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10-2 居たい場所

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 フェリクスが吐息と共に言葉を落とす。どうやら、奏の――いわゆる我が儘を、今回は聞いてくれるらしい。
 実際の所、今まで何度も城下で食事をしているし、手袋を汚すのが嫌なので食事の際は手袋を外しているのだが、一度も体調が悪くなったことはない。城下で、しかも足のつきやすい食べ物に、毒物を混ぜるような人達は存在しないのだろう。

 だから、恐らく――今回も、問題は無いはずだ。ただ、絶対にそう、とは言い切れない所があるにはある。
 だからこそ、触れて渡すことで、フェリクスが多少なり安心して口に含むことが出来るのならば、それは良いことだと、奏は思う。

「美味しいお店を知っているんです。一緒に買いに行きませんか?」
「はいはい。仰せのままに」

 手を差し伸べて、奏は立ち上がる。フェリクスが少しばかり呆れたような声音で奏の手を握った。


 奏の好きな店は、少し歩いた場所にある。様々な惣菜を売っているお店で、パンも売っている。
 甘いジャムやクリームの入った菓子パンや、具だくさんの野菜や肉類がみっちりと詰め込まれたパンやキッシュのような食べ物もあり、品揃えが豊富で、いつ来ても新しいものを手に取ることが出来る。

 店を訪ね、そこでいくつかのパンを購入し、奏は店先にあるイートイン用の椅子に腰を下ろす。フェリクスも同じように腰を下ろした。
 手袋を外して、奏はパンを半分に千切る。ちょっとでも変に力をかけてしまったら、とろ、とした具だくさんのホワイトソースが中から溢れ出してきそうだ。

「どうぞ! フェリクス殿下!」
「……ありがとう。頂くよ。体調は?」
「悪くありません。むしろ今、物凄く良いです」
「そう。なら良いけどね」

 フェリクスは静かに言葉を続けると、奏の手からパンを受け取った。そうして、端のほうからゆっくりと口に運び始める。奏も同じようにパンに口を寄せた。

「はあ、美味しい……」
「なら良かったよ」

 軒先で、聖女と第二王子が二人してパンを食べている――というのは、なんだか珍しい光景なのか、行き交う人々がまじまじと奏たちに視線を寄せる。そのままパン屋へ吸い込まれるように入っていく人も多い。
 聖女と第二王子が食べているなら自分も食べてみよう、といった所なのかもしれない。

「……こうやって誰かと外で食べるのなんて、久しぶりかもしれないな」
「そうなんですか?」
「そうだよ。僕を食事に誘う人なんて、ほとんど居ないからね」

 奏はパンを咀嚼する。そもそもフェリクスは第二王子であるので、こうやって人々の間に入って食事する、なんてことは確かに少なそうだ。
 晩餐会に呼ばれるとしても、それはごく少数の、気の知れた相手と食事をするのであって、不特定多数に見られながら食事をすることはあまり無いのかもしれない。

「すみません、誘っておいてなんですけれど、迷惑でしたか?」
「迷惑だったらそう言ってるよ。何度言ったらキミは安心するの?」

 息を零すようにして笑い、フェリクスは首を振った。パンを食べ終えて、手元を濡れたタオルで拭く。そうしてぼんやりとした様子で、周囲に視線を向けた。
 奏も同じように視線を向ける。沢山の人々が行き交う姿が視界を埋める。
 子ども達や大人、はたまた家族であろう人々を見つめていると、不意にフェリクスが「キミは」と囁いた。

「元の世界のことを、思い出すことはある?」
「それはもちろん。多少なり、やっぱり愛着がありますから」

 元の世界が今、どのようになっているかはわからないが、ここと同じ時間が流れているのであれば、そろそろ四ヶ月が経つ。
 確実に会社からは父母へ連絡が行っているだろうし、失踪届も出されている可能性がある。家族のことを思うと、焦燥感のようなものがじっとりと泥のように足下に張り付いてくるような気がした。
 帰らなくちゃいけない、と思う。多分それは、家族に対する責務だとか、今まで二十年以上過ごしてきた世界に対する、愛着のようなものがあるからだ。

 奏の言葉に、何を思ったのかはわからない。フェリクスは瞳から一切の感情をこそぎ落としたようにして、「そう」とだけ言う。
 掠れた声音だった。自覚して、感情を抑えつけているような声音だ。

