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 蝉の声で、冬里は目覚める。
 布団の上で眠っていたようで、体にシーツがかけられていた。のっそりと起き上がり、そうして昨日のことを思い出し――ほとんど弾かれたように立ち上がる。ぺたぺたと自分の体を確かめるように触り、置いてあった身鏡の前で裸になる。

 普段見る体と、変わりは無い。――腹部に手を落とし、そうしてから冬里は小さく息を詰めた。
 夢、だったのだろうか。――どこから、どこまで?

 あれほど強く抱きしめられて、逃げないように腰を引かれたのだから、普通なら手形の一つ二つ、赤い痕くらい残っていそうなものである。だが、そのどれも体に見当たらなかった。

 冬里はゆっくりと息を零し、そうしてその場に腰を下ろす。脱いでしまった衣類に手を伸ばし、それにもう一度袖を通しながら、夢だったのか、と、茫洋とした思考でそれだけを思う。
 ――そうだ、考えて見れば、そもそも起きていること全てが不可思議で、現実みがなかった。ずっと悪い夢を見ていたのだ、と言われても納得が出来る。

 あれは夢だった。夢だったのだ。
 その考えが、ゆっくりと体に染みこんでいく間を置いてから、冬里の目元から涙がこぼれ落ちる。それを必死に手の甲で拭っていると、不意に、ざり、と変な感覚があった。

 え、と吐息のようなものが漏れる。見ると、手の甲の皮膚が、少しばかり硬くなっているのが見えた。
 それはまるで、鱗のようにも見える。

「――冬里」

 静かな声が耳朶を打った。冬里の体がはねる。見ると、出入り口のあたりに、人が立っている。
 黒髪に黒い瞳、蠱惑的な笑みをたたえた、年齢不詳に見える青年。――加賀は、冬里にゆっくりと近づくと、その体をぎゅうっと抱きしめた。

「加賀くん……」

 何が起こっているのかわからない。加賀が小さく笑う。

「あの後、冬里……気を失ってしまったから。だから、布団の上に運んだんだ。よく眠れた? 目元の赤みとかは、昨日のうちに取っておいたよ。傷や、痕もね」
「なんで、朝なのに、居るの」

 今までは必ず帰っていたのに。そして次の日、冬里が家に入って良いと言うまで、入れなかったのに。
 どうして、加賀は――加賀は、ここにいるのだろうか。
 
 問いかけに、加賀は一瞬だけ呆けたような顔をする。そうしてから、とろけそうなほどの笑みを浮かべた。

「だって、僕は冬里のお婿さんだよ。冬里は僕のお嫁さん。なら、一緒に居るのも、おかしくはないよ」

 当然のように言葉を続ける。加賀は嬉しそうに微笑んで、それから「山に」と言葉を続けた。

「僕の住んでいる場所があるんだ。行こう、冬里」
「――」
「近くに川もある。だから、冬里、お風呂にも入れるよ。ご飯は僕が用意する。一緒に寝て、一緒に過ごそう。家族になろう、冬里」

 冬里は小さく息を吐く。きっと、この手の鱗のような模様は、加賀の嫁になってしまったことを刻んだものなのだろう。もう冬里の体は、冬里のものではない。
 加賀の――かがち様の、ものであるという、証左。

 冬里は自分のことを抱きしめる加賀をじっと見つめる。黒い髪、黒い瞳。抱きしめているせいか、つむじがよく見える。冬里と同じように、手の平にはうろこ状の模様があった。
 幼い日にも、見たことのある、それ。触れると、加賀が小さく喉を鳴らす。くすぐったそうな声だった。

「冬里?」
「……加賀くん」

 どうしてだろう。加賀の声を聞く度に、加賀の目と視線が合う度に、どうしようもなく疼いていた感情が、僅かに凪いでいる。それは、加賀と――繋がってしまったことに、関係があるのかもしれない。

 冬里はそっと加賀を見つめる。加賀は、これから先、――冬里が死んでしまったら、どうするのだろう、と、遠い未来のことを、ぼんやりと考える。
 冬里が受け入れ、そして加賀と共に過ごすことを決めたとして、その後。加賀はどうやら千年ほど生きているようだし、冬里は同じ時間を生きることは出来ない。

