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五章、眠れる火竜と獅子王の剣

105、妄執、狂気、拒絶する、愛してる

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「俺の飛竜ではそこまで行けない。いかに魔術を巡らせて守り導いても飛竜は空を飛翔する生き物ゆえ、あの灼熱のマグマに突っ込み潜っていけと命じるのはあまりに過酷だろう」
 
 ノウファムはそう言って、相棒である飛竜カレナリエンを撫でた。くぅ、と甘えるように鳴いて、カレナリエンが噴火口を視る。
「こいつは良い奴だから俺が命じれば無理をするだろうが」

 火竜はカレナリエンを好まし気に視てから、喉をくるると鳴らして頷いた。
「私が背に乗せましょう」

 
 火竜討伐隊の一行が見守る中、ひとりと一頭は着々と話を進めた。

「殿下、さすがに無茶が過ぎるのではございませんか……」
 
 モイセスが顔色を失い狼狽える中、アップルトンは短杖ワンドを振って火竜とノウファムの周囲に冷気の結界を巡らせた。
「私の魔力では焼け石に水かもしれませんが」
 ロザニイルがしかめっ面をしている。近くに集合した魔術師たちが次々とそれに倣い、結界を重ねて強めた。
「まあなあ。でも、ないよりマシだろ。こっちの気持ち的にも、さ」
 その手の短杖ワンドが水の結界を送ると、ノウファムは軽く目礼をしてから僕の髪をくしゃりと撫でる。

 火竜の魔力はとても強い。人間とは比べ物にならない。
 ノウファムの魔力も、僕やロザニイルよりも今は強いのだろう。
 けれど、燃えるような赤い熱を湛える噴火口は――、

 近づくだけならまだしも、その中に突っ込んでいくというのは。
 
 ……あまりに危険ではないか。
 
 
 火竜ならまだしも、その背中の人間なんていくら魔力を巡らせて結界を張っても、どれほど耐えられるというのだろう。
 窒息してしまうのではないか。
 燃えてしまうのではないか。
 溶けてしまうのではないか。
 ……死んでしまうのではないか。
 
 
「すぐ戻る」
 ノウファムの短い言葉に、短杖を握る手が震える。
 ありったけの魔力を注ぎ込んでも、全然安心できない。
 
「お……兄様……」

 僕の心に、記憶の風景が過る。
 
 大自然が。世界が。
 人間を排除しようとするんだ。
 僕たちに怒ってるんだ。
 お前たちは世界に有害だ、いなくなれって。
 天が光を奔らせて、海が都市を呑み込んで。
 

「自然には――世界には、かなわない」
 

 そうだ。
 僕はそんな絶望を知っているんだ。
 あまりにも無力でちっぽけな人間という存在の限界を、何度も感じたんだ。

 そして、逃げた。
 ノウファムが死ぬところまでを見届ける勇気がなくて、二度逃げた。
 無理だと――この先は見たくないのだと、現実から目を逸らして、カジャと一緒に逃げたんだ。

 
 

 
「エーテル。心配はいらない」
 ノウファムは怯える子をあやすように優しく囁いて、僕の指を取った。
 そこに填められたままの臣従の指輪にキスをして、僕を拒絶する暴君と僕に甘いお兄さんが半々に混ざったみたいな顔で、苦笑した。
「大森林の迷宮の時とは違う。あの記憶を見せる仕掛けは、俺と相性が悪すぎたんだ」

 ひらりと火竜の背に乗り、ノウファムが飛び立つ。

 
「殿下、殿下! お忘れなく! このモイセスの殿下は……」
 モイセスが叫ぶ声が聞こえる。必死だ。
「殿下は、カジャ殿下を討とうとなされていた殿下です。弟殿下を許してはならぬと仰ったのが、モイセスの殿下でござる!」

