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第4章 聖女の帰還
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スコッルは士官学校同期のサイファとシグルドと三人、多くの人で賑わう酒場でポーカーに興じていた。
彼らの教官であるクルトの方から、奢ってやるから飲みに行こうと誘われたのである。が、肝心のクルトの姿は未だ見えない。
奢ってやると言われても、スコッルは全く嬉しくなかった。クルトがそう言い出す時は、大体ろくなことがないのだ。
思えば、あの時だって。
スコッルがハティの下で情報収集等の任務にあたるようになったのも、自称『ハティ殿下の親友』だと嘯く教官のせいであった。
当時ハティは、薔薇姫捜索の人手確保のために手頃な士官候補生を探していた。スコッルはクルトによって、ハティに売り渡されたようなものなのである。
なのだが、クルト曰く、親友を差し置いて士官候補生を連れていくなどおかしい――しかも紹介させておいてクルトにも黙って出立するなど酷すぎる――と、未だに言い続けていた。
よって、スコッルが怪しむのも無理はないのだ。ハティに使われるようになってから身に染みて思い知ったが、狼公爵は人使いが荒い。こちらの都合はお構いなし、使えるものは何でも使う。
もしや今回も、ハティが絡んでいるのではないかと気が気ではない。ハティに駆り出される頻度が日を追うごとに高くなっているのは気のせいではないのだ。ただの士官候補生のはずが、最近では国の進退にかかわる事件にどっぷりと浸かってしまっている。詳細を知らされることなく色んなことに首を突っ込みすぎて、訳が分からない。
そんなスコッルの様々な苦悩をつゆ知らず、サイファとシグルドは、教官の奢りだと手放しに喜んでいる。酒瓶を何本空にしたことか、彼らの周りに無造作に転がる瓶を、店員がせっせと片づけていた。
「レイズ」
「待って、サイファ。そこでレイズ? おまっ、どんだけ!?」
「ではシグルドは下りろ。金もそんなに持ってきてないだろうし」
涼しい顔で、サイファは青灰色の髪をかき上げた。
全く以ってサイファの言う通り、シグルドの手持ちはほとんどなかった。
「貴族の癖に無一文で出歩くなど、どうかしている」
「無一文じゃねぇ! 少なくとも銀貨二枚はあるね!」
「威張るところではない。庶民でももう少し持ち歩くぞ」
険悪な雰囲気になりつつある場でスコッルはため息をつき、グラスに残っていたエールを飲み干して助け船を出す。
「またこの間みたいに全裸で帰ればいいじゃないか。今君が着ているものと、ついでに装飾品も売れば相当な額になると思うよ」
「うるせえ。他人事だと思って好き勝手なこと言うな! そんなことしてみろ。兄貴と親父にぶん殴られて追い出されるわ。ろくでなしの放蕩息子、バルムンク子爵家の恥さらしだって」
「その通りなのだから、弁明のしようもない」
冷たいサイファの返しに、シグルドは唸った。
「大体誰だよ、ポーカーやろうなんて言い出した野郎は」
「君だよ、シグルド」
スコッルの指摘に、シグルドは言葉を詰まらせる。
「それは、お前があんまり上の空だったからだ。スコッル、お前が悪い」
「どんな理屈だ……」
しかしそこでサイファがシグルドに同調した。
「まあ確かに、ここ最近のスコッルは上の空ではあるな」
「だろ。サイファもそう思うよな。どうせまたネーヴェフィールでのことを考えてたんだろ。花売りのアリカちゃんと刺激的な一夜を共にしたんだもんなぁ」
「その後普通の子では物足りなくなって特殊な性癖に目覚めたんだったな、スコッル?」
「それ君が言う? 婚約者の泣き顔に興奮するサイファにだけは言われたくない!」
スコッルはやけくそのように叫んで、卓上に空のグラスを叩きつけた。
「あんな経験してりゃあ、情報収集任務ばっかりでクソつまらんって愚痴るのも分かるけど」
「正確には一夜はともにしていないし、任務をクソつまらんと言った覚えもない」
むすっと言い返すスコッルに、シグルドは頬杖をついた。彼の赤茶色の髪がさらりと流れる。
「とにかく贅沢だぞ。美女にいちもつを弄ばれるなんて最高に興奮するわ。羨ましい。俺が代わってやりたかったー!」
「下品なことを言うな!」
耳の裏まで真っ赤になったスコッルは、つい叫んだ。
「アンネリーゼ様なんて俺が話しかけても無視だぞ。この間の夜会にしても、レイラ嬢とその取り巻きのご令嬢達はハティ殿下以外は眼中になし。こんな色男を前にして。その点、アリカちゃんはいい」
「……それは間違いない」
スコッルはつい同意した。己も知らぬ、新たな扉が開かれる感じが大変、良かった。
「しっかし、最後まで楽しまなかったなんて、本当、馬鹿真面目だな。俺だったら何が何でも一発やったね。この先そんないい女が現れる保証はねえんだ、そのくらい許される」
「許されないし、何なら殺されるぞ」
サイファのツッコミにスコッルは身震いした。
アリカがいきなり逃げ出したおかげで、スコッルは間一髪死を回避できただけで。最後まで致していたら――。
「大体、君たちが僕の代わりにアリカに接近したとして、僕と同じように手玉に取られただけだったと思うけど」
