間、人間ということは………わかるな?」
「寿命、ですか」
「そう」
この世界、女性の寿命は身分や生活レベルにも左右されるが長くても百歳まで。貧困層だと、それが一気に五十歳近くにまで下がる。
「ほっといても死ぬなら、ほっとく。あえていま死ぬ必要はないだろ」
「それはそうですが……では私が寿命で死ぬのを待てばいいのではないですか?」
「そうなんだけどな。ほら、あの黄色い魔法少女。ララァつーたか?」
「はい?」
「あと、水色のやつな。あいつらは冥府の番人・クロス様が我々に差し向けた『刺客』だ」
「⁉」
「彼女らは一度死んで、再びこの世界にリリィディア復活を阻止するためにクロス様が蘇生させた……リリィが魔法少女として生きた前世での親友だったらしい」
「そんな……」
「だからな? 急がなきゃならねぇ。あいつらに殺されるなんてまっぴらだし、だったらその前に私らの意思でリリィディア復活を阻止する」
だがクラリスには、どうしても納得できないことがある。
「デュラの考えはわかりました。でもどうしてその役目がデュラなのですか?」
「私が思いついたから、だな」
「なっ⁉」
「その前にもう一つ。ティア姉のことだけど」
デュラは窓の外、ティアが滅した海岸線に目をやる。すでに魔力の柱は消え失せているが、ティアが描いた魔法陣がなぜか残っているのを見やって。
「ティア姉が一万年生きてきた、それは間違いないんだけど。でも彼女は今回のように、幾度も魔核分裂で死んでいるんだ」
「あの、意味がよく……?」
「深読みの必要はねぇよ、言葉どおりとらえろ。ティア姉は今回のようにああして死んでは、再びティア姉として転生してきてる。繰り返しなんども……その妖精として生きた人生の合計が一万年近いということだ」
「ではティアさんは、再びこの世界に産まれてくるのですか⁉」
「だな。もうさっそく再転生しているかもしれない。『ただいまー』つーてそこの扉を開けて帰ってくるかもな」
デュラのその言葉を受け、クラリスはバッと部屋の扉を振り向いた。だが扉は閉まったままで、この塔にはデュラと自分の二人の気配しか感じ取れなかった。
「可能性の話だ。昨日死んだティア姉は約一年ぐらいしか生きられなかった。その前にティア姉が死んだのはさらに四十年ぐらい前だ」
「すぐには再会できない、と?」
(まぁ再会できる可能性も百パーじゃないけどな)
いつそのティアを縛る輪廻の環が終焉を迎えるかもしれないのだが、話が長くなるのでそれは割愛するデュラである。
「そういうわけで、ティア姉の場合は死んでも死んでも甦ってくる。だからさっき言った、『クラリスとティア姉以外は』とはそういう意味だ」
「ティアさんが……生き返る?」
あまりにも突飛すぎて、クラリスは話についていけない。だがティアと再び相まみえる可能性があると知って、自然と頬が上気する。
「勘違いしちゃいけないぜ、クラリス。死んだ者は生き返らないし、ティア姉はそのすべての生と死の記憶を引き継いで転生してくるんだ」
「記憶を?」
「そう。あぁやって自身の魔力過多に耐え切れず、身を焼かれるようにして数えきれないほど死んだ記憶を持ってな」
「ひっ⁉」
常人ならば、たった一回のそれでもおおきな心的外傷だろう。だが終わらないそれを繰り返し続けるというのは、どれだけ狂おしいことか。
(そんなの……そんなの……)
クラリスは、その壮絶なティアの運命を思って言葉を失ってしまった。
「本題に戻るぜ? つまりそういうわけで、私を殺せクラリス」
「いやいや。いや?」
意識が飛びそうな中で聴こえたデュラのその強引な結論に、クラリスは現実に引き戻されてしまう。
「死ぬ役目はデュラ、それはまぁわかりたくないですしわからないですけどわかりました。いえわかりませんけど」
「どっちだよ」
「だとして、なぜ殺すのが私の役目なんでしょう?」
その疑問は当然とばかりに、クラリスの鼻息も荒い。だがそんなクラリスに、デュラは優しく微笑みかけてこの言葉を投げかける。
「それはクラリス、君が次期皇帝となる人間だからだ」
「私が次期皇帝になる……人間だから?」
「誰か言ってたろ。ってティア姉だったな、確かこんなの」
デュラが思い出したのは、先日ティアがクラリスに投げかけたこの言葉――。
『戦況によっては、「全員死ぬ」という前提で送り出すこともある。たとえば三万の敵兵を二万に減らすため、一万の兵を向かわせるとかね』
これは帝国が戦争をした前提、仮定での話だ。だが実際にそうなった場合、クラリスはその心を引き裂かれるような決断をしないといけないときがくるかもしれない。
一万の民が死ぬとわかっていて、それでも自分を殺して命令する。皇帝たるもの、その国と民を護るために自身の心をも裏切る局面があるかもしれないと。
「まぁそれの予行演習だな」
「気軽に言ってくれますね……」
あっけらかんと言ってのけるデュラに、クラリスは苦虫を噛み潰したような表情だ。デュラの言わんとするところはわかるが、とてもじゃないが自分はそれを受け入れられない。
「七日だけ待ってやる。その間に決意を固めろ、クラリス」
「七日も必要ありません。お断りいたします」
(まぁクラリスならそう言うわな)
もちろん、それはデュラの予想どおりで。だがデュラには、クラリスにそれを強引にでも執行させる手立てがあるのだ。
「なぁ、クラリス。私の目を見てもう一度言ってくれないか」
「なんどでも言いますよ! デュラを殺せだなんて、そんな……そんな……」
クラリスがデュラと目を合わせた瞬間に、デュラがほくそ笑んだのをクラリスは見逃してしまった。ただもし見逃さなかったとしても、クラリスは『それ』から逃れられることはできなかっただろう。
「OK、クラリス。じゃあ別のお願いがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
相対するクラリスは、警戒の表情だ。これ以上、どんな難問が降りかかるのかと心する。
「私をぶん殴ってくれ。そうだな、グーで」
「へ?」
「私をグーでぶん殴れと言った。お願いだ、クラリス」
「わかりました」
クラリスはニッコリと笑って快諾すると、立ち上がってデュラの横に立つ。デュラもそれに倣い、立ち上がる。
そして間髪を入れず、クラリスの右拳がデュラの左頬を打ち抜いた。デュラが派手に吹っ飛び……そしてひっくり返って倒れた状態で、指をパチンと鳴らす。
「あ、あれ?」
その指を打ち鳴らす音を聴いて、クラリスがハッとなにかに気づいた表情になって。そして拳を振りぬいた姿勢で、青い顔で呆然としている。
「な、なんで私……デュラを殴ったの⁉」
確かに殴れと言ったのはデュラだ。だがどうして殴れと言われただけで、素直に殴ってしまったのか。
(ど、どうして? どうしてどうして⁉ 私はデュラを殴りたくなんかなかったのに?)
