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それを言われたのは
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◇◇◇
オールソーツはカフェタイムが終了し、バータイムの準備をしているところだった。準備のために来るスタッフはまだ出勤前で、店には俺、沙枝姉さん、後藤さんだけがいた。
後藤さんは普段はあまり店に顔を出すことは無いのだが、今日は俺が話をしたいからと言って呼び出した。忙しいところに急な連絡を入れたにも関わらず、二つ返事で承知してくれた。沙枝姉さんも「早く行けばいいだけだから」と言って、すぐに来てくれた。
俺はブレンドを三杯淹れてカウンターに並ぶ二人の前に並べ、自分は提供側に立ったまま話すことにした。
「わざわざ店に来てくれって言ったってことは、今日確実に話しておきたいことだったんだろう? 何かあったのか?」
淹れたてのコーヒーを啜りながら後藤さんが俺を見つめている。隣で沙枝姉さんがそれに大きく頷いていた。俺もコーヒーを一口含んで、それをゆっくりと飲み込んだ。鼻から息を抜き、香りを楽しんで心を落ち着けていく。
「実はさっきリョウから電話があって。実家のホテルに滞在させているんですけど、そこで鈴井玲央に遭遇したらしいんです」
俺はそこまで話した後に、優希が鈴井玲央を名乗る男に狙われている可能性があることを、二人に話していなかったことに気づいた。それを説明しようと口を開きかけた時に、何かを思い出したらしい沙枝姉さんが口を挟んできた。
「へえ、警察って連休中は普通にお休みなのかな。しかも咲耶荘って高いでしょ? 燁さんを連れて行くならその中でもさらにいい部屋だろうし、そんなに給料いいのかな」
沙枝姉さんはバータイムに何度も鈴井にあっているので、顔も名前も一致している。あのプラチナブロンドのミドルヘアの男を鈴井だと認識していた。だから里井が鈴井を名乗った時に、すぐに偽者だと気がつくことが出来た。
あの日、店にいたのが俺だけだったとしたら、鈴井が偽物だということはずっとわからなかったはずだ。
「姉さん、あの男、本当に鈴井玲央って名前なの? リョウとミドリが、あの人も本当は鈴井玲央じゃないんじゃ無いかって言ってるんだよ。そう考えるのが自然だって。だとしたら、なんで偽名使ってるんだろうね」
すると沙枝姉さんは後藤さんと顔を見合わせてポカンとしていた。後藤さんはカウンターの中にいる俺の方を向いて、信じられないという顔をした。
「お前昔から変わってたけど、ビジネスやるなら少しは一般人と感覚合わせておけよ……。あの人は、鈴井玲央に似てるからそう呼ばれてんだよ。『ブレイカー』の鈴井玲央。ドラマの役名だよ。本当に知らないのか? もう一人については、俺は知らないからなんとも言えないけどな」
「『ブレイカー』って吉良燁の? じゃあ、鈴井玲央はドラマの役名ってこと? いや、確かに俺全くテレビ見ないから……。そういえば、リョウもミドリもサトルも見ないな。優希は見るだろうけど。え、じゃあ役に似ててなりきってるってこと? だったら別にもう一人いてもおかしく無いじゃん。偽物が来た時の違和感はなんだったの? まあ、なりきってること自体を俺は理解出来ないけどね」
いくら自分が似ているからと言って、ドラマのキャラクターの名前を名乗ったりするのだろうか。俺にはそれは信じ難いが、事実としてあるのであればそれはそうなのだろう。
沙枝姉さんは顎に指を当てて遠くに視線をやり、しばらく逡巡していた。そして、何かを思い出したのか、パンと手を合わせた。
「そう言われたらそうなんだけど……あ、でもね、燁さんが店に連れて来る人で玲央って呼ばれてるのは、いつも一緒に来るあの人だけよ。だからおかしいと思ったのかもしれない」
「ああ、そうなんだ。それならわかるよ。あの男ね、サトルがいる研究所の事務員だったんだよ。しかも優希が入院中に何度も睡眠導入剤の追加してて、優希が目覚めなかった原因を作っていたんだ」
「えっ? それどういうこと? 鈴井2号が優希くんの命を狙ってたってこと?」
二人は怪訝そうな顔をして俺を見た。俺はそれに被りを振りながら答えた。
「サトルが言うには、それなら何度もチャンスはあったはずだって。でも眠らせてただけなんだよ。だから、あいつの狙いは全くわからない。ただ、入れないはずの場所に入って来てまでサトルに嫌味を言ったり、何かをしようとしていることには間違いが無いみたいなんだよね」
「入れないはずの場所って、研究所内でってこと? それって誰かが協力してないと無理じゃない? 他にも怪しい人が研究所にいるってこと?」
