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二章

弱くなった心

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「八度三分。こりゃあ早退ね」

 会社の医務室で花耶は、麻友に体温計を見せられて観念するしかなかった。朝から何となく怠いなぁとは思っていたが、熱が出ていたとは想定外だった。昨日の朝は急に冷え込んだが暖かい服を出すのが間に合わず、寒いと思いながら仕事をしていたが、それで風邪を拾ったらしい。ここ最近、鬱々とした気分で過ごしていたのもよくなかったのかもしれない。
 伊東の一件で寝込んだことはあったが、それ以外ではここ数年風邪などひかなかった。一人だから寝込んでいられないと気を付けていたのに…最近の自分が弱くなってしまったような気がして、花耶は小さくため息をついた。
 退社時間まで残り二時間ほど。微熱なら気合で乗り切ろうと思ったが、さすがに八度を超えているのでは諦めざるを得なかった。会社から家までは電車の乗り換え一回ありで早くても四十分はかかる。我慢して今よりも悪化した場合、痛い目に遭うのは自分なだけに、花耶は麻友に手伝ってもらいながら早退の準備を進めた。

 幸い今日は金曜日で明日は休みだ。週末、大人しく寝ていれば治るだろう。
 もう十二月も第二週目で世間はクリスマス色が強まり、この時期に出かけない理由が出来た事に花耶は何となくホッとした。母親や祖母の事もあるが、花耶は十二月が苦手だった。子供の頃からクリスマスプレゼントなど貰った事もないし、友達の家のパーティーに呼ばれた事もなかった。ただでさえ気分が滅入る時期なのに、世間は忘年会だクリスマスだと賑やかで、休み明けにはどこへ行っただの何をしただのと聞かれるのが昔から嫌いだったのだ。

「松永さんには私から伝えておくね」
「ありがと」
「気にしなくていいよ。後…ちょっと待って」
「麻友?」

 このまま電車でいつも通りに帰ろうと思っていた花耶は、麻友が止めるのを不思議に思った。ここに来る前から早く帰れと言っていたのは、麻友の方だったからだ。重怠い身体を起こすと花耶は鞄を手にして、スマホに目を通した。特に気になる通知もないため、そのまま鞄に仕舞ったところでドアが開いた。

「…花耶」
「…え?」

 現れた人物を目にして固まった。それは一昨日前に罵声ともとれる言葉をぶつけて、それ以来ずっと避け続けている相手だったからだ。

「ま、麻友…?」

 ちょっと待てと言っていた事から、呼んだのが麻友ではないかと思った花耶は、麻友の方に戸惑いの視線を送った。

「あ~松永さんに報告に行った時に会って…ちょうど取引先に行くっていうから」
「いや…それは…」
「問題ない。ちょうど同じ方面だし、タクシーだから途中まで送る」
「え?でも…いくらなんでも…」
「大丈夫だって花耶。松永さんもいいって言ってたし。途中まででも送って貰えば楽でしょ」
「…でも…」
「松永さんの了解も得た。タクシーも待たせてある。早く行くぞ」
「え?あ?」
「ほらほら、料金メーター待ってくれないから。最近話もしてなかったんでしょ?いい機会だし、少しだけでも話しときなよ」

 奥野に荷物を取られた上腕を掴まれ、麻友にまで送り出されてしまい、いつの間にか花耶は逃げるタイミングを完全に失っていた。熱のせいかぼうっとしていたのもよくなかったのだろう、体のいい断り文句が浮かぶ前に、早々にタクシーに押し込まれてしまった。

(どうして…)

 タクシーの後部座席に押し込まれた花耶は、ぼうっとする頭を回転させて自分が置かれている状況を必死に理解しようとしていた。これから取引先に行くのになぜ?どうして?と思うし、これは職権乱用ではないか?それに、一昨日の件で奥野との事も完全に終わったはずだ…どうして今更構ってくるのか…

 あの後花耶は、押し込められた会議室に固まった奥野を一人残し、経理課に戻った。その後、何かしらの連絡があるのではとビクビクしていたのだが、奥野からはメッセージも電話もなかったため、これで終わったと思っていたのだ。
 後で思い返せば、かなりきつい言い方だったし、酷い事を言ったとも後悔したが、出てしまった言葉を取り消せるわけもない。既に新しい恋人がいるのだし、それならいっそ幻滅されてしまった方が楽だと思い、花耶は迷った末に謝らない事にした。奥野の気持ちに対しての返事もせず、最後まで逃げてばかりだったのは自分だ。とは言っても、今は決定的な事を言われるのに耐えられそうもなかった。

 なのに今、どうしてこんな状況になっているのか…花耶は麻友に奥野の新しい恋人の事を話さずにいた事も失敗したと思った。心の整理がつかなくて話すのを後回しにしていたことが裏目に出てしまった。麻友はまだ二人の関係がこれまで通りだと思っていて、奥野が花耶のためなら何でもすると踏んで奥野に体調の事をしたのだろう。
 だが、今はそれはどうでもいい。早くこの状態から抜け出したかった。

