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第8章 Side 小泉

第15話 大胆な彼女

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今日も商談と取引先とのやり取りに追われた一日だった。新作の買い付け交渉は順調に進んでいる。このままいけば良い結果を残せるだろう。

少し前に昇進の打診があった。俺の仕事ぶりを会社が認めてくれたのだ。ありがたい話だったが断った。何故なら、俺は作品を買い付ける、という今の仕事が好きだからだ。管理職に就いてしまったらもう現場の仕事はできない。社長にその話をすると、残念そうな顔をしながらも理解してくれた。俺は昇進を蹴っても現場で仕事をすること選んだのだ。

会社を出たらすっかり外は暗くなっていた。頭上にはふたつの月。この間、珠喜と見た時は三日月だった。が、心なしか今日の月は少しだけ丸みを帯びているような気がする。嫌でも時の経過を感じさせ、不安になった。

俺はまだ、珠喜がこちらに来た理由を知らない。初めは知らなくてもいいと思っていたが、今は知りたくて仕方がない。だが、今更自分から尋ねることはできそうにない。軽い人間なら軽いノリで聞けるのかもしれないが、生憎あいにく俺はそんな人間ではない。だが、理由を知ったところで一体何になるのだろう?ここに残るか、あちらに戻るのかは彼女が決めることだ。

それに、彼女に理由を聞いたら流れで俺自身がこちらに来た理由を話さなければならなくなる。それは避けたい。いずれ話さなければとは思っているが、今はまだ話す気にはなれない。とは言っても彼女に残された時間はもうあとわずかしかないが……。

最寄り駅につき、ホームで電車を待つ。スマホを確認する。仕事のメッセージが数件。珠喜からの連絡はない。家を出た後に小まめにスマホをチェックするのが最近の日課だ。それは間違いなく彼女の存在によるものが大きい。仕事の関係で珠喜と出会う前からスマホはチェックするようにしていたが、今は明らかに頻度ひんどが増えた。スマホに彼女からのメッセージや着信があってもなくても常に不安だった。

(何もないということは問題ないということ……いや、もし事件に巻き込まれてスマホを触れない状況だったら……)

そんなことまで考えてしまい、一人で勝手に不安になった。そして家に帰って「おかえりなさい!」と出迎えてくれる花が咲いたような彼女の明るい笑顔を見ると心底ホッとするのだ。彼女と出会ってから8日が経つが、今や俺にとって彼女は安らぎを与えてくれる存在だった。それは果たして「恋心」なのか、単なる「信頼」なのかは自分でもよく分からない。

例えそれが恋心だとしても俺はそれを認めたくなかった。いや、認めるのが怖いのだ。もしも仮に彼女と両想いだとしても一歩を踏み出すのが怖い。また裏切られて傷つけられたらと思うと……。あんなに辛くて苦しい思いはもう二度としたくなかった。ただ、珠喜とはこれからも一緒に生きたい。そういう漠然ばくぜんとした思いは抱いていた。

(もしも、俺がそばにいて欲しいと言ったら、あいつはどう思うだろう……)

その時、ホームに電車が滑り込んで来た。満員の車内から人が次々に降りていき、また大勢の人が乗り込んでいく。ドアの前に立つと、窓ガラスに自分の姿が写り込んだ。珠喜は俺のことを「50歳に見えない」とか「かっこいい」などと褒めてくれるが、仕事の後のやつれた顔を見ると、途端に自信がなくなる。頬を手でこすりながら俺は思った。

(珠喜とは年離れ過ぎてるしな……。それに、あいつの褒め言葉だって建前たてまえかもしれない。本当は「おっさん」だと思っているが、口に出さないのかもしれない。あいつの色仕掛けだって、きっと俺をからかってるだけなんだ……)

電車が横浜駅に着き、とぼとぼと歩いて帰路に着いた。玄関で靴を脱いでいると、珠喜がキッチンから飛んできた。

「賢弥さん、おかえり!」

彼女の明るい笑顔に、沈んでいた心に明るい灯がともった。初めて会った時に着ていたワンピースの上に俺が買ってあげたエプロンをして、ニコニコと俺の顔を見つめている。

「……ただいま。今日の夕飯はなんだ?」

「ええー!忘れちゃったの?!トマト鍋だよ!ほら、井伏さんの土鍋使うって約束したでしょ?」

「ああ、そうだったな」

珠喜が家事を担当し、料理を覚えると宣言してから数日が経った。肉じゃがのじゃがいもを丸ごと入れたりと、たまにとんでもないことをするものの筋は良いようだ。俺が教えたレシピや覚えたてのこの世界の言語を使ってレシピを検索し、次々に新しい料理を覚えていった。最近は俺が帰宅するともう既に夕飯が出来上がっているほどだった。