「里井の……あの男里井って言うんだけど、里井の入室に関しては向井さんが協力してたみたいなんだ。店によく来るだろ? ダクレイズの向井さん。でも、向井さんが里井に協力する理由が何であるかも分かってないんだ」
「向井……?」
一人で静かにコーヒーを飲んでいた後藤さんが、向井さんの名前にぴくりと反応した。
「俺、最近どこかで向井という名前を聞いたな。確かあまり気持ちのいい話じゃなかったぞ……」
そう言って、後藤さんも姉さんと同じように顎に指を当てて考え込んだ。そして、俺の方をチラリと見たかと思うと、思い出したようで「あ」と言いながら、なぜか俺の方を指さしていた。
「そういえば、最近蓮さんに会ってな」
どうやら俺の顔を見て蓮兄さんを思い出したらしい。それくらい俺たちはよく似ている。兄は後藤さんとは青年実業家として交流がある。念に一、二回は会合で顔を合わせる仲だ。
「起業家セミナーみたいなのに時々呼ばれるそうなんだが、そこで知り合った男が、特殊性癖のある人間をターゲットにした金儲けを考えているとか言う胸糞わるい話をしていたらしいぞ。その男、佐藤の治療チームにいたやつだったらしいんだ。そいつの名前が確か向井だったぞ! そう、写真もらったんだった。葵に伝えておこうと思って」
スマホの写真データを漁ってその男を探す後藤さんに向かって「特殊性癖……なんかわかんないけど、腹がたつ言葉ね」と沙枝姉さんは呟いた。俺もそう思った。あの仕事をしている人間が使うにしては、侮蔑の意味が強いように思ったからだ。
「お! あった。こいつだ。この男、前科があるんだろ? いくら有能だからって、前科あって危険思想がまたぶり返してるようなら、再治療するべきなのにな」
そう言って、差し出した写真の男を見て、俺と沙枝姉さんは驚いた。
「向井さんだ……間違いない」
犯罪抑止力強化チームVR制作担当の向井が、特殊性癖のある人間をターゲットにした金儲けを企んでいる……それが優希の危険とどう繋がるのかはわからない。わからないが、サトルには知らせておいた方がいいと言うことだけはわかった。
新婚旅行中に気の毒だが……と思いつつ、俺はすぐにサトルに電話した。
◇◇◇
「サトルー、スマホ鳴ってるよー」
到着してから少しくつろいだ後、二人で露天風呂に入っていた。優希はのぼせそうだからと一度外へ出て涼むと言う。岩風呂の岩に腰掛けて水を飲んでいた優希が、部屋の中で震えているスマホに気が付いたらしく、まだのんびりと温泉を堪能している俺に声をかけた。
俺は左肩の上で髪をまとめて結ぶと、邪魔にならないようにくるっと丸めた。そして、もう一度体を湯船に浸けて空を見上げた。
「電話ー? 新婚旅行中だぞ、出なくていいだろ。ほっとけよ」
俺はそのまま水平線を見ながらぼーっとしようとしていた。視界の端で、優希が俺のスマホのディスプレイを確認している。どうするのかと思いきや、珍しく俺に無断で電話に出てしまった。
——あいつが勝手に出るってことは、葵か?
そう思いながら耳をそばだてていると、思った通りに優希が葵の名前を呼んでいるのが聞こえてきた。
「もしもーし、葵? サトルはお風呂を堪能中で、電話に出たがりません!」
そう言ってペタペタと歩きながら露天まで戻ってくると、俺の前で仁王立ちした。優希は今露天風呂から上がったばかりなので、腰にタオルを巻いただけの姿だ。俺はそれを横目で眺めながら、勝手に電話に出た仕返しに、そのタオルを剥ぎ取ってやろうかと考えていた。
「え? うん、うん。そうなんだ、わかった、じゃあ……」
優希は葵との会話に集中し、完全にこちらへの注意を逸らしていた。俺の手がタオルに伸びていることには全く気がつかずにいる。俺はそのままそのタオルにグッと指を引っ掛けた。
「サトル……」と優希が振り返ったタイミングで、ぐいっと勢いよくそれを引き抜いてやった。
「ぎゃーっ! ばっ……何してんの!」
優希がそう叫びながらしゃがみ込んだので、俺はその手からスマホを取り上げた。ディスプレイを眺めながら、また良くない知らせだろうかと深いため息をつく。
そして、無遠慮な連絡をしてきた葵に向かって、大声で話し始めた。
「葵! お前なあ、子供の面倒みること以外にもまだなんかさせるつもりなのか? やっと取れた休みだぞ!」
半ギレの俺は、スマホ越しに葵にくって掛かった。優希はそれを見て笑っていた。なんだかんだ言っても、俺が葵のことを大切に思っていると知っているからだろう。
『サトル、今後藤さんから聞いた話なんだけれど……』
