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一章

上司の片思い

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 さらっと言われたが、今、とんでもない事を言わなかったか?
 プライベートな事とは言え、奥野に好きな女性がいるなど、社内では今年のトップニュースになりそうなくらいのネタだった。そんな事をあっさりと言われた事にびっくりして花耶は奥野を見上げた。

「何だ?俺に本命がいちゃ変か?」
「いえ、そういうんじゃないんですが…その、意外と言うか何と言うか…」

 奥野は独身で三十二歳。結婚するのに適した年齢でもあるし、確かに変ではない。実際、高身長のイケメンで仕事も出来るから、鬼教官の噂を差し引いてもファンは多いし、取引先の間でも人気だと聞く。
 ただ、会社では狙った案件は逃さず、確実に契約にこぎ着けると評判だったため、花耶としては片思い状態でいる事が意外だった。奥野だったら狙いを定めたらあっという間に口説き落としていそうなイメージだったからだ。
 驚く花耶に対して、奥野は、何かどう意外なんだ、と呆れたように眉間のシワを深めて苦く笑った。さすがに今のは上司相手に失礼だったと思うも、一度出た言葉は取り戻せない。すみません、と謝ると、奥野に苦笑されながら別に謝るほどの事じゃないと返されてしまった。

「そんなに意外?俺に好きな相手がいるの?」
「い、いえ…そんな事は…」
「ふ~ん、でも、思いっきり意外だって顔してるぞ」
「それはその…片思いなのが意外と言いますか…」
「何だ?俺が片思いしてるのが変か?」
「変と言うか、その、課長なら好きな人が出来たらさっさと口説き落とされているかな、と…」
「その言い方だと、俺が節操なしに聞こえるんだが…」
「いえいえ、そんなんじゃなくてですね。狙った案件は確実に落とすと言われている課長ですから、恋愛もそうなのかと…」

 失礼とは思いながらも、圧に負けて思った事をストレートに言ってしまった。色恋沙汰が仕事と同じな訳ないだろう…と残念な子を見る様な眼で見られたが、花耶としては社内の評価もそうなんだけど…と心の中で言い訳をしてみた。さすがに上司相手にそこまでは言えないが。妙に喉の渇きを感じたため、花耶は手にしていた缶酎ハイで喉を潤した。
 一方の奥野は、はぁと大袈裟にため息をついて、いかにも頭が痛いと言う風に額に手を当てて、いったいどんな風に見られているんだ…などと呟いていたが、その様子からどうやら本当に思う相手がいるらしい事が伺い知れた。

「あの、すみません」

 上司相手に態度が悪かったと思った花耶は、気を悪くさせたかもしれないと思い謝った。確かに花耶の反応は失礼とも取られる類のものだったし、上司に対してとっていい態度ではなかった。
 そんな花耶に奥野は、ああ、別に怒ってるわけ訳じゃない、と今度は奥野が困った様な表情で、花耶の頭をポンポンと軽く叩き、そんなにかしこまる必要ないから、と笑った。その仕草から気分を損ねた訳ではないとわかり気が軽くなった。

「ま、確かに自分でも意外だと思うんだから、そう思われても仕方ないけどな」

 自嘲気味にそう言った奥野は新しいビールの中身を一口飲んだ。自覚遭ったんだ…と思いながらも、先ほどの事もあって花耶は迂闊な事も言えず、黙って奥野の言葉を待った。間が持たなくて、仕方なく手にしていた缶酎ハイをちびちびと舐めるように飲んだ。

「誰だと思う?」
「…は?」

 次の言葉を待っていた花耶に投げかけられた言葉は、花耶が予想していたものと大幅にずれていた。花耶は咄嗟に何を言われているのかわからず、口を半分開けたまま奥野を見やった。

「誰って…?」
「俺の好きな相手」

 そう言う奥野には、先ほどの自嘲めいた表情が消え、今度は楽しげな笑みを浮かべていた。花耶が何と答えるのかを面白がっている風にも見える。この話は会社の女性陣がこぞって知りたがっている事だと思うと、社内の人間関係に興味がない花耶でも興味がわいてきた。

「き、聞いてもいいんですか?」
「そうでなかったら話題には出さないな」

 そう言われてしまえばその通りかもしれない。この手の話には不用意に立ち入るべきではないと思っていたが、相手が話したいと言うのなら問題はないのだろう。確かにハイスペックで社内でも人気のある奥野の好きな相手となれば、他人に興味の薄い花耶でも好奇心が湧いてくる。

