紅蓮と黝

皆中透

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迫り来る闇

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 ランチセットは美味しすぎて、綾人はずっと目をキラキラさせていた。焼きたてのパンはどれも香りが良く、それが鼻を擽る度に幸せを感じた。

 齧り付くとバリッと音がする香ばしいハードタイプのものと、ペストリー系のものはサクサクとしたものとふわふわしたのものがあり、かぶりついた後の感触までが美味しかった。
 もちろん、メロンパンもバターと小麦と甘い香りに満ちていて、ひとかじりするだけで笑みが溢れた。

 パスタはエビとドライトマトのペペロンチーノを頼んだのだが、塩味もガーリックの香りも、唐辛子の辛味も、それらが混ざり合った香りも、全てが二人の幸福感を最大に引き上げてくれる。
 五感の全てが喜ぶような美味しさで、それが気取った高い店でないところで味わえることで、より幸せが深まった。

「わー! めっちゃくちゃうんまーい! 幸せだー!」

「本当だ! これこの値段で食べられるなんて、信じられないんだけど」

 二人はもぐもぐと口を動かしつつ、合間に美味しいと言うことだけで忙しかった。店内の雰囲気と美味しい料理、そしてあたたかな接客。節約家のタカトでさえ、こんなに満足できるならまた近いうちに行きたいと口にするような、大満足な時間を過ごした。

 お腹を満たして、午後の講義前にまた少し調べ物をしようと、少しだけ早めに店を出た。並んでのんびり歩きながら、楽しい時間を共有できたことに気持ちが弾んでいた。

「あー、めちゃくちゃ満足したー! あの店見つけてきてくれてありがとうな、タカト。また行こうぜ」

 隣を歩いている綾人の笑顔は、いつにも増して幸福度の上がったものになっていた。タカトは、その笑顔をしばらく堪能した後に、胸がチクリと痛むのを感じた。

——出来ることなら、少しでも長くこの幸せな時間をすごしたい。

 どうしても、そう願わずにはいられなかった。

 構内に戻って図書館内で二手に分かれ、予定通りに資料を探してはコピーをして綴っていった。いくつかはデータで持ち出すことも出来たので、予定より資料の枚数は少なくて済んだ。
 後は、近所の神社の宮司さんにお話を伺いに行く予定を立てれば、大体の準備は終わる。前期の提出課題としては、十分な準備ができているはずだ。

 そうして少し落ち着いてきた頃、図書館内で二人がコピー機の前に立って話をしていると、ふと背後に視線を感じた。振り返ってみると、明るいイエローブラウンのストレートヘアの女子学生が、こちらをじっと見つめていた。

 そして、その目は間違いなく綾人を見ていた。敵意は無く、どちらかというと好意を感じるものだった。綾人とタカトは顔を見合わせると、うんと頷きあった。

「取り敢えず、話を聞いてみよっか」

 綾人はスッと歩み出ると、その女子学生の方へとスタスタと歩いて行った。タカトは、こういう場合は綾人に任せたほうがいいだろうと思い、少し後をついて行く。
 綾人はその女子学生に向かって、目も眩むようなキラキラと輝く笑顔を振りまいて話しかけた。

「こんにちは。えーっと、もしかして俺に何か用がある? ずっと見られてるかなーと思ったんだけど、合ってる?」

 綾人は笑顔を貼り付けたまま、一般的には誘い文句とも取られかねないセリフをサラッと吐いた。流石にモテる男はこういうセリフを口にしても、表情ひとつ変えない。
 タカトは、「自分には絶対に無理だろうな」と思い、苦笑いをした。

 穏やかな微笑みを浮かべて、相手を萎縮させないように気遣っている。これが綾人がモテる所以なのだ。ただ見た目の良さだけで人気があるのでは無いのだということが、こういう時によくわかる。
 
 相手を見て話しかけ方を選び、一番腹を割りやすい方法で話しかけていく。面識が無く、遠くから話しかけるのを躊躇うような子には、恥ずかしい思いをさせないように気を遣っている。
 そういう細やかな対応が、いろんな人から評価されているということを、タカトは水町から聞いて知っていた。