しかし、葵が話し始めた内容を聞くにつれ、俺は半ギレどころではなく完全にキレてしまった。全裸のまま湯船から飛び出ると、体も吹かずにそのまま部屋の中へ入っていった。
「なんだと!? 向井がそんなことを言ってたのか!?」
『そうらしいんだ。向井さんの写真も見せてもらった。あの向井さんで間違い無い。この情報の提供元は蓮兄さんらしい。信憑性は高いよ』
「この研究に関わっている人間が情報を悪用してるってことか!? そんなの有り得ないだろう?」
『俺だって信じられないよ。でも、向井さんは前科持ちだろう? 可能性が無いとは言い切れないから……』
確かに、葵の言う通りだった。だから俺が研究に参加させてもらった当初、俺は向井の起用には反対していた。
しかし、上の人間が向井は積極的に治療を受けていて、プロジェクトに参加することで差別をなくしたいと言う意向をごり押ししてきた。その結果、所長と俺より上の管理職全員がダクレイズとの契約を了承してしまった。
当時、その妙な結束力に俺は違和感を持っていた。もっとそれを問い詰めておけば良かったのかもしれない。
もしそこに向井の言うビジネスが関わっているなら、上の人間は自分たちの私利私欲に俺たちの研究を悪用していることになる。それを考えると、どうしようもなく怒りが湧き上がってしまい、それを隠すことが難しくなってしまった。
しかし、それもまた一つの問題だった。俺が怒り狂って怒鳴り声を上げたことで、優希に悪影響を与えてしまった。いつの間にか、優希は全裸のままバスタオルを握りしめて、うつ伏せに倒れていた。
——しまった。フラッシュバックだ。
「悪い、葵。掛け直す!」
俺は一方的に通話を終え、スマホをベッドの上に投げ捨てた。そして、倒れたまま痙攣している優希の元へ急いだ。
「優希。悪い、怖かったな。ごめん、ごめんな。泣いてくれ、頼む!」
俺の怒鳴り声が、優希の継母の怒鳴り声を思い出させてしまったのだろう。倒れたまま小さな声で「ごめんなさい……」と何度も繰り返していた。そしてまた、恐ろしいと感じているのに「泣いてはいけない」という呪いにさらされていた。
たとえ自分が原因であったとしても、優希が泣くためのルーティンをしてあげられるのは、俺しかいない。右頬に手を触れ、左手の指輪を鳴らす。何度かやったルーティンだが、自分が原因を作ってこれをやる日が来るなんて……と、激しく後悔した。
しっかり定着し始めたのか、終わる頃には優希は子供のように泣き始めた。そして、しばらくの間泣き続け、その後静かに眠った。
「ごめんな」
優希をベッドに眠らせて、布団をかけた後、頬にキスをした。ぐっすり眠っているのを確認して、俺は葵に電話をかけ直した。
『もしもし』
葵の声は暗かった。さっきも面白く無い話をしていたが、それとは比べ物にならないほどに、ずっしりと重たい空気を纏った声だった。
『優希は大丈夫? フラッシュバックだったのか?』
「ああ、そうだった。でももう眠らせたから大丈夫だ。それより、どうした? さっきと全くテンションが違うじゃないか」
『うん……』
俺がそう訊ねても、葵は少し言い淀んでいた。しばらく沈黙した後、ハーッと大きく息を吐いて、意を決したように話し始めた。
『あのさ、優希を狙っている人がわかったかもしれないよ』
葵はそういうと、深くて辛そうなため息をついた。
「は? 向井の話じゃないのか?」
俺は話が見えずにいた。さっきは向井が胸糞悪い商売をしようとしているという話をしていたはずだ。それが短時間でどんな風に飛躍したのだろうか。
葵は、酷く疲れた声で『向井さんの話と繋がってるんだよね……』と続ける。
『鈴井玲央について話していたときに、「ブレイカー」に打ち切りの話が出ていたって沙枝姉さんが言い始めてさ。その打ち切りの話が出た時に、吉良燁が優希に向かって言った言葉ってのを今聞いたんだ。それがさ……』
葵は、思うところがあるのか、次の言葉がなかなか口から出てこないようだった。仕方なく沙枝さんがつづきを引き取り、電話口で横から話を続けてきた。
『私から彼を奪うのは許さない。彼を失うわけにはいかないのよ! って言ったの』
その言葉を聞いて、俺はスマホを落としてしまった。ゴトっと音がして、スピーカーから『サトル! 大丈夫か!?』という声が聞こえてくる。
——彼を失うわけにはいかないのよ!
それを言われたのは、俺だ。左の脇腹の傷がズキっと傷んだ。嫌な汗が流れてくる。あの女は、吉良だったのか? つまり、俺を刺したのは碧の母親?
俺は碧には会った事があっても、その母親には面識が無い。優希の担当している作家だと言うことは知っていても、仕事の関係者に会ったことがあるのは、高橋だけだったからだ。
——なんで俺を指す必要があったんだ?