口の中を切ったのだろう、口角から滴る血を自らの拳でぐいと拭いながらデュラが立ち上がる。
「びっくりしたか? 『魅了眼』といってな、私の瞳に魅了された人間は、私の命令に従うことに悦びを感じてしまうというわけさ」
「ま、魔法⁉」
「魔法とはちょっと違うかなぁ?」
驚愕の表情を浮かべるクラリスの前に、デュラが歩み寄る。
「わかるか? つまりクラリス、私はお前を操れる。『私を殺せ』て命令すればいいんだからな」
「そ、そんな⁉」
「選べ。自分の意思で私を殺すか、私に操られて私を殺すか」
「……ッ‼」
「言っておくが、どっちにしても私はクラリスに殺される。自分の意思でそれができたなら、試練は達成だ。私ら六人の試練を乗り越えたならばクラリス、君は立派な皇帝になれる」
「ちょ、ちょっと待ってくださいデュラ!」
慌てふためくクラリスだったが、デュラは冷淡な目で続けた。
「だが私に操られてそうしたのなら、試練は乗り越えられなかったということだ。でも私は死ぬだろうから、追試の機会もない。それはお前の師としても、残念に思うな」
「デュラ……」
「七日だ、七日待ってやる。覚悟を決めろ、クラリス」
「ひどいです。デュラは……ひどいです‼」
あふれる涙を拭いもせずに訴えるクラリスに、デュラは少しだけ微笑んで。
「そうかもな」
小さくそうつぶやくと、立ち尽くすクラリスを顧みることなくデュラは背を向けた。そしてひとり、扉に歩みよる。
「七日だ」
扉を閉じる前にひとこと、それだけを残して。ひとり残されたクラリスは、その後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。
「参考までにお訊きしますけど」
「ん?」
「母……皇帝陛下のときには、どんな試練を?」
「んー、なんだっけな」
クラリスとデュラ、肩を並べて仲良く入浴中だ。例によって例のごとく、ティアが住んでいた揺光の塔。
なんとなく二人、ティアには無断でそのまま住み続けている。まぁ許可をとりようもないのだけれど。
「確か私が『親友』の血を奪って殺しちゃった話して、ええと……」
「あ……話したくなければ、別に」
地雷を踏んでしまったとばかりに、クラリスが気まずそうに顔を背けた。
「いいよ、別に。それと私も結構すきを見せてやるから、いつでもこの首を落としてくれ」
「は?」
「不意打ちでも後ろからでも全然オッケーだから」
「あ⁉」
「怖い怖い」
いちいち恫喝してくるクラリスに、デュラはからかうようにニヤニヤと笑いながらいなす。
「あぁ、そうだ。『再現』したんだった」
「再現? なにをですか?」
「あぁ~、いやだから」
頭を指先でぽりぽりと掻きながら、デュラが恥ずかしそうに赤面して言いよどんだ。
「洞窟に二人閉じ込められましたてことにして、出口は一つだけ。でも崖の途中にポッカリ開いているだけの出口だから降りられないみたいな」
「……」
「だからと言ってなんにもしないと、二人とも餓死してしまうっていうね」
趣味が悪いとツッコみたいクラリスだったが、その局面を母がどう突破したのかが気になった。
「あれ? でも……」
「コレか?」
そう言ってデュラは、背中に生えている大きな蝙蝠の羽を広げてみせる。
「はい。デュラだけなら飛べますし、助けも呼べますよね」
「怪我して羽が動かないってことにした」
「はあぁ~?」
呆れたように声をあげたクラリスだったが、でもそうしないとデュラに助けを呼びに行ってもらって終わりだ。なんなら母を抱えて飛んでもいいわけで。
「で、結局どうなったのですか?」
「もう二人とも餓死寸前までいってな。って私はまだ大丈夫だったんだけど、ディオーレに合わせてそういうフリしたんだ」
「なるほど?」
ここまで聞いて、クラリスは違和感を覚える。なんか違うけれど、なにが違うのかがわからなくてモヤモヤするのだ。
「で、『例の話』をしたんだ」
「親友さんが自身の血の提供を申し出たっていう」
「あぁ」
かつてデュラは、人間の親友と二人で同じ局面を迎えたことがあった。そのときはデュラも本当に餓死寸前ながら、その親友はデュラを助けるために自らの血を差し出そうとした。
もちろん、親友を犠牲にして助かろうなんてデュラはこれっぽっちも思ってなくて。だがその親友は、せめてデュラだけでもと……そしてデュラは潤沢な血液をたくわえたその首筋に噛み付いた。
デュラ自身の意思ではなく、吸血鬼としての抗えない生存本能ゆえに。そしてすべてが終わったとき、その親友の命も終わってしまったのだ。
結果的に、その親友が願ったとおりにデュラは生き延びることができた。できたけれども、それは今でもデュラの心奥深くに贖罪の杭として突き刺さったままでいる。
デュラはディオーレ相手に、それを『再現』したのだ。
「結果を知る前に問いたいのですが、その試練はなにを投げかけたものだったのでしょうか」
「次期皇帝と吸血鬼、どっちの命が大事かってことだな」
「それを母に選ばせる、と」
「そういうこと」
いま、クラリスはここに在る。つまり母は死なず、結婚してクラリスを産んだということだ。
(それが意味するのは……って、最初からデュラの芝居だったんだっけ)
「母は、どういう選択を?」
「崖から突き落とされたよ」
「……デュラが、ですよね?」
「ああ。次期皇帝として私は生き延びなければいけないとかなんとか言いながら、火事場のクソ力で瀕死のフリした私を抱えて崖から投げ落としたんだわ、わはは‼」
「わはは、じゃありませんっ!」
(なんということだろう……そりゃ確かに、次期皇帝としては自身の命が最優先だ。それはわかる、わかるけど!)
母としては、その選択について是非もなかったのかもしれない。皇太子が不慮の死を遂げれば、次期皇帝争いが起こるのは必然で帝国が荒れる。
帝国が荒れたら、戦争になるかもしれない。その場合は真っ先に命を落とすのは平民の兵であり、残された老人や女性に子どもはどうなる?
それこそ、大量の餓死者が発生しかねないのだ。
「母の選択は……デュラ的には?」
「んなもん、大正解に決まってんだろ。ほっといたら、我を失った吸血鬼が血を吸いにくるんだぜ? しかも死ぬまでやめないんだ」
自身がその生命を奪ってしまった親友を思い、そう吐き捨てたデュラの表情が口惜しさに歪む。そして不意に、クラリスは先ほど感じた違和感について思い出した。
「ちょっと待ってください、デュラ。思い出したのですが、確か母はデュラとの試練は直接戦闘で対峙して、勝てないながらもその根性を認められたのではなかったですか⁉」
そう、確かに母・ディオーレはそう言っていた。
『何度も挑んでは負け、挑んでは負け……精神が折れなかったということで、渋々ながら認めてもらった次第だ』
「ああ、それは前段階のやつ」
「前段階といいますと?」
「確か……そうだ」
もうズタボロ状態でぶっ倒れている当時はまだ十七歳だったディオーレの前に、涼しい顔をしたデュラが立ちはだかる。
『うぅ、どうやっても勝てぬ……』
無念そうに、それでも必死に立ち上がろうとするディオーレ。それを見てデュラは心底うざそうに、
『試練は合格ってことでいいから、さっさと次行け次!』
と手をぴらぴらと振ってこれ以上の関わりを絶とうとしたのだ。
『え、マジ? ラッキー‼』
そして現金なもので、すっかり絶望していたディオーレの瞳に輝きが戻る。
「みたいな会話をかわしたんだったかな。で、剣がぼろぼろだったから新しいのをやるよつーて洞窟の中に隠しといた宝剣を譲ろうとしたのな」
「宝剣、ですか」
「あぁ、次がソラのところだからな。ある程度の呪術は跳ね返せる代物だ」
(なにそれ、欲しい!)
と一瞬だけ思ったクラリスだったが、いまは話の先が気になってしょうがない。
「二人で宝剣のありかまで到着したときだったかな。偶然にも地震が来て、もと来た道が落盤で塞がっちゃってさ?」
「偶然?」
「もちろん。私としてはめんどくさかったから、さっさと剣をやって厄介払いしたかったし」
「私、デュラは面倒見がいいイメージだったんですが」
実際、クラリスはここまでデュラの同伴なしにはたどり着けなかったかもしれない。
(いや、よく考えれば新しい剣をくれようとしたのがデュラらしいかも?)