 冬里がいなくなった後、加賀はまた、お嫁さん探しを、再開するのだろうか。
 冬里にしたように、手を変え、品を変え、受け入れてもらうために半ば強引な行為を繰り返すのだろうか。
 冬里が家族になってくれたのだから、きっと他の人間も同じようにすれば家族になる、と、思ってしまうのかもしれない。

「加賀くんは……」

 それらの、様々な言葉が上手く、形に出来ない。だが、冬里のするべきことは、なんとなく、理解が出来た。
 加賀が、――こうすれば人間と家族を形成出来るのだと、思い込まないようにする、ための行動を取るべきであるという、ことだけが。

「私は加賀くんとは一緒に過ごせないよ」

 呟いた言葉は静かに響いた。僅かに怒りが混じってしまったのは、冬里自身、少しばかり怒っているから、なのかもしれない。

「加賀くんは――かがち様は、家族が欲しかったんでしょう。けれど、あんなやり方は、違う」
「……冬里?」
「体を重ねたら家族になるわけじゃない。子どもを孕んだら、家族になるわけじゃない。こんなやり方で、じゃあ一緒に過ごそう、だなんて、出来ないよ」

 冬里は加賀の手を自身から引き剥がす。そうして、じっと加賀を見つめた。
 加賀は一瞬、はく、と唇を動かして、それから困ったように眉根を寄せた。どうして、なんで、と言いたげな顔つきだった。
 
 加賀は、体を重ね、子ども成せば、自動的に家族になれると、思って居たのかも知れない。そのやり方だけしか、知らないのかもしれない。
 だが、違う。あんなやり方は、ただ相手を食い散らかすだけだ。内側を食い破られた獲物が、どうして、加害者と共に家庭を成形しようと思えるだろうか。

 もちろん、加賀の境遇には同情している。けれど、それだけだ。
 同情で、他者と共に、過ごせるかどうか。最初は良くても、恐らく途中から関係性は崩れてしまうだろう。傍に居てあげている、という感覚が自身の認識を塗りつぶしてしまう未来が簡単に想像出来た。だから、冬里は、その選択肢を選ぶことは出来ない。

「……体を重ねる前に、沢山の言葉を重ねるべきだったんだと思う。加賀くんの好きなものや嫌いなものを知って、私も同じように返して。そうやって、いたら、……家族になれたかもしれないね」
「……冬里?」

 だから。冬里はじっと加賀を見つめる。沢山の感情を込めた瞳のまま、唇を動かした。
 
「かがち様。お帰りください」
「――冬里、冬里も、僕を受け入れてくれないの?」

 微かな間を置いて、ようやく、かがち様が言葉を吐き出す。泣きそうな声だった。
 今までずっと拒否され、騙され、そしてようやく手に入れた熱が、自分の手から勝手に転げ落ちてどこかへ行ってしまって、途方にくれている、というような、そんな声音だ。

「今のかがち様は、受け入れない。――受け入れたくない」
「……ねえ、冬里、僕は加賀だよ。加賀、かがち様じゃない。加賀って呼んで、冬里……」
「お帰りください」

 静かに言葉を重ねる。かがち様は小さく息を飲んだ。そうして、後ずさりをするようにして、冬里から一歩、離れる。

「どうして。どうして。いれて。冬里。冬里、いれて、お願い、冬里。冬里のことが好きなんだ。冬里と一緒に暮らしたいよ。冬里と一緒に家族になりたい。お願い。何がいけなかったの? 直すから。お願い。なんでもするから。だから教えて。教えて――」

 冬里は答えない。ただ、お帰りください、ともう一度、繰り返す。かがち様は首を振る。
 まるで迷子になった子どものようだ。親の手を求めて、探して、泣いているように見える。

 冬里は小さく息を吐く。そうして、まるで子どもを虐めているように見える自分に、僅かに自嘲を零した。泣きそうな顔で冬里を見つめるかがち様に手を伸ばし、その額を軽く叩く。

 かがち様は驚いたように目を見開き、それからぽろ、と涙を零した。それを拭うこともせずに、「僕のこと、嫌いになった?」とだけ言う。
 明確な拒否。明確な、否定の関わり。それを繰り返されることが、恐らく、耐えられないのだろう。苦しそうに眉根をぎゅうっと寄せて、泣きながら冬里を見つめる。

