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一章

ストーカー化した同僚

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 コンコン、と乾いたノックの音にすうっと意識が浮上した。いつの間にか眠っていたんだと気が付いたが、まだ眠くて目を開くのも億劫に感じた。だが、さすがにそういう訳にもいかないと目を開けると、見慣れないアイボリーの天井と白いカーテンが目に入った。ツンとした消毒薬の独特の臭いが鼻につく。カーテンの向こうで人の話し声がして、誰かがこの部屋に入ってきたのだと分かった。ゆるりと起き上がると、吐き気も頭痛も少しだけましになっている気がした。

「三原…」

 カーテンを開いて姿を現した姿に花耶は身を固くした。その人は花耶が今もっとも会いたくない人物の一人で、花耶が想定していた相手ではなかったからだ。しかもその人物は今、取引先で重要な案件についての話し合いの席にいるはずだった。



 無理やりタクシーに乗り込んできた伊東に連れ去られる寸前だった花耶は、幸いにも無事伊東から解放されていた。
 タクシーの運転手が二人の会話と態度の温度差に違和感を持ち、不信感を抱いたからだ。運転手が伊東に問いかけると、これはただの痴話げんかで、最近忙しくて構ってやれなかったから拗ねてるんですよ、などと照れたように答えた。
 しかし花耶が、違う、適当な事を言わないで、あなたと付き合うなんてあり得ない、と伊東の言う事を悉く否定した。また花耶の顔色が酷く悪かった事も気になったようだった。

 これだけ主張に隔たりがあると、さすがに運転手も不振に思う。職業柄、色んな人を見てきただけに、勘が働いたのだろう。運転手は何も言わずに、行き先を伊東が示した場所から最寄りの警察署に変えたのだ。しかもタクシーの上についている行灯をつけて。
 行灯は強盗などにあった時、車内にいる強盗にわからないよう、外へ緊急事態である事を示すものだ。運転手は渋滞しているので迂回しますねと言い、目的地の方角にある警察署に乗りつけた。伊東がどういう事だと不信がって運転手に問いただしたが、直ぐに署員が出てきて逃げるタイミングがなかった。運転手が警察官に事情を話した事で、ちょっとお話を…と言う話になり、花耶は寸でのところで伊東から解放されたのだった。 

 その際、生理痛からくる頭痛や吐き気だけでなく、伊東によってもたらされた過度の恐怖と緊張にさらされていた花耶は、タクシーを降りた途端その場にへたり込んでしまった。顔色が悪かったのもあってそのまま医務室に運ばれ、医務室のベッドで横になったまま事情を聴かれた。その後は迎えの人が来るまで休んでいるようにと言われて横になっていたのだが、いつの間にか眠っていたらしい。

 花耶が不審に思ったのは、花耶が警察官に伝えた迎えの相手が目の前の人物ではなかったからだった。花耶が呼んだのは本来の直属の上司の松永だった。家族のいない花耶は、前々から何かあったら自分を呼ぶようにと松永に言われていた事もあり、仕事中で申し訳ないと思いつつも、松永の連絡先を伝えたのだった。

「三原…大丈夫か?」

 珍しく覇気の欠けた口調を、花耶は不思議に思った。どうしてここにいるのだろうと思ったし、いつもの奥野の覇気に富んだ態度とはかけ離れていたからだ。ここにいるのはもしかすると伊東に呼ばれたからかもしれない、と思い至った。花耶が松永を呼んだように、伊東も奥野を呼んだのかもしれないし、抵抗した伊東に痺れを切らした警察が勤務先に連絡し、結果奥野が来たのかもしれない。
 警察官に対しても運転手に対しても、伊東は悪態をついて散々抵抗し、警察官に両脇を抱えられて連れていかれたくらいなのだ。自分は何もしていないと言い張っていただけに、話を聞いた警察官をうんざりさせた可能性は十分になるな、と花耶は感じた。

「え…あ、はい。大丈夫です」
「会社から電話があって、二人が警察にいて事情を聴かれていると言われて…」
「そうだったんですか、すみません。お手数をおかけして…」
「いや、それはいいんだが…」
「でも…今日は大事な納品の日なのに…」

 何だか随分と他人行儀だな、と会話をしながら花耶は内心で苦笑した。勿論ここは警察署の中で、誰かいるかもわからないし、迂闊な会話をするわけにもいかないから仕方ないのだが。だが、これまでの二人でいた時とは随分と態度が違い、二人の間には初対面の様な余所余所しさがあった。プロジェクトに選ばれて挨拶した時ですら、もう少し距離が近かったかもしれない。そして、いつもは自信に満ちている奥野が、何だかしょんぼりしているようにも見えた。

「その…伊東の事、すまなかった」

 そう言って頭を下げた奥野を花耶は不思議な面持ちで眺めた。何に謝っているのかと思ったのだ。別に伊東の事は奥野のせいではない。奥野は伊東の保護者ではないし、伊東だっていい大人で保護者が要る年でもない。たまたま同じ会社に勤めて、たまたま同じ部署になって、たまたまその部下の中に伊東がいたというだけだ。課長のせいではないですから…と告げると、奥野は部下の監督は上司の務めだからと言った。
 それを聞いた花耶は、ああ、そういう事か…と納得したが、それがおかしくて思わず口元に笑いが漏れてしまった。結局は、奥野は花耶よりも自分の立場が気になっているのだろう。
それはそうだ、二人の関係は麻友や熊谷を除けば誰も知らないし、奥野は新しい相手を見つけたのだ。既に奥野とは終わった関係だから、今は花耶が余計な事を言わないかを心配しているのかもしれない。部下が問題を起こした事で、監督責任を問われる可能性があるだけに、奥野としては花耶が必要以上に騒ぎ立てないかが心配なのかもしれなかった。
 馬鹿馬鹿しい、と花耶は思った。伊東がやった事は十分に迷惑で犯罪まがいだが、花耶からすれば奥野の方がもっと酷い事をしていたのだ。タクシーへの監禁と、強姦。どちらの罪が重いかなんて明白だ。
 だが、花耶は今まで一度も奥野の責任を問うた事などなかった。勿論、嫌な事は嫌だと言ったりはしたが、概ね奥野のやる事は受け入れていたのだ。告発するならとっくにやっていた。なのに目の前の御仁は、そんな事にも思い至らないらしかった。

