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一章

解けていくもの

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「それで寝室で隠れていたのか…」
「はい…」

 花耶が寝室でシーツに包まっていた理由を問われた花耶は、伊東からの電話の事を全て奥野に話した。幸い着信歴も留守電も残っていたため、奥野にも状況はしっかり伝わったようで、伊東の戯言に静かに怒りを燃やしていた。

 伊東は、警察沙汰になった事で恥をかいたと、より怒りを募らせた様だった。実際には伊東の思い込みと妄想が原因なのだが、自己愛が強いのかプライドの高さなのか、自分が花耶に拒否された事が許せないらしい。自分を拒むなど何様だ、その思いあがった性根を躾け直す必要があると繰り返し、終いには口に出すもの憚られるような卑猥な調教のやり方まで声高に叫んでいた。さすがにその内容を改めて聞かされた花耶は顔色を青白くして震えあがり、奥野は益々仏頂面を深くした。

 今は花耶の体調が最優先だったが、状況が状況のため、伊東の事を後回しにする事も出来そうになかった。奥野はここまで伊東がおかしな方向に走っているとは思っていなかったようだが、さすがに留守電の中身を聞かされては認めざるを得なかったようだ。まさに苦虫を潰したような表情で腕を組んで考え込んでしまい、その様子に花耶が怯えたのに気付くと、慌てて悪かったと言いながら表情を和らげた。

 花耶から話を聞いた奥野は、このまま入院するのも危険かもしれないと言い、再度医師に相談を持ち掛けた。奥野からの説明と、スマホに残されていた留守電を聞いた医師は、そういう事なら話は変わってくるといい、本当なら最低でもあと一日はいた方がいいんですけどねぇ…と言いながらも退院を認めた。花耶に看護師が24時間付き添う事も出来ないし、病院としては面会者を拒否する事が出来ないからだ。
 また、万が一伊東が暴力的な手段に出た時、他の患者にも被害が出る可能性を奥野が医師に話した事も大きかっただろう。総合的に考えて、オートロック式の奥野のマンションが一番安全だという事になり、花耶は大量の薬を処方されて退院する事になった。

 帽子を被ってサングラスをかけ、後部座席に乗って極力顔を見られないようにした花耶は、その日のうちに奥野のマンションに戻った。いつものリビングに入ると、ホッと緊張がゆるんでソファにへたり込んでしまった。ここ数日で随分体力が落ちた気がしていたが、熱中症でさらに悪化したらしい。
 こんな身体じゃいつになったら職場に復帰できるのだろうか…と不安になるが、伊東の事が解決しない限り出社が難しい事にも思い至り、眉間のシワを深めた。

 ソファで難しい顔をしている花耶に奥野は、着替えてベッドで休むようにと伝えたが、花耶は昨日の事もあって気まずく、やっぱりこれ以上は迷惑をかけられない、もし伊東に一緒にいる事を知られたら奥野も危険な目に合うかもしれないから、自分のアパートに帰りたいと告げた。

「バカを言うな!あいつが何をしようとしているか、知っているだろう?」

 これまでになかった剣幕で怒鳴られた花耶は、身をビクリと震わせて怯えた表情で奥野を見上げた。奥野は花耶に大きな声を上げた事がなかったため、急な態度の変化に花耶は、やはり気を悪くさせていたのだと確信を深めた。

「で、でも…これ以上、ご迷惑は…」
「迷惑なんかじゃない!」

 はっきり言い切られてしまうと、今度は花耶がどう返していいのかわからなくなって戸惑った。奥野を傷つけたのだから迷惑なはずだと思っていたのに、どういう事なのか。迷惑じゃないと言いながらこれまでにないきつい物言いを受けて、花耶は奥野の真意がわからなかった。

「迷惑じゃないから、ちゃんと着替えてベッドで休め」
「で、でも…」
「話がしたいなら、ベッドで寝たままでも出来るだろう?」

 そう言われてしまうと花耶は、それ以上何も言えなくなった。奥野と話がしたかったのは確かで、入院したせいで有耶無耶になっているが、昨日の話は花耶の中ではまだ終わっていなかった。謝らなきゃいけない事もたくさんあるし、聞いてみたい事も同じくらいあった。



 花耶が着替えてベッドに横になったのを見届けると、奥野は別の部屋から折り畳み式の椅子を持ち出してきて、そこに腰かけた。さすがに自分だけ寝ているのは…と思ったが、起き上がると頭がふらふらしたのを奥野は見逃さず、花耶もこれでは話にならないと諦めて横になった。奥野と視線を合わせようと身体をずらした。

「…」
「…」

 話をしたいと言った花耶だったが、いざ話をしようとなると、何から話していいのかわからなくてしばらく沈黙がその場を支配した。居たたまれないが、伊東の事があった事もあり、花耶の中では昨日とは随分状況が変わった気がした。奥野がじっと花耶を見つけて何かを言うのを待っているのを感じて、益々焦りが募り、それと共に視線をさまよわせた。

