上 下
6 / 49

何だかとんでもないものに捕まりました

しおりを挟む
(何で…こうなった…?)

 目の前には天敵小林、後ろは壁。今、自分に起きている事柄に理解が及ばず、美緒は呆然とそう思った。




 あれからシャワーを浴びた美緒は、今度こそ帰るぞと固い決意を胸にリビングに戻った。とにかくこの場から離れるのが最優先、これ以上小林のペースに乗せられると帰れなくなりそうな気がしたからだ。既に自分の服にも着替えて、帰る準備はばっちりだ。
それに、小林には好きな子がいるという。朱里が大石と付き合い始めた今、小林が早く相手を決めないと大好きな朱里がいつまで経っても好きな人と自由にデートも出来ないし、一々カモフラージュ要員として引っ張り回されるのも勘弁したい。
第一、こんな事が社内の肉食女子達にばれたら…美緒に逃げ場はない。小林ファンならまだしも、下手を打てば大石ファンからもトイレに呼び出され、どんな目に遭わされるかわかったもんじゃない。今だって、ただ小林班の補佐をしているというだけで、嫌味や舌打ちが日常茶飯事なのだから、その先は想像するだけでも恐ろしかった。

「じゃ、私帰るわ」

 リビングに戻った美緒は、小林の顔を見るなりそう宣言した。小林のペースに乗らないためには、先手必勝だと思ったからだ。

「は?え…?」

 いきなりの宣言に、両手にマグカップを持った小林が呆気にとられた声を出した。どうやら美緒の宣言は想定外ったらしい。先手を取れた、と確信した美緒は、やっと帰れるとホッとした。

「いや、さすがにこれ以上迷惑かけられないし?それに、私がここにいたんじゃ、あんたの好きな子にも悪いじゃない。変な誤解されてこれ以上印象悪くするわけにもいかないでしょ」
「いや、それは…」
「その…色々迷惑かけた事は…時間かかっても仕事で埋め合わせするし、費用も一括じゃ無理だけど分割で払うから。あと、この事は誰にも言わないからあんたも言わないでね」

 とりあえず言いたい事を言い切った美緒は、バックを手にするとそのまま玄関に向かった。とにかく、ここにいる事を誰かに知られるなど面倒でしかない。美緒が会社で平和に過ごすためには、小林の恋が上手くいくのは重要案件なのだ。特別な資格も持たない事務職では転職が容易ではないだけに、これはある意味死活問題だった。

「おい、待てよ!」

 さっさと帰ろうとする美緒に小林が慌てて声をかけたが、美緒は振り返らなかった。とにかく逃げるか勝ちだ。だが、玄関のドアまであと数歩というところで小林に腕を取られ、そのまま壁に押しつけられて冒頭に至る。

(は?なに…?)

 急な事に頭がついてこず、美緒は目を丸くして目の前の景色を眺めていた。目の前には小林の胸元があって、自分は壁を背にしていた。小林の背は百八十センチ半ばと聞いたから、身長差は三十センチ以上あるのだろうが、こうして近づくとその差は顕著で、これだと顔を見るなら首が痛くなる角度だろう…ちなみに両腕も掴まれていて、これは世に言う壁ドンというやつではないだろうか…だが、何故こんな状況になっているのか、美緒は全く理解出来なかった。そして、掴まれた腕が痛い…

「あの…腕、痛いんだけど?」

 掴まれた腕が思いのほか痛くて、離して欲しいと言外に匂わせると、小林の息を飲む音がして直ぐに力は緩んだが、それでも離してもらえなかった。何がどうなっているのかと思うのだが、何だか顔を見るのも怖い気がする。何だろう…迷惑をかけたお詫びもせずに帰ろうとしたから怒らせてしまったのだろうか…だが小林に好きな相手がいるなら、自分がここにいる事が最大の迷惑事案だろうに…美緒は小林の行動原理がさっぱりわからなかった。

「何で帰るんだ?」

 頭上から下りてきた声は、怒っているようにも呆れているようにも聞こえる、感情を押し殺したような声だった。やはり気分を害してしまったらしい…とは思ったが、迷惑をかけたのだ、帰って欲しいと思われてもその逆はないだろうに…