 花耶が笑みを漏らした事が意外だったのか、奥野が戸惑いの表情を浮かべていて、ああこんな場面では笑うべきではなかったかな、と思ったが、正直もうどうでもよかった。プロジェクトは終わり、奥野の補佐をするのも残り僅かだし、そうなればもう関わる事も無くなるのだ。今更取り繕う必要もないし、そんな価値もない気がした。
 珍しく奥野が何も言わないため不審に思った花耶は、奥野が自分の首元に焦点を合わせている事に気が付いた。ああ、そう言えば気分が悪いからとシャツの上のボタンを外していたっけ、と思い出した。ネックレスをしていない事に奥野が気付いて、その事にも驚いたのかもしれない。外したらお仕置きだと言っていたし、これまで大人しく従っていた花耶がそれを破った事を意外に思ったのかもしれない。

「三原…その…」

 奥野が何か言いかけた時、ドアが開く音がして誰かが入ってきた。医師か看護師かはわからないが、白衣を着た人が対応しているのだろう。話し声が聞こえてきて、その内こちらに近づいていた気配がした。

「三原、遅くなって悪かったな。大丈夫か?」

 カーテンの隙間から現れたのは、花耶が迎えにとお願いした松永だった。花耶の姿を目にして、目じりのシワを深めて花耶に優しく微笑みかけて、次いで奥野がいた事に驚いた様だった。
 奥野、お前さんもいたのか、と声をかけると、奥野はお疲れ様ですと告げた後、申し訳ありませんでしたと松永に頭を下げた。温厚で優しいお父さんと言った雰囲気の松永を相手に、大きな身体を小さくして謝る姿は意外なものに見えたが、松永は、ああ、それは後で、と言って奥野を制すると、花耶に向き合った。

「三原、調子はどうだ?」
「あ、はい…ここで横にならせてもらったおかげで、大分楽になりました」
「そうか、ならよかった。あのたわけの事なら心配いらない。暫くは出社禁止の上で自宅謹慎にしておいた。警察沙汰になったんだから当然だが。とは言え、今回のことくらいでは罪に問うのも難しいし、頭が痛いんだが…」
「いえ、未遂でしたし、罪には…」
「そうは言ってもなぁ…あのバカはまた同じ事をするかもしれんから。警察の人にも話を聞いたが、全然反省しておらんらしいし、面倒な奴だ」
「そんな…」
「大人しいタイプかと思ったけど思った以上に強情やったな。警察も反省を促そうってんで、お泊りコースになってたわ」
「…そう、ですか…」

 予想はしていたが、やっぱり反省していなかったか、と花耶はまた胃に冷たくて重いものが溜まっていく感じを覚えた。あの妄想から冷めないのであれば、同じ事を繰り返すだろうことは容易に想像できた。プライドが高いだけに、今回騒ぎになった事で余計に意固地になっている可能性もある。ああいうタイプはストーカー化しやすいから気をつけなければいけないが、ここまで拗らせたのは想定外だった。
 これまでに何度も変質者につき纏われた事はあったが、伊東も言っている事もやっている事も大差なかった。とはいえ、何人経験しようが対処が面倒である事は間違いなかった。一番いいのは伊東と徹底的に離れる事だ。伊東が花耶を探す事も出来ないくらい離れれば、伊東だってどうしようもない。

 しかしそうなると、花耶は仕事を辞めて引っ越しもしなければいけなくなる。今ある仕事を手放さなければいけないのだ。だが、それが容易でない事は明白だった。そもそも被害者の自分が、どうしてそんな不利益な目に遭わなければいけないのか…

「でもまぁ、今はとにかく休め。今週は出てこなくていいから」
「でも…」
「なぁに、もうプロジェクトは終わったんだし、三原がいなくても何とかなるから。なぁ、奥野?」
「あ、はい、大丈夫です」
「というわけだ。調子が悪いなら医者に行け。身体を大事にせんと、いざという時困るのは自分だからな」

 花耶はさすがに残り二日も休むのは…と気が引けたが、奥野があっさり了承し、松永に重ねて休むように言われてしまうと、花耶はそれ以上何も言えなかった。

「何かあっても、俺らがちゃんと対処するから。三原、お前さんは娘みたいなもんだから、何かあったらいつでも言いなさい」
「課長…」

 穏やかで温かみのある笑みを浮かべて諭す松永に、花耶は何かが溶けていくような感覚を覚えた。途端に手にぽたぽたと何かが落ちてくるのを感じると、よしよし、怖かったな、もう大丈夫だからと言って松永が花耶の頭を撫でてきた。その手からじんわりと温かさが伝わってくるの感じると、より一層止まらなくなった。人前でみっともないと思うのに止められないそれに、花耶は奥歯をかみしめて必死に声を押し殺した。

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