今日の気温は20度前後。朝晩は少し肌寒い日もあるが、すっかり暖かくなった。めっきり春らしいこの陽気に熱々の鍋を二人でつつくというのは何とも滑稽こっけいだが、悪い気はしない。トマト鍋は野菜や鶏肉をふんだんに使い、トマトと調味料で味付けをしたスープで煮込む鍋だ。寒い冬に食べるポトフに似ているかもしれない。

「いただきまーす!」

珠喜は早速、じゃがいもを口に入れた。肉じゃがの一件から学習したようできちんと手頃なサイズに切ってあった。

「ん~!我ながら美味しい!」

「うん、ホクホクしてるし、スープの味が染みていて美味い。腕を上げたな、珠喜」

さり気なく言ったつもりだった。だが、彼女は酷く驚いたようで箸を運ぶ手が止まった。目を丸くして俺の顔をじっと見つめている。

「えっ?今、なんて言ったの?」

「腕を上げたなって言ったんだ」

「違う、その後」

俺は何も言わずに人参を口の中に放り込んだ。

「ちょっと!スルーしないでよ!」

「ただ名前を呼んだだけだ!別に改まって言うことじゃねえだろ!」

「もう!賢弥さんったら分かってない~!初めて名前を呼ばれるのってすっごく嬉しいんだから!」

珠喜は皿をテーブルの上に置いて力説した。俺はその間せっせと鍋の具を口に運んだ。

「……という訳だから、もう一回アタシの名前、呼んで?」

「……」

「ねえ、呼んでってば!」

「……」

珠喜は立ち上がった。何をするのかと思って様子を見ていると、突然、俺の首筋に腕を回して抱き付いて来た。

「な、なにすんだ?!」

酷く驚いて動揺していると、彼女は俺の耳元にそっと唇を寄せてこう囁いた。

「顔見えない。これなら恥ずかしくないでしょ?ほら……早く」

それは俺がこれまで受けた色仕掛けの中で最も大胆なものだった。俺の想像の中の彼女はこれよりももっと激しく大胆だったが、あれは所詮しょせん、俺の中の妄想に過ぎない。これが現実だということが信じられなかったが、ここまでされてはこれ以上こばむことはできそうにない。

(くそ……こうなったら……)

思い切って彼女の背中に腕を回した。柔らかな胸の感触をダイレクトに感じ、体が熱を帯びて来るのが分かった。本当はこのまま妄想通りの展開に持っていけたらいいのだが、現実でそんなことをすればきっと警察を呼ばれて両手が後ろに回ってしまうだろう。彼女の攻めに屈するものかと妙な闘争心を燃やし、俺は珠喜の耳元に唇を寄せ、わざと低い声で囁いた。

「……珠喜、よく頑張ったな」

その瞬間、彼女の体がピクンと震えた。内心「勝った」と思った。一体何に勝利したのかよく分からないが。珠喜はしばらく俺の首筋に腕を回したまま固まっていたが、やがてゆっくりと体を離した。その頬は真っ赤に染まっていた。

「も、もう……賢弥さんってば……いきなり本気出さないでよ。びっくりしたじゃん」

「何言ってんだ。お前がやれっつったんだろうが」

「そ、そうだけどさ……」

珠喜はそう言いながら両手を胸の前に持ってきて、頬を染めたままもじもじしていた。

(かわいい……)

思わずそう思ってしまってハッとした。

「おい、鍋冷めちまう。さっさと食ってシメるぞ。白飯と卵を入れてオムライス風にするんだろ?」

「そ、そうだったー!」

それから俺達はせっせと具材を口に運び、シメまで綺麗に平らげた。一緒に後片付けをしながら、珠喜が感慨かんがい深げに言った。

「井伏さん、喜んでくれてるかなぁ」

「ああ、きっと見てるさ。もしかしたらすぐそこにいるかもな」

「あははっ!じゃあ、アタシ達のさっきのやり取りも見られちゃってるね!」

「……それは恥ずかしいな」

彼女は楽しそうに笑った。俺は何とも言えない幸福感を覚えた。ずっとこのまま珠喜と一緒にいられたらどんなに幸せなのだろう。
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