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パラシュート降下の朝

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 朝7時12分。起床。現在高度5000メートル。


 底なしの穴に落ち続ける。そういう、夢の中だって自覚できてしまうような馬鹿馬鹿しい夢がある。
 覚醒と夢の狭間をひとしきり堪能してから、二度寝をしてやるのも悪くないと目を開けた。

 体はパラシュートに吊られたままゆっくり降下していた。気持ちのいい青空だった。真っすぐ前を向いても青空がある。
 足元、はるか遠くには川と街の白さがある。衛星写真のように真上から見下ろす街並みは新鮮で作り物みたいだ。
 首を回して、肩に架かっているロープ越しに振り返ると海があった。見慣れた地形。大阪だ。

 さて、さて、どうしたものだろうか。見上げると大きなパラシュート。映画などで見たことがあったけれども、実際に自分の体を吊ってくれてるパラシュートを見るのは初めてのことだ。頭上できのこのように膨らんでいる。ロープが多い。こんなにロープが多いものとは知らなかった。
 高度を知らせるのは目元に設置された高度計の数字になる。最初はなんの数字かわからなかったが、体の揺れと数字の減りが連動していることから高度であると推測がついた。高度が5000というのはイメージがつきにくい。富士山はたしか3776メートルだから、富士山よりも随分高い所に居るわけだ。どおりで寒いと思った。アウトドア用のジャケットを着こんでいるが、それでも肌にくる寒さがあって、口元の産毛はパリパリと凍っているらしかった。

 足をプラプラさせてみる。体は揺れて、ロープにくっついている金具がカチャカチャと音を立てた。
 鳥も、飛行機も、近くにはいなかった。あるのは空。それと、丁重に降ろされる私だけだった。
 
 なんでパラシュートに吊られているのだろう。記憶が無い。思い出せるのは五軒目のバーまでだった。
「空を飛んでみたいな」
 気持ちのいい酔い方だった。良い酒を飲んでいたのもあって、水みたいに飲めてしまう。プールに浮かんでいる時の、脱力が許されているみたいな幸せな気分だった。隣の若い女性に話しかけたのも多幸感からの昂りがあったのかもしれない。

「なんで空が飛びたいんですか」優しい声をしている人だった。

「だって、何十年生きたって、空は飛べないなんて、空を飛ぶことを夢見ろって言われているみたいじゃないですか、人間は、でも、翼が生えてこないなんて」

「じゃあ」
 女性の目が妖しく笑った。そんなに可笑しく酔っているのだろうか。

「飛んでみましょうよ」
 最後に、確かに聞いたような気がする。


 高度4000メートル。依然として地上は遠くに見下ろすことができた。山脈があった。全部が平坦に見えるから山の感じはしない。緑の絨毯みたいだ。
 巨人になったら山で滑り台ができるだろうな。もし、ひとりだけ巨人になってしまったとしたら、いろいろ不便だろうな。都会のビル群はレゴみたいで踏むと痛いだろうから、歩く時には慎重にならなきゃいけない。裸足で埃っぽい部屋をショコショコ歩く時みたいに足の外側だけで歩くんだろうか。だったら、川沿いなんかがいいだろうな。河川敷は緑だからあまり痛くなさそうだ。

 風もあんまりない中で只降りているだけというのは、なんというか、飛んでいる感じはあまりない。
 スカイダイビングでも最初はダイブしている時間がある。パラシュートも開かずに地面に向かって手足を広げる。あれは、飛んでいると言っても良いだろう。その急降下からパラシュートが開かれての減速。興奮を徐々に沈める余韻の降下。安心しながらの降下。
 目が覚めたら降下中というのは、鎮める興奮もなく、持て余すばかりだ。

 太陽は浅いところにあった。眩しい。
 初日の出を見に行く元日だけ、太陽が如何に街を照らすのかを目撃する。地上から昇る太陽が最初は高いビルの高層部分を照らし、照らされる部分が下に伸びていって地上の人たちを光で覆う。
 街は高い所から順番に照らされていた。毎日太陽はそんな風にして訪れる。


 高度3000メートル。今日は土曜日だった。昼頃にはテレビが本気を出してくれて、面白い番組がある。昔から土曜日の昼が一番好きだった。おじいちゃんの家に行ってテレビを見ていた。おじいちゃんもおばあちゃんも世話焼きだったから、お父ちゃんの知らない間に山ほどの出前を頼んでくれた。小学生の私の前にラーメンとチャーハンが置かれた。食べよう! という時に吉本新喜劇が始まる。お決まりの気の抜ける音楽と共に幕が上がっていく。茂造の日は大当たり。最高だった。
 あの定食屋はどこなんだろう。目を細めて街を眺める。だめだ。まだまだ到底見えそうにない。ざっくりとあっちの方なんだろうな。