「え…?でも、ここにいたらあんたの好きな子が…」

 小林の恋路の邪魔になるから帰るのだと美緒が告げると、目の前の男は美緒の両腕を壁に押しつけたまま、がっくりと盛大なため息をつきながら項垂れた。何、そのリアクション…あからさま過ぎるとはいえ、その理由が思い至らず美緒は困惑するしかなかった。

「あの…?」
「お前、本当に昨夜の事、覚えてなかったのかよ…」

 戸惑う美緒に対し、酷く傷つきましたと言わんばかりの小林の言い様に、美緒はうっと声を詰まらせた。昨夜の事を全く覚えていなかったからだ。日本酒をしこたま飲んで記憶がなくなる程に酔ってしまったらしい。らしいというのは、美緒は記憶になく、小林から話を聞いただけだったからだ。申し訳ないと思う一方で、そんな態度を取らせるような何かがあったのかと非常に気になった。記憶がないというのは、思った以上に居心地が悪く、不安を煽るものらしい…

「えっと、なんか、ごめん…?」 

 とにかく覚えていないのは事実だし、そのせいで小林を大いに落胆させたのだと感じた美緒は、謝るしか出来なかった。ハイエナさん達が面倒だからあまり関わりたくないとは思っているが、別に小林の事は嫌いではないし、顔だけなら非常に好みだ。それに昨日一緒に過ごした事で、これまでのイメージが単なる思い込みだと分かった部分もあり、以前ほど苦手だと思わなくなっているのもある。だが、美緒の謝罪は小林の不満を解消するものにはならなかったらしく、また大きくため息をつかれた

「…って言った」
「え…何?」

 耳に届いた小林の声は、殆ど聞き取れないほどのもので、美緒は語尾しか聞き取れなかった。

「お前が好きだって言ったんだよ!聞こえたか?」

 突然大きな声でそう言われた美緒は、声の大きさとその内容に二重の驚きに見舞われ、頭の中が真っ白になった。え~っと…どういう事だと思って小林を見上げて…今度は呼吸が止まった。美緒の目に映ったのは、顔をわずかに赤らめながらも険しい表情で自分を見下ろす自分の好みのイケメンだったからだ。心臓が止まりそうなその表情は反則だろう…いや、この状況では凶器かもしれない…

「聞こえたか?」

 鼻先がくっ付きそうな距離で迫力そのままに念を押す様に聞かれた美緒は、こくこくと頷くしか出来なかった。

「あと、付き合って欲しいって言ったら、いいと言った」
「はぁ?!」

 さすがにこの言葉には美緒も反射的に声が出た。好きと言われた記憶もないが、自分がオーケーを出した事も全く記憶になかったからだ。少なくとも普段の自分ならオーケーしない。それは社内でハイエナさん達に吊るし上げられ、私刑まっしぐらと同意語だからだ。自分がそんな事を言ったとは俄かには信じられない美緒だった。

「ちょっと待って…付き合うなんて…そんな事…」
「何だよ、俺が付き合ってくれって言ったら、いいよって言っただろうが…」
「いや、でも酔ってる時にそんな事言われても…」
「酔ってないって言い張ってたのはお前だぞ…」

 それこそまさに酔っ払いの戯言ってやつですよ、おにーさん!と叫びたかった美緒だが、さすがに相手が真剣な表情だったためそうとは言えなかった。多分…いや、確実に酔っていたんだろうし、ここは酔っていたからカウントなしとするべきところだと思う。思うのだが、それが今の小林に通じるとも思えなかった。小林からの圧がそれを物語っている…

「いや…あの…でも…」
「何だよ…じゃあ、からかったのかよ…」

 それでも言い逃れしようとした美緒の耳に届いたのは、低く感情を押し殺した声だった。何だか穏やかではない何かが含まれているような気がして、美緒は身を固くした。

「め、め、滅相もない!」

 さすがにからかったなどと言われると良心が痛むし、そんなつもりなど全くなかった。そもそも天敵とも言える小林に好意を持たれていたとか想定外過ぎて現実味がない。こうなるとドッキリだと言われた方が納得できるくらいだ。昨日も嫌いだとの前提で話をしていただけに、好かれる理由が全くわからない。

