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二章

新しい関係に向かって

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 その後母親は身の回りの物を旅行バックに詰め込んで、久美たちと新しい住家となった実家に帰っていった。三人とも来た時の勢いは失われ、すっかり生気が失われているようにも見えた。目論んでいた奥野に寄生しての生活が泡のように消え、これからは自分達が働かなければいけないのだ。これまでまともに働いた事のない彼女たちにはさぞ気が重い事だろう。

 その間、奥野は花耶の側から決して離れなかったが、今後離婚の話し合いに必要だろうからとボイスレコーダーのデータを確認した後、父親のパソコンに保存するなど手を打っていた。今はすっかり気落ちしている母親だが、気を取り直せばまた無理難題を吹っ掛けてくる可能性がある。奥野にしてみれば、自分が帰った後が心配だったのだろう。ただ幸いな事に既に離婚が成立しており、母親が独断で出したために、むしろ慰謝料を請求できるのはこちら側だという事だった。父親は祖父に相談して弁護士を頼むと言い、それは奥野や弟妹をホッとさせた。



 母親達が去り、今後の方向性が決まると、その場の空気がようやく和んだ。嵐のような時間だったせいか酷く時間が経ったようにも感じたが、実際には花耶達がここに来てから一時間も過ぎていなかった。母親らの乗った車が離れていく音に花耶は、ようやく身体から力が抜けるのを感じた。それを察した奥野が、こっちの家のゴタゴタに巻き込んで悪かった、と謝ってきたが、花耶が気になったのはもっと別の事だった。

「その…何で、あんな事、言ったんですか?」

 花耶は奥野が自分たちの始まりの事を話した事が気になって仕方がなかった。どうしてあんな事を、わざわざ家族の前で言ったのか…それでは奥野の信用が大きく失われてしまうだけなのに…と。

「あれは花耶を悪く言うのが許せなかったからだ。全く、どいつもこいつも、花耶が誘惑したなどと…!」
「でも、あれじゃ透夜さんが…」
「周りからどう思われようとどうだっていい。勝手に自分の理想を押し付けてくる奴らにはうんざりしていたんだ」
「だからって…あんな言い方しなくても…」

 いくら腹が立ったとはいえ、花耶は奥野のやり方が悲しくて仕方なかった。あの時の奥野は酷く傷ついているようにも見えたし、第一あの時の事は既に花耶の中では消化されてとっくに許した事なのだ。今更その事で傷ついて欲しくなかったし、それで奥野に不利益が生じるのも花耶の本意ではなかった。この場にいたのは奥野の身内だから、誰もその事を口外するとは思えないが、それでも家族の中で彼への信用が損なわれたのは否めないだろう。

「…ねぇ、気にするところはそこなの?」

 花耶が奥野の事で心を痛めていると、横から遠慮がちに声が入り込んできた。声の主は文香で、その表情は酷く複雑そうに見えた。花耶は誰に対しての問いなのか直ぐにはわからなかったが、文香が真っすぐに自分を見ているため、それは自分に向けたものなのだと察した。急な問いかけに戸惑う花耶に文香は、兄の事よりも自分の心配をした方がいいのではないかと言ってきた。

「こんなのと結婚して…本当にいいの?弱みを握られてるとかしてない?例えば…変な写真撮られたとか…」

 兄妹のせいか、言い方に遠慮がなく酷い言い草にも聞こえたが、そこには自分だけでなく兄への心配が隠れているようにも感じられた。文香にとっては、兄が先ほどの話以外にも何かしでかしているのではないかと心配だったのかもしれない。

「それは…大丈夫です」

 言い方は微妙だが、これも文香なりの気遣いなのかもしれない、と思った花耶は、少し考えてからそう答えた。別に脅されたり弱みを握られたりしているわけではない。普段の奥野は甘すぎるほど花耶に甘く、常に優先してくれていた。それこそ不満など感じる暇がない程に。

「本当か、三原さん?」

 遠慮がちに、だが不信感を漂わせて父親も尋ねてきたが、花耶は大丈夫だとしか答えようがなかった。優しくていつも助けて貰っています、と答えるも、父親や弟妹はまだ複雑な表情を浮かべていて、花耶はまだ何かあるのだろうかと心配になった。

「いや…でも、本当にいいの?逃げるなら今しかないよ?」
「え?」

 文香の指摘に花耶は一瞬、何の事かと直ぐに思い至つかなかった。だが、文香が直ぐに入籍するって言ってなかったっけ?と言ったため、花耶はようやく文香達が心配している意味を正確に理解すると共に、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。

「そうだな、花耶。久美との結婚が成立しなかったら直ぐに入籍しようって約束したな」

 奥野に、それはそれは嬉しそうに、幸せそうにそう言われた花耶は、あまりにも綺麗な笑顔に思わず顔に熱が集まるのを感じた。そう言えば言った、確かにそんな話をした。しかし…あれは約束したと言えるのだろうか?それに、さすがに今日言って今日はないのではないか…そう思った花耶だったが、忘れてはいけない事実があった。奥野は有言実行・迅速果敢が持ち味で、それは特に花耶に対する時、度合いがより増すという事を…