「いや、それは違うと断言できる」
「スコッルと一緒にしないでくれ」
二人はきっぱりと言い切った。酷い扱いにも程があるが、言い返せないところが悔しい。
サイファとシグルドはスコッルと二年間同じ釜の飯を食った仲間だ。
スコッルがハティの命を受けてネーヴェフィールに潜入した時も、スコッルを陰ながら支援していたのは彼らだった。
将来は軍幹部が確約された士官候補生、容姿端麗にして才気煥発、ただし三者共に性格に難癖がある。よって、同期達からがっかり三傑、はたまた残念御三家などと呼ばれている。何故特殊任務に選ばれたのか不思議でならない。
「そんなことより、教官遅くないか。本当に奢る気あるのか。自分で呼び出しておいて、なんで来ないんだ?」
「さあな。大体あの人が時間通りに来たことなんて、今まであったか?」
「少なくとも、僕の記憶の中ではない」
「もしかして、今日奢るって言ったこと忘れてんじゃねーの。なんて……」
三人は途端に黙り込んだ。
シグルドは、そこで現実に引き戻されたように真顔になり、両手を組んで机に肘をついた。
「十分、あり得――」
「いや、これはあの時と同じだ。そう思わんか、スコッル」
シグルドの言葉を遮って意見を求めるサイファに、スコッルは頷いた。
そう、クルトの名で呼び出され、薔薇姫捜索を命じられた時と同じ状況だった。
察したところで、来店を告げるベルが鳴る。扉の方へ視線を向けたスコッル達は、その人影を認めるとげんなりした。
「教官、遅かったですね」
「待たせたな! 退屈してたか?」
「いや、全然」
三人の声が重なった。
しかしクルトはそんなことはお構いなしに、空いた席に腰を下ろした。店員を呼び止めてスコッル達と同じ酒を注文すると、僅かに声を落して続けた。
「そろそろ刺激が欲しい頃だと思って、とびっきりいい話持ってきてやったぜ。嬉しいだろ? 新たな任務だ」
「嬉しくない! 人使いが荒い!」
「また殿下からのあれですか」
「そう、流石サイファだ。察しがいいな。ってことは、今日は眠くないのか」
「マジかよ。何かおかしいと思ったぜ」
頭を抱えるシグルドに、クルトはにやりと笑った。
「まあ、聞け」
現在、南の国境であるルプル砂漠では、蛮族との攻防戦が繰り広げられていた。戦況としては、戦慣れしているネーヴェフィールの辺境伯達の武官を引き抜いた成果もあって、帝国側に有利になってきており、既に勝利したも同然である。が、ハティはすぐに砦を落すことを許可しなかった。
ドールが南の蛮族と結託しているのは、間諜の報告で明らかとなっていた。敵の目的は、北の防衛線を突破すること。その為に南に戦力を集約させ、北の国境の堅固な守りを崩そうと目論んでいるのだ。
敵がネーヴェフィールを攻めた瞬間、帝国に大義名分が生じる。
だが、ドールは中々動かない。
一歩間違えば自滅の道筋が見えるからだろうか、やけに慎重なのだ。
皇族に降りかかる呪詛の影響で、帝国内の防衛網には綻びが出ている。皇帝の容態はいつ急変してもおかしくはない――ドールは皇帝が倒れるその瞬間を待っているのだろう。
疲弊したドール軍が北部防衛線を突破できるとしたら、そこに付け入るしかないのだ。
南部戦線を終息させ、北の守備を固めれば警戒して踏み込んでこないだろう。北の守備は手薄なままにしておかねば。
「そこでだ。虚偽の情報を流す。『砂漠攻略に手こずり、砂漠への戦力投入を予定している』ってな」
すかさずサイファが反応した。
「情報戦ですか。ですが、南の蛮族とドールが通じているのなら、それは難しいのでは。帝国に有利な状況であると、ドールも既に察知している可能性があります」
「それはどうかな」
くっと喉の奥で笑って、クルトは杯を傾けた。
「ハティの指示で、こっちが劣勢に見えるよう工作してある。蛮族どころか、事情を知らされてない一部将校でさえ、蛮族が優勢だと思ってる。敵は自分達こそ優位に立っていると信じて疑ってないはずだ」
「マジか……やべえな」
「砂漠へ派遣する戦団の準備もできている」
クルトは戦団の名簿を三人に見せた。
「戦団を率いるのは、なんとあのブラーヴ公だ」
スコッルは驚愕に目を見開いた。
「ユリアン様がよく欺瞞作戦を引き受けられましたね。何かと陛下やハティ様に対して批判的なのに……」
「その辺の事情はよく分からんが、二つ返事で引き受けたってよ」
「あの人、何か弱みでも握られてんの……?」
シグルドがぼそりと呟くと、スコッルとサイファは同時に首を振った。
ありえない。
あのユリアンが。高慢で冷徹なブラーヴ公が弱みを握られるなど、誰に想像できようか。
「まああの方ほど目立つ将校もいないだろうし。欺くには信憑性もある。で、後は情報を流すだけだ」
眉間に皺を寄せ、サイファが質問する。
「今は辺境伯が何とかにらみを利かせているから敵が攻めあぐねているだけでしょう。敵をネーヴェフィールに誘導して、そのまま防衛線を突破されて帝都まで攻め込まれたらどうするのですか?」
「まあ、心配すんな。ハティも考えなしで動いちゃいない」
誤魔化すような返しに、サイファは呆れたようにため息をつく。クルトが作戦の詳細を理解しているか、何だか怪しいのだ。
「しかし、そのような重要な作戦をまた僕たちに託していいのですか?」