「ぶはっ」

 何からどう話そうかと必死に言葉を探していた花耶の耳に届いたのは、吹き出す笑い声だった。この緊張感あふれる中で何を…と奥野に視線を向けると、笑いをこらえている奥野がいた。花耶は置かれている情況と奥野の態度の差が広すぎて、目を丸くして必死に笑いをこらえている奥野を見ていた。どうしてこの状況で笑えるのか、不思議で仕方がない。昨夜の出て行った態度を思えば、今後は二度と普通に話をする事も出来ないと思っていたのに…

「ああ、悪い悪い。花耶が…あんまり可愛くてな…」

 まだ笑いが抜けないらしい奥野に、花耶は馬鹿にされているような気がしてムッとした。こっちは眠れないほど真剣に悩んでいたのに…と、奥野のふざけた態度に沸々と怒りが湧いてきたのだ。あんなに悩んだのも全ては奥野のせいなのに、これはどういう事だ…一度は真剣に奥野の気持ちを考えて謝ろうとしていた思いは急速にしぼんでいった。

「本当に悪かった。馬鹿にしたわけじゃないんだ。ただ…そうやって百面相している花耶をまた見られるとは思わなかったから…」
「な…っ…」

 ようやく笑いを収めた奥野が柔らかく微笑んできて、その笑顔に今度は忘れかけていた熱を感じて花耶は顔に熱が集まるのを感じた。何だか空気が甘くなった気がする。おかしい…こういう展開になる筈じゃ…と思うのだが、奥野は昨日とは一転して機嫌がよく、以前の花耶にかまい倒していたころに近い気がした。呆気に取られている花耶の手を、大きな手が温めるように包み込んで、花耶は視線をその手から外せなくなった。

「花耶、これまですまなかった」

降ってきた言葉は、思いもよらない謝罪の言葉だった。え?と意外に思った花耶が奥野を見上げると、笑いの影すら残らない真剣な目が花耶を見下ろしていた。

「花耶の気持ちを無視して、ずっと振り回してばかりいた。自分の気持ちを押し付けて、こうすれば喜ぶだろうと勝手に決めつけていたし、それで喜んでくれているのだと疑った事もなかった。待って欲しいとか、困ると言われても…その、ただ慣れていないか、照れているのだとばかり思っていた。遠慮するのも控えめで可愛いと思っていて、本気で拒否しているなんて思いもしなかった…」

 まるで懺悔するような奥野に、花耶の方が戸惑った。それを言うなら、花耶だって流されてはっきり言わなかったのも原因なのだ。そう言おうとしたが、奥野に最後まで言わせて欲しい、と眉を下げて言われてしまった。そんな表情をさせてしまった事に胸がチリと痛んだが、一方で奥野が怒っていない事に安堵していた。

「花耶の事は…信じてもらえないかもしれないが…ずっと前から好きだったのは、本当だ」
「ずっと、前?」
「ああ、花耶の事は、入社した時から知ってた。松永さんが、えらく優秀な高校生がいるって言ってたのが最初だったかな」
「そんな前から…」
「持ってる資格も入社試験も大卒と遜色ないって聞いてて、まぁ、その時は凄いのが入ったんだな、くらいだったんだ。松永さんは俺が入社した時は営業の課長してて、俺はその下に入ったんだが、その頃から優しい顔して無理難題押し付ける天才で、俺も何度辞めてやろうかと思ったくらい凄かったんだ。でも、そのお陰で随分鍛えられたから、あの人には感謝してるし、本社に戻ってからも時々相談にのって貰ってたんだ」
「松永さんが、営業に…?」
「ああ、営業にいた頃を知らない人から見たら、意外に思うだろうな。今はあの頃程仕事の鬼じゃないから。でも、営業にいた頃は新人キラーって恐れられるほど凄かったんだ。それもあって、今でも松永さんに認められた奴は一目置かれてるんだが…花耶は知らなかったみたいだな」

 意外過ぎた話に、花耶は呆気にとられてしまった。あの温厚で経理課のお父さんと言われている人が…と花耶は意外過ぎる上司の過去に驚きを隠せなかった。

「飲みに行って相談に乗って貰ってる時なんかに、時々花耶の話も聞いてたんだ。それだけ優秀で高卒でこの会社に入ってくるくらいだから、気がきつくて派手なタイプかと思ってたんだけど、実際に見たら大人しくて全然自己主張しなくて。こんなんでよくやってるなって感心してた。で、いつだったか、経理に松永さんを訪ねて行った時、ちょうど花耶が松永さんと話してて、その時に花耶が珍しく笑って…いつも無表情で笑った事見た事がなかったから、それが凄く印象に残って…」

 そう告げた奥野は、一旦言葉を切ると、花耶の手を包む手に力を込めた。

「また笑ったとこが見れないかって思ってるうちに、…好きになってた」


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