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1章、悪役は覆水を盆に返したい。

25、緋公子と仇敵との出会い(SIDE:憂炎オープニング)

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 ――梅の香りがする。

 木々に囲まれて、小さな狼獣人のわらべがひとりあてもなく彷徨っている。
 
  空気は乾いて、冷えている。
 山の中、周囲は燃えるような紅葉が妖しい色気を感じさせて葉擦れの音を奏でている。
 鼻腔には花や木や土の匂いが感じられた。
 
 この山は、尚山しょうざんと呼ばれている。

 わらべを最期まで守ってくれたエンじいが、言っていた。
 
 尚山しょうざんこそ敵の本拠地。それを突き止めたのだと。
 尚山しょうざんに『黒道魔教』――邪悪と言われる門派が巣食うのだと。
 
 ここには童の血族――『緋一族』を滅ぼした門派、仲間のかたきがいるのだ。

 魔教の魔人たちは秘伝書を狙って集落を襲い、残虐のかぎりを尽くして『緋一族』を滅ぼしたのだ。
 
 いつ何処どこから外道の魔人が現れるかわからない恐怖の中、わらべは歩き続けた。
 
 
 尻尾も耳もへたりとして、足取りは重い。
 
 疲れていた。
 楽になりたい、そんな気持ちがあった。
 ……けれど、止まったら死ぬのだと思いながら、歩く。

 歩きながら、幼い子供は自分の限界が近いのだと理解していた。

 ――自分は、もうすぐ力尽きて死ぬのだ。
 
 唇を噛み、涙をこらえる。
 泣いても誰も助けてくれないし、泣くと体力を消耗するだけなのだ。
 
(ああ、悔しい) 
 胸の中には無力感と悲しみが溢れていた。
 憤る気持ちが、怒りが渦巻いていた。
(ああ、憎い)

 ……この現実が、世の中が憎い。
 けれど、それを誰かに伝えることすらできずに自分は死ぬのだ、この山で――それが悔しい。
 
(父上、母上、袁爺えんじい、一族のみんな――このまま死ぬのは、悔しい! いやだ、……いやだ!)

「あっ……」
 ふと足がもつれて倒れ込む。
 倒れてしまえば、疲労がどっと影から押し寄せて、全身を呑み込むようだった。

「ふっ……ふ、……っ」

(ああ……立てない。立てる気がしない)
 そのまま目を閉じてしまいそうになりながら、童は近くの木の幹へと這いずるようにして近付いた。
 冷えた木の幹はどっしりしていた。童はそこに身を寄せ、体重を預けてくたりとした。
 
 ……せめて何かに身を寄せていないと、何かにすがっていないと、本当に死んでしまうみたいで怖かった。
 
(怖い……こわい、こわい)
 
 少し休むだけ。
 休んだら、また立ち上がれるようになる。
 ――そうでないと、死んでしまう。
 
(死にたくない。死にたく、ない……)

 死がひたひたと近づく気配を本能で感じながら、童はぎゅっと目をつむって息を吸った。
 
 身体がどんどん重くなる。
 指先の間隔が鈍くて、もうわからない。
 意識が底なしの沼に沈んでいくよう。

 ……そう思った瞬間、ほわりと漂う芳香が感じられて、童はハッとした。

 これは、同族である狼の匂いと、爽やかな桃の香りだ……!

小朋友坊や、死にかけているのかな?」
 
 優しい声が上から降る。
 足音はしなかったのに。
 いつの間にか、とても近い距離に声の主がいる。

「……」
 
 童はうっすらと目を開けた。
 そして、目を見開いて眼前の人物に見惚みとれた。

 ――そこには、童と同じ狼獣人の若々しく美しい青年がいた。
 
 若い? いいや、老獪ろうかいな感じもする。
 ……きっと、見た目通りの年齢ではないのだ。

 取るに足らない存在を、ほんの少し気が向いたから見下ろす――そんな瞳に目を奪われる。
 涼やかな切れ長の瞳は、どことなく酷薄こくはくな印象。
 強気で傲慢ごうまんな感じがする。