「さてな。ハティが言うには、お前たちくらいが丁度いいんだと」
――お前が捨て駒となるか、王手をかける駒となるかはその働き次第だ。
スコッルはふと、ハティからの言葉を思い出した。
将校クラスがネーヴェフィールに入ったとなると、ドールの警戒心を煽る。まだ無名の、かといって無知でもない、捨て駒にも手駒にもなり得る士官候補生くらいが丁度いい。
「ネーヴェフィールへは隊商の護衛として入る。お前たちと俺は表向き隊商に雇われた傭兵ってわけだ。そこで商人達へ情報を流せ」
隊商は世情に敏く、様々な情報網を持つ。他の隊商に、『南の国境は相変わらず帝国側が劣勢、新たな戦団を派遣するようだ』と情報を流せば、瞬く間に広がるだろう。
スコッル達は声を揃えて返した。
「了解」
「ネーヴェフィール近くの隊商宿でしばらく滞在した後、ドールへ向かう予定になっている。俺たちの他に護衛は三人。ドールは今情勢が不安定だからな。念を入れてということだろう。宿に到着したら、サイファは速やかに隊商から離れて、ベルク侯に仕える佐官に接触しろ」
クルトの言うことには、護衛が一人減っても、通商路沿いで他の隊商もごった返す宿場では気に留める暇もない。何より、サイファ一人がいなくなっても大きな問題はないだろうとのことだった。
シグルドがサイファの倍の働きをするからだ。
足手まといのお荷物を抱えながら賊の五、六人に囲まれたとしても、シグルド一人で突破できる。
サイファは心底嫌そうな顔をした。
「無能と噂のポンコツ佐官にですか?」
「そうだよ」
上官の命には逆らえない。サイファはしぶしぶ頷いた。
「一応、了解」
「あー、それから。商人達の他に賊に襲われるのを危惧し、安全確保の為に隊商と行動したい若い夫婦と、その父親が荷台に乗る。彼らは非力な一般人だ。そのつもりで扱ってくれ」
北の諸国は特に、略奪、狩猟で生計を立てる異民族が跳梁跋扈している。危険の伴う地域であることは間違いない。
隊商にくっついて旅をする人はそう珍しくないのだが、敢えて言うほどのことなのか、スコッルは首を傾げた。
「よし、出発は明朝。到着は七日後の予定だ。明日は絶対、遅れるなよ」
クルトは不恰好に片目を瞑ってみせた。
◇
ネーヴェフィールの三人の辺境伯のうち、最も厳格だと言われているのが、ベルク侯である。
それは、彼の納める地区が取り分け激しい戦闘や衝突が多く、厳格にならざるを得ないからであり、恐らくベルク侯が別の場所で生まれていたら、もっとおっとりとした性格になったのではないかと彼の側近たちは口を揃えて言う。
そのベルク侯の佐官は南の国境での攻防戦に駆り出され、代わりに送られてきたのがリュックス侯だ。
彼は、セラフィトの貴族にしては珍しく、病魔の影響を受けていない人物であった。
南の国境に向かわされた佐官は、大変優秀だった。ベルク侯の右腕として長年ネーヴェフィールで戦ってきたかけがえのない将であり、友である。
その代わりというのだから、同等の人材が来るものと思っていたのだが、実際に送られてきたのは、奴隷を見世物のように連れ歩くのが趣味の男。
ハティが考えた采配である。当のベルク侯をはじめ、誰も文句など言えるはずもない。たとえ万年大尉とはいえ、あの狼公爵がベルク侯の佐官にと選んだのだ。そこには重大な意図があり、実はそれなりの力があるのかもしれないと、周囲は期待を寄せていた。
だが、現実は非情である。
ポンコツはポンコツでしかない。
就任してしばらくはやる気に満ちていたリュックス侯も、やがて自分の実力と身の程を知ったのだろう。思わしい戦果もあげられず、国境に聳える山を毎日眺めるだけであった。具体的な指示は全て部下に任せきり。本当にこれで佐官を務めるつもりなのかと、部下たちが憤り始めている。
ハティからは、戦力として期待するなと言われてはいたが、あまりの不評っぷりに、ベルク侯も頭を抱えていた。
ベルク侯の災難はそれで終わらなかった。
「公、大変でございます」
「何だ、騒々しい」
ノックもせずに駆け込んできた臣下を一瞥し、ベルク侯はため息をついた。
「それが、南の国境付近の戦況なのですが、わが軍劣勢との情報がございまして……」
「うちの佐官を貸してやって、何故劣勢なのだ」
「ごもっともにございますが、裏も取れておりますし、確かなことかと」
「それほど手こずる相手なのか。南の蛮族共は……」
「それで、その。戦力補充の件は、先送りとの回答です。南への派兵で手一杯だと」
臣下は言いにくそうに報告した。ベルク侯はぴくりとこめかみを動かし、苛立たしげに臣下に背を向ける。
「報告はそれだけか。ならばもう下がれ」
南の国境が危ういとのことで、仕方なく戦力を貸し出したのだが、その補充が未だにない。
ネーヴェフィールの堅い守りは誰もが知るところだが、いくら何でも補充なしは酷すぎる、と人々は思っていた。
北の国境は、ドールと、国を持たず狩猟や略奪で生計を立てる異民族とのせめぎ合いが昔から活発だった。ドールの勢力が大人しい今でも、北の異民族との攻防は続いている。
ネーヴェフィールでは南の国境の蛮族など取るに足らないほどの戦いと衝突を何度も経験している。
南の防衛線はぬる過ぎるのだ。ネーヴェフィールに長年住む猛者ならば、片手間で相手をしても勝てる。断言できる。