 
 ノウファムは一瞬虚をつかれたような顔でモイセスを視て、くしゃりと顔を歪めた。そして、少年のような声で苦々しく呟いた。
「そういえば、俺はそんなことを言ってた時期もあったか……」

 
 ――ああ。
 僕はその時、腑に落ちた。

 モイセスは大森林の迷宮で、ノウファムの記憶を観ているのだ。

「殿下は、いつか勝つと仰せでしたぞ! 何度負けても、最後に勝てばいいのだと……!」

「俺が勝つまで死ねぬ、とお前が笑った」
 ノウファムは楽しそうに懐かしそうに笑って、ひらりと手を振った。
「そうだな。カジャに勝つまで俺は死なないとも」 
 
 
 僕の手が箒を手繰り寄せる。
 
【この王様は嘘付きで、失敗してばかり、負けてばっかりなんだ】

 頭の中で、生意気な僕が感情を沸騰させている。
 
【僕の王様は頼りない人で、言うことも聞かない人だったんだ】
 


 ――『兄さんは、ひとりだと怖くて心細いんだ』


 僕、ノウファムの人間らしいところを、弱さを、情けないところを、知っている。

 
【だから支配して、僕が勝たせてあげようと思ってたんだ、三回目の人生が始まったばかりだった頃の僕は】
 
 

「……お兄様!」

「エーテル!? 馬鹿、なんで……ッ」

 
  
 僕は箒で飛翔して、火竜の背中に跳び乗った。
 手を放した箒が炎の海に落ち、燃えて炭と化すのを視界の隅に捉えながら、しっかりと火竜に跨ってノウファムの背中に抱き着いた。

 がっしりとした確かな肉体を両腕で感じると、ぶわりと想いが湧いてくる。
 
 一度目の僕と。
 二度めの僕と。
 現在の僕の――妄執だ。
 未練だ。
 罪悪感だ。

 ……大切なんだ。


「ごめんなさい、ノウファム陛下、ノウファム殿下、ノウファム――僕のお兄様」

 火竜がぐんぐんと下降する。
 結界の外側が真っ赤に染まって、世界が灼熱だけになる。

 燃え滾る怒りのあか
 人間を許すなと憤る、憎悪の紅蓮。
 どろどろと沸き立ち、全てを吞み込み溶かす怨熱。

 ――熱い。
 結界があっても、その内側が灼熱地獄みたいに、苦しい。
 痛い。
 全身が燃えているみたいで、外も中も痛くて、苦しくて、辛い。
 
 僕は必死で魔力を巡らせて、内部を冷やした。

「僕、貴方を二回も見捨てた。貴方が負けると思って逃げた。貴方が死ぬところを視たくなくて逃げた――」

 眦が熱い。
 喉がひりついて、肺がじんじんする。
 呼吸が苦痛だ。
 でも、呼吸をしたい。
 酸素が必要だ。
 でも、いくら吸っても痛いばかりで、死という単語が頭に閃いて、こびりついて、離れない。

 怖い。
 視界が赤く染まって、苦痛がどんどん増していく。
 
 燃えてる。
 燃えてる世界の中にいる。
 
 ああ、死んでしまう。こんな環境で、人は生きられないんだ――、

 こんな灼熱の中でも、僕が何度も視た洪水の中でも。
 火の中でも水の中でも、人は死ぬ。あっけなく、簡単に、なすすべなく死ぬ。

 そう考えると、適度な気温で優しい透明な空気に包まれていて、下には普通の大地があって上に青空が広がっている人間が生きやすい世界は、奇跡みたいだ。
 普段の僕たちは、どれだけ恵まれた環境で生きているのだろう。

 僕たちは、世界の片隅で、限られた条件の場所でしか生きられない生き物なんだ。
 
「僕、一緒にいる。最期まで、今度はずっといる。もう逃げない。もう離れない……貴方を一人には、しないんだ」

 ほろほろと涙が溢れる。
 水だ。水分だ。僕の中には水があって、それがなくなると干からびて死ぬ。
 じゅわりと溢れて蒸発する水が、僕たちの運命を先んじて教えてくれてるみたいだ。

