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二章

想いの先

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 花耶のこれまでの人生は、冷たくて静かな水底にいるようなものだった。家族とはただ血の繋がりがあるというだけで温かみなど欠片もなく、経済的にも厳しく高校の頃からバイトをして高校にかかる費用の一部を賄っていた。友達は出来たがバイトや祖母の面倒もあり、遊びに行くなんて事もなかった。花耶が友達と遊びや食事に行けるようになったのは、就職して自立してからだった。男性不信から恋愛に希望が持てない花耶の心を温めていたのは、高校からの友人と麻友だった。

 そんな花耶にとって、奥野の存在は突然現れた嵐の様な存在だった。麻友たちとでは得られなかったたくさんのものをもたらし、花耶の価値感を根本からひっくり返していった。今までの人生で一番影響をもたらしたのは誰かと問われたら、花耶は奥野だと答えるだろう。水底の外に違う世界があったのだと目の前に突き付けたのは、間違いなく奥野だった。

 ずっと水底にいたら、他の世界を知らずにいられただろう。それは不幸かもしれないが、幸せでもあった。何も知らなければ足りないと感じる事もなく、そういうものだと思って生きていけたのだから。それまでだって花耶はずっと、一人を寂しいとも思わず、そういうものなのだと思って生きてきたのだ。それはそれで、無知がもたらした幸せだった。

 なのに、温かい場所がある事を知ってしまった。人の体温の温かさも、優しくされる事の心地よさも、知ってしまえば欲しいと思ってしまうのが人の性だ。気が付いた時には既に手遅れで、これまで平気だった寒さが辛く耐えがたいものに感じられるようになってしまっていた。



「…だったら、ずっとこうしていればいい」
「…え?」

 続く沈黙を終わらせたのは奥野の方だった。握った花耶の手をよりしっかりと包み込み、顔を上げた花耶の顔を覗き込んでいた。その瞳が一瞬光ったように見えたのは、伊達眼鏡に照明の光が入り込んでそれが奥野の目に反射したからだろうか。

「寒いなら、ずっと温めていればいいだろう?」
「ずっと…って…」

 奥野の言うずっとの長さを、花耶は測りかねた。それは今、冷え切った手の事を言っているのか、それとも…花耶が望むのは後者だが、奥野はどういう意味で言ったのだろうか…

「花耶が望むだけこうしていれば、もう寒いなんて感じないだろう?花耶が寒いと感じる時はいつでも温める。寒いなんて感じないくらいに」
「それは…」
「花耶がもう要らないと言うまでずっと一緒にいる。花耶が来てくれた理由が何でも、覚悟が出来なくてもいいんだ。花耶が俺から離れたいと思うまでずっと一緒だ」
「…ずっと、一緒…?」
「ああ、ずっと一緒だ」
「…本当に…?」
「本当だ。花耶とずっと一緒にいる」

 必死の思いで伝えたあの日の言葉の答えを得て、花耶は告げられた言葉を頭の中で何度も繰り返した。直ぐに意味が入ってこなかった言葉は、繰り返すたびに実感と重みを増して花耶の中に落ちていった。その意味を心が理解すると、自分の手を包む奥野の手の輪郭が揺れた。こんな時に泣くなんて嫌だと思うのに、涙腺は持ち主の望みなど構わなかった。
俯いたのと同時に、かぎ慣れた匂いを一層強く感じた。頬に当たる身体も背に回された腕も温かくて、こわばりが一気に解けていくように感じた。この時花耶は、この温もりを誰にもとられなかったのだと安堵すると共に、二度と手放せないと強く思った。色々考えたのは、ただ自分が傷つくのが怖くて予防線を無意識に張っていたせいだ。手を延ばせばこんなに簡単に届いたのに…

「…好き、です。どうか…」

 生まれて初めて他人を乞い願った花耶の言葉に、自身を拘束する腕の力が込められた。痛いくらいの抱擁に泣きたくなるくらい幸せを感じて、花耶は自らの腕を背に回し、ゆっくりと力を込めた。




