上 下
6 / 72

4-1 聖女はみだりに触れてはならない

しおりを挟む
 聞いたよ、と静かな声で言葉をかけられて、奏は顔を上げる。そうして、斜め向かいに座るフェリクスを見つめた。
 朝、朝食の場として整えられた室内には、窓から差し込む金色の光が、優しくカーペットや家具を撫でている。大きな楕円形のテーブルには、見目も鮮やかな食事が並んでいた。パンにスープ、それと果物、サラダ、オムレツのようなもの――いわゆる軽食の類いである。

 量は、多い。ただ、これでも減らして貰った方だ。前はもっともっと多かった。テーブルを埋め尽くすくらいある食べ物を、もったいない精神で食べていった結果、胃と腸が悲鳴を上げたのはつい先日のことである。
 あれから、奏の食生活を心配したフェリクスによって、朝ご飯を共に食べる機会が多くなり――二週間ほど経つ、だろうか。今は実りの月、三十日。明日から、花々の季節、と呼ばれる月が始まる。

「――使用人の怪我を治したんだって?」
「……ああ」

 少しばかり平坦な声音で告げられて、奏は頷く。怪我を治した――という、ほどではない。
 昨日の昼頃、昼食の皿を下げるときに、使用人の手に怪我があることに気付いたのだ。恐らく本人すら気付いていないだろう、うっすらとした傷口だった。
 なので、奏は、「怪我してます。大丈夫ですか?」と声をかけた。その時、怪我の箇所を指さそうと伸ばした指先が、使用人の手に触れてしまったのだ。

 瞬間、体温がす、と僅かに下がるような心地がして――使用人の指にあった怪我が、治っていた。
 使用人はひどく恐縮したような面持ちで、なんども奏に謝罪と感謝を繰り返していたが、奏からしたら触れただけである。むしろ不用意に触れてしまってすみません、と謝罪をし、二人で頭を下げあって、笑い合い、それで終わった。

 ――と、思っていたのだが、その情報がどうやらフェリクスの元に届いていたようだ。
 フェリクスは奏を見つめると、美しい虹彩の瞳を揺らした。美形の心配する顔、というのは、とんでもない破壊力を持つなあ、なんて奏はぼんやりと思う。

「体調は? 大丈夫? 前に僕を治したときは、体温がぐっと下がって顔が白くなっていたでしょう」
「大丈夫ですよ、全然問題無いです」

 奏はぐ、と拳を作ってみせる。フェリクスは眉根を寄せたまま、奏の頭から爪先までをじっと見つめると、そっと息を零した。

「もし、体調が悪くなったら直ぐに僕を呼んで」
「本当に大丈夫ですって!」
「キミは大丈夫かもしれないけれど、キミに何かあれば保護している僕に責任がかかってくるからね。キミのためじゃなくて、僕のためだから」
「……了解です」

 奏のことを心配して――というより、あくまで自分に降りかかる火の粉を払いたい、というようなニュアンスで告げられた言葉に、奏は顎を引く。
 そういう性格であるということを、この一ヶ月半、充分に理解していたというのに、何だか心配されているように思ってしまった。勘違いにも程がある。
 思わず空笑いのような声が漏れそうになって、奏は一息でそれを飲み込む。フェリクスは瞬いた後、それにしても、と言葉を置いた。

「聖女の力っていうのは、常日頃からずっと発せられているものなんだね。使いたい時にだけ使う、ってことは出来ないの」
「……そうみたいですね。触れると、勝手に相手のことを治してしまうみたいです」

 だから、聖女として誰かを治療するな、と言われても、中々難しい。手の平というものは特に、何をしても動かす場所だし、人に触れる際も必ず使う場所だ。
 相手が怪我をしていたり、病気をしていたり、はたまた呪いをかけられていたとして――奏が触れると、その手は無条件に全ての人を救う。そして、奏の体温を奪っていくのだ。