呆然としている俺に、葵が電話の向こうから声をかけ続けていた。
『サトル!? おい、聞こえてるか!?』
葵の声が耳に届いて、ハッとした。俺はスマホを拾い上げて、葵に問いかけた。
「ああ、大丈夫だ、聞こえてる。じゃあ、俺を刺したのは……吉良燁ということになるのか?」
『可能性は高いな。何か物証が一つでも見つかれば確定だろうな。物証つっても、何も見つかってないみたいなんだけど……』
確かにそうだろう。証言だけなら、吉良が犯人だと言うことになる。でも、俺はまだ納得がいかなかった。
小説の打ち切りが嫌で、担当編集だった優希を狙っていたというなら、話はわかる。理解は出来ないが、そういう奴もいるのかもしれない。ではなぜ、俺が狙われたのか。それを考えているうちに、ハッとした。
「葵、お前、優希を狙っている人物が分かったかもしれないって言って、今の話を始めたよな?」
葵は短く「そうだ」と答えた。
「あの日、俺たちは婚約することになっていた。その日に俺を狙ったと言うことは、とにかく優希に嫌がらせをしたかったと言うことか。つまり、逆恨みだったってことか?」
葵は、何も言わない。おそらく、葵たちはそう結論づけたのだろう。
優希は編集者として担当している作家から、打ち切りを根に持たれて狙われていた。その作家は、暗がりで優希を刺し殺そうとして、間違えてサトルを刺した。二人は直前まで一緒にいたのだから、可能性はなくも無い。そして、結局俺が死んだとしても嫌がらせになりうるから、それはそれでいいと思ったのかもしれない。
「じゃあ、葵の家に優希が倒れていたのは……?」
『それはまだ分かってない。でも、もし吉良燁の自宅で狙われて、うちに運んだんだとしたら、移動は可能なんだよ。うちと吉良の家は隣同士だからな』
そうなると、なぜ優希は吉良の家に行ったのかということと、倒れた優希をどうやって運んだのかという謎は残る。
「家に行ったのは、担当編集だからな。打ち合わせとでも称して呼び出したとしても不思議はない。ただ、優希は細身だが、一応男だから。吉良……碧のお母さん、痩せてるだろう? 運べるか? 気絶した男を二人も」
『そうだ、そこがまだ解決していない。それに、突発的な衝動で殺意が湧くならわかるけれど、そんなに長期間恨み続けるか? っていう疑問もある。まあ、俺には殺人を犯そうとする人間の心理なんて到底理解できないけれど』
近づいたようで、いくらか疑問が残っている。その疑問が解決しない限り、ミドリのお母さんが犯人だと言い切れるのは、俺を刺したことだけだろう。
「向井の話と繋がっているって言うのは?」
『それは……』
葵は再び押し黙ると、鼻を啜るような音が聞こえた。どうやら泣いているようだ。俺に気を遣って泣くほどのことがあるとすれば、それは研究の悪用のみだろう。もうこれ以上、驚くことも無いような気がしている俺は、葵を宥めるように言葉をかけた。
「葵、もう気を遣わずに分かったことは全部話せ。ショックを受けるのも落ち込むのも、後でいくらでもできる。今は真相を解明したい」
葵は俺のその言葉を聞いて、ポツリと一言『さすが研究者だな』と言った。そうだ、俺にとっては何よりも真相の解明に興味がある。たとえそこに辛い現実が待ち受けていても、それを避けて本当のことを知らないまま過ごすなんて言うことは、出来るわけが無かった。
『向井さんが研究を悪用して、誰かを意図的に操るものを作っているとしたら……。鈴井玲央が二人いる理由もわかる気がするんだ』
そして、ミドリが感じた違和感を俺に説明してくれた。何度も会ったことがあるはずなのに、まるで知らない人のように接してきたナカノと言う名前の鈴井玲央。その態度に説明がつくのだという。
俺は頭を抱えた。確かにそれは可能かもしれない。今利用している原理を考えると、逆をいくことは可能だろう。
「犯罪者を減らすための研究で、犯罪者の欲を満たすものを作っていたってことか。とんだ間抜けだな、俺たちは」
俺は情けなくなってしまい、言葉が続かなくなってしまった。葵は『そんなこと言うなよ』と言ってくれたが、それ以上はお互いに話すことができなかった。
「とりあえず、今日はもう誰も部屋から外には出さないようにしておく。食事も蓮さんが気を利かせて部屋食に変えてくれているんだ。リョウとミドリには、部屋から出るなと最初に言ってあるから、大丈夫だろう」
俺の言葉を聞いて、葵はあははと笑いながら切り返した。
『高校生の男女二人が同じ部屋にいて、ずっと外に出られないってなると、保護者としてはちょっと複雑だけどな。それは聞かなかったことにしておこう』
俺もそれを聞いて、「すまない。配慮が足りなかったな」と笑った。
どれほど苦しくても、笑うことができる強さがあるのは、ありがたいと思った。
『明日、俺もそっちに向かうよ。俺の個人的な感情よりも、優先すべきことがある。大切な人たちが大きく傷つく可能性が高いのに、それを阻止出来ないとなると、一生後悔するだろうから』
「そうか」