(それをいつまでも戦いを長引かせて。阿呆しかおらぬのか。ハティ殿下め。よもや、何か厄介事をネーヴェフィールに持ち込むつもりか)
ベルク侯の予測は概ね正しい。
ドールをおびき寄せるためにネーヴェフィールの守備を手薄にしていると馬鹿正直に伝えては、ベルク侯を激怒させるだけである。
ただでさえ役に立たないリュックス侯を押し付けられて、ベルク侯は気が立っていた。
やってきた佐官がもう少し、役に立たないなりに働ければ何も言わなかったのだ。勇猛果敢というわけでもなく、攻め入る北の異民族に慄くのみ。ただ若く見目の良い奴隷を連れて歩き、何かとかこつけて酒盛りを繰り返す無能。
正直言って、お荷物以外のなにものでもない。
一方のリュックス侯は、戦力の補充はないとの報せを受けて動揺していた。
それどころか、南の国境の戦況が思わしくないのなら、再びネーヴェフィールの戦力を充てようとの声が出ないとも限らないのだ。
次の異民族との攻防戦では、命がないかもしれない――。
そう考えると、夜も眠れないのだった。
頼りになるのは、リュックス侯お気に入りの奴隷である。
「フィアはどこだ!」
「ここに」
フィアは猫のようにしなやかに、気配を消してリュックス侯の後ろに控えた。
「お呼びにございますか?」
「ああ、フィア。私はどうすればよいのだろうか。このままでは、今度の防衛戦で私の命はないかもしれん」
「主様の不安はご尤もにございます。戦力も不十分なこの状況で戦いをしかけられれば、勝機はないでしょう。烏合の衆とはいえ、数で言えば、敵が圧倒的に有利」
リュックス侯は不安に震えた。
「やはりお前もそう思うか……。では、どうすれば助かると思う」
勝てるかではなく、助かるかと聞く辺りがこの男だ。
フィアは内心侮蔑しながらも、表情を崩すことなく柔らかい物腰で答えた。
「数の不利を解消すればよいのです」
「どのように。ハティ殿下は戦力の補充を認めないだろう。今はどこも、余力などないのだ。このネーヴェフィールの防衛線を突破されたら、セラフィト帝国は滅亡するのだぞ」
「正規の方法ではなくとも、戦力を確保する方法はございますよ」
フィアは主を安心させるように微笑んだ。
リュックス侯は、フィアに縋りついて訊ねる。
「どうすればいいのだ」
「奴隷で補えばよろしい」
「奴隷だと」
「ええ。もしよろしければ私の知り合いの奴隷商をご紹介します」
「しかし、奴隷とはな……どこの誰とも知れぬ者をネーヴェフィールに入れては、何かと角が立つのではあるまいか」
「主様。助かりたいのでは、なかったのですか?」
フィアの囁きに、リュックス侯は生唾を飲み込んだ。
「生きるためには、どんなことでもするべきでしょう。ご心配なさらず。主様が奴隷を購入したところで、皆不思議には思いますまい。主様の趣味は、周知の事実。奴隷が増えたところで咎められることもない。どこの者か分からぬ者を使うことを気に病むとおっしゃるのなら、ベルク侯には黙っておけばよいだけのことです」
「相談せずともよいと思うか。戦力の補充となると、戦術にもかかわることだ。ベルク侯の御耳に入れずともよいのだろうか」
「言ってもベルク侯は分かって下さらないでしょう。強者に、弱者の考えは理解できない」
「そうか……それも、そうだな……」
フィアはにこりと笑い、優雅に礼をした。
「それでは早速手配いたします。明朝、花街の裏門前でお待ちください」
フィアが退出したのと入れ替わるように、扉をノックする音が響く。
リュックス侯が入るように命じると、現れたのは青灰の髪の青年――サイファだった。
「何だ、要件を言いたまえ」
フィアの前では弱腰だったというのに、サイファ相手には威圧的である。
大方、相手を見て態度を変えているのだろう。
サイファは姿勢を正して敬礼をした。
「お茶をお持ちいたしました」
「そこに置いていけ」
素っ気なく机を指してリュックス侯は机上の書類に目を通し始めた。
先ほどまで仕事をしていた素振りがなかったのだが、フィアが去った途端に体裁だけ整えるあたりが何とも言えない。
嫌いなタイプだ。恨みがましくクルトを思い浮かべる。
サイファは、これが束の間の上官になるのかと思うと頭が痛かった。
(教官め、厄介な役を押し付けてくれたな)
ハティもクルトもサイファにとっては十分厄介な上官だが、それとはまた別の意味で面倒くさい。
そもそも部下の顔すら分かっていない時点で、指揮官としての資質も怪しい。しかも、どこの誰とも知れない奴隷の助言を何の疑いもなく聞き入れるなど、言語道断である。
部下の把握もできないのは、兵達の命を管理できないと言っているようなもの。こんな指揮官の下で戦う羽目になる兵達がかわいそうだった。
ハティもよくこのリュックス侯を、よりにもよって激戦区のベルク侯のところへ寄こそうと思ったものだ。
これならば、実戦で指揮経験のない士官候補生であるシグルドやサイファ、スコッルの方が、幾分かましだったのではないだろうか。
こういう隙のある男を据えておかなければ、やけに慎重なドールを誘い込むなど難しいのだろう。
――だからといって、これはないな。
サイファは、リュックス侯の手元を見て冷笑した。
「その書類、上下逆さまですよ。少々お疲れなのではありませんか、公」