「あの、ええと、え……あ、こんにちは。えっと、その、聞きたいことがあって……あの、あ! わ、私は雨野桃花と言います。心理の一年です。桂くん……って呼んでもいいですか? に、なら教えてもらえるかなって思って」

 綾人はニコニコしながら相槌を打っていた。名前の呼び方すら名字に君付けで、それを確認してからしか呼ばない。綾人に話しかけてくる子にしては珍しく、かなり控えめな子のようだ。
 
「俺になら教えてもらえるって? なんだろう、取り敢えず話してくれる?」

 桃花は、俯いて軽く拳を握った。綾人と桃花は、これまで一度も話したことが無い。僅かながらも緊張の色が見える桃花に、綾人は出来るだけ穏やかな対応をしようと心がけた。
 ふわりと微笑んで「なんでもいいよ。話して?」と促す。すると、桃花は綾人のその穏やかな顔に安心したのか、キツく握っていた手をややゆるめ、ゆっくりと話し始めた。

「あの……私、瀬川くんのことが好きで、告白しようと思って会ってもらう約束をしてたんだ。それが、急に学校に来なくなってしまったから、理由が知りたくて。時間を取ってもらう約束はちゃんとしてたし、メッセージの記録もあるから、間違い無いの。瀬川くんて何も言わずに約束破る人じゃないと思うから、何かあったのかなと思って。桂くん、何か知らないかな? もしかして、告白しようとしたのがいけなかったのかなって、気になってしまって。でも、そんなことで講義休んだりしないとは思ってるんだけど……」

 握った拳が揺れていた。確かに瀬川は、約束を黙って破ったりするような男ではない。付き合いはしないけれど、それ以外の対応は全て誠実なんだと聞いたこともある。そのあたりが正確に掴めないのも、瀬川の魅力でもあった。

 綾人は、その問いに対してどう返答するかを考えていなかったので、少し考え込んでしまった。考えあぐねて出来た間で、桃花はとても大胆なことを訊いてきた。

「もしかして、何か病気にかかったとかですか?……あの、まさか……性病とか?」

 綾人は下を向いていたので、急に何を言うんだと驚いて前を見た。すると、桃花は顔を真っ赤にして「今の私じゃ無いです!」と言いながら両手を振り回して必死に否定していた。

 そして、桃花の隣にいつの間にか現れた青みがかった黒髪ショートの男子学生を、必死になって指さしていた。その男子学生は、じっと綾人の目を見ていた。
 その目には、なんの感情も隠っておらず、純粋な好奇心で質問されているようだと感じた。

「ああ、びっくりした。いきなり何をいうのかと思ったら……」

 ただし、タカトは警戒していた。

——この男、カフェで綾人をじっと見ていた男だ。

 それ以前には、買い物中のスーパーでも遠巻きに綾人たち三人を見ていた男だ。こう関わりが出てくると、どうしても何かがあるのだと思ってしまう。
 それに、その視線にも違和感を感じる。なぜこれほどに見つめているのに、なんの感情も感じられないのか。意図的に閉心していることも考慮しないといけないなと、タカトは思い始めていた。

「君さ、カフェで綾人のことじっと見てなかった? 雨野さんと同じ理由? 綾人に聞きたいことがあったってわけ?」

 タカトが青髪の男子学生に問いかけると、桃花は驚いて目を丸くした。

「え? 陽太、桂くんたちに何か用があるの? もしかして、また瀬川くんのこと?」

 陽太は一瞬驚いたように目を見開いていたが、すぐに表情を戻してタカトの方へ向き直ると、コクリと頷いた。その表情に嘘はなさそうに見えた。

「あ、あの、彼は川村陽太といいます。理学部理学科の一年生。私の幼馴染なんだ。理学部は基本的に金曜日が実習で遅くなるからあまり参加出来てはないと思うんだけど、金曜日のボランティアのメンバーでもあるんだよ」