電話の向こうで、沙枝さんが心配そうに葵に声をかけるのが聞こえた。
『葵、明日咲耶荘に行くの? 大丈夫?』
葵は沙枝さんに『大丈夫』と力強く言い切っていた。
『両親との確執で意地を張るより、大切な人を守らないとね』
俺はそれを聞いて、とても申し訳なく思った。それと同じくらいに、感謝の気持ちも湧いていた。胸の辺りがジンとして、複雑な思いに浸っていると、そこへ後藤さんの声が重なってきた。
『市木葵は、そうじゃないとなあ。さすが俺が惚れた男だ』
そういうと、んーと言いながら、葵にキスをしたのが電話越しにも伝わってきた。
『そうだ、さすが私が惚れた男たちだ』
今度は沙枝さんがそういって葵と後藤にキスをしているのが伝わった。
「こんな時でも明るいなあ」
そんな二人に翻弄される葵の姿が目に浮かんだ。この二人が葵を支えてくれるなら、きっと葵はなんにでも立ち向かえるだろう。
『あー、今夜と明日は臨時休業だな』
そう後藤さんが呟く声が聞こえた。
「葵と一緒に来てくれるんですよね? 待ってますよ」
俺がそういうと、後藤さんは『おう、任せろ』と返してくれた。そして、二人の恋人たちに『さ、いくぞ』と声をかけ、『世理、またな』というと通話を終了した。
オールソーツはカフェタイムが終了し、バータイムの準備をしているところだった。準備のために来るスタッフはまだ出勤前で、店には俺、沙枝姉さん、後藤さんだけがいた。
後藤さんは普段はあまり店に顔を出すことは無いのだが、今日は俺が話をしたいからと言って呼び出した。忙しいところに急な連絡を入れたにも関わらず、二つ返事で承知してくれた。沙枝姉さんも「早く行けばいいだけだから」と言って、すぐに来てくれた。
俺はブレンドを三杯淹れてカウンターに並ぶ二人の前に並べ、自分は提供側に立ったまま話すことにした。
「わざわざ店に来てくれって言ったってことは、今日確実に話しておきたいことだったんだろう? 何かあったのか?」
淹れたてのコーヒーを啜りながら後藤さんが俺を見つめている。隣で沙枝姉さんがそれに大きく頷いていた。俺もコーヒーを一口含んで、それをゆっくりと飲み込んだ。鼻から息を抜き、香りを楽しんで心を落ち着けていく。
「実はさっきリョウから電話があって。実家のホテルに滞在させているんですけど、そこで鈴井玲央に遭遇したらしいんです」
俺はそこまで話した後に、優希が鈴井玲央を名乗る男に狙われている可能性があることを、二人に話していなかったことに気づいた。それを説明しようと口を開きかけた時に、何かを思い出したらしい沙枝姉さんが口を挟んできた。
「へえ、警察って連休中は普通にお休みなのかな。しかも咲耶荘って高いでしょ? 燁さんを連れて行くならその中でもさらにいい部屋だろうし、そんなに給料いいのかな」
沙枝姉さんはバータイムに何度も鈴井にあっているので、顔も名前も一致している。あのプラチナブロンドのミドルヘアの男を鈴井だと認識していた。だから里井が鈴井を名乗った時に、すぐに偽者だと気がつくことが出来た。
あの日、店にいたのが俺だけだったとしたら、鈴井が偽物だということはずっとわからなかったはずだ。
「姉さん、あの男、本当に鈴井玲央って名前なの? リョウとミドリが、あの人も本当は鈴井玲央じゃないんじゃ無いかって言ってるんだよ。そう考えるのが自然だって。だとしたら、なんで偽名使ってるんだろうね」
すると沙枝姉さんは後藤さんと顔を見合わせてポカンとしていた。後藤さんはカウンターの中にいる俺の方を向いて、信じられないという顔をした。
「お前昔から変わってたけど、ビジネスやるなら少しは一般人と感覚合わせておけよ……。あの人は、鈴井玲央に似てるからそう呼ばれてんだよ。『ブレイカー』の鈴井玲央。ドラマの役名だよ。本当に知らないのか? もう一人については、俺は知らないからなんとも言えないけどな」
「『ブレイカー』って吉良燁の? じゃあ、鈴井玲央はドラマの役名ってこと? いや、確かに俺全くテレビ見ないから……。そういえば、リョウもミドリもサトルも見ないな。優希は見るだろうけど。え、じゃあ役に似ててなりきってるってこと? だったら別にもう一人いてもおかしく無いじゃん。偽物が来た時の違和感はなんだったの? まあ、なりきってること自体を俺は理解出来ないけどね」
いくら自分が似ているからと言って、ドラマのキャラクターの名前を名乗ったりするのだろうか。俺にはそれは信じ難いが、事実としてあるのであればそれはそうなのだろう。
沙枝姉さんは顎に指を当てて遠くに視線をやり、しばらく逡巡していた。そして、何かを思い出したのか、パンと手を合わせた。
「そう言われたらそうなんだけど……あ、でもね、燁さんが店に連れて来る人で玲央って呼ばれてるのは、いつも一緒に来るあの人だけよ。だからおかしいと思ったのかもしれない」
「ああ、そうなんだ。それならわかるよ。あの男ね、サトルがいる研究所の事務員だったんだよ。しかも優希が入院中に何度も睡眠導入剤の追加してて、優希が目覚めなかった原因を作っていたんだ」