 魔性のようにも、蠱惑的にも見えた面立ちが、今はすっかり、子どものように見えた。

「怒ってるの」
「……どうして?」
「家族になりたいと言ったのに、あんな強引な方法を取ったから」
「だって」

 かがち様は僅かに息を吐く。そうしてから、「冬里は、ずっと、来てくれなかった」と、囁くように続けた。

「待っていたんだ。ずっと。一緒にいられるように、いれてもらえるように。冬里は、けれど、お祭りが始まるより早く、帰ってしまう。だから、――だから。早く、直ぐに、家族になりたくて。それで」

 かがち様はそう言って、口を引き結ぶ。口にした言葉が冬里を責めるように響いているのに気付いたのか、それ以上言葉を続けない。そうして、一拍、二拍、沢山の間を置いてから、唇を震わせる。

「帰りたくない……」

 必死に吐き出した言葉だったのだろう。声が涙に濡れていた。
 冬里の傍に居たい。冬里と家族になりたい。だから体を結んで、無理矢理にでも嫁とした。かがち様の行動原理は、ただただ、冬里を望んでの行動だった。

「冬里。僕のお嫁さん。僕の番。僕を捨てないで。受け入れて。中にいれて。冬里の傍に、居させて。一緒に居たい。お願い、冬里、お願い……」
「帰って」

 冬里は静かに言葉を続ける。帰って、という度に、冬里とかがち様の間に、見えない壁が突き立てられるように、かがち様は一歩、退く。
 
 いれて、と言う声が響いた。それは少年の声だった。遠い昔、冬里が迷子になった少年を助けたときに、泣き濡れた声で紡がれた言葉。
 いれてください、と言う声が響く。それは変声期を迎えたばかりの少年が発する声だった。
 中にいれて、という声が響く。青年期特有の色気の混じった声。かがち様の声だ。

「冬里」

 母親の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。冬里は首を振った。

「やめて」
「冬里」

 隣家の老婆の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。冬里の反応を窺うような間を置いて、言葉を続ける。

「冬里」

 甘えたような、年若い妹の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。
 父親の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。
 今は居ない、冬里のためにかき氷を作ってくれた祖母の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。
 冬里の頭を優しく撫でるのが好きだった祖父の声で、かがち様が冬里を呼ぶ。
 
 冬里の大切な人の声で、かがち様は、冬里を呼ぶ。

 多分、冬里の勘違いではなく、かがち様は拒否をされたらその人の傍に近づくことが出来なくなるのだ。だから手を変え、品を変え、肯定を求める。傍にいれてほしい、傍においてほしい、と縋るように。
 冬里が拒否する限り、例え嫁となろうとも、かがち様は冬里には近づけなくなる。そして触れられなければ、冬里はかがち様を全面的に受け入れるようなことは、しなくなる。

「帰って。かがち様。山に」
「――冬里……」
「あなたのお嫁さんにはならない。あなたの番にも、ならない。私は家に帰る。かがち様の傍には居られない」

 かがち様が喉を鳴らした。途端、その眦から涙がこぼれ落ちて、床にしみをつくる。ひ、ひ、と浅く呼吸をしながら、かがち様は冬里の傍に近づこうとするが、出来ない。
 冬里は真っ直ぐかがち様を見つめる。黒い瞳と目が合う。涙に濡れたそれ。

「お帰りください。娘は戸口に置いてあります」
「……冬里」

 かがち様が、一歩、後ずさる。ずり、と、重たいものを引きずるような音だった。おおよそ、足から発せられているとは思いづらい、そんな音を立てながら、一歩一歩後ずさり、そうして庭園へ出る。
 そうして、冬里が瞬くと同時に、ふ、とかき消えるようにして青年の姿が消えた。

 帰ったのだろう。山に。冬里は小さく息を吐く。途端、今までの疲れがドッと押し寄せてきて、その場に腰を下ろした。
 もう、これから、呼び鈴の音に怯える必要は無くなるはずだ。それに、きっとかがち様は、冬里のことを嫌うだろう。もしかしたら、人間そのものを嫌うかもしれない。

 でもきっと、恐らく、その方が良いのだろうとも思う。
 かがち様を騙し続けてきた人々よりも、そうでない何か、誰かと、関係性を築けるなら、かがち様にとって、それ以上に良いことはないだろう。
 そう思った。――そう、思い込むことしか、出来なかった。
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