「私が知っている人ですか?」
「まぁな」

 話題に食いついた花耶を面白そうに眺める奥野にそう言われて、花耶は考え込んだ。奥野ほどの好条件の男性でも直ぐに手が出せない相手、となるとかなり高スペックの相手ではないだろうか。

 社内だと一番人気の秘書課の倉橋だろうか。確か二十七歳で背が高く、知的な印象の涼しげな美女だ。見た目も年齢的にも釣り合うし、絵的にも目の保養になる。ただ、奥野が恋焦がれるかとなると微妙だ。確かに倉橋は美人だが、仕事の評判はあまり良くなく、そんな相手に奥野が入れ込むとも思えない。
 じゃ社で二番目の美人はと言えば、これまた秘書課所属の受付の毛利だ。秘書課は選考基準が顔かと思われるほど容姿が整った者が多く、毛利は倉橋とは正反対の可愛らしい顔立ちで、守ってあげたくなるような可憐さも持ち合わせている。入社二目の二十四歳で花耶の一つ上だが、花耶から見ても可愛いと思ってしまうほどだ。ただし、こちらは見かけに反して肉食女子と有名で、すでに社内に何人かの元彼がいるとも聞く。彼女もまた倉橋と同じ理由で可能性が高い様には思えない。

 となると、やはり社長の一人娘だろうか。社長の一人娘は斉木真尋と言い、現在営業二課の係長をしている。見掛け倒しの倉橋と違い正真正銘の知性派美人だが、ショートカットで中性的な印象が強く、女性らしさはあまりない。営業で能力を発揮し、男性と同じかそれ以上の成果を上げている。社長は能力がない者に継がせる気はないと断言しているが、一花はそれを実力で認めさせようとしているバリキャリだ。一方で、社長令嬢にありがちな驕慢な面はなく、気さくでフレンドリーで男女共に人気がある。年も二十八歳と奥野との釣り合いも取れている。

「えっと、二課の斉木係長、ですか?」
「いや、違う」
「ええ?じゃ…秘書課の倉橋さんとか毛利さん?」
「どっちも違うな」

 花耶の中の有力候補はあっさり否定されてしまった。こうなると、見た目は関係ないのだろうか。それともイメージに反して包容力のある母性的な年上の女性か?その前に、社内の人間とは限らない。取引先か、またはそれ以外か…取引先で花耶が知っているとなると、出入りの業者くらいだが、花耶が知る限りでは年齢的に釣り合う相手は思い浮かばない。ほとんどが男性で、女性だとかなり年が上だ。 
 本気で考え込んでしまった花耶に、奥野が面白そうに、本当にわからない?と聞いてきたので、花耶は素直にわかりません、と答え、ダメ元でヒントをねだってみた。奥野はヒントねぇ…とニヤニヤしながら花耶を見ていたが、そうだなぁ…と花耶の要望にこたえる気になったようだった。

 奥野曰く、一つ目は奥野より九歳下、二つ目は社内の者、三つ目は小柄との事だった。九歳年下と言えば、花耶と同じ二十三歳になる。花耶のいる本社で同じ年なのは、麻友以外に四人いて、その中で小柄と言えるのは麻友と営業一課の事務の吉沢、総務の西谷の三人だ。この三人の中で…となると、接点がほとんどない麻友や総務の西谷は可能性が低い。やはり同じ営業部だろうか。

「営業一課の吉沢さん、ですか?」
「違うな」
「じゃ、総務の西谷さん?」
「違う」
「え!」

 そうなれば、残されたのは同じ経理の麻友だけだ。まさか麻友だとは思わず、大きな声が出てしまった。接点があるようには見えなかったが、花耶から見ても麻友は可愛らしく、仕事も真面目で性格もいい。本人は奥野に苦手意識を持っていると言っていたが、年上が好きだとも言っていたし、素の奥野を知れば上手くいきそうな気がする。親友としても奥野が相手なら賛成だ。最近奥野が花耶に声をかけるようになったのも、麻友の事があったからか。そう思うと納得だった。
 奥野を見ると、にやにやしながら花耶を見ている。これは、麻友との間を取り持って欲しいと言う事だろう。

「麻友だったんですね。わかりました。課長ならいいです。私も協力します!」
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