そんなクラリスの心中を読んだかどうかはわからないが、デュラが困ったような笑みを浮かべる。
「買いかぶりだな。でまぁ『そういう状況』になっちゃったから……これだ!と思って」
「意地悪ですね? あれ、でもなんで母はそれを教えてくれなかったんでしょうか」
「私がクラリスに対して、その洞窟と同じ試練をやると思ったんじゃね? 知らんけど」
「あ、なるほど」
あらかじめ聞いていたら、自身が生き延びるためにデュラを滅するのが正解というのが事前にわかってしまう。
(……知っていても、私にできただろうか。デュラを犠牲にして、生き延びる道を選ぶことが)
いまクラリスに対してデュラは、決してそれを意識したわけじゃなかった。当時はリリィディアのことは水面下にもなかった事案だ、だが結果的に――。
(そうか、結果的に私は……ディオーレと同じ試練をクラリスに課してるのな)
いわく、『皇帝としての選択』を優先させること。それがたとえ、自身の心を裏切り他人を犠牲にしてでも遂行しなければいけないとしても。
そしてそれは、クラリスも気づいてしまう。
「母と同じ試練を、私は課せられたのですね」
「わりーな、そんなつもりはなかったんだが」
だけど母のときとは、明らかに違う一点がある。
デュラは崖から投げ落とされても、羽の怪我も餓死寸前な状態も仮病だった。つまり母が『そういう選択』をしたところでデュラは死なないのだ。
(だけど私の場合は違う)
デュラは本気で、クラリスに滅せられることを望んでいる。
「私は……デュラを斬れません」
「斬るさ」
「斬らないと言っているのです!」
「自分の意思では、だろ? そうしなかったところで、どのみち私に操られてそうするさ」
「あなたって人は……」
歯噛みするクラリスの浴槽に沈めたままの拳が、やるせなさのあまり強く握りしめられた。そして手のひらに食い込んだ爪で皮膚が破れて、滲み出た血が尾を引きながら静かに湯の中をただよい始める。
湯水の中をたゆたうそれが血の道を形どって、それはさながらクラリスが最終的に決断する選択を暗示しているかのようだった。
翌朝午前四時、デュラが眠りについた。
デュラは朝が弱く夜行性なので、寝るのが遅いのだ。そしてその間隙を縫って、クラリスは……姿を消す。
(デュラを殺すなんて冗談じゃない!)
要するに逃げだしたのである。
まずベネトナシュは首都エータの街に出ると、とりあえずエータ駅構内の立ち食い蕎麦屋で腹ごしらえ。離れた席でマリィが食事中だったが、クラリスは気づかなかったようだ。
(クラリスが一人で?)
ちゅるちゅると蕎麦をすすりながら、マリィが首をかしげる。
クラリスは魔石列車の切符を買い、高速列車で一路ミザール王国は首都のあるゼータ駅で下車。ゼータ駅は大型の観光施設も兼ねていて、料金を払えばゼータの街を一望できる展望台がある。
クラリスは展望台へと急いだ。そして料金を払い、窓外にデュラが追ってきていないかを念入りに確認する。
「あ、開陽の塔」
遠くに、ターニーの住まう開陽の塔が見えた。そして……。
(港だ)
アルコルへの定期旅客船が出る港と一緒に、オーシャンビューが広がる。あの海路をしばしゆくと、帝国を警戒する結界網を通過するのだ。
(私は、必ず貴国との平和を貫き通します!)
クラリスは決意を新たに、胸に結ぶ。
デュラが尾行していないことを確認すると、速やかに展望台を出て駅前広場へ。念には念を入れて今度は長距離乗り合い馬車に乗り換える。
クラリスの頭上はるか高く、一匹の蝙蝠が飛んでいた。
日が暮れて、終点の寂れた国境沿いの街で降りる。周囲を念入りに確認しながら泥棒のようにコソコソと、そして建物の死角から死角へとゴキブリのようにカサカサと移動する。
ちょうど旅人向けの木賃宿にさしかかり、カウンターで宿泊料金を払ってチェックイン。割り当てられた一階の角部屋に入るやいなや、毛布を人間の大きさに丸めて上から掛布団をかける。
それをさも『布団をかぶっている』ように形を整えると、窓をガラッと開けてそこから外に出て静かに閉めた。
(こんなことしてなんになるんだろう……)
とはもちろん自覚している。だがあのデュラから逃げおおせるのは、普通の人間だと奇跡に近い。
宿代がもったいなかったが、安価な木賃宿だったのが幸いした。というよりも木賃宿なので、宿の職員と顔を合わせるのはチェックインとチェックアウトのときのみだ。
木賃宿とはいわく寝る場所のみを提供する宿泊施設で、現代でいうカプセルホテルに近い。職員と接触する機会が多いとカモフラージュがばれてしまうのは時間の問題だったことから、あえて選んだクラリスである。
闇夜に、クラリスが消えていく。そのクラリスの頭上はるか高く、一匹の蝙蝠が飛んでいた。
ミザール王国と西の隣国アリオト王国の間には、大陸で二番目に大きな『スワン・レイク』という湖があった。湖畔にたどりついたクラリスは、老朽化してしばらく使われていないであろう小舟を発見する。
「お借りします!」
パンと誰にともなく手を合わせて小声でささやくと、クラリスは乗り込んだ。幸いにして櫂はしっかりしており、必死で漕ぐ。
闇夜の湖上を舟航していると、明るい松明を照らした大き目の船がクラリスの小船の行く手を遮った。
「なんの用だ⁉」
デュラでなくてホッとしたはいいものの、現状も芳しくない。だが恫喝するクラリスに対し、
「ミザール国境巡視船です。旅行券の掲示をお願いします」
当然だろう、国境を単身で怪しい船で越えようとしているのだから。なのでクラリスも、
「あ、はい」
とすっかり毒毛を抜かれてしまった。
「どうぞ」
「お預かりいたします」
さすがに帝国皇女としての旅行券ではない。偽造といえば偽造ではあるが、皇族がお忍びで使うための偽名で発行された帝国公認の偽造旅行券である。
「お手数をおかけしました。お嬢さん、このまま対岸までお行きになるので?」
「そのつもりです」
「時間も時間ですし、湖上に宿泊施設がありますので今晩はそちらに立ち寄られては?」
「湖上に⁉」
「はい。ミザール側からは湖の地下を線路が敷かれておりまして。湖の中央、湖上にあるクラーケン駅からは湖上の線路を走るんですよ」
「へぇ?」
(そういや聞いたことあるな)
クラリスとデュラが魔石列車を利用したのは、ミザールから東のベネトナシュへの経路だ。アリオトからミザールへは馬車を利用したので、クラリスは湖上のクラーケン駅を目にはしてない。
もしクラリスが現代日本からの転生者だったらば、東京湾アクアラインの海ほたるパーキングエリアを連想したかもしれない。
「クラーケン駅は駅舎自体が巨大な娯楽施設となっておりまして。ショッピングから宿泊、映画館に病院と二十四時間休まず営業しているんです」
「ふむふむ?」
「賃貸し魔石船もありますし、そのまま魔石列車で行ってもいいですし」
木を隠すには森の中という。クラリスは束の間だけ逡巡したが、それは遠慮することにした。
「自分で漕いで行きたいんです」
「そうですか、お気をつけて!」
「ありがとう」
国境巡視船が去り、その明かりで照らされていた周囲は再び闇の中に溶け込む。クラリスは必死で漕ぎながら、
(体力的に、ちょっときついかな?)
