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二章、未熟な聖杯と終末の予言

38、「僕は守られるんじゃない。守るんだ。助けられるんじゃない。助けるんだ」

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 影が二人分、足元でゆらりと揺れる。

「逃げるって、なに」
 言わんとすることを半ば理解しながら、僕は声を返した。

「このまま帰ったら、お前の未来はどうなる? カジャ陛下は狂ってる。また酷い目に遭わされる――聖杯化も、進行されちまう」

 ロザニイルが手を引いて、街路樹の陰に僕を引っ張り込んだ。
 繋がれた手は熱くて、指先がちょっと冷たい。
 
 僕の中に奇妙な感情の芽が生まれる。
 チクチクする感じ――それを感じながら、僕は眉を下げた。
 
「ロザニイル、……僕は大丈夫だよ」
  
 シルエットをひとつに重ねるみたいに、ロザニイルは僕の両肩に手を置き、上半身を寄せた。
 健やかに成長したロザニイルは、上背がある。

「何が大丈夫なんだよ」

 激情を抑え込もうとして失敗したような声。
 まるで自分のことのように感情的になって、必死な顔。

「ぜんっぜん、大丈夫じゃねえ。あの化け物みたいな陛下からは逃げるしかねえよ。とにかく、ひたすら逃げることしか。……ノウファムだって――あいつもお前を助けられない。それどころか、道具扱いしてやがる」 

 ……ああ。
 ロザニイルは、自分のように感じるんだ。
 僕の境遇を。
 聖杯に選ばれた男子の気持ちが、きっと誰よりもんだ。
 他人事とは思えないに、違いない。

 僕は一生懸命なロザニイルを見ながら、先ほどから芽生えて心の中で主張するチクチクした感情の名前に思い至った。

 ――【罪悪感だ】。
 
「オレと逃げよう、エーテル。兄ちゃんが助けてやる。守ってやるよ。オレは魔術の天才だし、お前だって体の調子がよけりゃその辺の魔術師よりずっとずっと才能があるんだ。二人でなら、逃げられる……」

 本心からの言葉なんだ。
 本気で逃げようって言ってるんだ。
 それが感じられて、僕の心が揺さぶられる。

「その体だって、投薬をやめてさ。オレがもうちっと研究して、聖杯器官をなくす薬をつくるよ。普通の男として生きられるようにしてみせる。今からだって、人生は取り戻せる……」

 ロザニイルの緑の瞳に僕が映っている。
 風がふわりと耳をくすぐり、髪の毛先を揺らして、後ろへと翔けていく。
 草木の匂いが感じられて、僕は生々しい現実に立つ自分を強く自覚した。
 
 
 ……得体の知れない罪悪感が僕の中で奇妙な声をあげる。
【僕はロザニイルを助けなかったのに、ロザニイルは僕を助けようと言ってくれるのか】
 
 
「世界が滅びる」
 預言者のような声がした。
「滅びるんだ。誰かが何かしないと、滅びるんだよ」
 声を聞いて一拍してから、僕はそう発言したのが自分だと気付いた。

「……聖杯は必要なんだ。滅亡を回避するのに、必要なんだ……」

 僕の唇が、気付けばそんなことを言っていた。
 言ってから、僕は「そうだ」と思った。そんな思いが僕の中に根深くあるのだ。それに気付いたのだ。

 
「世界がなんだっていうんだ! 知らねえよ!」

 感情の波が決壊して溢れたみたいに、ロザニイルが声を荒げる。
 僕はそんな声と言葉を聞いたことがあると思った。

 ……きっと、以前にもロザニイルはそんなことを言ったのだ。
 きっと、僕はそれを聞いたのだ。
 たった今そうであったように、きっと、僕がそれを言わせたのだ。
 なんとなく、僕はそう思った。

「勝手に滅びろよ! 犠牲がないと滅びる世界なんて、知らねえよ!!」

 

 僕はその瞬間、ひとつの真実を思い出した。


「……聖杯だったんだ。ロザニイルは、聖杯だったんだ……そうだろ?」


 ――

 ――


 だからロザニイルは、聖杯に選ばれた僕に同情するんだ。
 

「自分が苦しかった夢をみたんだね。自分がつらかった夢をみたんだろ。だから、同じ境遇になった僕に優しくしてくれるんだ、ロザニイルは」

 泣きそうな顔のロザニイルは、夢を振り切るみたいに首を揺らした。
 背が伸びて、体格も男らしくて、格好良くて……いつも陽気で、明るくて。
 けれど、心の中にはきっと深い傷がある。魂に刻まれたみたいなその記憶が、彼の心に影を落としているんだ。
 いつからか――人知れずそれを抱えて、気丈に陽気に隠していたんだ。
 
「夢だよ。現実じゃないよ。ロザニイル――」

 僕は手を伸ばして、自分とよく似た鮮やかな赤い髪を撫でた。

「――君はこんなに背が高くなったじゃないか。君は立派な男じゃないか。君は、聖杯じゃない……聖杯は、僕なんだ」

 呟いて、僕はさっき買ったばかりのお土産を懐から取り出した。
 お土産に選んだのは、魔除けの効果があるという大きな青い眼玉みたいな模様の石のお守りだ。

「僕、これをネイフェンにあげるんだ。ただいまって言って、笑うんだ」

 あのネコの騎士は、喜ぶに違いない。
 オヒゲをぴんってさせて、猫目を細くして、ふわふわの尻尾を揺らして。
 僕を待っていてくれて、僕を迎えてくれて、「おかえりなさい」って言ってくれるに違いない。
 
 
「僕、帰るんだ。僕、逃げないんだ。僕は、……」
 
 僕は項垂れるロザニイルの頭を両手で抱え込むようにして、夢見るように目を瞑った。
 
「僕は、守られるんじゃない。守るんだ。助けられるんじゃない。助けるんだ」

 
 口の端を持ち上げて強がって言ったその時、僕は自分が強い生き物になったみたいな気がして、とても懐かしい気持ちになった。
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