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引っ越す事にしました

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 あれから程なくして、やって来たのは巌本人だった。周りへの配慮からか連れてきた部下らしい人も私服で、二人並ぶ様子はモデルとそのマネージャーのようにも見えた。配慮は有難いが、申し訳ないが別の意味で目立っている気がする…お二人は玄関の紙が散乱する様を撮影し、紙を拾ってこちらは鑑識に回すから預かると告げた後、大家さんに幾つか質問してから戻っていった。
 大家さんもさすがに部屋に直接投函されていたとは思わなかったらしく、かなり驚いていた。最近新しく二人が入居したが、一人はずっと前から部屋が空くのを待っていた人で、もう一人は会社の借り上げで異動のために入居者が交代したケースだから、悪戯とは関係ないように思われた。念のため小林が弁護士に頼んで調べさせると言って、今は結果待ちだ。



「…ねぇ…」
「どうした?」

 翌日、美緒は小林のマンションのリビングのソファに膝を抱えて座っていた。キッチンでは小林が昼食の片づけをしていたが、美緒は終わった雰囲気を感じて声をかけた。

「美緒?」

 食後のコーヒーならぬカフェオレをローテーブルに置いた小林は、美緒の隣に座ると表情を覗きこむように美緒に向き合った。

「…引っ越し…しようと思う…」

 未だに迷いが残るせいで時間がかかったが、美緒はようやく言葉にした。言ってから、言ってしまった…と苦い思いが広がると同時に、肩の荷が下りた様な妙な解放感もあった。

「…無理しなくてもいいんだぞ」

 美緒がまだ迷っているのを感じ取ったのだろう、小林の表情が曇った。喜ぶだろうか、それとも…と反応を予想していた美緒だったが、小林の反応は美緒の予想通りで、それだけで何だか気が軽くなった気がした。

「…無理、はしてない…ずっと考えてたし…」
「…そっか…」
「引っ越すと…負けた気がして嫌だったけど…」
「うん」
「みんなに迷惑かけるのも心苦しいし…」
「誰もそんな風に思っていないから。そこは気にしなくていいて」
「でも…大家さんは…何かあったら、アパートの人にも迷惑かけるし…」

 悪質な紙がドアの郵便受けに直接投函された時から、美緒が気になっていたのは大家さんと他の住民の事だった。既に大家さんには色々迷惑をかけているし、もしこれ以上嫌がらせがエスカレートした場合、他の住民にも迷惑がかかる可能性がある。万が一事件にでもなれば、アパートに悪い評判が立つだろう。女性の入居者が多いだけに、この手のトラブルは致命的だろうと思うと、美緒は気が気ではなかったのだ。

「何か起きる前に…引っ越す…」
「…そっか」

 美緒は膝を抱え込んでそこに顔を埋めた。思っていた事を吐き出したら、意外にもすっきりした気分になった。ただ、大学進学から住んでいた部屋は既に十年近くの付き合いになる。大家さんは親切で孫のように気にかけてくれたし、顔なじみの店も出来て、美緒の中では第二の故郷の様な存在だった。離れる寂しさは進学で家を離れた時と変わりないだろう。それもあって脅迫なんかに屈したくないと思っていたが、さすがに美緒の方が限界だった。これまで悪意に晒された経験がなく、また相手の姿が見えない事が美緒の精神を削り取っていた。
 ごめん、と言うと小林は、膝を抱えたままの美緒を抱きしめた。この事で小林が強い罪悪感を抱えていただけに、もう少し明るく話せばよかったと今更ながらに失敗したと思った。でも…引っ越すと言って内心喜んでいるのも間違いないだろう。それなら相殺だなと美緒は思う事にした。どうしたって、状況は小林が望む方に進んでいるのだ。



 その日のうちに美緒は、大家さんに電話をして退去する旨を伝えた。大家さんは残念だと言ってくれたが、アパートも古くてセキュリティも不十分だし、今から変えるのも難しいから、嫌がらせされているなら彼氏に守って貰った方がいいとかえって気遣われてしまった。もう年だし、何かあっても守ってあげられないから、とも。急な事ではあったが、来週は盆の長期休みに入るため、そこで引っ越しをしてしまう事にした。盆を過ぎてからでは週末だと業者の手配がつかなかったのもあった。