 幸いなことに、フェリクスを助けた一件から、それこそ歯の根が合わなくなるくらい体温を奪われる、というような事態には直面していない。
 だが、これから先もそうである、とは言い切れない、というのが現状だ。

「ちなみに、手以外の場所で触れたときは? その時も怪我を治すの?」
「どうでしょう。でも、普通に触れられる分には今の所寒くなったりはしませんね……」

 奏の着替えは、使用人が手伝ってくれる。化粧もそうだ。肌を整え、美しく飾ってくれる彼女らの指先が、奏の肌に触れたことは何度もある。だが、その際に気分が悪くなる、ということはなかった。
 多分、奏から相手に触れる、というのが聖女の力が出てくるトリガーなのだろう。

「ふうん……それは良かったね。もしどこに触れてもそうなるなら、キミの髪や爪は恐らく売買されていただろうから」
「えっ」
「キミの何かに触れる、というのが聖女の力が発現する条件だったら、という話だ。そうじゃなくて良かったね」

 あっけらかんと言われるが、そうであったら、と思うと少しばかりぞっとしない。
 もし奏の何かに触れれば、それだけで何もかもが治る、ということであったなら、きっと今が比では無いくらい、体温を奪われ続けることになっていたのではないだろうか。
 そうなったら、行き着く先は決まり切っている。

「……以前の聖女はどうされていたんでしょう?」
「どうだろうね。前の聖女が来たのは百何十年も前だ。それ以前の聖女に関しても文献は残っていて、治療の際に使用した箇所は、様々なんだけれど……」
「えっ。なら、最初に触れて、って言ったのは結構博打みたいな感じだったんですか……!?」

 もしそれが不発だったら、奏は今頃保護もされていないし、悪ければ捕まっていたのではないだろうか。
 想像すると、背筋を氷塊が撫で落ちていくような心地を覚えた。手で治療出来る力の持ち主で本当に良かった。

「ふ。あは。そうだね。でも、手で触れて聖女の力を発現する聖女は多かったみたいだから。多分、今までにやってきた聖女の七割くらいがそうだよ。それに……キミ、クローゼットから出てきただろう?」

 フェリクスは笑いながら続ける。出会いの日を思い出しているのか、心底楽しそうに「服装も僕達とは違った」と続ける。

「聖女は急に現れる、というのはよく知られる話だ。もしかしたらキミが、ドルービス伯爵令嬢に雇われた誰かで、僕と彼女の関係を他者に証言させるために隠れていた可能性もあったのだけれど……それなら、あんな風に出てくる必要は無いし、クローゼットの中に必死で戻ろうとするのもおかしい」
「……誤解が一瞬で解けたようで何よりですが」

 あの日の奏が起こした行動が、どうやらフェリクスに『聖女である』という認識を持たせる根拠となったらしい。有り難いことではあるのだが、フェリクスがやけに楽しげに言うので、奏としては恥ずかしくなってくる。

 ――フェリクスはあの日のことを、「毒を盛られた」と言っていた。その後の調査で明らかになったのだが、盛られた毒は意識を混迷させるものだったらしい。奏が来なければ、フェリクスはあのまま相手の令嬢になすがままにされて、既成事実を作ることになっていただろう、とはフェリクスの言である。

 とんでもないことを、まるで簡単に話す。フェリクスはそういう人だった。本当なら、驚いたり怖がったりするべき部分を、明日の天気を話すような気軽さで口にするのだ。
 ――そうなるまでに至った理由を、奏は知らない。そして多分、フェリクス自身も、話すことはないのだろう、と思う。

「まあでも、効いて良かったです。あの時」
「そうだね。あの時、キミは聖女としての力を使用したから、僕に保護されて、強大な後ろ盾を得ることが出来たんだから」
「そうじゃなくて。フェリクス殿下、辛そうだったので」