指摘をすると、リュックス侯は慌てて書類の向きを直した。
(なるほど……これは駄目だな)
彼らの教官であるクルトの方から、奢ってやるから飲みに行こうと誘われたのである。が、肝心のクルトの姿は未だ見えない。
奢ってやると言われても、スコッルは全く嬉しくなかった。クルトがそう言い出す時は、大体ろくなことがないのだ。
思えば、あの時だって。
スコッルがハティの下で情報収集等の任務にあたるようになったのも、自称『ハティ殿下の親友』だと嘯く教官のせいであった。
当時ハティは、薔薇姫捜索の人手確保のために手頃な士官候補生を探していた。スコッルはクルトによって、ハティに売り渡されたようなものなのである。
なのだが、クルト曰く、親友を差し置いて士官候補生を連れていくなどおかしい――しかも紹介させておいてクルトにも黙って出立するなど酷すぎる――と、未だに言い続けていた。
よって、スコッルが怪しむのも無理はないのだ。ハティに使われるようになってから身に染みて思い知ったが、狼公爵は人使いが荒い。こちらの都合はお構いなし、使えるものは何でも使う。
もしや今回も、ハティが絡んでいるのではないかと気が気ではない。ハティに駆り出される頻度が日を追うごとに高くなっているのは気のせいではないのだ。ただの士官候補生のはずが、最近では国の進退にかかわる事件にどっぷりと浸かってしまっている。詳細を知らされることなく色んなことに首を突っ込みすぎて、訳が分からない。
そんなスコッルの様々な苦悩をつゆ知らず、サイファとシグルドは、教官の奢りだと手放しに喜んでいる。酒瓶を何本空にしたことか、彼らの周りに無造作に転がる瓶を、店員がせっせと片づけていた。
「レイズ」
「待って、サイファ。そこでレイズ? おまっ、どんだけ!?」
「ではシグルドは下りろ。金もそんなに持ってきてないだろうし」
涼しい顔で、サイファは青灰色の髪をかき上げた。
全く以ってサイファの言う通り、シグルドの手持ちはほとんどなかった。
「貴族の癖に無一文で出歩くなど、どうかしている」
「無一文じゃねぇ! 少なくとも銀貨二枚はあるね!」
「威張るところではない。庶民でももう少し持ち歩くぞ」
険悪な雰囲気になりつつある場でスコッルはため息をつき、グラスに残っていたエールを飲み干して助け船を出す。
「またこの間みたいに全裸で帰ればいいじゃないか。今君が着ているものと、ついでに装飾品も売れば相当な額になると思うよ」
「うるせえ。他人事だと思って好き勝手なこと言うな! そんなことしてみろ。兄貴と親父にぶん殴られて追い出されるわ。ろくでなしの放蕩息子、バルムンク子爵家の恥さらしだって」
「その通りなのだから、弁明のしようもない」
冷たいサイファの返しに、シグルドは唸った。
「大体誰だよ、ポーカーやろうなんて言い出した野郎は」
「君だよ、シグルド」
スコッルの指摘に、シグルドは言葉を詰まらせる。
「それは、お前があんまり上の空だったからだ。スコッル、お前が悪い」
「どんな理屈だ……」
しかしそこでサイファがシグルドに同調した。
「まあ確かに、ここ最近のスコッルは上の空ではあるな」
「だろ。サイファもそう思うよな。どうせまたネーヴェフィールでのことを考えてたんだろ。花売りのアリカちゃんと刺激的な一夜を共にしたんだもんなぁ」
「その後普通の子では物足りなくなって特殊な性癖に目覚めたんだったな、スコッル?」
「それ君が言う? 婚約者の泣き顔に興奮するサイファにだけは言われたくない!」
スコッルはやけくそのように叫んで、卓上に空のグラスを叩きつけた。
「あんな経験してりゃあ、情報収集任務ばっかりでクソつまらんって愚痴るのも分かるけど」
「正確には一夜はともにしていないし、任務をクソつまらんと言った覚えもない」
むすっと言い返すスコッルに、シグルドは頬杖をついた。彼の赤茶色の髪がさらりと流れる。
「とにかく贅沢だぞ。美女にいちもつを弄ばれるなんて最高に興奮するわ。羨ましい。俺が代わってやりたかったー!」
「下品なことを言うな!」
耳の裏まで真っ赤になったスコッルは、つい叫んだ。
「アンネリーゼ様なんて俺が話しかけても無視だぞ。この間の夜会にしても、レイラ嬢とその取り巻きのご令嬢達はハティ殿下以外は眼中になし。こんな色男を前にして。その点、アリカちゃんはいい」
「……それは間違いない」
スコッルはつい同意した。己も知らぬ、新たな扉が開かれる感じが大変、良かった。
「しっかし、最後まで楽しまなかったなんて、本当、馬鹿真面目だな。俺だったら何が何でも一発やったね。この先そんないい女が現れる保証はねえんだ、そのくらい許される」
「許されないし、何なら殺されるぞ」
サイファのツッコミにスコッルは身震いした。
アリカがいきなり逃げ出したおかげで、スコッルは間一髪死を回避できただけで。最後まで致していたら――。
「大体、君たちが僕の代わりにアリカに接近したとして、僕と同じように手玉に取られただけだったと思うけど」
「いや、それは違うと断言できる」
「スコッルと一緒にしないでくれ」
二人はきっぱりと言い切った。酷い扱いにも程があるが、言い返せないところが悔しい。
サイファとシグルドはスコッルと二年間同じ釜の飯を食った仲間だ。