「届は俺が直接役所に行かないと出せないからな。ああ、でも今から向かえば何とか間に合うな。保証人も…父さんと篤志か文香が書いてくれれば済む。今は書類もダウンロード出来たな」

 そう言うと奥野はさっさとスマホを操作し始め、篤志にあれこれ質問しながらも、あっという間に婚姻届を印刷してしまった。さすがと言うべきなのだろうが、花耶も奥野の家族も、行動力とその手際の良さに呆気に取られていた。

「ちょっと待て、透夜。いくらなんでも先走り過ぎだ」
「そうよ兄さん、ちょっと落ち着いてよ」

 さすがに見かねた父親が奥野を止めようと声をかけ、それに文香も参戦したが、奥野は既に了承は貰ったし、聞いていただろうと言い出した上、笑顔で圧をかけられ来たため、二人はそれ以上何も言えなくなった。最後の頼みの綱は花耶だと言わんばかりに三人は花耶に視線を向けたが、花耶もこんな奥野を止める手段は持ち合わせていなかった。きっともう少し待って欲しいと言っても、さっきの言葉を盾にされるのは目に見えていた。

「…花耶、やはりダメだろうか…」

 花耶がそれでも戸惑っているのを拒否と感じたのか、奥野は語気を弱め、縋りつくような表情を浮かべてきた。これは確実にわざとやっているのだと花耶にもわかったが、それを無下にできる花耶ではない、という事も計算の上なのは明白で、質が悪い事この上なかった。

「ちょっと、どうすんの、これ…」

 あからさまにあざとさ全開の兄の姿に、さすがに文香が呆れ顔で兄を一瞥してから花耶に視線を向けた。だがこうなっては花耶にもどうしようもなく、苦笑を浮かべるしかなかった。

「本当にこんなのと結婚して大丈夫なの?逃げた方がよくない?」
「え、っと…逃げるほどではないかと…」
「いや、でも…」
「それに…逃げたら余計に追いかけてきそう…な?」
「え…それは、その…」
「あと…逃げた方が後々怖いというか…」
「…どうしよう…納得しか出来ない…」

 文香が頭を抱えながらそう言ったが、その表情には強い疲労感と脱力感が現れていた。兄の本性を知ったばかりでも、さすがに長い付き合いから奥野の性質はある程度理解してるらしい。また、そんなやり取りを見ていた篤志が、兄さんがこれ以上やばい事しないうちに結婚して貰った方が安心かも…などと言い出して、文香は益々頭が痛いと言った風に顔をしかめた。さすがに父親は同意しかねているようだったが、それでも本心はそう思っているようにも見えた。

「あの…でも入籍はもちろん、皆さんのお許しを頂いてから、ですけど…」
「うちは…むしろ引き取ってくれたら有難いというか…」
「うん、確かに…兄さんが犯罪者とか、さすがに勘弁して欲しいし…」

 ここで断った場合、奥野がどう出るのか…先ほどの話の影響もあってか、三人の顔色はよくなかった。奥野の執着心の強さをはっきり見てしまったからだろう。

「…でも、あんた、本当にいいの?」
「え?あ、あの…はい。その…私も…好きですし…」

 文香がたまりかねて念を押すように聞いてきて、花耶は少し戸惑いを感じたが、自分の気持ちを正直に告げた。本人とその家族の前でこんな事を言うなんて恥ずかしすぎる…と花耶にとってはそっちの方が問題だったが、それを聞いた奥野はそれはそれは嬉しそうな、幸せそうな笑顔を浮かべて、花耶以外の三人を更にドン引きさせた。

 だが今までの経緯を思えば、奥野が自分を手放すとは思えなかったし、逃げても追ってきそうだし、その場合やることが一層過激になりそうな気がしたのだ。以前麻友が、あいつなら監禁とか平気でやりそう…と言っていたが、今ならそれが冗談では済まない気がしていた。さすがにそこまでは…と花耶は思うが、今以上に束縛が強くなるのは避けられない気がした。花耶がこれからも平和で穏便に過ごすには、ここで籍を入れるのが一番安全に感じられた。
 
 結局、篤志が言ったことが決定打となり、奥野の家族は入籍を複雑な思いと共に受け入れた。自慢の息子であり兄だったが、今日明らかになった彼の本性への懸念から、これ以上何かをやらかす前に…と思ったのは間違いなかった。母親とのゴタゴタもあって、全員が強い疲労感に思考が麻痺していたのもあるだろう。更に花耶がそんな奥野を受け入れているのだ、誰も反対するという愚を犯さなかった。

 こうして花耶は、その日のうちに三原花耶から奥野花耶になった。身体から始まった関係は七か月あまりを経て一つの形になった。
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