「あ、あの、駅で降ります。降ろしてください」

 タクシーが駅の方に向かっているのを確認した花耶は奥野にそう告げた。これから商談だと言うのに、余計な時間を使わせるわけにはいかなかった。

「課長!」
「気にしなくていい。約束の時間までにはまだ時間がある」
「でも…」
「いいから黙って座っていろ。熱が上がるぞ」

 花耶の方をちらりとも見ず、反論は許さないと言わんばかりの冷たい言い方に、さすがに怯んでしまった花耶はそれ以上何も言えずに押し黙った。さすがに体調の悪さもあってか、これ以上抵抗するだけの気力もない。それでなくても最近は気分が沈んで眠れない日が続いていたのだ。
 駅を過ぎたが、タクシーは止まる気配がなかった。乗り込んだ時に奥野が行き先を運転手に告げていたが、その声は悔しいことに聞き取れなかった。会社の最寄り駅でなければ、乗り換えしている駅だろうか…あのエリアなら取引先が何社かあった筈だ。反論は受け付けないと纏う雰囲気で語る上司にこっそりため息をつくと、花耶はぼんやりと流れる景色を目に映したが、どこを走っているのかは車を運転しない花耶にはわからなかった。



「花耶」

 ぼんやりと浅い意識を漂っていた花耶は、名を呼ばれてそちらの方の意識を集めた。熱のせいか随分ぼうっとしていたらしい。会社を出た時よりも怠さが増しているようにも感じるし、熱が上がったのだろうか…夕方になると熱が上がりやすくなるんだっけ…などと思っていると、降りるぞと言われて腕を掴まれたため、花耶は促されるまま重い身体を動かした。

「え…」

 降りてから花耶は自分が奥野のマンションの前にいる事に気が付いた。車を運転しないから電車やバスで通る道しかわからないため、ここに来るまでどこに向かっているのかわからなかったが、ここに来るとは全く予想していなかった。戸惑って立ちすくむ花耶の腕を掴んだまま、奥野がエントランスに向かった。

「あ…あのっ…」

 さすがに恋人がいる異性の家に行くのはいかがかと思い花耶が抵抗を示すと、奥野はいったん歩みを止めて花耶の方に向き直った。

「どうかしたか?」
「どうって…何で…ここに…」
「ゆっくり話がしたかったからだ」
「話す…事なん…て…」
「花耶にはなくても俺にはある」
「…っ」
「ここが嫌なら花耶の家でもいい。それとも、ホテルにでも行くか?」
「は…話をするだけなら…カフェとかでも…」
「人がいるところでは話しにくい。誰が聞いているともわからないしな」
「別に…人に聞かれても…」
「社内の者でもか?」
「そ…れは…」

 そこまで言われるとさすがに花耶も躊躇した。社内では二人の事は公認になっているが、これからする話は多分、別れ話とか奥野の言い訳めいた話だろう。そんな話を社内の人に聞かれたら、何を言われるかわからない。やっと周辺が落ち着いてきただけに、また噂の中心になるのは避けたかった。
 とは言え、花耶のアパートは女性専用で家族以外の男性は業者などを除けば出入り禁止だし、ホテルに行くのもどうなのだろうと思う。奥野の指すホテルがどういうホテルなのかもわからないし、それを聞くのも何だか憚れた。体のだるさも相まって、花耶は渋々奥野の部屋に行く事を了承した。どうせこれから奥野は取引先との商談がある。直ぐに終わると思ったからだ。

 久しぶりにきた部屋は、以前とほとんど変わりなかった。モノトーンにまとめられた部屋は、夏は涼しく感じられたが、今は寒々しくさえ感じた。
 少し待ってるように言われて、花耶はソファの端に座った。ひんやりしたソファの感覚にぞわりと寒気が上ってきた。まずい…まだ熱が上がるんだろうかと思ったが、今は気力で何とか抑えるしかない。ぼーっとした頭の中で早く終わって帰れますようにと願いながら、倒れ込みたくなっている身体を何とか踏みとどめた。

「ほら、これに着替えて」

 必死に寒気と横になりたい欲求と戦っていたが、声と共に渡されたものをぼんやりと見つけた。それは女性もののパジャマと思しきもので、見覚えのないものだった。生地の感じからしてまだ新しいものらしい。

「これ…は?」
「パジャマだ」
「パジャ…マ…」

 ぼうっとする頭で繰り返して、やっと単語の意味が頭に入った。が、さすがにそれはないだろう…と思う。

「何で…」
「何って…とにかくこれに着替えて寝ろ。話はそれからだ」
「…」

 何を言っているのだろう…と不思議に思って見上げた。頭が酷く重く感じて、見上げるように上を向くと、今度は頭が重力に負けて後ろに倒れ込みそうになった。必死に立て直さないと…と思うのに支えきれず、そのままソファの背もたれによりかかったままズルズルと後ろに倒れ込んだ。
 話をして、早く帰らないと…ここにいたらダメなのに…と思うのに、天井の眩しさが刺さるように痛くて目が開けられなかった。誰かが遠くで呼んでいるような気がしたが、黒い世界が思いのほか心地よくてそのまま意識をゆだねた。


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