「えっ? それどういうこと? 鈴井2号が優希くんの命を狙ってたってこと?」
二人は怪訝そうな顔をして俺を見た。俺はそれに被りを振りながら答えた。
「サトルが言うには、それなら何度もチャンスはあったはずだって。でも眠らせてただけなんだよ。だから、あいつの狙いは全くわからない。ただ、入れないはずの場所に入って来てまでサトルに嫌味を言ったり、何かをしようとしていることには間違いが無いみたいなんだよね」
「入れないはずの場所って、研究所内でってこと? それって誰かが協力してないと無理じゃない? 他にも怪しい人が研究所にいるってこと?」
「里井の……あの男里井って言うんだけど、里井の入室に関しては向井さんが協力してたみたいなんだ。店によく来るだろ? ダクレイズの向井さん。でも、向井さんが里井に協力する理由が何であるかも分かってないんだ」
「向井……?」
一人で静かにコーヒーを飲んでいた後藤さんが、向井さんの名前にぴくりと反応した。
「俺、最近どこかで向井という名前を聞いたな。確かあまり気持ちのいい話じゃなかったぞ……」
そう言って、後藤さんも姉さんと同じように顎に指を当てて考え込んだ。そして、俺の方をチラリと見たかと思うと、思い出したようで「あ」と言いながら、なぜか俺の方を指さしていた。
「そういえば、最近蓮さんに会ってな」
どうやら俺の顔を見て蓮兄さんを思い出したらしい。それくらい俺たちはよく似ている。兄は後藤さんとは青年実業家として交流がある。念に一、二回は会合で顔を合わせる仲だ。
「起業家セミナーみたいなのに時々呼ばれるそうなんだが、そこで知り合った男が、特殊性癖のある人間をターゲットにした金儲けを考えているとか言う胸糞わるい話をしていたらしいぞ。その男、佐藤の治療チームにいたやつだったらしいんだ。そいつの名前が確か向井だったぞ! そう、写真もらったんだった。葵に伝えておこうと思って」
スマホの写真データを漁ってその男を探す後藤さんに向かって「特殊性癖……なんかわかんないけど、腹がたつ言葉ね」と沙枝姉さんは呟いた。俺もそう思った。あの仕事をしている人間が使うにしては、侮蔑の意味が強いように思ったからだ。
「お! あった。こいつだ。この男、前科があるんだろ? いくら有能だからって、前科あって危険思想がまたぶり返してるようなら、再治療するべきなのにな」
そう言って、差し出した写真の男を見て、俺と沙枝姉さんは驚いた。
「向井さんだ……間違いない」
犯罪抑止力強化チームVR制作担当の向井が、特殊性癖のある人間をターゲットにした金儲けを企んでいる……それが優希の危険とどう繋がるのかはわからない。わからないが、サトルには知らせておいた方がいいと言うことだけはわかった。
新婚旅行中に気の毒だが……と思いつつ、俺はすぐにサトルに電話した。
◇◇◇
「サトルー、スマホ鳴ってるよー」
到着してから少しくつろいだ後、二人で露天風呂に入っていた。優希はのぼせそうだからと一度外へ出て涼むと言う。岩風呂の岩に腰掛けて水を飲んでいた優希が、部屋の中で震えているスマホに気が付いたらしく、まだのんびりと温泉を堪能している俺に声をかけた。
俺は左肩の上で髪をまとめて結ぶと、邪魔にならないようにくるっと丸めた。そして、もう一度体を湯船に浸けて空を見上げた。
「電話ー? 新婚旅行中だぞ、出なくていいだろ。ほっとけよ」
俺はそのまま水平線を見ながらぼーっとしようとしていた。視界の端で、優希が俺のスマホのディスプレイを確認している。どうするのかと思いきや、珍しく俺に無断で電話に出てしまった。
——あいつが勝手に出るってことは、葵か?
そう思いながら耳をそばだてていると、思った通りに優希が葵の名前を呼んでいるのが聞こえてきた。
「もしもーし、葵? サトルはお風呂を堪能中で、電話に出たがりません!」
そう言ってペタペタと歩きながら露天まで戻ってくると、俺の前で仁王立ちした。優希は今露天風呂から上がったばかりなので、腰にタオルを巻いただけの姿だ。俺はそれを横目で眺めながら、勝手に電話に出た仕返しに、そのタオルを剥ぎ取ってやろうかと考えていた。
「え? うん、うん。そうなんだ、わかった、じゃあ……」
優希は葵との会話に集中し、完全にこちらへの注意を逸らしていた。俺の手がタオルに伸びていることには全く気がつかずにいる。俺はそのままそのタオルにグッと指を引っ掛けた。
「サトル……」と優希が振り返ったタイミングで、ぐいっと勢いよくそれを引き抜いてやった。
「ぎゃーっ! ばっ……何してんの!」
優希がそう叫びながらしゃがみ込んだので、俺はその手からスマホを取り上げた。ディスプレイを眺めながら、また良くない知らせだろうかと深いため息をつく。
そして、無遠慮な連絡をしてきた葵に向かって、大声で話し始めた。
「葵! お前なあ、子供の面倒みること以外にもまだなんかさせるつもりなのか? やっと取れた休みだぞ!」