スコッルがハティの命を受けてネーヴェフィールに潜入した時も、スコッルを陰ながら支援していたのは彼らだった。
将来は軍幹部が確約された士官候補生、容姿端麗にして才気煥発、ただし三者共に性格に難癖がある。よって、同期達からがっかり三傑、はたまた残念御三家などと呼ばれている。何故特殊任務に選ばれたのか不思議でならない。
「そんなことより、教官遅くないか。本当に奢る気あるのか。自分で呼び出しておいて、なんで来ないんだ?」
「さあな。大体あの人が時間通りに来たことなんて、今まであったか?」
「少なくとも、僕の記憶の中ではない」
「もしかして、今日奢るって言ったこと忘れてんじゃねーの。なんて……」
三人は途端に黙り込んだ。
シグルドは、そこで現実に引き戻されたように真顔になり、両手を組んで机に肘をついた。
「十分、あり得――」
「いや、これはあの時と同じだ。そう思わんか、スコッル」
シグルドの言葉を遮って意見を求めるサイファに、スコッルは頷いた。
そう、クルトの名で呼び出され、薔薇姫捜索を命じられた時と同じ状況だった。
察したところで、来店を告げるベルが鳴る。扉の方へ視線を向けたスコッル達は、その人影を認めるとげんなりした。
「教官、遅かったですね」
「待たせたな! 退屈してたか?」
「いや、全然」
三人の声が重なった。
しかしクルトはそんなことはお構いなしに、空いた席に腰を下ろした。店員を呼び止めてスコッル達と同じ酒を注文すると、僅かに声を落して続けた。
「そろそろ刺激が欲しい頃だと思って、とびっきりいい話持ってきてやったぜ。嬉しいだろ? 新たな任務だ」
「嬉しくない! 人使いが荒い!」
「また殿下からのあれですか」
「そう、流石サイファだ。察しがいいな。ってことは、今日は眠くないのか」
「マジかよ。何かおかしいと思ったぜ」
頭を抱えるシグルドに、クルトはにやりと笑った。
「まあ、聞け」
現在、南の国境であるルプル砂漠では、蛮族との攻防戦が繰り広げられていた。戦況としては、戦慣れしているネーヴェフィールの辺境伯達の武官を引き抜いた成果もあって、帝国側に有利になってきており、既に勝利したも同然である。が、ハティはすぐに砦を落すことを許可しなかった。
ドールが南の蛮族と結託しているのは、間諜の報告で明らかとなっていた。敵の目的は、北の防衛線を突破すること。その為に南に戦力を集約させ、北の国境の堅固な守りを崩そうと目論んでいるのだ。
敵がネーヴェフィールを攻めた瞬間、帝国に大義名分が生じる。
だが、ドールは中々動かない。
一歩間違えば自滅の道筋が見えるからだろうか、やけに慎重なのだ。
皇族に降りかかる呪詛の影響で、帝国内の防衛網には綻びが出ている。皇帝の容態はいつ急変してもおかしくはない――ドールは皇帝が倒れるその瞬間を待っているのだろう。
疲弊したドール軍が北部防衛線を突破できるとしたら、そこに付け入るしかないのだ。
南部戦線を終息させ、北の守備を固めれば警戒して踏み込んでこないだろう。北の守備は手薄なままにしておかねば。
「そこでだ。虚偽の情報を流す。『砂漠攻略に手こずり、砂漠への戦力投入を予定している』ってな」
すかさずサイファが反応した。
「情報戦ですか。ですが、南の蛮族とドールが通じているのなら、それは難しいのでは。帝国に有利な状況であると、ドールも既に察知している可能性があります」
「それはどうかな」
くっと喉の奥で笑って、クルトは杯を傾けた。
「ハティの指示で、こっちが劣勢に見えるよう工作してある。蛮族どころか、事情を知らされてない一部将校でさえ、蛮族が優勢だと思ってる。敵は自分達こそ優位に立っていると信じて疑ってないはずだ」
「マジか……やべえな」
「砂漠へ派遣する戦団の準備もできている」
クルトは戦団の名簿を三人に見せた。
「戦団を率いるのは、なんとあのブラーヴ公だ」
スコッルは驚愕に目を見開いた。
「ユリアン様がよく欺瞞作戦を引き受けられましたね。何かと陛下やハティ様に対して批判的なのに……」
「その辺の事情はよく分からんが、二つ返事で引き受けたってよ」
「あの人、何か弱みでも握られてんの……?」
シグルドがぼそりと呟くと、スコッルとサイファは同時に首を振った。
ありえない。
あのユリアンが。高慢で冷徹なブラーヴ公が弱みを握られるなど、誰に想像できようか。
「まああの方ほど目立つ将校もいないだろうし。欺くには信憑性もある。で、後は情報を流すだけだ」
眉間に皺を寄せ、サイファが質問する。
「今は辺境伯が何とかにらみを利かせているから敵が攻めあぐねているだけでしょう。敵をネーヴェフィールに誘導して、そのまま防衛線を突破されて帝都まで攻め込まれたらどうするのですか?」
「まあ、心配すんな。ハティも考えなしで動いちゃいない」
誤魔化すような返しに、サイファは呆れたようにため息をつく。クルトが作戦の詳細を理解しているか、何だか怪しいのだ。
「しかし、そのような重要な作戦をまた僕たちに託していいのですか?」
「さてな。ハティが言うには、お前たちくらいが丁度いいんだと」
――お前が捨て駒となるか、王手をかける駒となるかはその働き次第だ。
スコッルはふと、ハティからの言葉を思い出した。
