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11 聖女の価値

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 緑の季節から陽の季節に移り変わる頃、奏はアレウスの執務室に招かれた。
 アレウスの執務室は、フェリクスの執務室とはまた違った場所にあり、内装もフェリクスの執務室と比べると壮麗さを感じさせる。

 フェリクスの執務室が、対外的に見せることのないであろう場所とするなら、アレウスの執務室は恐らく他の貴族や外国の使節団を招き入れる場所としても機能しているのだろう。
 アレウスは奏が来たことに気付くと、立ち上がり歓待をする。

「急な呼び出しにもかかわらず、すまない」
「いえ、大丈夫です。何かありましたか?」
「ああ、頼みたいことがあってね……」

 アレウスは表情を和らげる。そうして、室内にある、来賓を出迎えるためのテーブルを勧めてきた。
 勧められるままに腰を下ろす。アレウスは奏の向かいに座った。使用人を呼び、直ぐにお茶の準備を整えながら、「陽の季節のことは、フェリクスから何か聞いているだろうか」と首を傾げて見せる。
 赤色の瞳が、何かを探るように奏を見つめる。陽の季節――について聞いたのは、騎士の試合がある、ということくらいだろうか。

「二十日に騎士の御前試合があるという話は聞きました」
「そうか。――実は、頼みたいことは、それに関することなんだ」

 アレウスは腕を組む。使用人が用意したお茶に手を伸ばし、それをそっと口元に運んだ。

「御前試合において、優勝した騎士は一つだけ望みを口にすることが出来る。そしてその望みを、王家は必ず叶えるとしている」
「望み……ですか?」
「ああ。今までは、剣や鎧、馬などを求める声が多かったが……」

 アレウスは静かに首を振る。そうして、真っ直ぐに奏を見つめた。

「だが、今は、聖女様がいる」
「……」
「聖女様の力は、ルーデンヴァール、ならびにノヴァリスにおいて、誰もが知る所だ。恐らく、今回の試合において、優勝した騎士が聖女様の力を求める可能性は高い」

 アレウスは淡々と言葉を続ける。つまりは心づもりをしておけ、ということなのだろう。
 試合に出るくらいである。騎士は恐らく心身共に健康な者が多いだろう。だが、騎士というものは仕えるべき存在が居て、初めて騎士たりうる。
 自身の主が、例えば病弱であったり、呪いにかかっていたり、不治の怪我を負っていたら。そうした時に、騎士は自身の望みよりも、確実に主の快癒を願うだろう。

「実際、既に御前試合に出場したいという申し出は例年より多い。恐らく、聖女様のお力に触れることを考えているのだろう」
「……わかりました、その時は、ご命令に従います」

 奏は、この世界――異世界に来てから、不自由をしたことはなかった。
 それはフェリクスが後ろ盾になってくれているから、ということもあるし、それ以上にルーデンヴァールという国、並びに王家が絶大な力を持っているから、ということでもある。
 奏はルーデンヴァールに守られているのだ。ならば、ここですべきは拒否することではなく、恭順し、受け入れることだろう。

 アレウスは表情を和らげると、「助かるよ」と囁いた。

「後はフェリクスをどう説得するか、だな。既に聖女の力を利用しない草案を出してきているから……、骨が折れそうだ。――聖女様、お茶は嫌いだったかな?」
「あ、いえ、そんなことは……頂きます」

 暖かく湯気をくゆらせるカップに手を伸ばし、奏は紅茶を口に含む。甘い花の香りがした。
 美味しい。さっぱりとした飲み口に、奏はそっと息を零す。

「美味しいです」
「良かった。――それは、フェリクスが選んだお茶なんだ」

 ふ、とアレウスが息を零すように笑う。見た目は正反対とも言える程に違う二人だが、穏やかに笑う姿は、どことなくフェリクスの面影がある。

「もし兄上が聖女様と話をされることがあるなら、このお茶を出すと良い、と。――フェリクスの見立ては合っていたようだな」
「……フェリクス殿下が……」
「あれは、母親が亡くなって――十四年前のことがあってから、本心を隠すようになった。だが、聖女様の前では違うらしい」

 アレウスはカップの縁を指先で撫でる。
 恐らく、フェリクスと奏が頻回に会っていることや、交わしている会話などは、アレウスの耳にも届いているのだろう。

「フェリクスは聖女様のことを大事に思っているようだ。これはアレウスとしてではなく、フェリクスの兄としてのお願いではあるのだが、良ければもう少しだけ、弟に付き合ってもらえると有り難い」
「……むしろ、それは私からお願いしたいくらいです」

 奏は首を振る。カップを置き、アレウスを見つめた。
 最初こそ、フェリクスの印象と言えば、カスの嘘を吐く王子、というようなものであった。人をからかって、奏が怒るのを見て喜ぶ。
 実際、その印象は変わらないし、今だってフェリクスは奏に嘘を吐いては楽しんでいる節がある。

 けれど、出会ってから四ヶ月経ち、多くの時間を共に過ごした。
 その間に、嘘吐きな第二王子、という印象の上に、優しいのにそれを隠す、だったり、照れたときに口元に手を寄せている気がする、というような印象が重なってきて――、今は、嘘吐きなだけではない、と、知っている。