とか思っているのだが、通常の大人ならばとっくにダウンしている距離をクラリスは漕いできていた。SSランクハンターの体力と筋力は伊達じゃないのだ。
汗水流して必死に漕いでいるクラリスの上空を、一匹の蝙蝠が飛んでいた。
遠くに見える山の向こうが明るくなってきた朝ぼらけ、クラリスはようやく対岸にたどり着く。そして長時間もの船を漕いできた疲れも見せず、小船はそのまま乗り捨てて小走りに急ぐ。
すっかり夜が明けたころに、クラリスはアリオト王国の国境沿いにある小さな空港に足を踏み入れた。ここは飛竜旅客便の空港で、飼いならされた飛竜が船室を丸ごとぶら下げて運んでくれる。
乗車賃を払って手続きを済ませ、船室に入る前に念のために後ろを確認。デュラの気配はしない。
安心して船室に入ったクラリスに、親子連れが続いた。
「パーパ、鳥さんだ!」
「あぁ、鳥さんだね!」
蝙蝠を見てキャッキャッとはしゃぐ我が子たちを、若い二人の夫婦があやす。
飛竜便はほどなくして離陸し、はるか上空を安定した飛行を見せていた。窓の外の景色に、旅客の子どもがはしゃぐ。
そしてクラリスも同じように窓外をチェックするが、その目的はデュラが追ってきていないか確認するためだ。
「大丈夫みたいね……」
そのクラリスが入った船室の屋根で、蝙蝠が羽を休めていた。
遠景の中に、小さく玉衡の塔が姿を見せる。クラリスは感慨深げにそれを見つめると、イチマルに課せられた試練を思い出していた。
「イチマルさん、強かったな」
勝てなくて諦めるという貴重な経験を、クラリスはせざるを得なかった。負けて悔しいのに、勝てなくてもどかしいのに決断しなければならなかったのだ。
すっかり日も暮れたころ、飛竜便はメグレズとの国境でいったん地上に降りる。国境警備隊に一人ひとりが旅客券をチェックされ、全乗客が難なくクリアすると再び離陸。
飛竜便の窓から、遠くに天権の塔が見えた。
(アルテさん……)
自分の前世であるアセラ皇女。アルテの前世であるアルテミスとは、身分も性別も道ならぬ恋だったと聞く。
だがその恋路の末路は、アルテミスに対する父帝からの非道な裏切りで幕を閉じた。自身はアセラ皇女の生まれ変わりであると同時に、その父帝の子孫にあたる。
「今晩はゆっくり休むか……」
スワン・レイクを長時間漕いでできた筋肉痛が、今になってクラリスに襲いかかってきた。さすがにデュラを気にする気力もなく、船室内の固いベンチに横になる。
クラリスが泥のように眠りこけている夜間、はるか地上のメグレズの庶民向けバーで。常連の酔客を相手に、酒呑み勝負で勝ちまくった蝙蝠の羽が生えた少女がいたことをクラリスは知る由もない。
朝が来て、飛竜便は隣国フェクダに面したメグレズ国境沿いの空港に着陸。クラリスは朝市で裸馬を購入すると、軽快に飛び乗った。
「おい、お嬢さん? 鞍はいらないのか⁉」
「ありがとう、おじさん。私は大丈夫です!」
元気いっぱいに馬を売ってくれた露天の親父に返事を返すと、
「はいよー、シルバー‼」
とのかけ声で、巧みに馬を駆ってクラリスは朝市をあとにする。
「名前はシルバーじゃないんだが……」
そう親父がぼやいたが、もうクラリスの姿は見えなくなっていた。
しばし街道を走り続けること半日、クラリスの補助魔法もあり疲れも見せないシルバー(?)だ。途中で見つけた小さな小川でシルバーに水を飲ませると、すぐさま出発する。
馬上で、朝市で買った携帯食をほおばるクラリス。とてもじゃないが、帝国の皇女として淑女がやっていいことではない。
途中で、馬車道は魔石列車の線路と並走する。さすがに列車のほうが早いので追い越されてしまうのだが、その列車の屋根に一匹の蝙蝠が止まっていた。
走り続けることさらに半日、フェクダとの国境沿いを通過。途中の検問も難なくクリアして、クラリスはフェクダ王国の首都・ガンマの街に足を踏み入れる。
クラリスの補助魔法により、ほぼドーピング状態で走ってきたシルバーがもう限界に近い。
「ごめんね、シルバー。ソラさんのところで体力の限界を超えて無理やり走ることのできる呪いをかけてもらうから、それまで我慢してちょうだい」
シルバーは戦慄した。
そしてたどりついた天璣の塔。リトルスノウが出迎えてくれたが、あいにくソラは留守とのことでシルバーは安堵する。
しかたないのでクラリスは踵を返すが、懐具合が寂しいことに気づいた。
「もうあまり路銀がないな……」
途中で名物の馬肉ステーキを出す食堂の前を通りかかり、クラリスは閃く。
「はい、十五万リーブラになります」
「ありがとう!」
ヒヒーンと必死の命乞いをするシルバーに背を向けて、クラリスはその場をあとにした。
(結構な換金額になったな)
上機嫌でるんたったしているクラリス。そしてその上空で、一匹の蝙蝠がどん引いている。
すっかり日も落ちて、満点の星空になった。徒歩とはいえ街からすっかり離れてしまったのもあって、クラリスは野営を決め込む。
焚き火の前で買ってきた肉を焼き、酒も少々。呑まないとやってられないのだ。
(デュラのバカ……)
目が潤んでいるのは、焚き火の炎にあてられたせいだとクラリスは自分で自分に言い訳する。誰が見ているわけでもないのに――。
そのとき、バサバサバサッと蝙蝠群の羽音がしてクラリスの頭上を旋回した。
「ひっ⁉ デュ、デュラなの???」
だが蝙蝠たちは逆にクラリスの声に驚いて、どこかに飛んでいってしまう。
(なんだ、ただの蝙蝠か)
そのどこかに飛んでいったはずの蝙蝠の一匹が踵を返して、クラリスからだいぶ距離をおいた木の枝に止まった。そしてクラリスの一挙手一投足を凝視している。
朝が来て、クラリスは再び歩みを進めた。途中で荷を引く農夫の馬車にかけあい、少々の路銀を渡して荷台に乗せてもらう。
農夫の目的地に着いたのは昼すぎだ。クラリスはお礼を言って別れようとするも、農夫から馬を買わないかと打診される。
「おいくら?」
「五万リーブラではどうじゃろか」
「買った‼」
「え?」
クラリスは、破格の値段だと思った。だが農夫は、高すぎるのではないかとヒヤヒヤしていたのだ。
皇女と農夫の、金銭感覚の齟齬は大きい。とにもかくにもクラリスは馬を買い、一路国境を目指す。
『疲労幻惑!』
『瞬脚‼』
『狂馬化♫』
クラリスの情け容赦ない虐待魔法により、馬は狂ったように体力と筋力の限界を越えて走った。そして夜通し走って、クラリスはメラクの国境都市に入る。
手続きを済ませて馬肉業者に馬を売り、クラリスは懐かしの天璇の塔を目指した。残念ながら、六賢者の誰もがクラリスに動物愛護の心は教えなかったのだ。
「あ……」
そしてたどりついた、この旅の出発地点であるデュラの住まう天璇の塔。厳密に言うと、皇城のあるドゥーベ市国がスタート地点ではあるけれど。
「デュラはいるかな?」
そのデュラから逃げてきたのに、なぜデュラの塔に帰ってきたのかはクラリスも自分でよくわかっていない。ただ、デュラからうまく逃げおおせたとは思っているので、この天璇の塔も無人のはず……そう決め込んでいた。
ベネトナシュは揺光の塔、デュラの元から逃げてすでに五日。デュラが定めた刻限までもう二日を切っている。
(しばらく人が出入りした様子はなさそうね?)
天璇の塔、一階の扉。久しく開閉されたことがないかのように、扉前には塵がつもりそれが蝶番をもコーティングしている。
そしてクラリスは導かれるように、扉を開けた。階段を、ゆっくりと上っていく。
最上階の扉の前まで来ると、念の為に扉に片耳をつけて中をうかがうも……。
(よし、誰もいない)
そして安心しきったクラリスがバーンと扉を開けると同時に、
「いよーう、おかえり!」
「うん、知ってた‼」
喜色満面の笑みで迎えてきたデュラに、クラリスはなにが可笑しいんだかわからないで笑みと涙をこぼしながら、膝から崩折れていくのであった(チーン!)。
「クラリス、お前にはもうわかってんだろう」
「あーあー、聴こえない聴こえない、あーあー!」
「おい!」
テーブルを向かい合って二人、真面目な顔で諭すデュラに対してクラリスは聞き耳を持たない。両手で両耳をふさぎ、デュラの説教を必死で妨害しようと試みる。
そんなクラリスにしびれを切らしたデュラが立ち上がって、ずいっと前のめりになって。
『キーン……』
その瞬間に、そんな乾いた金属音がどこか遠くから聴こえてきた感触をクラリスは覚えた。
「クラリス、いい子だから両耳から手を離しなさい」
「はい♡ ……え?」
少しうっとりとした表情で、クラリスは両手を下ろした。
(え、え? なんで私、デュラの言うことを素直に……あ!)