将校クラスがネーヴェフィールに入ったとなると、ドールの警戒心を煽る。まだ無名の、かといって無知でもない、捨て駒にも手駒にもなり得る士官候補生くらいが丁度いい。
「ネーヴェフィールへは隊商の護衛として入る。お前たちと俺は表向き隊商に雇われた傭兵ってわけだ。そこで商人達へ情報を流せ」
隊商は世情に敏く、様々な情報網を持つ。他の隊商に、『南の国境は相変わらず帝国側が劣勢、新たな戦団を派遣するようだ』と情報を流せば、瞬く間に広がるだろう。
スコッル達は声を揃えて返した。
「了解」
「ネーヴェフィール近くの隊商宿でしばらく滞在した後、ドールへ向かう予定になっている。俺たちの他に護衛は三人。ドールは今情勢が不安定だからな。念を入れてということだろう。宿に到着したら、サイファは速やかに隊商から離れて、ベルク侯に仕える佐官に接触しろ」
クルトの言うことには、護衛が一人減っても、通商路沿いで他の隊商もごった返す宿場では気に留める暇もない。何より、サイファ一人がいなくなっても大きな問題はないだろうとのことだった。
シグルドがサイファの倍の働きをするからだ。
足手まといのお荷物を抱えながら賊の五、六人に囲まれたとしても、シグルド一人で突破できる。
サイファは心底嫌そうな顔をした。
「無能と噂のポンコツ佐官にですか?」
「そうだよ」
上官の命には逆らえない。サイファはしぶしぶ頷いた。
「一応、了解」
「あー、それから。商人達の他に賊に襲われるのを危惧し、安全確保の為に隊商と行動したい若い夫婦と、その父親が荷台に乗る。彼らは非力な一般人だ。そのつもりで扱ってくれ」
北の諸国は特に、略奪、狩猟で生計を立てる異民族が跳梁跋扈している。危険の伴う地域であることは間違いない。
隊商にくっついて旅をする人はそう珍しくないのだが、敢えて言うほどのことなのか、スコッルは首を傾げた。
「よし、出発は明朝。到着は七日後の予定だ。明日は絶対、遅れるなよ」
クルトは不恰好に片目を瞑ってみせた。
◇
ネーヴェフィールの三人の辺境伯のうち、最も厳格だと言われているのが、ベルク侯である。
それは、彼の納める地区が取り分け激しい戦闘や衝突が多く、厳格にならざるを得ないからであり、恐らくベルク侯が別の場所で生まれていたら、もっとおっとりとした性格になったのではないかと彼の側近たちは口を揃えて言う。
そのベルク侯の佐官は南の国境での攻防戦に駆り出され、代わりに送られてきたのがリュックス侯だ。
彼は、セラフィトの貴族にしては珍しく、病魔の影響を受けていない人物であった。
南の国境に向かわされた佐官は、大変優秀だった。ベルク侯の右腕として長年ネーヴェフィールで戦ってきたかけがえのない将であり、友である。
その代わりというのだから、同等の人材が来るものと思っていたのだが、実際に送られてきたのは、奴隷を見世物のように連れ歩くのが趣味の男。
ハティが考えた采配である。当のベルク侯をはじめ、誰も文句など言えるはずもない。たとえ万年大尉とはいえ、あの狼公爵がベルク侯の佐官にと選んだのだ。そこには重大な意図があり、実はそれなりの力があるのかもしれないと、周囲は期待を寄せていた。
だが、現実は非情である。
ポンコツはポンコツでしかない。
就任してしばらくはやる気に満ちていたリュックス侯も、やがて自分の実力と身の程を知ったのだろう。思わしい戦果もあげられず、国境に聳える山を毎日眺めるだけであった。具体的な指示は全て部下に任せきり。本当にこれで佐官を務めるつもりなのかと、部下たちが憤り始めている。
ハティからは、戦力として期待するなと言われてはいたが、あまりの不評っぷりに、ベルク侯も頭を抱えていた。
ベルク侯の災難はそれで終わらなかった。
「公、大変でございます」
「何だ、騒々しい」
ノックもせずに駆け込んできた臣下を一瞥し、ベルク侯はため息をついた。
「それが、南の国境付近の戦況なのですが、わが軍劣勢との情報がございまして……」
「うちの佐官を貸してやって、何故劣勢なのだ」
「ごもっともにございますが、裏も取れておりますし、確かなことかと」
「それほど手こずる相手なのか。南の蛮族共は……」
「それで、その。戦力補充の件は、先送りとの回答です。南への派兵で手一杯だと」
臣下は言いにくそうに報告した。ベルク侯はぴくりとこめかみを動かし、苛立たしげに臣下に背を向ける。
「報告はそれだけか。ならばもう下がれ」
南の国境が危ういとのことで、仕方なく戦力を貸し出したのだが、その補充が未だにない。
ネーヴェフィールの堅い守りは誰もが知るところだが、いくら何でも補充なしは酷すぎる、と人々は思っていた。
北の国境は、ドールと、国を持たず狩猟や略奪で生計を立てる異民族とのせめぎ合いが昔から活発だった。ドールの勢力が大人しい今でも、北の異民族との攻防は続いている。
ネーヴェフィールでは南の国境の蛮族など取るに足らないほどの戦いと衝突を何度も経験している。
南の防衛線はぬる過ぎるのだ。ネーヴェフィールに長年住む猛者ならば、片手間で相手をしても勝てる。断言できる。
(それをいつまでも戦いを長引かせて。阿呆しかおらぬのか。ハティ殿下め。よもや、何か厄介事をネーヴェフィールに持ち込むつもりか)
ベルク侯の予測は概ね正しい。