「家族や友人、……恋人や大切な人が居たりしたの?」
「家族は居ましたよ。友人も」
「恋人は?」
「やけに聞いてきますね……。居ません、居ませんでした」

 どうしてそんなに聞いてくるのか。わざと濁した所だったというのに。奏は首を振る。
 フェリクスは口元に手を当てた。そう、と囁く声が僅かに弾んで聞こえる。

「フェリクス殿下こそどうなんですか?」
「家族はキミも知る通り、兄上、父上。母上はボクが生まれた時に死去したよ。恋人は居ない。そもそも王家に類するものに自由恋愛が許されると思う?」

 さらさら、と物凄く重い言葉があふれ出てきて、奏は一瞬呆けてしまう。どう考えても日常会話のついでのような形で口にするような話ではない。
 奏は眉根を寄せる。

「……暴食をします」
「どうして」
「フェリクス殿下がご自分のことを大事にしていない気がしたので」
「何それ。どの辺りが?」
「全部。全部ですよ!」

 ぐ、と拳を握ると、フェリクスは笑った。そうして「キミって本当、馬鹿みたいだよね」と続ける。
 喧嘩を売っているのだろうか。奏はフェリクスを見る。だが、言葉の強さに比べて、フェリクスが奏を見る目はひどく優しい。甘い感情を煮詰めたような、――熱された蜂蜜のような、美しい彩りが目にはいって、奏は息を飲む。

「そういうところ、可愛いと思うよ」
「……褒めてます?」
「褒めてるよ。褒めてる。でも、暴食はやめて。僕が、キミの保護責任を問われるから」

 さらさらと紡がれる言葉は、穏やかに響く。鼓膜をそっと濡らすような熱を宿した声音に、奏はフェリクスを見つめた。

「なんにせよ、キミに帰りたい場所や、居たい場所があるなら、良いことだとは思うよ」

 まるで、フェリクスには『帰りたい場所』や『居たい場所』が無いように聞こえる。いや、実際、そうなのかもしれない。
 第二王子として生まれ、王位継承権を持つが故に毒物で暗殺されかけ、継承権を放棄したとしても王家に類するものとして、その身を狙われ続ける。
 その心労は、計り知れない。

 いつか、――いつか、フェリクスにも、大切な人が出来ると良い、と奏は思う。
 その人の傍に居たいと思って、帰りたいと思う場所が。

「パン、美味しかったですか?」
「うん。そうだね。美味しかったよ」
「なら、ここ、また来たいですか?」
「機会があればね」
「……なら、一時的に、ここを『居たい場所』にしましょう」

 奏の言葉に、フェリクスが呆けた顔をする。なに、と囁く声が耳朶を打った。

「居たい場所、帰りたい場所、いくつあっても良いですから。私にとって、このパン屋さんは居たい場所ですし、フェリクス殿下の傍も居たい場所ですよ。何せ、フェリクス殿下が自分を大事にするところを私は見守らなければならないので」
「……は。キミ、本当、急だよね。何もかも全部。聖女って、急に現れるし急に去ると言われているから、急なことをするのが得意なの?」
「し、失礼すぎやしませんか? 私も別に急に何かをしようと思ってしているわけではないんですけど……!」

 なんなら急にこの世界に現れたのは、奏としても別に望んだことではないのだが。去るのが急だっていうのも、奏からしたらどうしようもないことである。
 文句を言ってやろう、と奏はフェリクスを見つめる。

 フェリクスは喉を鳴らすようにして笑っていた。心底楽しそうに、肩を微動させている。
 そんなにツボに入る部分なんて、どこにも無かったような気がするのだが。思わぬ反応に、怒ってやる、という気持ちが一瞬にして萎んでいく。フェリクスは口元を隠すようにして笑い、それから「そうだね」と囁いた。

「ふ。あは。わかった。じゃあ、ここをとりあえず、居たい場所――帰りたい場所にしようかな」
「そうしてください……、あの、笑いすぎです」
「ごめん。でも、わかっている? ここを帰りたい場所にするなら、奏が居ないといけないんだよ。奏が居なければ、僕はパンを一つ食べるのだって不自由するんだから」

 フェリクスは笑いながら言葉を続ける。だから、と囁くようにフェリクスは眦を赤く染めた。

「奏。傍に居て」

 聖女としての力を求められているようである。奏は頷いた。

「出来る限り努力はします」
「出来る限り、じゃなくて、絶対に、だよ。わかっている?」
「わかってますって! 聖女の力に甘えてください!」

 奏は胸を張る。フェリクスが一瞬、真顔になった。

「……キミって、なんて言うか、……何?」
「な、何って。人間ですけれど」
「実は違ったりしない?」
「なんてこと言うんですか!」

 思わず声を上げると、フェリクスは笑った。 
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