「デュラ、魅了眼使いましたね⁉」
「このまま聞く耳持たないのなら、続けて私を殺すよう命じるが?」
「……すいませんでしたっ」
ふてくされながらも、クラリスは了承する。デュラもそれを受けて、再び椅子に座りなおした。
だがクラリスの顔には、でっかく『不本意』の文字が浮かんでるようなそうでないような。
「いいか、クラリス。魔皇リリィディアの再臨は文明の崩壊をもたらし、世界を終焉に導く……可能性がある」
「可能性でしょう?」
「少しでも可能性があるのに、お前は次期皇帝としてそれを見逃すのか?」
忌々しそうにデュラはふところから一枚のコインを取り出した。それをピッと指で弾いて上に飛ばすと、落ちてきたそれを手の甲で受けてもう一方の手でふたをする。
「クラリスが表か裏を当てれば、世界は終わらない。ただし外したら、全人類が滅んで世界が終わる。さぁ選べ」
「は?」
「まぁたとえば、の話だ」
「じゃ、じゃあ……裏? い、いや表‼ じゃなくてやっぱ裏かな」
「裏だな?」
これ以上クラリスが翻意しないように、すぐさまデュラはふたをしていた手を取って手甲の上にあるコインを見せた。
「表……」
なお、これはデュラによるイカサマではあるのだがクラリスはそれに気づけない。
「これもまた『可能性』だ。クラリス、お前は裏である可能性にかけてそして外したんだ」
「……」
「いいか、クラリス。リリィディアが復活したら、お前が皇帝として守るべき民は滅び街は灰燼と化す。これまで幾多もの皇帝が守ってきたこの地が、終焉を迎えるんだよ」
「それは……」
「お前、わかってんのか? 最後の審判をくだすのは魔皇リリィディアだ、リリィディアってことはクラリス……私ら六人とお前のことなんだぞ?」
「あっ‼」
「皇帝サマが直々に世界を滅ぼすんだ、無辜の民からしたらやってらんねーよな?」
「そ、それはっ‼」
「違うか?」
「違……わないけど」
自身がリリィディアの一欠片ということを失念していたクラリス、改めてその事実を自覚して戦慄する。
「でも! 『私』が『デュラを』というのは、ほかに方法がないのですか⁉」
「じゃあなにか、クラリス。私を殺すのはアルテ姉やイチマルに任せるか? それとも私がソラやターニーを殺せばいいのか?」
「そういうことを言ってるわけでは……」
「そういうことだろ」
さすがにここまでクラリスに粘られると、デュラも不機嫌そうな表情を隠そうともしない。
「私だって魔皇なんてものになりたく……いや……?」
「デュラ?」
突如として重苦しい表情で、デュラが考え込む。そしてなにかに気づいて、驚愕の表情を浮かべた。
「どうしました、デュラ?」
「なぁクラリス、お前……魔皇リリィディアにはなりたくない、よな?」
「当たり前じゃないですか」
「いや、感情を抜きにして真面目に考えてみてくれ」
「真面目に、ですか?」
デュラがなにを言い出すのかと怪訝そうだったクラリスだが、それを受けてしばし思考してみる。
(私はリリィディアになりたくない、これは当然だ。そう、リリィディアとして復活したくなん……か?)
「あれ?」
「やっぱりクラリスもか!」
「こ、これっていったい⁉」
クラリスは、心の底から戦慄した。なぜならば、リリィディアとして復活することに対してさほど強い拒否反応が自分の中に見つからなかったからだ。
「リリィディアの意思だろうな」
「意思……リリィディアの?」
「あぁ。リリィディア自身が再臨を渇望していて、そして私とクラリス……多分ほかの五人もだろう。その心の奥底にある欲求みたいなものが、欠片である私らの心と共鳴しているんだよ」
「そんな‼」
二人の間に、長い沈黙が訪れた。それを破るようにして、デュラが口を開く。
「なぁ、納得してくれないかクラリス。もう時間がないかもしれないんだ」
「納得ったって……」
「わからないのか⁉ 為政者たるもの、民の安寧を護るのが仕事だろうが!」
「それについては理解しています、し・ま・し・た‼」
「じゃあ」
「私が納得いかないのは、私がデュラを殺すという手段です!」
思わずエキサイトしてしまった両者だが、クラリスのその弁を受けてデュラは思わず脱力してしまう。
「はぁ、そこに戻っちゃうのか……」
「すいません」
本音を言うとクラリスは、自分がわがままを言っているのではないかと疑心暗鬼で。このまま議論を重ねていったら、自分はそれに納得してしまうかもしれないのを危惧している。
姉とも師とも慕うデュラを、クラリスはこの手にかける決断をくだしてしまうのが怖かった。
「まぁなんだ、前にも言ったようにあと二日。それでも答えが出せないなら、魅了眼を使う」
「……」
「クラリス、いいな?」
「いいわけないでしょう。でもやるの、ですよね?」
「だな」
デュラはもう覚悟を決めていた。なにより、クラリスが次期皇帝となるための試練としてそれを課そうとしているのだ。
「皇帝としての在任中に、絶対やってくるよ。今回みたいな、非情な決断をしなきゃいけないときがさ」
「はい、それはわかっているつもりです。つもりなんですが……」
「私はな、クラリス。お前のことを妹とも弟子とも思ってる。そのクラリスが成長するための糧になるなら、私は喜んで死ねる」
「デュラ……」
「しかも世界が終わる可能性をポシャらせることができるんだ、最高じゃね?」
明るく笑ってそう言ってのけるデュラに、やせ我慢している様子は見えない。だから、だからこそクラリスは惑う。
「あと二日、ぎりぎりまでもらえますか?」
「あぁ、いいよ」
そしてその場はお開きとなる。そして次の日――。
『シャコー……シャコー……』
「えっと、クラリス?」
「なんでしょうか」
「なにしてるんだ⁉」
「見てわかりませんか? デュラの首を刈るために、剣を研いでるんです」
クラリスによって、『正義』を意味する古代語であるユースティティアと名付けられたその聖剣。かつて一万五千年前に、帝国の皇女・アセラが皇族を滅するために自らの血と涙で錬成した魔剣である。
クラリスはそれを知る由もないが、なにも本気でそう考えて研いでいるわけではなかった。
「ふーん?」
理由を聞いて納得したデュラがあっさりと引っ込み、お茶を飲みながら読書に耽る。クラリスは聖剣を研ぎながらチラッチラッとデュラを見るが、そんなクラリスを気にする素振りをデュラは一切見せなかった。
(この作戦もダメか……)
デュラの前で聖剣を研ぐ姿を見せたら、その生々しさにデュラが死にたくないと思ってくれるのを期待したクラリスである。
「よーく念入りに研いでおいてくれよ? 一発で首を落としてもらわないと、痛くてしょうがないだろうからさ」
「真面目に研ぎますよ! 研げばいいんでしょ、ふんっ‼」
「なに怒ってんだ?」
親の心、子知らず。子の心、親知らずとはよくいったものである。
とそのとき、窓から吹き込んできた微風がクラリスのアッシュブラウンの髪を揺らした。
一本が抜け落ち、そのままクラリスの手に持つ聖剣の刃の上に落ちる。髪の毛は音も立てずに、刃に触れたか触れないかというタイミングですでに二本にわかれた。
『ゴクリ……』
クラリスの耳は、その生唾を呑む音を聴き逃さない。
「デュラ、いま生唾を呑み込みましたね⁉ 怖くなったんでしょう‼」
「ちっ、違うぞクラリス! よく斬れるなぁって思っただけだ、本当だぞ!」
その刀の鋭い切れ味に背筋が寒くなったのは確かだが、それは生けとし生ける者が持つ本能というべきもので。なのでデュラとしては、自身の決断に迷いが生じたわけではないのは確かなのだ。
「はぁ……もう、どうにもならないのでしょうか」
「今日はもう無理そうだな。明日、十八時まで待ってやるからさっさと覚悟を決めな」