 フェリクスが瞬く。虹彩を揺らし、それから僅かに眉根を寄せた。何かを言おうとして、何も口に出さず、淡紅色の唇が引き結ばれる。
 実際、あの時のフェリクスはひどく辛そうにしていた。毒というくらいだし、意識が混迷するような作用を持っていた物を盛られたのだから、その時の辛さは想像出来ない。
 来て、と奏を呼ぶ声が、苦しさで濡れていたのを思い出す。
 縋るように伸ばされた指先を、奏は覚えている。
 奏の、少しの体温低下と引き換えに、フェリクスの体を蝕んでいたそれらが取り除けたなら、――まあ、聖女の力も悪くないな、と思ってしまうのだ。

「……そう」

 フェリクスは間を置いてから、静かに言葉を口にする。奏から視線を逸らし、咳払いのようなものをしてから「まあ、キミの聖女の力が無条件に使われ続ける状況は僕としてもどうにかしたい所ではあるから」と囁いた。早口だった。

「後でキミに見て貰いたいものがある。部屋まで持っていくから」
「わかりました。待ってます」

 何を見せたい、のだろうか。少し考えて、けれど一切内容が思い浮かばず、奏は首を傾げながらフェリクスの言葉に頷いた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

大嫌いな次期騎士団長に嫁いだら、激しすぎる初夜が待っていました

扇 レンナ
恋愛
旧題:宿敵だと思っていた男に溺愛されて、毎日のように求められているんですが!? *こちらは【明石 唯加】名義のアカウントで掲載していたものです。書籍化にあたり、こちらに転載しております。また、こちらのアカウントに転載することに関しては担当編集さまから許可をいただいておりますので、問題ありません。 ―― ウィテカー王国の西の辺境を守る二つの伯爵家、コナハン家とフォレスター家は長年に渡りいがみ合ってきた。 そんな現状に焦りを抱いた王家は、二つの伯爵家に和解を求め、王命での結婚を命じる。 その結果、フォレスター伯爵家の長女メアリーはコナハン伯爵家に嫁入りすることが決まった。 結婚相手はコナハン家の長男シリル。クールに見える外見と辺境騎士団の次期団長という肩書きから女性人気がとても高い男性。 が、メアリーはそんなシリルが実は大嫌い。 彼はクールなのではなく、大層傲慢なだけ。それを知っているからだ。 しかし、王命には逆らえない。そのため、メアリーは渋々シリルの元に嫁ぐことに。 どうせ愛し愛されるような素敵な関係にはなれるわけがない。 そう考えるメアリーを他所に、シリルは初夜からメアリーを強く求めてくる。 ――もしかして、これは嫌がらせ? メアリーはシリルの態度をそう受け取り、頑なに彼を拒絶しようとするが――……。 「誰がお前に嫌がらせなんかするかよ」 どうやら、彼には全く別の思惑があるらしく……? *WEB版表紙イラストはみどりのバクさまに有償にて描いていただいたものです。転載等は禁止です。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

【R18】聖女のお役目【完結済】

ワシ蔵
恋愛
平凡なOLの加賀美紗香は、ある日入浴中に、突然異世界へ転移してしまう。 その国には、聖女が騎士たちに祝福を与えるという伝説があった。 紗香は、その聖女として召喚されたのだと言う。 祭壇に捧げられた聖女は、今日も騎士達に祝福を与える。 ※性描写有りは★マークです。 ※肉体的に複数と触れ合うため「逆ハーレム」タグをつけていますが、精神的にはほとんど1対1です。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【R18】「媚薬漬け」をお題にしたクズな第三王子のえっちなお話

井笠令子
恋愛
第三王子の婚約者の妹が婚約破棄を狙って、姉に媚薬を飲ませて適当な男に強姦させようとする話 ゆるゆるファンタジー世界の10分で読めるサクえろです。 前半は姉視点。後半は王子視点。 診断メーカーの「えっちなお話書くったー」で出たお題で書いたお話。 ※このお話は、ムーンライトノベルズにも掲載しております※

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...