* * *

「本当に、世話が焼けるんだから…」
「まぁまぁ、でも、そろそろ上手くいくんじゃない?」

 最近行きつけになりつつあるバーの一角で、ぶつぶつ文句を言いながらチーズをつまむ麻友を、熊谷は苦笑交じりに宥めた。大切な親友を手籠めにした同期に対して、九も年下の後輩は酷く点が辛かった。詳しい話を聞いたわけではないが、断片的に得た情報からすると、まぁ、そうなっても仕方ないな、とは思う。

「ほんっと、鬼教官とか社内一の切れ者とか言われてたのに、あんなヘタレだったなんて…」
「…ははは…手厳しいなぁ…」
「ええ~だって、順番さえ守ればここまでこじれなかったんですよ」
「そりゃあそうだけど…でも、そうしなきゃ捕まらなかったでしょ、三原ちゃんは」
「…まぁ…そうなんですけど…」

 ポンポン出てくる同期への糾弾を聞きながら、熊谷は表情をあまり変えない同期の顔を思い浮かべた。

 全く、あいつがあんな年下の地味な子に夢中になるとは思わなかったな…と熊谷は思う。今回の相手は、これまで奥野が付き合っていた女性とは真逆とも言えるタイプだった。仕事の面では優秀で、これまでの彼女達と比べて劣る事はないが、それ以外では比べようもない。世間慣れしていなくて純だが、自分に自信がない割には頑なな一面もあり、中々に扱いが難しいタイプだと思う。それでも奥野はそんな彼女に夢中だった。
 ここ数年は女との噂すら聞いた事がなかったが、どうやらずっと彼女に思いを募らせていたらしい。本社に異動してから松永と二人で飲んだ時、松永から奥野が以前から花耶を気に入っていたと聞いた。その時の熊谷は半信半疑だったが、よく見ているとまさにその通りで、同期の意外な一面を見た気がした。囲い込みも半端ないし、熊谷を含めた男性社員へのけん制は見事なほどで、思わず笑いが漏れたくらいだった。
 
 散々拗らせている二人だが、話を聞けば奥野も馬鹿正直に本音を話して余計に拗らせていたのが分かったため、熊谷は余計な事を話しても利がないと言ったのだ。全く、あんな手のかかる子を相手にするなら、もう少しやりようがあるだろうに…と思う。一回り近く年も上で恋愛経験だってあっただろうに、今まで受け身の恋愛しかしていなかったツケが回ったのだろう。それでも、そんな同期の変化は悪くないと思う。

「ま、この週末で仲直りしてるでしょ」
「え~なんでそう言い切れるんです?もしかして熊谷さん…何か知ってるんですか?」
「え?いや、詳しくは知らないよ。人の恋路に首突っ込んで蹴られたくないし。ただ、奥野には、三原ちゃんが酷く沈んでたから、そんな顔させるなって言っただけ」
「え、それだけ?」
「うん。でも、それで何か考えるでしょ。いくら何でもそこまで馬鹿じゃないし」
「…馬鹿って…」
「え?だって、実際馬鹿でしょ?」
「…あの鬼教官にそこまで言えるのって…熊谷さんくらいですよ…」
「ええ~そんな事ないよ~」

 そう言いながら熊谷は、同期の恋が上手く行く事を祈った。まだまだこの先一悶着どころか二も三もありそうな気がするが、彼女の気持ちさえはっきりすれば奥野が迷うことはないだろう。奥野は目的のために手段を選ばないところがあるが、手段のために目的を見失うような馬鹿ではないし、世間体や人の目を気にするタイプではない。あんな重い男に目をつけられたのが彼女の不運かもしれないが、不幸になることはないだろう。奥野の事だ、全力で彼女に居心地のいい環境を作りあげて、自分から離れられないようにせっせと囲い込むのは目に見えていた。

(ま、おれも同類だからなぁ…)

 エアコンの風で乾いた喉をビールで潤しながら、熊谷は内心苦笑した。自分の方がもしかすると性質が悪いかも…と思いながら、窓の外に視線を向けた。自分の方はまだまだだなぁと思うも、既に逃がすつもりはなかった。



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