「二十三時五十九分五十九秒まで待っていただけないのですか⁉」
「それだとクラリスが決断できなかった場合に、魅了眼をかける時間がないじゃねーか」
情けない顔で足掻くクラリスに、デュラの表情はシビアだ。
「そもそもあと二日ってのは私が勝手に決めたことで、あと五分に訂正してもいいんだぜ?」
「十八時ですね、わかりましたー‼」
刻限を前倒しにされてはたまらないとばかりに、クラリスは瞬時に了承する。それを見て、デュラは苦笑いしきりだ。
「あぁ、そうだ。じゃあいまのうちかな?」
「なにがですか?」
そう提起するデュラの表情が、本当にさりげなかったものだからクラリスは油断をしてしまう。
「いや、だからさ」
「はい」
『キーン……』
デュラの魅了眼が発動した。瞬間的にそれを察して目をそらそうとしたクラリスだったが、残念ながら間に合わなくて術にかかってしまう。
「クラリス、お前は明日の十八時五分に私の首をその聖剣で斬り落とすんだ」
「わかりました、デュラ。おまかせください!」
そしてデュラが指をパチンと鳴らすと、クラリスが鬼の形相でデュラに飛びかかって胸ぐらをつかむ。
「デュラ? いまなにしました⁉」
「タイマーをセットしたのさ」
「?」
「私の魅了眼による『命令』はさ、時間指定ができるのさ。そしてそれは術を解いたあとでも有効で、指定した時間がきたら自動で発動するんだ」
「……十八時五分?」
「そうだ。十八時五分になったらクラリス、お前は自分の意思とは無関係に私の首を落とす」
「どうしてそんなひどいことが……ひどいことを命じることができるんですか‼」
デュラの胸ぐらをつかんだまま、クラリスは涙でぼろぼろだ。クラリスのほうがデュラより身長が五センチ強ほど高いので、少し上から見下ろす形となる。
逆にデュラは見上げる形となっているわけだが、その表情は不思議なくらい穏やかであった。
「私はさ、クラリス。お前の意思で私を手にかけてほしい、世界を救ってほしいんだ」
「わかりません……」
「この試練を乗り越えることができたら、お前は私の自慢の弟子だよ」
「わかりません、わかりません! わからなきゃいけないなら、私はダメダメな弟子のままがいいです‼」
「あまり困らせてくれるなよな」
そう言ってデュラは優しくクラリスの手をほどくと、踵を返して部屋を出ていく。ひとり取り残されたクラリスは落ちる涙を拭おうともせずに、ただひたすら念仏のように――。
「わからないです……わからない……」
クラリスは考えていた。もし自分が決断できなかった場合に、デュラに魅了眼をかけられる前に逃げるなりして対処しようと。
だがそれはいまこの瞬間、おじゃんになったのだ。
明日の十八時五分、そのときがきたらクラリスはデュラの首を自分の意思とは関係なしに落とす……自分の中に仕込まれたその『爆弾』に対し、クラリスは抗う術を持たない。
「私に、できるだろうか」
ぼそっとつぶやいたつもりのそれは、声になったかどうか。クラリスにとって悪夢ともいえるカウントダウンが、今まさに始まろうとしていた。
クラリスとしては、それはあまりにも早すぎる体感時間だった。気がつけばもう翌日、日は沈み始めている。
(あと一時間もない……)
だがクラリスは、まだ決断ができてないでいた。決断というよりは、デュラを殺したくないという一点だけがどうしても揺るがない。
「クラリス、一階でやろう」
「なにをですか?」
「首ちょんぱ」
「あ⁉」
ナーバスになっているクラリスとは対照的に、デュラはもうすぐ殺されようというのにあっけらかんとしていた。
「いや、ここでやるとさ? 血とかで汚れちゃうじゃん?」
「だから?」
「この天璇の塔、クラリスに譲るつもりだからさ。あまり汚したくないっていうか、クラリスも私の首を落とした部屋ってイヤだろ?」
「私はデュラの首を落とすのがイヤなのですが⁉」
だがどんなにクラリスが拒否しても、デュラの魅了眼で仕込まれた命令は発動するだろう。すでにカウントダウンは終盤にさしかかっていた。
「そう言うなよ。この塔、大事に使ってくれよな」
「……」
クラリスはもう、絶望的なまでに青ざめている。そしてふと気づいたのは――。
「ソラさん、アルテさん、イチマルさん。ターニーさんも……は、了承しているのですか?」
「なにを?」
「私がデュラの首をその……獲ることについて」
「あぁ、それなら大丈夫だ。私の仇討ちには来ないから安心してくれ」
「そんなことを心配しているのではないですけどね?」
だがこれで、クラリスの最後の望みも潰えた。
(そうか、みなさん納得してるのか)
だとすれば、拒否しているのはもうクラリスだけなのだ。
「先に待ってるよ」
「え?」
「一階で。十八時までに決意してくれ」
「……」
クラリスは思わず、腰の聖剣の束を握りしめる。その手が、じっとりと汗で濡れているのがわかった。
デュラが階段を下りる音が、遠ざかる。
(逃げたい……)
だが逃げることは許されないだろう。いやそれ以前に、逃げたところで十八時五分になったらまた自分はここに戻ってくるのだ――自分の意思とは、関係なく。
ひとりで悶々としていたら、いつのまにか十七時四十五分。クラリスはなんの決断もできていないまま、デュラの待つ一階へと下りていく。
高さ百メートルはあるであろう天璇の塔。その最上階とその真下の階は居住スペースとなっていて、あとは一階まで下りる階段のみの空洞となっていた。
クラリスの靴の音だけが、ホール状の構造ゆえに反響する。そして小脇に、小さな箱を抱えていた。
「来たな」
玄関扉横に置いてある椅子に座って、デュラは慈愛に満ち溢れた笑顔でクラリスを迎える。クラリスはデュラの前まで無言で歩み寄ると、デュラの前で片膝をついて小箱を置いた。
「クラリス、それは?」
「……メイクボックスです。最期の化粧、デュラにしてあげます」
「ありがとう、クラリス」
そしてクラリスはデュラの顔に化粧を施していく。二人とも無言で、言葉ひとつ発さないままで。
デュラの化粧を終えてクラリスがメイクボックスの箱を閉じたとき、柱時計の針は十七時五十五分を示していた。
「あ、ヘアピンを一つくれないか」
「ヘアピン、ですか?」
デュラのそのリクエストを受けて、クラリスはもう一度メイクボックスを開ける。そして大き目のヘアピンをひとつ、デュラに手渡した。
「ありがとうよ」
「デュラ?」
「クラリスは右利きだっけね」
そう言いながらデュラは、ヘアピンを使って右後ろ髪をまとめる。デュラの白い首筋の右側があらわになった。
「……っ‼」
クラリスは、思わず顔をそむけてしまう。
その様子を見てデュラはちょっとだけ困ったように笑うと、椅子を立ち上がった。そして一階の中央まで歩みよると、クラリスに背を向けたまま両ひざをついた。
その状態でつま先立っているものだから、デュラの裸足の足裏がクラリスを向いている。
「私はいつでもいいぜ」
そう言いながら、デュラがあらわになった首の右横をペシッと叩いてみせた。
「本当に……」
すでにクラリスの右手は左腰に帯刀している聖剣の柄にかかっている。だが、そこからクラリスは微動だにできなかった。
そのとき、
『ボーン……ボーン……ボーン……』
柱時計が発する音は六つ。長針が天を、短針が地を指さしていた。
「時間だな。やれ、クラリス」
「いや……いやっ……」
「クラリスっ! あと五分だぞ⁉」
「あ……」
長針が五分のところに移動したとき、クラリスは己の意思と関係なくデュラの首を落とすのだ。呆けていたクラリスだったが、ハッとして時計を振り向いたその目にうつったのは……すでに十八時三分を示す時計の針。
そして、しばしの静寂のあとに。
「あと一分だ」
それでも動かないクラリスに、デュラが冷たく言い放つ。