 色は深い青色で、一度だけ見たことのある広い海を思わせた。
 海の水はとてもたっぷりあって、触れると冷たいのだ。
 はしゃいで浸かって遊んでいると、いつの間にか体温を奪われてしまうのだ。

 笑顔は美しく綺麗だけれど、優しそうに見せようと表情をつくる大人という感じがする。

(――この人は、怖い人だ)
 童はぼんやりとそんな感想を抱いた。
(でも、凄く綺麗な人だ)
 ……頭の芯がじんと痺れて、目がはなせない。

 
 ……魅了されている。
 童はそう思った。
 
 
 夜に溶け込むような黒髪は冴え冴えとしたつやがあり、綺麗に流れが整っている。
 
 肉感的に甘やかに色づく唇の端から、少しやんちゃな白い牙がちらりと見える。

 身なりは清潔感があって質がよく、匂い立つ品があって、裕福な家柄の若君なのだと思われた。
 
「……」
 童は声を失ったように黙り込んで、ただぼんやりと目の前の麗人れいじんに見惚れた。

「私は、この山に住む音繰オンソウという」
 
 その人が、おっとりと声を響かせる。
 この山に住む、ただならぬ人――仇だ。敵だ。
 とても身なりの良い、匂い立つような高貴さを纏う佳人に、童は思った。

 ……
 
 優しげに微笑んで。
 けれどよく見れば目の奥には間違えようのない冷たさがある。
 ああ、だまそうとしてる。オレを。
 優しい人のフリをして、騙して――どうしようというのか。
 
(この人は、オレを『取るに足らない存在』だと思ってる)
 ……童はそう思った。
 それが、胸の奥をちりちりさせた。
 悔しいと思った。
 
「私があなたを助けてやろうかと思うのだけど、どうかな?」
 
 かけられたのは、優しい声だった。
 世の中全てに見放された童にとって、それは唯一の救済だった。

(ああ、怖くない)
 童は思った。
(なぜだろう。いや、わかる。この人、この魔人……オレがちっぽけで殺す価値もないって感じなんだ)
 この目の前の同族は、自分を害するつもりがない。生かすつもりなのだ。

 飄々ひょうひょうと差し出されたのは、丸々とした桃だった。

(ああ、助かるんだ)
 童はじんわりと胸のうちにそんなことを思った。

 そして、甘やかな桃の果肉にむしゃぶりつきながら誓うのだった。

 ――生きてやる。

 生きて、この胸の怒りを、いきどおりを知らしめてやるんだ。

 ――誰に? 何に?

 ――目の前の、この美しい魔人に?

(……わからない)
 そのぶつける対象は、まだはっきりとはしなかったけれど。
 その時、童の中にはなんとなく、世の中全部への反骨の意志みたいなものが生まれていたのだった。

 尻尾をぽふぽふさせながら、音繰オンソウが名前を問う。
 童はふるふると首を横に振った。自分の正体は絶対に隠さなければならない――そう考えて。
 
「なら、私が名を授けようかな。……憂炎ユーエン。どう?」
 音繰オンソウは大輪の花のような華やかな笑みを浮かべた。
 
 そして、魔教の香主の屋敷【チー家】宅へと、憂炎ユーエンを連れ帰ったのだった。

 
 師は、近くにいるのに遠い存在だった。

 ふわふわと柔らかに微笑むようでいて、その眼の奥はいつも冷えていた。
 憂炎ユーエンなど空中を舞うほこりのような存在で、小さすぎて目に留めるのにも一苦労する――そんな超然とした気配をみせていた。

 師は、美しい人だった。
 
 冷艶清美れいえんせいびという言葉があるが、師の場合は冷艶妖美れいえんようびだろうか。

 深い海のような瞳は底が知れず、見つめているとおぼれてしまいそうで、長い睫毛が落とす影はぞくりとするほど色気があった。

 肌は滑らかで、触れてみたいと思わせる隙がある。
 尻尾はふわふわしていて、まだ背が低かった憂炎ユーエンの目の前でゆっさゆっさと揺れている時などは、悪戯に指を潜らせてみたくなったものだ。

 師は――黒道魔教の魔人だ。
 その中でも高位にある、特別な魔人だ。

 ――緋家の仇敵だ。

 ……敵なのだ。
 
 

 
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