 引っ越しの前夜、美緒は小林と共にアパートに泊る事にした。小林が一度は泊まってみたかったんだと言い、美緒も最後に一泊してからこの部屋と別れたいと思ったからだ。荷物は業者が梱包してくれるが、そのための準備も必要だった。大事なものは嫌がらせが判明して直ぐに小林のマンションに移動してあるし、ベッドやテーブルなど既に小林の部屋にある家具も処分する事にした。向こうにあるものの方が上等で使い勝手がよかったからだ。

「乾杯」
「ん…」

 最後の夜、二人はいつもと比べると狭い部屋で最後の晩餐ならぬ晩酌をした。荷物を減らすために夜は外食にして、晩酌はコンビニで買ってきたお酒やつまみの簡単なものだった。ここで小林と飲むのも泊まるのも最初で最後なんだな…と思うと不思議な感じがした。思えば学生時代から知っていたし、何かと気になる存在で印象は強かったのだ。何と言っても顔が好みど真ん中だというのが大きかったが。

「美緒の匂いがして気持ちいいな」
「何それ…変態っぽい…」

 穏やかな笑みを浮かべてそう言う小林だったが、言っている内容が卑猥っぽく感じて美緒は思い切り嫌な表情を浮かべた。だが小林はそれに気を悪くするどころか嬉しそうだった。

「別に変な意味じゃないって。ただ、美緒が暮らしていたんだな…って思って。お前の部屋の香りと何となく似てるし」
「そう?」
「ああ、お前香水は付けないけど、アロマやってるだろう?あの匂い、俺も好きだし」
「そ、そっか」
「もっとここで過ごしたかったんだけどな…」
「え?」

 言われた言葉が意外過ぎて、美緒は思わず隣に座る男を見上げた。美緒の反応が予想通りだったのか、小林まで驚きの表情を浮かべた。

「え?だって、彼女の部屋にお泊りとかするだろう?俺、実は憧れてたんだ」
「はぁ?」
「でも、好きだって思える奴、今まで出来なかったから」
「それは…」
「だから美緒と両想いになったら、こっちにも泊まりたかったんだ」

 美緒が手強くて間に合わなかったけどなと言われて、美緒は驚きを隠せなかった。一刻も早く引っ越しさせようと考えているのだとばかり思っていたからだ。

「引っ越しの振りをするのも考えたんだけど…」
「そこはいいよ…やっぱ迷惑かけられないから」
「ごめん」
「謝るのもいいって。小林のせいじゃないし」

 何だろう、小林のせいで…!という想いがずっとあったのに、今の会話で美緒はその感情が薄れていくのを感じた。小林は引っ越しを望んでいたわけじゃなかったのか、この場所を惜しんでくれたのか…そう思ったら、すぅっと胸のわだかまりが解けていくようだった。美緒のためじゃなく、単に小林の憧れのためだったとしても、ここで過ごしたかったと言ってくれたのだ。ここは美緒の巣で、小さいながらも城だったし、十八歳からの自分の歴史そのものだった。それを惜しんでくれたのなら十分だ。こんな風に思ってしまうのは多分、嫌がらせに疲れているせいなのだろうけど、それでも今の美緒にとって大きな慰めだった。

「美緒」
「…え?は…っんんっ」

 名を呼ばれて振り返った途端、唇を塞がれて美緒は驚いたが、その時にはしっかり後頭部を抑えられて逃げられなかった。あっという間に滑らかで肉厚の舌が入り込んで、美緒のそれに絡みついてきた。

「ちょ…まっ…!」
「やだ」
「やだ…っ、て…んっ!」

 男がやだって言うな!と思うも、気が付けば小林の膝の間で横から抱え込まれるように抱きしめられ、大きな手が美緒の服の中に入り込んでいた。既にお風呂も上がってパジャマ代わりのTシャツと短パン姿だったせいで、あっさりと侵入を許してしまった。

「ちょ…ここ、壁薄い…って」
「ん、それもいいな」
「な…に、言って…」
「スリルあるし。俺、こういうの、一度試してみたかったんだ」
「な…!何ばか…っ…!」
「恥ずかしいなら、美緒が頑張って?」
「なに…を、んんぅ!」

 彼女の部屋でお泊りに憧れていたって…もしかしてこういう事か?!今になってその可能性に思い至った美緒だったが、時すでに遅しだった。前言撤回だ、撤回!そう思いながらも、小林の的確な愛撫に美緒の身体は確実に熱を溜めていった。本当に壁薄いんだから無理だって…!そんな美緒の叫びは甘い責めによって口にする事は出来なかった。
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