半ギレの俺は、スマホ越しに葵にくって掛かった。優希はそれを見て笑っていた。なんだかんだ言っても、俺が葵のことを大切に思っていると知っているからだろう。
『サトル、今後藤さんから聞いた話なんだけれど……』
しかし、葵が話し始めた内容を聞くにつれ、俺は半ギレどころではなく完全にキレてしまった。全裸のまま湯船から飛び出ると、体も吹かずにそのまま部屋の中へ入っていった。
「なんだと!? 向井がそんなことを言ってたのか!?」
『そうらしいんだ。向井さんの写真も見せてもらった。あの向井さんで間違い無い。この情報の提供元は蓮兄さんらしい。信憑性は高いよ』
「この研究に関わっている人間が情報を悪用してるってことか!? そんなの有り得ないだろう?」
『俺だって信じられないよ。でも、向井さんは前科持ちだろう? 可能性が無いとは言い切れないから……』
確かに、葵の言う通りだった。だから俺が研究に参加させてもらった当初、俺は向井の起用には反対していた。
しかし、上の人間が向井は積極的に治療を受けていて、プロジェクトに参加することで差別をなくしたいと言う意向をごり押ししてきた。その結果、所長と俺より上の管理職全員がダクレイズとの契約を了承してしまった。
当時、その妙な結束力に俺は違和感を持っていた。もっとそれを問い詰めておけば良かったのかもしれない。
もしそこに向井の言うビジネスが関わっているなら、上の人間は自分たちの私利私欲に俺たちの研究を悪用していることになる。それを考えると、どうしようもなく怒りが湧き上がってしまい、それを隠すことが難しくなってしまった。
しかし、それもまた一つの問題だった。俺が怒り狂って怒鳴り声を上げたことで、優希に悪影響を与えてしまった。いつの間にか、優希は全裸のままバスタオルを握りしめて、うつ伏せに倒れていた。
——しまった。フラッシュバックだ。
「悪い、葵。掛け直す!」
俺は一方的に通話を終え、スマホをベッドの上に投げ捨てた。そして、倒れたまま痙攣している優希の元へ急いだ。
「優希。悪い、怖かったな。ごめん、ごめんな。泣いてくれ、頼む!」
俺の怒鳴り声が、優希の継母の怒鳴り声を思い出させてしまったのだろう。倒れたまま小さな声で「ごめんなさい……」と何度も繰り返していた。そしてまた、恐ろしいと感じているのに「泣いてはいけない」という呪いにさらされていた。
たとえ自分が原因であったとしても、優希が泣くためのルーティンをしてあげられるのは、俺しかいない。右頬に手を触れ、左手の指輪を鳴らす。何度かやったルーティンだが、自分が原因を作ってこれをやる日が来るなんて……と、激しく後悔した。
しっかり定着し始めたのか、終わる頃には優希は子供のように泣き始めた。そして、しばらくの間泣き続け、その後静かに眠った。
「ごめんな」
優希をベッドに眠らせて、布団をかけた後、頬にキスをした。ぐっすり眠っているのを確認して、俺は葵に電話をかけ直した。
『もしもし』
葵の声は暗かった。さっきも面白く無い話をしていたが、それとは比べ物にならないほどに、ずっしりと重たい空気を纏った声だった。
『優希は大丈夫? フラッシュバックだったのか?』
「ああ、そうだった。でももう眠らせたから大丈夫だ。それより、どうした? さっきと全くテンションが違うじゃないか」
『うん……』
俺がそう訊ねても、葵は少し言い淀んでいた。しばらく沈黙した後、ハーッと大きく息を吐いて、意を決したように話し始めた。
『あのさ、優希を狙っている人がわかったかもしれないよ』
葵はそういうと、深くて辛そうなため息をついた。
「は? 向井の話じゃないのか?」
俺は話が見えずにいた。さっきは向井が胸糞悪い商売をしようとしているという話をしていたはずだ。それが短時間でどんな風に飛躍したのだろうか。
葵は、酷く疲れた声で『向井さんの話と繋がってるんだよね……』と続ける。
『鈴井玲央について話していたときに、「ブレイカー」に打ち切りの話が出ていたって沙枝姉さんが言い始めてさ。その打ち切りの話が出た時に、吉良燁が優希に向かって言った言葉ってのを今聞いたんだ。それがさ……』
葵は、思うところがあるのか、次の言葉がなかなか口から出てこないようだった。仕方なく沙枝さんがつづきを引き取り、電話口で横から話を続けてきた。
『私から彼を奪うのは許さない。彼を失うわけにはいかないのよ! って言ったの』
その言葉を聞いて、俺はスマホを落としてしまった。ゴトっと音がして、スピーカーから『サトル! 大丈夫か!?』という声が聞こえてくる。
——彼を失うわけにはいかないのよ!
それを言われたのは、俺だ。左の脇腹の傷がズキっと傷んだ。嫌な汗が流れてくる。あの女は、吉良だったのか? つまり、俺を刺したのは碧の母親?
俺は碧には会った事があっても、その母親には面識が無い。優希の担当している作家だと言うことは知っていても、仕事の関係者に会ったことがあるのは、高橋だけだったからだ。
——なんで俺を指す必要があったんだ?