 陽太は、綾人とタカトに向かってペコリと頭を下げた。なんの感情も籠っていない目は、観察するようにじっと綾人を見ていた。

——とりあえず、話を聞いてみるしかないかな。

 違和感はあるものの、追求するには具体的な危機が起きていないことを考えて、タカトは耐えることにした。綾人は綾人で、頭を掻きながら考えていた。陽太の質問に答えようとしているのだが、適当な答えが思い浮かばない。

——確かに性病と言うと話は簡単だけれど……さすがに瀬川も不名誉だろうし。

 やはりここは、無難に体調不良で休んでいると言うのが一番適当だろうと思い、お茶を濁すことにした。

「瀬川、体調不良って言って休んでるよ。でも、サボりなんじゃないかな? 俺、結構家に会いに行ってるからね。見た感じ、性病とかではないと思いうよ。いや、あの、何も確認とかしたことはないんだけど。あいつ一人暮らしだからさ、必要なものを聞いて届けにいって、ちょっと話して帰ってる感じだなんだけど、そんな大病してる風でも無いしね」

 当たらずとも遠からずといった線で答えておく。毎日瀬川の家に行くので、それはその通りに話しておかないといけない。あまり大きく嘘をつくのも、後が大変になるだろうと思ってのことだ。
 この二人の様子からして、ここだけで話が終わりそうなほど単純なことでは無い様な気がしていたからだ。

「そうなんですね。なんだ、性病とかだったら面白かったのに」

 陽太は、そういって顔をくしゃくしゃにして笑った。タカトには、その顔がやや安堵を含んでいたのと、多少強がっている感じに見えたことが、少しだけ引っかかった。

「まあ、流石に性病に罹ったら俺にも言わないと思うけどね。恥ずかしいでしょ、流石に」

「そうですね」と言って、陽太は苦笑いをした。桃花も同じようにしていて、自分が原因では無いことが分かっただけでもスッキリしたようだった。

「わざわざ時間取ってもらって、ありがとう」

 陽太は、そういって綾人に握手を求めて手を出してきた。綾人はなんの衒いもなく、微笑みながら手を出すと、陽太と握手を交わした。

「いや、こちらこそ……」

 そこまで口にして、急にうっと呻き声をあげて蹲った。あまりに突然のことに、タカトは驚いた。

「綾人? どうした? 気分悪い?」

 タカトが膝をつき、綾人の顔を覗き込むと、微かに体が震えていた。それに、目を見開いた状態で一点を見つめている。それはまるで、何かに怯えているようにも見えた。

「すみません、静電気ですか? 俺。良く静電気起きるんですよね……ごめんなさい」

 そういって、バツが悪そうにしている陽太を見て、タカトは睨みつけずにはいられなかった。

——本当に綾人に対して何も思っていないのか?

 カフェで綾人を見ていたのは、間違いなく陽太だった。なぜあんなにじっと見る必要があったのだろう。ただの癖だろうか。そう言われると、理系なのだから観察癖があってもおかしくはないのかもしれない。
 でも、何か他に理由がありそうな気がして仕方が無かった。恨みでは無いだろう。憧れでもなさそうだ。

 タカトはあれこれと考えながらも、何も思いつかなかったため、とりあえず綾人をどこかに座らせようとした。綾人の肩を担ぎ、少しだけ体を起こすと、そのままおぶってベンチまで行くことにした。

「綾人? どうかした? 傷、痛むのか?」

 穂村が綾人に話しかけているのに、綾人は全く穂村の方を見ようとしなかった。陽太に目を向けたまま、逸らそうとしない。目を奪われていると言うよりは、防衛反応のように見えた。

 本能が、警戒を強いている。目を離すな、と言われているように見えた。

「タカト、あいつ」

「ん? なに? 川村くんがどうした?」

 タカトは、綾人の視線の先の陽太に目を向けた。
 その姿を見て、血の気が引いた。

 今、目にしていた陽太とは、まるで違う人相の男がそこにいた。

「なっ……!?」

 突然の変化にタカトは目を疑った。同時に、綾人が危険に晒されたのではないかと思い、気が気でなくなってしまった。

「綾人、大丈夫なのか!?」

 それでも綾人はタカトの方を向かず、陽太を指さして叫んだ。

「瀬川に取り憑いてんの、あいつだ!」
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