 あれは美味かったな。

 降りるというのは暇になるらしい。ロープを爪で弾く。


 高度2000メートル。近くに薄い雲がある。こんな薄い雲があるんだ。向こうが透けている。掴んで持って帰れそうな雲だ。お土産にしたい。手を伸ばすけど届かない。
 この話を誰にしたらいいだろう。朝、起きたらパラシュートに吊られて高度5000メートルに居たんだよね、って。
 まず、信じてくれる人がいい。呆れた顔をされたくない。どんな話でも楽しい方に持って行ってくれる人が優しいってことがわかるようになった。
 平凡な話でも面白く聞いてあげるのって結構難しい。人の話に茶々を入れたり、揚げ足をとったりすることは案外簡単なことだ。難しくても、面白く聞こうってしてくれる人の気持ちは素直に嬉しいものがある。


 スマホのゲーム。ガチャを回せる時間来てるなー。ていうかスマホはどこなんだろう。


 高度1500メートル。だいぶ地上が近づいてきた。目を凝らすと車の動くのがわかる。街は動いていた。
 パラシュートの着地ってどうやるものなんだろう。昔、漫画で読んだのは五点着地法かなんかってやつ。衝撃を和らげるために体を捻りながら着地するってやつ。あんなのできるんだろうか。脳内でイメージする。
 足先、膝、腰、背中、肩。ひねって回るみたいにして着地する。
 たぶん、できるかも。

 小学生の時、自転車で友達の家に向かってた時、車道と歩道の段差にタイヤを取られて地面に投げ出されたことがあった。
 自転車から体は飛び出して、アスファルトの地面がすごいスピードで迫ってきて、どうしようもなかった。
 怖くなる暇も無かったせいか変に冷静で、買ってもらったばかりの自転車が壊れちゃってないかが心配になって、首を内に入れて後ろを覗いた。
 自転車は躍っていた。
 体が地面に落ちてぐるぐる何回転もしてから停車している車にぶつかった。怪我はほとんどなかった。すくっと立ち上がって、自転車に近づいた。自転車のフレームはひん曲がっていて、乗れなくなったことは一目瞭然だった。涙が出てきて、くしゃくしゃに泣いた。
 あの時の自転車代分ぐらいは親孝行をしたかった。


 高度1000メートル。山は高さを取り戻していた。
 うるさいと思ったら、近くにヘリコプターがいた。ヘリコプターは旋回するようにして高度を保っている。どうやら報道ヘリが撮りに来たらしい。マスコミというやつなのだろうか。撮られてもどうしようもないのに。
 撮るならうちの職場に来てほしい。ひどいものだ。ハラスメントっぽいことはないけど、上司も役員もゴルフばっかりで仕事はまるで進まない。頑張って取引先と進めていた商談も、役員の機嫌だけでパァになった。なら、それだけの利益をあなたは出せるんですか? 居酒屋で後輩に愚痴ってしまった。あれは申し訳なかった。後輩には謝らなきゃいけない。

 社会に出てから、頑張りたいって気持ちばかりだった。自分が何者かになれないことを自覚したのは大学生の時だった。正確には、ギターを後輩の家に置いて帰った寒い朝だった。ウィキペディアが作られるような人間にはなれないと、現実を突きつけられてしまった。残ったのは行き場の無い猛りだけだった。
 社会という場所で、がむしゃらに頑張れば気は晴れるかもしれない。頑張っている時間だけで毎日を過ごしたかった。

 高度800メートル。いよいよビルが近くなってきた。
 どこへ降りようものか。今更になってロープをいろいろ触る。パラシュートの操作の仕方がわからなかったのだ。
 吊り革のような金具が左右にあった。試しに右側だけ少し引いてみる。体は右側に僅かに流れていく。なるほど、これが舵なのか。

「空を飛んでみたいな」
 言った時に見えていた風景は青空だった。地上のことなんか気にせず、青空だけを見て、飛んでいる気になっていた。


 高度500メートル。ビルの間をすり抜けるように舵を取る。
 ビル風に押されながらも舵を取る。体は落ちながらも確実に進んでいく。飛んでいた。

 高度300メートル。街の騒めきの一部になる。冷や汗が出てくる。スピードはそこそこ出ている。

 高度200メートル。暑い。地上の熱気だ。

 高度100メートル。降りる場所はあそこにしよう。あそこだ。国道沿い。広い駐車場。

 高度50メートル。パラシュートは誰に返せばいいんだろうか。

 高度30メートル。なんだっけ、五点なんとか。
 高度10メートル。生唾を飲む。足を走らせる。
 高度5メートル。





 全身に打ち身の痛みがあった。華麗なはずの着地の結果、パラシュートとロープが絡み合った塊に埋もれていた。
 器具を一つずつ外していって、塊の中から這い出てくる。口を開けたままこちらを眺めているお婆ちゃんと目が合った。

 アスファルトの地面に足をついて、ゆっくりと立ち上がる。腹が減った。チャーハンが食べたくて仕方がない。
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