呆然としている俺に、葵が電話の向こうから声をかけ続けていた。
『サトル!? おい、聞こえてるか!?』
葵の声が耳に届いて、ハッとした。俺はスマホを拾い上げて、葵に問いかけた。
「ああ、大丈夫だ、聞こえてる。じゃあ、俺を刺したのは……吉良燁ということになるのか?」
『可能性は高いな。何か物証が一つでも見つかれば確定だろうな。物証つっても、何も見つかってないみたいなんだけど……』
確かにそうだろう。証言だけなら、吉良が犯人だと言うことになる。でも、俺はまだ納得がいかなかった。
小説の打ち切りが嫌で、担当編集だった優希を狙っていたというなら、話はわかる。理解は出来ないが、そういう奴もいるのかもしれない。ではなぜ、俺が狙われたのか。それを考えているうちに、ハッとした。
「葵、お前、優希を狙っている人物が分かったかもしれないって言って、今の話を始めたよな?」
葵は短く「そうだ」と答えた。
「あの日、俺たちは婚約することになっていた。その日に俺を狙ったと言うことは、とにかく優希に嫌がらせをしたかったと言うことか。つまり、逆恨みだったってことか?」
葵は、何も言わない。おそらく、葵たちはそう結論づけたのだろう。
優希は編集者として担当している作家から、打ち切りを根に持たれて狙われていた。その作家は、暗がりで優希を刺し殺そうとして、間違えてサトルを刺した。二人は直前まで一緒にいたのだから、可能性はなくも無い。そして、結局俺が死んだとしても嫌がらせになりうるから、それはそれでいいと思ったのかもしれない。
「じゃあ、葵の家に優希が倒れていたのは……?」
『それはまだ分かってない。でも、もし吉良燁の自宅で狙われて、うちに運んだんだとしたら、移動は可能なんだよ。うちと吉良の家は隣同士だからな』
そうなると、なぜ優希は吉良の家に行ったのかということと、倒れた優希をどうやって運んだのかという謎は残る。
「家に行ったのは、担当編集だからな。打ち合わせとでも称して呼び出したとしても不思議はない。ただ、優希は細身だが、一応男だから。吉良……碧のお母さん、痩せてるだろう? 運べるか? 気絶した男を二人も」
『そうだ、そこがまだ解決していない。それに、突発的な衝動で殺意が湧くならわかるけれど、そんなに長期間恨み続けるか? っていう疑問もある。まあ、俺には殺人を犯そうとする人間の心理なんて到底理解できないけれど』
近づいたようで、いくらか疑問が残っている。その疑問が解決しない限り、ミドリのお母さんが犯人だと言い切れるのは、俺を刺したことだけだろう。
「向井の話と繋がっているって言うのは?」
『それは……』
葵は再び押し黙ると、鼻を啜るような音が聞こえた。どうやら泣いているようだ。俺に気を遣って泣くほどのことがあるとすれば、それは研究の悪用のみだろう。もうこれ以上、驚くことも無いような気がしている俺は、葵を宥めるように言葉をかけた。
「葵、もう気を遣わずに分かったことは全部話せ。ショックを受けるのも落ち込むのも、後でいくらでもできる。今は真相を解明したい」
葵は俺のその言葉を聞いて、ポツリと一言『さすが研究者だな』と言った。そうだ、俺にとっては何よりも真相の解明に興味がある。たとえそこに辛い現実が待ち受けていても、それを避けて本当のことを知らないまま過ごすなんて言うことは、出来るわけが無かった。
『向井さんが研究を悪用して、誰かを意図的に操るものを作っているとしたら……。鈴井玲央が二人いる理由もわかる気がするんだ』
そして、ミドリが感じた違和感を俺に説明してくれた。何度も会ったことがあるはずなのに、まるで知らない人のように接してきたナカノと言う名前の鈴井玲央。その態度に説明がつくのだという。
俺は頭を抱えた。確かにそれは可能かもしれない。今利用している原理を考えると、逆をいくことは可能だろう。
「犯罪者を減らすための研究で、犯罪者の欲を満たすものを作っていたってことか。とんだ間抜けだな、俺たちは」
俺は情けなくなってしまい、言葉が続かなくなってしまった。葵は『そんなこと言うなよ』と言ってくれたが、それ以上はお互いに話すことができなかった。
「とりあえず、今日はもう誰も部屋から外には出さないようにしておく。食事も蓮さんが気を利かせて部屋食に変えてくれているんだ。リョウとミドリには、部屋から出るなと最初に言ってあるから、大丈夫だろう」
俺の言葉を聞いて、葵はあははと笑いながら切り返した。
『高校生の男女二人が同じ部屋にいて、ずっと外に出られないってなると、保護者としてはちょっと複雑だけどな。それは聞かなかったことにしておこう』
俺もそれを聞いて、「すまない。配慮が足りなかったな」と笑った。
どれほど苦しくても、笑うことができる強さがあるのは、ありがたいと思った。
『明日、俺もそっちに向かうよ。俺の個人的な感情よりも、優先すべきことがある。大切な人たちが大きく傷つく可能性が高いのに、それを阻止出来ないとなると、一生後悔するだろうから』
「そうか」
電話の向こうで、沙枝さんが心配そうに葵に声をかけるのが聞こえた。
『葵、明日咲耶荘に行くの? 大丈夫?』
葵は沙枝さんに『大丈夫』と力強く言い切っていた。
『両親との確執で意地を張るより、大切な人を守らないとね』
俺はそれを聞いて、とても申し訳なく思った。それと同じくらいに、感謝の気持ちも湧いていた。胸の辺りがジンとして、複雑な思いに浸っていると、そこへ後藤さんの声が重なってきた。
『市木葵は、そうじゃないとなあ。さすが俺が惚れた男だ』
そういうと、んーと言いながら、葵にキスをしたのが電話越しにも伝わってきた。
『そうだ、さすが私が惚れた男たちだ』
今度は沙枝さんがそういって葵と後藤にキスをしているのが伝わった。
「こんな時でも明るいなあ」
そんな二人に翻弄される葵の姿が目に浮かんだ。この二人が葵を支えてくれるなら、きっと葵はなんにでも立ち向かえるだろう。
『あー、今夜と明日は臨時休業だな』
そう後藤さんが呟く声が聞こえた。
「葵と一緒に来てくれるんですよね? 待ってますよ」
俺がそういうと、後藤さんは『おう、任せろ』と返してくれた。そして、二人の恋人たちに『さ、いくぞ』と声をかけ、『世理、またな』というと通話を終了した。
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