「そっか。ならよかった。そういう訳で、これからもよろしくな」

 困惑し、疑問しか浮かばない美緒をよそに、小林はその綺麗な顔に嬉しそうな幸せそうな満面の笑みを浮かべると、そっと美緒の唇に自分のそれを重ねた。それは時間にすると一秒にも満たない程ささやかなものだったが、美緒の戦意を失わせるには十分すぎるものだった。美緒は驚きすぎてへなへなとその場にへたり込んでしまい、それを見た小林が一瞬驚きを現したが、また嬉しそうに笑った。これはダメだ、反則過ぎる…そう思う美緒だったが、腰が抜けた様にその場から動けなかった。何だかとんでもないものに捕まったような気がしたが、その正体が何なのか、今の美緒には皆目見当がつかなかった。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。 絶対に離婚届に判なんて押さないからな」 既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。 まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。 紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転! 純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。 離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。 それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。 このままでは紘希の弱点になる。 わかっているけれど……。 瑞木純華 みずきすみか 28 イベントデザイン部係長 姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点 おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち 後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない 恋に関しては夢見がち × 矢崎紘希 やざきひろき 28 営業部課長 一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長 サバサバした爽やかくん 実体は押しが強くて粘着質 秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

【完結】エリート産業医はウブな彼女を溺愛する。

花澤凛
恋愛
第17回 恋愛小説大賞 奨励賞受賞 皆さまのおかげで賞をいただくことになりました。 ありがとうございます。 今好きな人がいます。 相手は殿上人の千秋柾哉先生。 仕事上の関係で気まずくなるぐらいなら眺めているままでよかった。 それなのに千秋先生からまさかの告白…?! 「俺と付き合ってくれませんか」    どうしよう。うそ。え?本当に? 「結構はじめから可愛いなあって思ってた」 「なんとか自分のものにできないかなって」 「果穂。名前で呼んで」 「今日から俺のもの、ね?」 福原果穂26歳:OL:人事労務部 × 千秋柾哉33歳:産業医(名門外科医家系御曹司出身)

独占欲強めな極上エリートに甘く抱き尽くされました

紡木さぼ
恋愛
旧題:婚約破棄されたワケアリ物件だと思っていた会社の先輩が、実は超優良物件でどろどろに溺愛されてしまう社畜の話 平凡な社畜OLの藤井由奈(ふじいゆな)が残業に勤しんでいると、5年付き合った婚約者と破談になったとの噂があるハイスペ先輩柚木紘人(ゆのきひろと)に声をかけられた。 サシ飲みを経て「会社の先輩後輩」から「飲み仲間」へと昇格し、飲み会中に甘い空気が漂い始める。 恋愛がご無沙汰だった由奈は次第に紘人に心惹かれていき、紘人もまた由奈を可愛がっているようで…… 元カノとはどうして別れたの?社内恋愛は面倒?紘人は私のことどう思ってる? 社会人ならではのじれったい片思いの果てに晴れて恋人同士になった2人。 「俺、めちゃくちゃ独占欲強いし、ずっと由奈のこと抱き尽くしたいって思ってた」 ハイスペなのは仕事だけではなく、彼のお家で、オフィスで、旅行先で、どろどろに愛されてしまう。 仕事中はあんなに冷静なのに、由奈のことになると少し甘えん坊になってしまう、紘人とらぶらぶ、元カノの登場でハラハラ。 ざまぁ相手は紘人の元カノです。

二人の甘い夜は終わらない

藤谷藍
恋愛
*この作品の書籍化がアルファポリス社で現在進んでおります。正式に決定しますと6月13日にこの作品をウェブから引き下げとなりますので、よろしくご了承下さい* 年齢=恋人いない歴28年。多忙な花乃は、昔キッパリ振られているのに、初恋の彼がずっと忘れられない。いまだに彼を想い続けているそんな誕生日の夜、彼に面影がそっくりな男性と出会い、夢心地のまま酔った勢いで幸せな一夜を共に––––、なのに、初めての朝チュンでパニックになり、逃げ出してしまった。甘酸っぱい思い出のファーストラブ。幻の夢のようなセカンドラブ。優しい彼には逢うたびに心を持っていかれる。今も昔も、過剰なほど甘やかされるけど、この歳になって相変わらずな子供扱いも! そして極甘で強引な彼のペースに、花乃はみるみる絡め取られて……⁈ ちょっぴり個性派、花乃の初恋胸キュンラブです。

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...