 フェリクスの傍は、心地が良い。友人として、気の置けない相手として――奏は、フェリクスのことを好ましく思っている。

「フェリクス殿下はなんというか、凄く優しくて……でも、その優しさを隠すのがお上手ですよね。本心も、出来る限り見せないようにしているというか……」
「ああ、確かに。そうだな。昔からそうだった」
「だから、というわけでもないんですが、フェリクス殿下の……、新たな一面を見る度に、なんだか嬉しくなってしまって」

 思考を辿るように、ゆっくりと言葉を口にして、奏はカップの紅茶を飲みきる。美味しかった。
 そっとソーサーの上にカップを置き、奏はアレウスを見つめた。

「ですから、もう少しだけ付き合って欲しい――というのは、私の願いでもあります」
「……フェリクスが聞いたら、喜ぶだろうな」
「そうでしょうか? からかわれるだけで終わりそうです」

 アレウスが笑う。「からかうのは照れ隠しのようなものだ」と囁く。
 そうは思えない。確実にからかう時はからかうつもりで接してきているように思うし、そこに羞恥や照れの感情は滲んでいない気がする。奏は目を眇め、ゆっくりと首を振った。
 ぼんやりと考えていると、アレウスはそっと身を乗り出した。奏が視線を上げると同時に、至近距離に顔がある。思わず身をひきそうになる、と同時に、「兄上、フェリクスです。入っても宜しいですか?」という声が響いた。

「――ああ、入ってくると良い」
「失礼します、……」

 フェリクスは室内に足を踏み入れると、直ぐにアレウスと――奏の姿を身留めたらしく、息を詰まらせた。
 奏がフェリクスの方を振り向くと同時に、フェリクスが真顔でつかつかと近寄ってくる。

「聖女様。兄上と何を?」

 温度の低い声音だった。なんとなく、どこか、怒っているようにも響く。

「兄上も。聖女様との距離が近いのではないですか?」
「そうか? お前も同じような感じだろう」

 フェリクスが奏に手を伸ばし、その体を軽く引っ張る。アレウスの傍から体を引き離され、奏は自身に腕を回すフェリクスを見上げた。

「それで? フェリクス、用があったんだろう?」
「……、聖女様、兄上と離れてください。兄上も。ステラ様に見られたら、誤解をされてしまうのでは?」
「わかった、わかった。離れる。これで良いんだろう?」

 ステラ。とは。急に出てきた名前に、奏は瞬く。話しぶりからして、アレウスと親しい誰か、なのだろうか。
 アレウスがため息を零しながら奏の傍から身をひき、ソファーに背を預けた。

「私は聖女様を部屋へ送っていきます」
「……早く帰って来いよ」
「言われずともそうしますが」

 フェリクスは言葉を重ねて、奏の手を取った。立てる、と囁かれ、奏はゆっくりと立ち上がる。
 アレウスに礼を述べてから、フェリクスと共に部屋を出る。フェリクスはアレウスの執務室から五歩ほど離れた後、奏を見た。
 美しい虹彩が、僅かに不安げに揺れながら奏を見つめる。

「何を話していたの? 何かされた?」
「何もされていないですよ。美味しい紅茶を頂いたくらいで」
「それでどうしてあんなに距離が近くなるの?」

 フェリクスは早口に言葉を続け、それから首を振る。フェリクスからしてみたら、奏とアレウスの状況は多分、とんでもない衝撃だったのかもしれない。
 兄弟の見てはいけない場面を見てしまった、とでも言うような感じだろう。だが、フェリクスが危惧するようなことは一切起こっていないし、ただ助力を願うことがあるかも、と言われたくらいである。

 詰め寄るような言い方に、奏は少しだけ笑う。フェリクスが怒ったように眉根を寄せた。

「……なに?」
「いや。嫉妬してるのかなあ、って思って」
「……、もしそうだとしたら」

 フェリクスが足を止める。握られた手の平が離れ、すり、と奏の手首を撫でる。
 くすぐったさを感じるような、優しい触り方だった。奏の肩が僅かに竦む。

「キミはどうするの?」

 奏はフェリクスを見つめる。冗談だろうか、と考えて、フェリクスの二の句を待つ。だが、フェリクスはそれ以上言葉を重ねることはなく、奏のことを見つめ返してきた。
 無言の膜が二人の間に落ちる。一拍、二拍、躊躇うような間を置いてから、フェリクスが視線を逸らした。

「……なんてね。嘘だよ。冗談だ」

 掠れた声音だった。無理矢理、声帯を絞り込んでようやく発したような声音に、奏は瞬く。
 冗談だった、――と、簡単に終わらせてはいけないような、そんな言葉だった。

「部屋まで送るよ。もし次に兄上から呼ばれたら、僕も呼んで」
「それは……申し訳無いというか、本当に何も無かったんですが」
「何も無いとして、兄上には婚約者がいるからね。外の人間がどう思うかはわからない」
「婚約者……」
「何。居ないと思って居たの?」

 フェリクスが首を傾げる。いや、――居る、とは思っていた。
 王族なのだから、当然、相手は存在するだろう。アレウスにも、多分、――フェリクスにも。

 フェリクスは以前、恋人は居ない、自由恋愛は許されない、と言っていた。だがそれは逆に言えば、政略結婚であれば許される、ということである。王族である以上、持って生まれた責務が存在し、フェリクスは日頃の行動を見る限り、それに準じているように思う。

 フェリクスには、居るのだろうか。
 もし居たとしたら、奏がフェリクスの傍に居るのは、邪魔なのではないだろうか。

 問いかける声音が、喉の奥に張り付く。
 問いかけて、答えが返ってくることを、怖い、と、初めて奏は思った。
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