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しおりを挟むベルナルド様との婚約を破棄した後、バルリエ様の紹介で外交官の補佐のお仕事をすることになりました。
貴族女性も仕事を持てる時代です。
私は、顔と名前を一度で覚える、騎士の気配に聡い令嬢として騎士隊員たちの間では有名だったそうです。
仕事内容は、顔を覚えるのが苦手な外交官の補佐です。
他国との外交の際、横に付いて参加者の名前を耳打ちします。
外交官の方でも顔を覚えるのが苦手な方がいらっしゃるなんてと、初めは半信半疑でしたが、実際にはかなりの方がご苦労されていることを知りました。
そして、この仕事は私の世界をさらに広げてくれました。
新しい場所、新しい仕事、その中で知る初めての感情。
眩いばかりの貴族社会よりもずっと身体に馴染みます。
忙しい仕事の合間に、バルリエ様とも時々お食事をします。
連れて行ってくださるお店は下町の大衆食堂から、可愛らしいカフェまで様々でした。
「バルリエ様、いつもご馳走になってしまい、申し訳ありません」
お財布を出すのは男性に失礼な行為なので控えますが、私にも外交官補佐としての収入があります。
安くはないお店に連れて行っていただいたときなど、とても心苦しいのです。
「そろそろクレールと、そう呼んではもらえないだろうか?」
帳の降りた公園で、夜風で酔いを覚ましていたとき。
バルリエ様は胸に手を当てながら跪かれました。
「いえ、それは……」
婚約者でも恋人でもない私が、気軽にお呼びできる方ではありません。
静寂の騎士と呼ばれるバルリエ様は二十五歳という若さで先日、第二騎士隊長に昇格されました。
元々手の届かない方でしたが、今ではこうして一緒に歩く機会があるのが不思議なほどです。
「これだけあからさまに好意を伝えてもまだ、あなたに私の気持ちは届かないのか」
「どういう、ことでしょう?」
感情を知ったはずの私はやはり、人の気持ちに鈍感なのでしょうか。
ベルナルド様はあの後、拘留所に二日ほど留め置かれ、お父上のアルテアン伯爵が罰金を払ってようやく釈放されました。
当然、私からの婚約破棄はすぐに了承されました。
ですがそれは、もう取り返しがつかないほどベルナルド様の行為が人の目に触れていたからで、伯爵夫妻の感情はまた別のものだったようです。
人伝に聞かされたのは、心を開かなかった私への憤りでした。
心を尽くしたのに私が出来損ないだったのだとお怒りだったようです。
息子が浮気をしても仕方がないと。
アルテアン伯爵夫妻やベルナルド様とは、それ以来お会いしていません。
優しく私を導いてくださっていた夫妻のことを思い出す度に胸が痛みますが、私はこの痛みを受け入れることにしました。
私は確かに出来損ないです。
そして、ベルナルド様は恋人のジョスリーヌ様と婚約したかったようですが、ジョスリーヌ様は別の殿方と婚約予定との噂があります。
お相手は豪商の跡取り息子だそうです。
貴賤結婚と言われておりますが、ジョスリーヌ様のマルモン伯爵家は没落寸前らしく、仕方のないことのようです。
「ベルナルド氏であれば金をふんだくれると思っていたらしいよ。アルテアン伯爵家はお金持ちだからね」と、あらかた婚約破棄にまつわる雑事が済んだとき、バルリエ様が教えてくださいました。
アルテアン伯爵夫妻は、婚約破棄の原因になったジョスリーヌ様のことをお気に召さなかったとも。
「どのみち、あの二人はどちらも評判が地に落ちたからね。自業自得だよね」
それは私も同じです。
貴族令嬢としての結婚は、前よりもっと難しくなりました。
目の前で跪くバルリエ様は、夜の瞳に星を浮かべて私をじっと見ています。
「アレイト嬢。愛しています。私と結婚してもらえませんか?」
「結婚……」
この私が……。
不安が胸を埋め尽くします。
元から評判のよくない私をバルリエ様が娶るメリットなど、どこにあるのでしょう。
私は、私を信じることができません。
「あなたが壁の姫と、騎士たちにそう呼ばれていたことは?」
「バルリエ様にお聞きするまで知りませんでした」
「では、今なおあなたと結婚したいと、私の目を盗んでアプローチしようとしている騎士たちの好意には気付いている?」
「どういうことでしょう?」
「……やはり気付いておられない。では、私が平民出身で、先日、ようやく騎士爵を賜ることが決定し、あなたにこうして結婚を申し込めるようになったことは?」
「まあ。素晴らしいことです。おめでとうござ……え?」
「あなたに結婚を申し込みたくて、功績を重ねているうちに静寂の騎士なんて二つ名が付いていました。本当はもっと早くこうしてあなたに結婚を申し込みたかった。ベルナルド氏との婚約を知ったときは絶望しました。さらに氏の不貞を知ったときは怒り狂い、同時にチャンスだとも思いました。そして、婚約破棄後のあなたに外交の仕事をあっせんしたのは、私の時間稼ぎです。軽蔑してくださって結構です。それでも私は、あなたの能力と魅力に最初に気付いた男という自負があります。決して他の男には渡しません」
バルリエ様の真剣な瞳に、私の気持ちを伝えなければ……。
「自信が……ありません。私は、人と同じことができない、出来損ないなのです。結婚なんて……私、私は」
気付けばバルリエ様に抱きしめられていました。
バルリエ様の一等美しい気配と香りに、息が止まりそうです。
「一度婚約が駄目になったぐらいで、あなたの全てを終わりにしないでください。アレイト嬢。あなたはとても美しい。あなたの能力も素直さも全てがあなたの魅力です。出来損ないなんかじゃない。どうかアレイト嬢の傍で、あなたを幸せにする権利を私にください」
「バルリエ様……」
「クレールと」
「クレール様、本当に私でいいのですか?」
「それは私の台詞ですよ」
そんなはずはありません。
私は首を振りました。
私の瞳からはポロポロと雫が零れ落ちました。
「クレール様と出会ってからの私の心は嬉しかったり、悲しかったり、切なかったり、楽しかったり、ざわざわと、とても騒がしいのです……そして、今はとても驚いています。クレール様……お慕いしています」
クレール様の想いや優しさに触れてしまえば、いつの間にか心を締めていた想いを伝えずにはいられませんでした。
美しいクレール様の顔が近付きます。
私はこの夜、初めて恋人のキスというものを知りました。
人と同じことができない。
同じものを好きになれない。
合わせることができない。
合わせたように振る舞うことができない――漠然と悩んでいた私は、クレール様という素敵な方に出会い、仕事を得て、さらに大好きなクレール様と結婚し、穏やかでありながら幸せな日々を送れるようになりました。
人と同じことができない私でも幸せになれたのです。
相変わらず王宮の食事は身体に合わず、夜会では少量の飲み物しか口にできません。
社交がうまくなったかといえばそんなこともなく。
ただ、この世界の美しさも自分や人の醜さも、どうにもならない感情や、それでもまた立ち上がろうとする心を知り、少しだけ大人になったような気がいたします。
「アレイト。ちゃんと私を見て」
クレール様とのダンスは今もなお、私の感情の蓋を開け続けてくれます。
醜い心を知った私は、奥底に眠る感情を心の中で呟きました。
元婚約者様、浮気してくれてありがとう。
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