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 かがちさま、とは、蛇神かがち様と書く。
 遠い昔、とある村は水害に難儀していた。土砂は崩れ、山峰は姿を変える。自然の猛威とも言える水害をどうにかして止める為に、古来から山に住み着いていた大きな大きな蛇にお願いをしたのだという。
 どうか、村に襲い来る土砂を受け止めて、助けて欲しい。
 蛇は頷いた。そうして、その通りにした。

 土砂による被害を受けなかった村は発展し、外へ出て行っていた人達も戻ってきた。沢山の人々が喜ぶ中、蛇は言った。
 助けたのだから、見返りが欲しい、と――。


 そこまで文字を読んで、冬里はふいに顔を上げる。何かに名前を呼ばれたような気がして、周囲を伺うが、そんな気配は無い。
 そうしてから、壁にかかった時計へ目線をうつした。加賀がやってくるのは、毎日十時近くと決まっている。夏の盛り、陽の激しさが増しそうな頃合いを見計らうようにして、やってくるのだ。

 母に言われた通り、祖母の蔵書を漁ってみようかな、なんて思いたち、いくつか本を見繕ったのだが、ものの見事に積ん読のような有り様になっている。数行読んで、集中力が途切れ、これではいけないとまた数行読んで――という繰り返しをしている有り様だ。
 夏の暑さのせい、というには、室内はエアコンを効かせているのでそこまで暑くない。そもそも、冬里自身、読書はまあまあ好きな方に入るだろう。

 だというのにどうしてここまで身が入らないのか。多分理由は、毎日のように見る淫靡な夢にも関係があるのだろうな、と思う。
 目覚めるといつも、とてつもない虚脱感に襲われている。眠っているのに眠っていない、と言えば良いだろうか。全く体が休まらないのだ。

 今日の夢も酷い夢だった。暗闇の中で体をまさぐられて、柔らかな部分をこねるようにされて。そこまで強い性欲を持ったことは無かったはずなのだが、考えを改めるべきなのかもしれない。

 そんな風に読書を中断し続けた後、気分転換のためにも、先日聞いた話のことを調べよう、と携帯を動かし始めたのがついさっきのことである。
 かがちさま、そして祖母の家がある、つまりは今冬里がいる県名を検索欄に打ち込むと、すぐに情報が出てきた。

 どうやらネットではまあまあ有名な噂話だったらしい。お盆の祭が他と全く違うだとか、田舎であるが故の情報の閉鎖性から、因習村、なんて言われているようである。まあまあ不名誉な称号だろう。

 すりすりと画面を指先で動かしていると、集中を破るようにブザー音が鳴る。冬里は慌てて立ち上がり、そうしてから玄関口に向かった。
 ノブに触れた瞬間、狙い澄ましたように「こんにちは。いれてください」という声が耳朶を打つ。「いいよ、おはよう」と笑いながら扉を開けると、そこには加賀が立っていた。

 黒髪に黒い瞳。冬里よりも幾分か背が高い。恐らく百七十中盤から、後半くらいはあるだろう。年の頃は冬里と同じか、それよりも上くらいだろうか。するりとした面立ちをしていて、涼しげな目元が僅かに色気のようなものを漂わせている。高い鼻梁に、薄い唇、蠱惑的な魅力をたたえた加賀は、冬里を見るととろけそうなほどに表情を崩す。

「ありがとう。じゃあ、失礼するね」
「うん。どうぞ」

 すっと足を一歩退くのと、加賀が室内に足を踏み入れるのは、同時だった。
 少しばかり緊張した表情の加賀を眺めながら、なんだかじんわりとした違和感を覚える。見上げる首が痛い。――でも、そう、昨日までは、加賀は冬里より身長が低かったような――。

「冬里? どうかした?」
「あ……、いや、ごめん、大丈夫。何でもないよ」
「何でもない、って顔をしていないよ」

 加賀がふ、と息を零すようにして笑い、冬里の額にそろりと手を伸ばしてきた。低体温の指先が、皮膚を撫でるように動く。
 夏なのに、そして恐らく外に居て、徒歩で冬里の家に訪れたにも関わらず、加賀の体は冷え切っている。じんわりと冬里の熱が伝播するように、加賀の指先を濡らすのがわかった。

「ええと、その、なんだか変な話になっちゃうんだけど、加賀くん……って、身長、伸びたかなあって」

 加賀は僅かに瞬いた。そうしてから、小さく首を傾げて見せる。
 言っている意味がわからない、とでも言いたげな表情だった。当然だろう。毎日のように会っているのに、身長伸びた? とか、どう考えても話題の選択としておかしい。慌てて「ごめん、気にしないで」と言葉を続けると同時に、加賀がすり、と冬里の体に肩を寄せた。

「だって、小さいと、駄目でしょう。同じ、じゃないと」
「――え?」
「ふふ。冬里、もしかして、疲れちゃった? 毎日僕が訪れるのも、もしかして大変かな。ごめんね」

 少し心配そうな声で、加賀は首を傾げる。冬里は直ぐに首を振って返した。
 毎日のように誰かを出迎える、というのは、冬里にとって少しばかり大変な行動だ。だが、加賀が相手だと、そういった疲れなどが一切湧いてこない。むしろもっと傍に居たくなるような、と考えて、直ぐに心中で首を振る。何を考えているのだろうか。

「大丈夫だよ。むしろ、加賀くんこそ、私の話し相手になってもらってて、ごめんね」
「ううん。僕は……、冬里と話をするの、好きだから。全然疲れないよ。でも、冬里がもし疲れているなら、寝ても良いからね」

 寝ても。紡がれた言葉に小さく笑う。流石に、客を招いている状態で、眠るだなんて失態は犯したくないものである。
 寝ないよ、と笑いながら答え、涼しい室内に案内する。加賀はリビングのテーブルに置かれた本を見やって、「読書していたの?」と囁いた。

「少しだけ。でも、集中がすぐに途切れちゃって」

 冬里は苦笑と共に言葉を返す。加賀が本の題名を読み上げて、それから傍に置いてある携帯へ視線を向けた。少し放置したからだろう、画面が消えているそれを追うように見つめて、それから、冬里は先ほどまで調べていたページのことを話題に出した。

「そう、ここら辺、お盆になると面白い……お祭りがあるんだね」
「面白いお祭り?」
「子どもが、各家庭を渡り歩くっていう……」

 母から説明を受けた祭を口にすると、加賀は得心いったように頷いた。そうして、「蛇神様のお祭りだね」と囁くように続ける。

「そう。それで、少し気になったから、由来のようなものをちょっと調べてて。この辺りは昔水害が酷くて、それを大きな蛇の神様が救ってくれてから、始まったらしいね」
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