(私の魅了眼で操られてそうするほうが、クラリスの負担を軽減できるのかもな)
すでにデュラは諦め顔だ。そして小さくため息をついたその瞬間、デュラの背後から聴こえてきたのは。
『シャリンッ』
クラリスが抜刀したのを確信して、デュラの口角が上がる。時計の秒針は、すでに十八時四分五十秒を回った。
デュラが椅子を立ってから、クラリスはデュラの顔を見ていない。デュラがずっと背を向けた状態でいるためだ。
(でもこれでいい。デュラの顔を見たら、もう私は逃げ出してしまうだろう)
そう思ってクラリスは、聖剣を抜いたのだ。そしてあと三秒、二秒、一秒……。
それはクラリス自身の意思だったか、それともデュラの魅了眼による作用だったのかはわからない。だがクラリスは刀を振りかぶると、
「デュラアアアアアアアッ‼」
そう叫ぶやいなや、渾身の力でデュラの首を右から薙ぎ払った。
『ゴトリ』
クラリスはハンターギルドにも籍を置く身だ。魔獣を始め、クラリスを殺そうと襲ってくる、暴漢の首を刎ねたことはこれまでに数知れず。
ゆえに聴き慣れた、慣れているはずの音がクラリスは初めて耳にしたような感覚を覚える。
両ひざをついたデュラの首なき躯が、その断面から鮮血をほとばしらせていた。床に無造作に転げ落ちたその首は目をつぶったまま、まるで眠っているのかと錯覚するほど穏やかな表情で。
――どれだけの時間が経っただろうか。一階の壁にもたれて座り込んでしまっているクラリスの、目は散々泣き腫らして真っ赤だ。
すでに時刻は夜半すぎ、照明も消えた一階の窓から月明かりがクラリスを薄く照らす。
そしてどれだけ泣いたのだろうか、頬には乾いた涙のあとが月光に反射して弱い光を放っていた。
デュラの首なき躯はすでに床に崩れおちて、その首はクラリスが斬り落とした状態のまま穏やかな表情をクラリスに向けて横倒しになっている。
(もう涙も出てこないや……)
クラリスは、デュラの寝顔を見ているような錯覚にとらわれた。体をゆさぶれば、声をかければ起きてくるんじゃないかとまで思い始めて……。
だが、いま目の前に広がっている光景はまぎれもない現実なのだ。自分の手が、刀がデュラの首を斬り落とした。
「うわああああっ‼」
いきなり叫び声をあげると、クラリスは聖剣でその場にあった調度品やカーテン、ありとあらゆる物を斬り捨てていく。
叫びながら、まるで暴走した魔獣のようにがむしゃらにそして無目的に破壊の限りを尽くす。
クラリスの斬撃によって廃墟かと見まがうほどに室内が荒らされ、もう斬るものがなくなるとクラリスは空気が抜けた風船のようにガクッとその場に膝から崩れ落ちていった。
「デュラ……デュラぁ……」
枯れたはずの涙が、ふたたびクラリスの目からあふれ出す――そのときだった。
「ゔ⁉」
急激に激しい頭痛がクラリスを襲った。ギリギリと歯ぎしりをしながら、両手で頭を押さえてクラリスがもんどり打つ。
「痛い、痛っ……‼」
これまでに感じたことのない激痛に、クラリスはまともに言葉を発せないでいる。もはや上半身を起こすことすら難しく、両膝を床についたまま続いて両手で抱えた頭も床に落とす。
そしてクラリスの体躯から、黒い煙のような瘴気にも似たそれが滲みでてくるようにクラリスの周囲を漂いはじめた。
それはまるで、かの魔法少女・リリィが悲しみの沼に沈んだあの日――魔皇として再覚醒したときを彷彿とさせる。だがクラリスから発せられる瘴気は、天璇の塔の階段ホールを充満させるだけにとどめられたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
どれだけ時間が経っただろうか、やがてその瘴気も窓から吹き込む風も手伝って少しずつ晴れていき――。
「え?」
そこにクラリスがいたはずの場所にいたのは――。
「なにこれ⁉」
まだ幼さの残る顔つきだったそれは、すでに二十代後半のような大人びた顔つきにかわっていた。背中の中ほどまで伸びていた鮮やかなアッシュブラウンのゆるふわヘアーは、アッシュグレーへと変色してひざ裏近くまで伸びている。
背中の中ほどまでが直毛で、そこから先がウェーブがかかって波打っていた。身長も一七〇センチを少し越したぐらいだったのが、どちらかというと一八〇センチまではいかないまでも伸びている。
蠱惑的な紫水晶を思わせる瞳も、透き通った緋色に。それはさながら、宝石のロードクロサイトのようであった。
「えっと……私、大人になっちゃった?」
いやいやいや、大人になってもそうはならないだろう。だがそれよりももっと、クラリスを驚かせる事態が待ち受けていた。
「えっと、鏡……鏡は、と」
「ああそれなら、そこの引き出しの中……ってぶっ壊れてんな。クラリス、ちゃんと後片付けしとけよ?」
「ごめんなさい、デュラ!」
とりあえずは謝って、自分がぶった斬った残骸から鏡を見つけて手に取るクラリス。そしてそれを覗き込もうとして、
「えええええっ‼」
まるでホラー映画のゾンビのように、グリンッと後ろを振り向いたクラリス。その目はこれでもかとまでに飛び出して、顎がスコーンと床にでも落ちていきそうなほど口が開かれている。
その凄まじい表情に、思わずビクッと背を震わせたのは誰あろう……デュラその人であった。
「デュ、デュ、デュ、デュラ!?!?」
「あ、ああ」
その首はちゃんとつながっている。信じられないようにパチクリと瞬きをするクラリスであったが、そのデュラの首の円周には大量の血液が付着していて間違いなく自分が斬り落としたことを物語っていた。
「こっちも確認だけど、クラリス……なんだよな?」
「そっ、そうです‼ なぜか大人になっちゃいましたが⁉」
いやだから大人になったからといって、成長期が終わったら身長は伸びないし髪や瞳の色は変色しないのだ。
「その姿、どうした?」
「それが私にもさっぱり……っていうか! デュラこそどうしたのですか‼」
「あん? クラリスの魔法だろ、アレ。私の首を纏ってる魔力の残滓は間違いなくクラリスの魔法だぜ?」
「私……が?」
「ただ魔法つーていいのかな。私が死んでからもう何時間も経ってただろ、それで蘇生させることができるなんてもはや不死術だぜ」
「私は不死術は使えませんが……」
「だよなぁ? ソラですら死後時間が経っていたら無理だ」
(逆に言うと、死後の時間があまり経過していなかったらソラさんはできちゃうのか)
変なところに感心するクラリスである。実際にそれで、リトルスノウは第二の人生を得たのだ。
「まさか……『そう』なのか⁉」
不意に、デュラがなにかに気づいたように一人で納得する。
「デュラ?」
心配そうに顔を覗き込んでくるクラリスだが、デュラは心ここにあらずとばかりに立ち尽くす。デュラは思い出していたのだ、アルコルへ向かう船上でターニーと交わした会話を――。
『だからクラリスも、最終的に人間じゃなくなる……とはソラの見立てだ』
『進化する、と?』
『覚醒といってもいいかもしれん』
そしてデュラとターニーが仮定した一つの推論が、
『もしクラリスがそうなったら……それがトリガーになっちゃうのかな?』
『リリィ復活のか?』
バッと顔をあげて、デュラはクラリスを凝視する。
「あの、デュラ?」
「悪いな、確かめさせてもらう」
「え?」
「『超音波反射眼』‼」
「な⁉ また魅了眼……」
「違うわっ!」
そう言ってツッコむデュラの深紅の瞳が一瞬だけ輝いて、そしてすぐにいつもの瞳色に戻る。
「なるほど……わからん!」
「なにがでしょうか」
「私には、対象となる生き物を医療的観点で調べてみるスキルがあるんだよ。ってもわかるのは生命力とか種族ぐらいのもんだが」
「それでなにがわかったのです?」
「わからん、と言ったろう?」
