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2-2 聖女は約定のもと保護される

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 女性が慌てて衣服を整え、フェリクスの傍に駆け寄ってくる。
 たおやかな指がフェリクスの服の裾を掴む前に、フェリクスは蠱惑的な微笑みを浮かべると、女性の耳元に唇を寄せた。

「――ここで引き留めたとして、もうキミの望む結果は得られないよ」
「……殿下……!」
「会食の際に出されたワイン、調べに出しても良いなら、引き留めてくれても良いよ。調べに出されたくないなら、通してくれる?」

 女性がしきりに視線を動かす。動揺が完全に顔に表れていた。ただ、ここで引き下がるわけにはいかない、とばかりに、赤色の瞳には苛烈な感情が宿っていた。険のある視線が、奏に向かう前に、フェリクスは手のひらを翳して、女性の視線の先を隠す。

「折角ドルービス伯爵の顔を立てにきたのに、こんなことになるとはね。付き合い方を考えさせてもらおうかな」
「殿下……っ、どうか、そんな、もう一度お考えください……!」
「失礼するよ。馬車は呼ばなくて良い。キミ達に任せたら、どんなことになるかわからないしね」

 さらりと言葉を言い捨て、フェリクスは奏を抱いたまま、階段を降り、そのままロビーを突っ切って外へ出る。
 人々は、誰もフェリクスに手を出せない様子で、困惑の視線をたたえながら奏達を見送った。
 美しく剪定された木々や花々が咲き誇る庭園を抜けて、門を出る。泰然とした態度を崩さなかったフェリクスが、はあ、と大きく息を零した。
 疲れを感じさせたような吐息だった。

「――もう良いよ、黙っていなくても」

 それと同時に、紡がれた言葉に奏は恐る恐るフェリクスを見つめる。
 視界に写るのは、神に愛されまくって作られたのだろうと思わんばかりの美青年である。月の光が空から落ちてきて、柔らかく輪郭を照らす。その様があまりにも幻想的で、ため息すら出そうになった。
 フェリクスは奏と目を合わせると、静かに笑った。

「それで、キミの名前は?」
「え?」
「さっきからずうっと僕のことを抱きしめて、体温を奪っていくキミの名前は? って聞いたんだ」

 なんだそれは、と思いながら、奏は小さく首を振る。確かに、先ほどまではずっと寒くて、とにかく男性から体温を分けて貰おうと躍起になっていたので、反論も出来ない。
 ただ、寒気も、風邪を引いたばかりの頃に感じる悪寒のようなものも、今は少しずつそれも治まってきた。歯の根がかみ合わない、ということも、もう無い。

「ごめんなさい、もう大丈夫です、下ろして下さい」
「それは難しい。窓からドルービス伯爵令嬢が見ているかもしれないからね。僕はキミのことを保護して帰るんだ、というところを見せつけておかないと」

 フェリクスは笑いながら、軽く肩をすぼめてみせた。そうして、吹っ切れたように笑う。

「ボクはフェリクス。フェリクス・ルーデンヴァール」
「フェリクスさん……、ですか?」
「ふふ。そうそう。フェリクスさん、だよ。キミは?」
「私は……、奏です。水森奏です」
「奏が名前?」
「そうです」
「そう。良い名前だね」

 奏、と囁くように言葉を口にする。吐息に乗せて紡がれる言葉は、美しく響いた。フェリクスは奏を抱き上げたまま、楽しげに奏、奏、と名前を口にして少し進み、それから「うん、折角だから、印象に残るような帰り方をしないとね」と言うと、指にはめていた装飾品を手に取った。
 そうして、宝石部分に強く爪を立て、かり、と表面を削る。

「な! 何して!」
「何って。ああ、これは、壊すためのものだからいいんだよ。大丈夫。ちょっと大きな魔法を使いたくて」
「大丈夫、って……いや、魔法? 魔法って、何……」

 何をもってして大丈夫と言うのか――と思った瞬間、フェリクスの体が不意に持ち上がる。

「え……?」
「王城まで、街路を歩いて行くのは目立つからね。空を行こう」
「は……? は?」

 何を言い出すのか、という言葉は、喉の奥に落ちていく。まるで見えない階段を上るように、フェリクスが一歩進む毎に、体が空へ上っていく。

「な、なに? 何が起こっているんですか? 何!?」
「何してると思う? 大丈夫、踏み外さなければ死なないよ」
「踏み外したら死ぬってことじゃないですか!」

 奏が息を詰まらせると、フェリクスは楽しげにする。フェリクスの足が動く度、その足下に水の波紋のようなものが広がる。硬質な、硝子か何かを踏むような音が聞こえてきて、奏はぞっとしない。
 何が起こっているかわからない。けれど、今の状況を夢でおさめるには、あまりにも状況や気配、それに息づかいがリアルだった。

「……夢、じゃないの、これ……こんな……」
「夢じゃないよ。現実だ。大丈夫、キミは約定のもと、保護される。――僕が、キミを保護し、キミの立場を堅牢にするから、安心して」

 フェリクスは軽やかに空を行く。足下には人々の営みの灯りが零れ、空を見上げると美しい星々が瞬いている。ミルクを散らしたように光るそれらは、手を伸ばせば届きそうなほど、近い。
 風がびゅう、と耳元で逆巻く。奏の体をくすぐるそれらは、フェリクスの言う通り、とてつもないくらいの現実味を叩きつけてくる。
 髪が空気を孕んで、揺れる。瞬きの度に、睫毛が湿度を帯びるのがわかった。

(帰宅して、ベッドで惰眠を貪る予定が……)
 
 ベッドでゆっくり休もう、明日は休日だ、何をしようかな、なんて気分を弾ませながら帰宅したはずなのに、ものの一時間でわけのわからない状況に遭遇し、今は空中散歩なんてものもしている。
 本当に理解が及ばない。けれど、だからこそ、眼下の光景が、そして奏を抱きしめる腕の強さが、ここを現実だと示す。

 こうして、奏は、異世界に転移した。
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