「エーテル、エーテル」
 必死な声が聞こえる。まだ聞こえる。
「死ぬみたいなことを言うな」


 ノウファムが魔力を迸らせている。
 泣きそうな声で、懸命な声で、王様ではなくて迷子の青年みたいな声で――、

 
「お前は死なない。死なせない。俺は誓ったんだ、俺が……拒絶する」


 光輝く【妖精殺し】が、切っ先を下に向けている。
 ノウファムの腕が引かれて、突き出されて、剣が投擲される。

 真っ赤な世界の只中で、それが弾けて真っ白になる。

 赤をどんどん吸い取って、真っ白が広がって、広がって、色と一緒に優しい冷たさを広げていく。


 ――それは、最初の世界の王様の言葉だった。


 カジャと仲良しで、僕とは不仲で。
 最期に僕に庇われて、独りでやり直しを決行した王様の声だった。

「拒絶する――拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する」

 彼が、壊れかけの声が歪に狂ったように繰り返す。繰り返す。繰り返す。
 
 おかしい。
 おかしくなっている。
 
 妄執が世界を拒絶して、世界に敵意を剥いている。

「拒絶する――拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する」
  
 繰り返すたびに膨らむ記憶に、これが混ざっているんだ。
 
「拒絶する――拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する、拒絶する」
  
 何も知らずに育ったある日、時限爆弾みたいに思い出して――この激情が、妄執が、それまでの彼を侵食するんだ。
 火竜の肉体を巫の精神が乗っ取ったみたいに、過去の世界の彼がそれまでの自分を乗っ取っていくんだ。
 
 
「お……お兄様……」
 
  
 怖い。
 これは、怖い。

 こんな自分が突然自我を侵食してきたら、きっと僕だって眠るのが怖くなってしまう。

「僕、し、な、ない……か、ら!」

 無我夢中で叫ぶ。
 熱にやられた喉がおかしなほど痛い。水分がない。皮膚がじんじんしていて、発語する気が失せてしまいそうだ。
 
 けれど、言わないと。
 声を発して、言ってあげなきゃ。
 
 この心を鎮めてあげなきゃ。
 落ち着かせてあげなきゃ。
 
 喉が張り裂けてもいい。
 言うんだ。

「僕、だ、い、じょ、……ぶ ……っ」

 熱い。

 死んでしまいそう。
 全身、全部、危険信号を脳に送っているみたい。
 脳が処理しきれなくて、苦痛の限度を心が訴えている。

 もう、意識が保てない……、


「エーテル……」

 ふわりと涼しい風が吹く。

 白い。
 前から広がる光が、ふわふわと視界いっぱいに広がって、世界が純白に染まるみたい。

 冬みたいだ。

 どこにもない、決して誰にも踏み荒らされることのない、とても綺麗で、穢れることのない冬の世界みたいだ。


 そんな中で僕を見つめるたった一つの青い瞳が、哀しい。
 痛々しい。
 切ない。
 ――愛しい……。

 
「頭がおかしくなりそうになるんだ……」

 お兄さんの顔で、彼がくしゃりと顔を歪めた。
 
 ああ、僕、わかるよ――。

「――……愛してる」


 自分が言ったのか、相手が言ったのか。
 それすらも、もう、わからない。


 世界は真っ白になって、冷えていく。
 風がふわふわと吹いて――気付けば、マグマのない真っ黒な地面に火竜が倒れ伏していて、僕たちの周りにみんなが集まってくるのがわかった。


「……!」
「……!!」


 みんなが何か言っている。
 
 ――心配してくれてるんだ。

 みんないる。
 周りにいてくれる。
 それならきっと、もう、大丈夫……、

 
 僕はふわりと安堵を覚えて、意識を手放した。
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