「はぁ……そりゃよござんした」
からかわれたと思ったのか、クラリスがムッとして頬をふくらませる。だがそうじゃないとばかりにデュラは手を振って、
「ちゃうちゃう。『わからない』のが『おかしい』んだ」
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「……」
「じゃあ人間じゃないなにかっていうと、それが『わからない』んだよ」
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クラリスは困惑しきりである。そりゃそうだろう、自分は確かに人間だったのだから。
「そうだな、感覚的にはソラに近い」
「えっと、ソラさんは……」
「あぁ、最古の魔女だな。帝国語で言うなら『亜人』のカテゴリーに入る」
「私が?」
「あぁ、クラリスは人でなしになっちまったんだ」
「言い方!」
すっかりへそを曲げたクラリスが、デュラをポコポコと叩く。それをデュラは笑っていなしながら、その心中では――。
(私を殺してもらうてのはもう無理だな。クラリスには蘇生させる能力がある……それは多分、リリィディアの女神としての力だろう)
ときを同じくしてフェクダ王国は天璣の塔のソラ、メグレズ王国は天権の塔のアルテ、アリオト王国は玉衡の塔のイチマルがクラリスの覚醒を感じとっていた。
「クラリスが目覚めたか」
アルテの表情は固い。
「なにが始まるのでしょうか……」
イチマルが、不安そうにつぶやいた。
「クラリスの小紋様、みんなのところにも追加しないとね」
自身の塔にある魔法陣を振り返って、ソラがため息をついた。
真ん中に大きな魔導紋があり、それをぐるっと六人の塔の位置を示す小紋様が囲む。クラリスのそれが、今度は新たに加わるのだ。
一方で開陽の塔では、ターニーが空になった酒瓶を抱いて眠りこけていたのだった。
数ヶ月後、帝都にある皇城の敷地内に建立中だった一本の塔が竣工する。その名は『天枢の塔』。
そして完成と並行して、クラリスは母・ディオーレから皇帝の座を譲位された。ここに、クラリス・カリスト皇帝が新時代の覇者として戴冠したのだ。
かつてこの帝国では、王侯貴族と賢者六人たちとは互いに干渉しないという『不可侵条約』が存在していた。だがそれも七人目の賢者となったクラリス自身が皇帝であることから、とりあえずの破棄をみる。
天枢の塔に至るには、『七人の賢者』の塔では屈指の難易度を誇った。なんたって皇帝が住まう居城の敷地に建っているのだ、一般人がそうやすやすとは足を踏み入れることができない。
今日は新皇帝のお披露目ということで一般参賀が計画され、皇城は特別に一般市民の立ち入りが許された。皇城のデッキから、新しい皇帝となったクラリスが手を振る。
その左右を母にして前皇帝であるディオーレ、ソラとデュラそしてアルテにイチマルやターニーが陣取る。
市民たちの新皇帝を祝福する詰めかけたオーディエンスは、自分たちが発する期待の歓声に沸きかえった。クラリスの演説も好調で、オーディエンスの熱狂ぶりは怖いくらいだ
帝国の新しい時代は始まったばかりだ、そんなメッセージがクラリスの口から飛び出していく。
そんな六人の賢者たちを、一般市民にまじってマリィとララァが見上げていた。
「さて、と。ねぇマリィ、そろそろあの『約束』も終わりにしない?」
「なんのこと?」
「約束、というのとはちょっと違うかな。確か――」
『もしクロス様が私やララァ、そしてリリィの意に沿わない結末を目指しているのならば……とりあえずそれがわかるまで、様子を見ながら臨機応変に動くってのはどう?』
このマリィの説得で、ララァは一時的にリリィの七つの欠片たちを傍観するにとどめているのだ。本来、ララァにくだされた冥府神クロスからの司令はリリィの復活阻止である。
そのため、七人の誰かを殺める……それを止めたのは誰あろう、同じ命令を受けながらリリィ復活を渇望するマリィであった。
リリィが復活するのを水際で阻止しようとするララァと、リリィ復活後にかつての親友として討とうとするマリィの埋めることのできない方針の相違。
「待ってララァ! まだクロス様の真意がわからないままよ⁉」
「クラリスが覚醒した以上、もう時間の猶予はないの」
そう吐き捨てると、ララァは魔法の箒を取り出す。ここから飛び立つつもりだ。
「ちょっ、待ちなさいララァ!」
「ごめんね、マリィ。『冥府開門』‼」
ララァは状態異常魔法の天才である。この魔法は、一瞬のうちに肛門の括約筋を弛緩させ大腸の蠕動運動を活発化させる。
結果として、自分の意思とは無関係な強制排便を促すのだ(ひでぇ……)。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!(ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! )」
魔法少女衣装なもんだから、当然(?)ミニスカートである。そのマリィのミニスカの臀部に茶色の染みが広がり、モコッと盛り上がった。
「いやああああっ‼」
お尻(というか『具』)を潰さないように軽く押さえつつ、マリィは半泣きでしゃがみ込む。その間隙を縫って、ララァは魔法の箒にまたがりいずこかへと去っていった。
そしてマリィの周囲はまるでモーセの海割りのごとく人々が足早に遠ざかり、泣きながら座り込んだマリィをオーディエンスが遠巻きになんともいえない表情で自身の鼻をつまみながら取り囲む図ができあがる。
かつて生前のララァが、魔法少女学園の模擬試合で先輩であるリリィに使って勝利した魔法だ。ちなみにその試合後、逆恨みしたリリィに殺されかけたララァである。
「くっ、こんな人が大勢いる場で‼ 『浄化』!」
だがマリィとて、かつての魔法少女学園では『天才にして天災』と言わせしめた万能魔法少女だ。たちまちのうちにそれを『なかったこと』にすると、自身も箒にまたがって。
「待ちなさい、ララァ‼」
白眼に血管を浮かせて、鬼の形相のマリィ。慌ててララァを追って飛び立っていった。
その様子を、賢者ゆえに卓越した視力で眺めていたクラリスを始めとする六人の賢者たち。
(なにやってんだか……)
奇しくも、六人の思いが同調した。
ちょうど同時刻、帝都とは真反対にある大陸最東端にあるベネトナシュ王国。その首都・エータの郊外、海岸沿いにある揺光の塔で一人の妖精が突如としてベッドの中に顕現する。
「うーん、この」
眠い目をこすりながら、起き上がる。そしておもむろに自分の身体を舐め回すように観察すると、
(胸が大きくなってる?)
彼女の『前世』は、悲しいほどにツルペタだった。なのでその嬉しい誤算に、自身の胸をモミモミしながら自然と顔もほころぶ。
といっても普通サイズになっただけなのだが、その妖精にとってはなによりも喜ばしかったのだ。
「とりあえずブラ、買いに行くか……」
その妖精は窓を開け、パタパタと羽をはためかせて飛び立っていく。
(今度は長生きできるといいな)
そんなことを思いながら、その妖精……ティアは再び、この世界に降り立った。リリィディアを構成する七つの魂が、クラリスの覚醒と併せて初めて完全な形で揃ってしまったのである。
事態は、風雲急を告げようとしていた――。
☆第一章はここまでです。『ポンコツ妖精さんは、そろそろ転生をやめにしたい』(※改題しました)の最終話をお読みになった方ならピンとくるラストだと思います。
なお賢者たちの名前はピンとくる方もいらっしゃると思われますが、当然ながら株式会社シマノさんとはなーんの関係もございません(;´・ω・)
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