ドールをおびき寄せるためにネーヴェフィールの守備を手薄にしていると馬鹿正直に伝えては、ベルク侯を激怒させるだけである。
ただでさえ役に立たないリュックス侯を押し付けられて、ベルク侯は気が立っていた。
やってきた佐官がもう少し、役に立たないなりに働ければ何も言わなかったのだ。勇猛果敢というわけでもなく、攻め入る北の異民族に慄くのみ。ただ若く見目の良い奴隷を連れて歩き、何かとかこつけて酒盛りを繰り返す無能。
正直言って、お荷物以外のなにものでもない。
一方のリュックス侯は、戦力の補充はないとの報せを受けて動揺していた。
それどころか、南の国境の戦況が思わしくないのなら、再びネーヴェフィールの戦力を充てようとの声が出ないとも限らないのだ。
次の異民族との攻防戦では、命がないかもしれない――。
そう考えると、夜も眠れないのだった。
頼りになるのは、リュックス侯お気に入りの奴隷である。
「フィアはどこだ!」
「ここに」
フィアは猫のようにしなやかに、気配を消してリュックス侯の後ろに控えた。
「お呼びにございますか?」
「ああ、フィア。私はどうすればよいのだろうか。このままでは、今度の防衛戦で私の命はないかもしれん」
「主様の不安はご尤もにございます。戦力も不十分なこの状況で戦いをしかけられれば、勝機はないでしょう。烏合の衆とはいえ、数で言えば、敵が圧倒的に有利」
リュックス侯は不安に震えた。
「やはりお前もそう思うか……。では、どうすれば助かると思う」
勝てるかではなく、助かるかと聞く辺りがこの男だ。
フィアは内心侮蔑しながらも、表情を崩すことなく柔らかい物腰で答えた。
「数の不利を解消すればよいのです」
「どのように。ハティ殿下は戦力の補充を認めないだろう。今はどこも、余力などないのだ。このネーヴェフィールの防衛線を突破されたら、セラフィト帝国は滅亡するのだぞ」
「正規の方法ではなくとも、戦力を確保する方法はございますよ」
フィアは主を安心させるように微笑んだ。
リュックス侯は、フィアに縋りついて訊ねる。
「どうすればいいのだ」
「奴隷で補えばよろしい」
「奴隷だと」
「ええ。もしよろしければ私の知り合いの奴隷商をご紹介します」
「しかし、奴隷とはな……どこの誰とも知れぬ者をネーヴェフィールに入れては、何かと角が立つのではあるまいか」
「主様。助かりたいのでは、なかったのですか?」
フィアの囁きに、リュックス侯は生唾を飲み込んだ。
「生きるためには、どんなことでもするべきでしょう。ご心配なさらず。主様が奴隷を購入したところで、皆不思議には思いますまい。主様の趣味は、周知の事実。奴隷が増えたところで咎められることもない。どこの者か分からぬ者を使うことを気に病むとおっしゃるのなら、ベルク侯には黙っておけばよいだけのことです」
「相談せずともよいと思うか。戦力の補充となると、戦術にもかかわることだ。ベルク侯の御耳に入れずともよいのだろうか」
「言ってもベルク侯は分かって下さらないでしょう。強者に、弱者の考えは理解できない」
「そうか……それも、そうだな……」
フィアはにこりと笑い、優雅に礼をした。
「それでは早速手配いたします。明朝、花街の裏門前でお待ちください」
フィアが退出したのと入れ替わるように、扉をノックする音が響く。
リュックス侯が入るように命じると、現れたのは青灰の髪の青年――サイファだった。
「何だ、要件を言いたまえ」
フィアの前では弱腰だったというのに、サイファ相手には威圧的である。
大方、相手を見て態度を変えているのだろう。
サイファは姿勢を正して敬礼をした。
「お茶をお持ちいたしました」
「そこに置いていけ」
素っ気なく机を指してリュックス侯は机上の書類に目を通し始めた。
先ほどまで仕事をしていた素振りがなかったのだが、フィアが去った途端に体裁だけ整えるあたりが何とも言えない。
嫌いなタイプだ。恨みがましくクルトを思い浮かべる。
サイファは、これが束の間の上官になるのかと思うと頭が痛かった。
(教官め、厄介な役を押し付けてくれたな)
ハティもクルトもサイファにとっては十分厄介な上官だが、それとはまた別の意味で面倒くさい。
そもそも部下の顔すら分かっていない時点で、指揮官としての資質も怪しい。しかも、どこの誰とも知れない奴隷の助言を何の疑いもなく聞き入れるなど、言語道断である。
部下の把握もできないのは、兵達の命を管理できないと言っているようなもの。こんな指揮官の下で戦う羽目になる兵達がかわいそうだった。
ハティもよくこのリュックス侯を、よりにもよって激戦区のベルク侯のところへ寄こそうと思ったものだ。
これならば、実戦で指揮経験のない士官候補生であるシグルドやサイファ、スコッルの方が、幾分かましだったのではないだろうか。
こういう隙のある男を据えておかなければ、やけに慎重なドールを誘い込むなど難しいのだろう。
――だからといって、これはないな。
サイファは、リュックス侯の手元を見て冷笑した。
「その書類、上下逆さまですよ。少々お疲れなのではありませんか、公」
指摘をすると、リュックス侯は慌てて書類の向きを直した。
(なるほど……これは駄目だな)
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